水戸の画家・林十江は、今の那珂市額田にあった泉屋という旅館の主人に絵を頼まれたものの、宿で酒ばかり飲んでいてなかなか絵を描かなかったそうです。ようやくできあがったというので主人が行ってみると、大虎が描かれていましたが、瞳が入っていなかったそうです。主人がわけを聞くと、目玉を入れると虎が逃げるという返事。それが評判になって宿は繁昌したそうです。写真は清巌寺にある林十江頌徳碑です。
藤田東湖は酒好きで、大杯を手にしながら、これは斉昭公からたまわったものだが、酒を過ごすと中風になるので、朝昼晩それぞれに三杯までにしておけといわれたと語っていたそうです。写真は東湖誕生の地です。
常陸山は雨の日など、一人でチビチビやっているときは、二時間ぐらいで八升飲んだこともあったそうです。石岡に巡業に行ったとき、常陸山が連れていった犬と地元の造り酒屋の犬が力比べをして引き分けになったそうです。その酒屋の主人がぜひ寄ってくれと、連れの四人といっしょに酒を振る舞ってくれたそうです。一時間ばかりの間に一斗三升を飲んだそうですが、帰って相撲をとったそうです。写真は常陸山生誕の地です。
正月二日には樽入といって、前年に妻をめとった家に酒を贈ったり、その夫を引き出して水をかける習慣があったそうです。風呂の下(その後、霞町となり、今は金町です)という地名はそのよごれを、風呂家で洗い落としたことから起こった名前だそうです。光圀はそれを悪習として禁じたそうです。写真は旧地名霞町の碑です。
延享(1744-1748)のころは、普通の酒一升が48文(今の感覚で2,000円くらいでしょうか ただし、当然ながら酒税が入っていませんから今よりは高かったということでしょう)、上等の諸白(もろはく)が100文だったそうです。清酒を売る店は杉葉を看板とし、にごり酒を売る店は笹の葉を看板にしたともあるそうです。寛延(1748-1751)のころはにごり酒を売る店があったそうですが、文政(1818-1831)のころはなくなったそうです。でも農村ではにごり酒がそうとう飲まれていたことでしょう。写真は吉久保酒造の、杉玉ともいわれる酒林です。