本日2本目のブログ、どうしても書き残しておきたいと思い頑張っている。
世の中、コロナ禍で外出を控え、家でおとなしくしている状況下、政治的には黒川検事長の
定年延長問題で国会が紛糾している中、渦中の黒川氏が新聞記者と賭け麻雀をしていたことが
発覚するという、とんでもないニュースが日本国中を駆け巡った。
「法の番人」というよりは「法の執行人」が、常習的に賭け麻雀を行っていたことに、驚くと
いうよりは、同じ国民として怒りさえ覚えてしまう。
この黒川氏の定年延長問題では、安倍首相が法律の解釈を変え「余人をもって代えがたい」と
事後的に法律を書き換えるという異常な対応を行おうとしていた。
そんな中での賭け麻雀、黒川氏には弁解の余地はないと思う。
黒川氏も人の子であった、人は「本能」と「理性」の狭間で生きている現実を突きつけられた。
人間には本能で思考し行動する部分と、理性で行動する部分があり、生まれた直後の行動は
全て本能により思考し行動しているといわれています。そして成長するとともに学習し、徐々に
理性的な行動が多くなっていきます。
したがって、理性的な思考や行動は学習によって得られるものであり、学習をしなければ得られ
ないと考えられています。
動物界で見られることですが「動物園で生まれ育った動物は野生には帰れない」というのは、
安全で食糧に不安のない状況で生まれ育ったことにより、野生において危険を察知し回避することや、
獲物を捕まえるための学習が出来ていないからです。
人間社会も同じで、全て本能による行動様式では社会生活をすることは出来ません。
人類が誕生して長い歴史の中で、全ての行動が本能的であっては社会秩序が守れないとして、
これらを法律等で制限するとともに社会的道徳(モラル)や宗教的戒律として戒めています。
法律を守り、社会的道徳や宗教的戒律に従って社会生活しなければならないことは、幼いときから繰返し、
繰返し行なわれる教育によって学習し、これら学習することの多くは理性的な思考や行動することです。
幼い頃は主として社会的道徳や宗教的戒律についての教育が行なわれ、わが国では親や家族が子供に
行なう「躾教育」として昔から非常に大切にしてきました。
「躾」とは字の如く「身を美しくする」ことであり、内面的な心の美しさに加え、外面的にも美しく装う
という意味があります。
平安の昔から、女性が化粧して美しく見せることも、母親が娘に対して行なう「躾」として大切にされて
きた生活文化です。
また「躾教育」の補完として、「武道」「書道」「華道」「茶道」といった社会的道徳に通じる学習を
「躾教育」として取り入れられてきました。
多くの「躾」や「道徳」教育は、人間が本来持っている「本能的欲望」に対して「抑制や我慢」することを
学習することではないかと考えます。
この「本能的欲望」に対する「抑制や我慢」といった「理性的な思考や行動」は、成人になってからの
教育では学習効果は非常に低いという研究結果もあります。
したがって、幼い頃から「本能的欲望」に抗うための「抑制や我慢」することを繰返し、繰返し教える
「躾教育」が非常に大切となります。
しかし、最近は幼い頃から受験勉強が主となり、親や家族が行なう「躾」や「道徳」教育がおろそかに
され、一流大学を卒業し、権力や大金を得ることが唯一の目標で、達成した者が成功者とする風潮があり、
大人になっても「本能的欲望」に対して「抑制や我慢」をする「理性的」な思考が働かず、道徳的な
社会秩序が乱れてきているような気がします。
特に、幼い頃からの「躾教育」が不十分で、成人してから「抑制や我慢」することを強要しても受け
入れる素地ができていないことが問題と考えます。
子供の頃から受験一筋で東大を優秀な成績で卒業し、法の執行人として権力を握り、成功者となった
黒川氏でも、置かれた立場を顧みずギャンブルという「本能的欲望」には勝てなかったことは悲しく、
情けない気持ちだ。
そういう私も、3人の息子・娘が社会人となり、子育てが終わった今、 「躾」や「道徳」教育を
おろそかにしてきたことを反省している自分を見つめ直してみました。