前回このブログでは三重県鳥羽市にあるミキモト真珠島の真珠博物館について紹介しましたが、引き続きミキモト真珠島にある海女の実演や御木本幸吉記念館等がとても良かったので紹介したいと思います♪
真珠博物館を見学していると、13:30近くになったので、すぐ近くにある海女スタンドへ行きました♪
ほぼ1時間毎に海女による実演が約10分間開催されます。
海女スタンドの階段を上がると、綺麗な青い空と青い海が広がっていましたね♪
美しいです♪
↑青い空と青い海
この日は12月上旬で、気温は18℃で水温は16℃とのことでしたね♪
↑気温は18℃で水温は16℃
海女スタンドで海を見ていると、右側の方からボートが現れ、昔ながらの白い磯着を着た海女さんが2人船に乗っていました♪
もちろん現代の海女は昔の白い磯着とは違いウェットスーツを着るようですが、今回のパフォーマンスは昔の海女を再現したものになるとのことです。
丸い木の桶もあり、これに獲物を入れるのでしょう♪
↑船に乗って海女が登場
この志摩の海女は、実は真珠を作るために核入れしたアコヤガイを海底に戻すなど、真珠養殖に大きな役割を果たしたようで、それだけでなく台風や赤潮などが発生した際は、潜水作業によってアコヤガイを安全な場所に移すこともしていたようです。
ボートが停まり、海女たちは丸い桶と一緒に海にざぶんと入りました♪
丸い桶は、ひもで身体と結ばれていましたね。
そして海女たちは約6m潜って次々と海底のアコヤガイを採取していました♪
海底に向かって垂直に足先も伸ばして綺麗に潜る様子は素晴らしいです♪
最終的には1人5~6個ほどアコヤガイを採取していましたね。
この寒い中一度に30秒は潜っていましたね。
↑アコヤガイを採取
女性係員によるマイクを使った、明るくジョークも交えながらの説明は分かりやすく、臨場感もあり秀逸でした♪
そしてまたボートに海女たちが乗り、右側へボートは去って行きますが、観客たちは拍手喝采でした♪
それから御木本幸吉記念館へ行きました♪
御木本幸吉記念館は、96歳まで郷土の伊勢志摩や日本の繁栄のために波瀾万丈の生涯を送った世界初の養殖の真珠王である御木本幸吉について、時代を追って写真や実物等を用いて分かりやすく説明したものとなります♪
↑はじめに
まずは、この鳥羽市の説明がありましたね♪
鳥羽は志摩地方の中心地で、江戸時代には城下町であり、大阪~江戸の航路の風待ち港だったとは知りませんでした。
↑城下町の様子
そして御木本幸吉の幼少の頃からの説明がありますが、実家は実は「阿波幸」といううどん屋だったようです。
その店構えが復元されていて驚きましたね。
↑うどん屋
御木本幸吉の少年時代は、幕末から明治へと変わる激動期で、9歳の時に祖父が亡くなり、12歳で弟や妹の面倒を見ながら家業を手伝い始めたようです。
また老人たちの肩をもむなど人情に熱い子どもで、一方で足芸や狂言に夢中になり、能舞台に出て人気者になるなど活発な少年だったようです。
↑少年時代
明治8年の17歳の時にイギリスのシルバー号が鳥羽沖に停泊した際には、得意の足芸を披露して、青物や卵の売り込みに成功し、ただ1人シルバー号の出入り商人となったとはさすがですね♪
↑シルバー号の来航
そして二十歳で家督を継いだようです。
その頃から鳥羽以外の世界を見てみたいと思っていたようです。
↑二十歳で家督を継ぐ
明治11年3月には片道11日間歩いて初めて東京に行き、横浜では中国商人がイリコ・干しアワビなどを売買しているのに目をつけ、海産物を商売にしようと決心し、志摩真珠が高い値段で取引されているのをこの時確認していたようです。
↑横浜で真珠や海産物に着目
実は志摩真珠は江戸時代から有名な志摩の特産品だったようです。
ただ天然なので小粒で形はいびつなものが主だったようです。
中国では真珠の粉末が薬用として使われるという背景もあり、真珠は高価に売買されていたようです。
↑当時の真珠事情
