観音信仰として、江戸時代前から西国板東秩父百観音巡拝という形があったようです。西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所で計百カ所ということのようです。それにしても、江戸時代に、百カ所ものお寺の巡拝がよくできたものだと感心します。たぶん、いろいろな便法?もあったのでしょう。
奉納西国板東秩父供養(萱場町吉田神社入口)
寛政12年(1800)とあり、鳥居手前の参道沿いにあります。
西国坂東秩父百番供養塔(十一面観音堂 東前町)
文化4年(1807)年とあり、百番供養という表現がされています。
坂東西国秩父供養塔(鹿島神社 内原町)
神社左奥の石造物群の中にあって、明治14年とあり、下段にたくさんの名前が並んでいます。3地方を横に並べる場合、中央に西国が、左右に秩父と板東が刻まれるのが一般的なようです。
秩父西国坂東供養塔(小林ふるさとコミュニティセンター(小林町867-1)近く)
明治17年、当村中とあります。道路突き当たりの石造物群の中にあります。
坂東西国秩父供養塔(満福寺跡 大塚町495-2)
墓石型で、明治23年、詠歌講中とあり、女性の名前が並んでいます。上方の梵字は、キリークと読んで、千手観音をあらわしているようです。満福寺跡にはこの他に明治29年のもう一基と、百観音巡拝記念碑もあります。
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