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徳川光圀の酒(6)

2019-07-23 20:08:10 | 水戸

 「寺で葬儀を行うときに寺が酒を勧めることは間違いだ。元来寺へは酒を門内に入れてはならない。酒は人を喜ばせるためのもので、悲しみの葬儀の場でなぜ酒を用いるのか、心ある出家は絶対にやめるべきだ。」といったことが西山公随筆にあります。西山公随筆は徳川光圀の著作となっていますが、光圀の話を家臣が筆記してまとめたもののようです。

 

 元禄9(1696)年に行われた潮来の妙行寺での酒宴で、光圀は寺の弟子から堂守にまでお酌をして、その後、地元の庄屋、檀家20人にもお酌をしてまわったそうです。日乗という坊さんの日記にあるそうです。封建時代に、元藩主がこうしたことをするのは珍しいことだったのでしょう。

 

 元禄11年(1698)に書かれ、享保7年(1722)には江戸城にも飾られたという、光圀作とされる「徳川光圀卿九ケ条禁書」という子孫に残した訓戒があります。「苦は楽の種 楽は苦の種と知べし」「小なる事は分別(ふんべつ)せよ 大なる事驚かざる事」「分別は堪忍に有と知べし」などとともに、「欲と色と酒とは敵(かたき)と知べし」があります。私の場合、大田蜀山人の「どうぞ敵にめぐりあいたい」という下の句が、つい続いて出てきてしまって困っています。ただし3つ目の敵ですが。

 

 ある寒い夜に、隠居場の西山荘で光圀が酒を飲んだとき、「まことに暖かくて春のようで、寒さを消してくれる、まったく杯の中には別に春を置いているようだ、宴会を別春会というべきだ」といったそうです。それにより、西山荘に伺候する人たちは、宴会のことを別春会というようになったそうです。

 

 花見の酒宴で「誰もできないことのできる者はいないか」と光圀が言ったものの、誰も手をあげなかったそうです。酒の酔いも手伝ってか、そのため光圀はすっかり不機嫌になってしまったそうです。家臣達が困っていると、それを見た光圀の侍医で鍼術(しんじゅつ はり)をよくした西村元春が、3間(約5.5m)離れた人の腕や足に5本の鍼を投げてさしたり、光圀の持つ絹糸に極細の鍼を差し通して光圀の希望にこたえたそうです。

徳川光圀の酒(5)


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