テニスプレイヤーの日記

日々の随想や所感を書きます。

ペーロンの相生湾へ

2013年03月07日 | Weblog
3/7相生湾を見に行きました。ペーロンのまち、相生、相生湾は、「かき」の湾で、加熱しても身が縮まないおいしい「かき」がとれる湾なのです。

相生市のホームペイジを見ると、
ペーロンについて、記載があります。
起源は、
西暦紀元前300年のころ、中国の戦国時代、湖南地方で楚の宰相屈原は懐王を助けて善政を敷き、名宰相といわれましたが、彼を妬む者の策略で覚えのない疑いをかけられ政界より退けられました。その後間もなく懐王は、秦の軍勢に捕えられ客死しました。 屈原は、楚の国運をなげいて汨羅という河に石を抱いて身を投じました。人民はこれを非常に悲しみ、「ちまき」を作って河に投げ、龍船(白龍)を浮かべて競漕し、その霊を慰めました。ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれております。
伝来は、
我が国へは江戸時代の1655年に伝来したといわれています。その当時数隻の中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できなくなったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにこの「ペーロン」競漕を港内で行いました。これを長崎の人達がとりいれて競漕を行うようになり、同地の年中行事の一つとなって今日に及んでいます。
相生のペーロン船の沿革は、
大正12年に一代目(天龍・白龍・神龍)ペーロン船3隻が新造され、続いて二代目(飛龍・雲龍・蛟龍)に引き継がれ、昭和28年には三代目(天龍・白龍・神龍)が新造されました。その大きさは、長さ13.55m幅1.75mで、艇長1名、舵取り1名、監督2名、太鼓1名、銅鑼1名、漕手34名、計40 名の船でしたが、老朽化のため、昭和55年に一まわり小さい四代目を建造し、昭和60年に同型の五代目を、平成2年に六代目、平成9年に七代目、平成14 年に八代目を新調しています。 現在のペーロン船は、相生型(龍の頭をかたどった船首が特徴)の伝統を受け継いだ、長さ13m、幅1.58mの七代目(天龍・白龍・神龍・昇龍)と同型で、平成14年に建造された八代目(海龍、蒼龍、輝龍、瑞龍)の船です。艇長1名、舵取1名、太鼓1名、銅鑼1名、漕手28名、計32名が乗り組み、ドン・デン・ジャン!と、中国特有の銅鑼と太鼓の音に合わせて力漕する姿は、まさに龍が水面を駆けるように壮観そのものです。
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