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水戸の見て歩き

水戸の辞世句(1)

2019-04-04 21:29:43 | 水戸

 写真は酒門共同墓地にある安島帯刀の墓です。

 

泰姫(たいひめ) 万治元年(1659)

  音にのみ き(聞)きしも今日は 身の上に わけやのぼらん しで(死出)の山路

 承応3年(1654年)に徳川光圀の正妻として嫁いできた近衛信尋(のぶひろ)の娘で、5年後の21歳に江戸で死去したそうです。墓は常陸太田市にある、水戸徳川家墓所・瑞龍山にあるそうです。

 

心越(しんえつ)  元禄10年(1697年)

 南無阿弥陀仏 あけくれたの(頼)み かく(隠)る身は こゝろの月の 影もくもらじ

 明の亡命僧で、光圀によって水戸に招かれて、現在祇園寺になっている当時の天徳寺へ、寿昌派の禅宗を伝えたそうです。広い知識を持ち、特に篆刻や琴には功績があったそうです。病床で、光圀の手を握って詠んだ辞世だそうです。墓は祇園寺にあります。

 

中山信名(のぶな)  天明7年(1836)

 酒ものみ 浮れ女(め)もみつ 文もみつ 家も興しつ 世に恨なし

 水戸藩の国学者で、江戸で塙保己一(はなわほきいち)の門に入って「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」校訂に携わったり、水戸では「大日本史」編集に携わったりしたそうです。常陸国の総合史誌である「新編常陸国誌(しんぺんひたちこくし)」の著作は未完に終わったそうです。(明治になって栗田寛が増補修訂して完成させたそうです。)

 

安島帯刀(たてわき)  安政6年(1859)

 玉の緒の 絶ゆともよしや 我が君の かげの守りと ならんと思えば

 徳川慶喜の将軍就任に奔走したり、水戸藩に攘夷をうながす戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)にも関わったりしたことなどから、安政の大獄で、井伊直弼により切腹を命じられた水戸藩の家老だそうです。

 

松平頼徳(よりのり)  元治元年(1864)

 思ひきや 野田の案山子(かかし)の竹の弓 引きもはな(放)たで 朽果てむとは

 水戸藩の連枝である宍戸(ししど)藩主9代・松平頼徳(よりのり)は、10代水戸藩主・慶篤(よしあつ)の名代として、天狗党の筑波山挙兵を鎮圧するために出兵したものの、結果的に天狗党と対立していた、水戸藩の諸生党と戦うことになってしまい、幕府から責任を取らされて切腹したそうです。その時詠んだ辞世だそうです。


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