それから鳥羽への帰り道での箱根山中では、旅の道連れの静岡の茶商人を持っていた薬で助けたことから、東京や伊勢の新聞にそのことが掲載され、みんなの話題になったため、新聞の威力を知り、その後の商売の話題作りに活かしたとは素晴らしいですね♪
↑人命救助で新聞の威力を知る
それから苦闘時代に仕事を支えた人々との出会いの説明も興味深かったです。
しかも志摩を豊かにしようと22歳の時にアワビ・ナマコ・テングサなど海産物の商売を始め、志摩国物産品評会の発起人となり、そして最年少の町会議員にも選ばれ社会的な信用も得ていたとは素晴らしいです。
↑苦闘時代に仕事を支えた人々との出会い
また当時アコヤガイの乱獲によって真珠が減少していたことから、明治21年にはアコヤガイの増殖の計画を始めたようです。
↑アコヤガイの増殖
そして御木本幸吉が32歳の時に、箕作佳吉博士の助言を得て真珠養殖へ自信を深めたようです。
東京帝国大学附属・三崎臨海実験所で真珠の基礎的な知識を教えられたようです。
↑箕作佳吉博士など
しかしながら、実際にアコヤガイの中に核を入れて海中に沈めて3ヶ月後に引き揚げてもなんの変化もなく、周囲の人々からは山師!と罵られながら、御木本幸吉とその妻のうめは黙々と貝の世話をしたようです。
御木本幸吉は山師ではなく大海師と言ったとか。
↑山師じゃない大海師だ!
真珠の核になるものは、当時は何かが分からなかったので色んなものを試したようです。
↑真珠の核になるものは?
また真珠養殖の資金を作るため、御木本幸吉は色々な仕事を精力的にこなしたようです。
妻から旅先の宿に手紙が届くとそこには「借金返済の断りを楽にするために大晦日には帰らないで欲しい」と書かれてあったようで、妻の苦労を思いやって涙を流したようです。
↑大晦日には帰らないで!
しかも明治25年の御木本幸吉35歳の時には英虞湾に赤潮が来襲し5000個ものアコヤガイが全滅するという悲運に遭います。
4年の歳月と全財産をかけた努力は水の泡となってしまったのです。
しかし妻うめは、まだ相島(真珠島)の貝が残っていると励ましたようです。
↑赤潮来襲
↑アコヤガイの全滅
その相島の最後の望みのアコヤガイを妻うめが開けると、何と世界初の養殖による半円の真珠が5個誕生していたようです!
明治26年7月11日でした。
↑待望のとき
↑当時の相島(真珠島)等
しかしながら待望の真珠を手にした喜びも束の間、妻うめは病に倒れて「真珠もできたし、この世に思い残すことはありません。念仏を唱えて極楽にまいります」と、5人の子どもを残して明治29年に32歳の若さで短い生涯を綴じてしまいます。
これは辛いです。
↑愛妻うめの死
明治29年に半円真珠の特許を得た御木本幸吉は、うどん屋を廃業し、本格的に真珠養殖業に英虞湾で乗り出します。
初めは無収入に加え、真珠母貝の仕込みもあり、困窮を極めましたが、明治31年に最初の真珠を採取し、明治33年の2回目には4,200個の半円真珠を採取し事業はようやく軌道に乗り始めたようです。
↑真珠事業ひとすじ
そして、御木本幸吉は次に真円真珠の研究に打ち込んだようです。
しかしながら明治38年に英虞湾に赤潮が発生し、85万個の真珠貝が全滅してしまいます。
しかし死んだ貝を調べていると、待望の丸い真珠が5個誕生していることが判明し、貝の全滅は災いでしたが、5個の真円真珠が核の入れどころを教えてくれて、これは逆に有り難かったようです。
まさに災い転じて福となすですね。
↑災い転じて福となす
御木本幸吉は明治32年3月には東京の銀座裏に日本初の真珠専門店を開き、薬用として扱われていた真珠を宝石として売り出したようです。
そして明治39年には念願の銀座4丁目の表通りに進出し、外装は洋風、店員もハイカラな洋服に替えたようです。
またミキモトパールは外国人客の人気の的だったことに着目し、実弟などをアメリカに派遣し、世界市場へと意欲を燃やしたのは素晴らしいと思います。
↑日本初の真珠専門店
そして明治35年からは皇室から調度品のご用命を受けるようになり、大正13年には皇室御用達になったのも素晴らしいと思います。
また昭和5年には十大発明家の一人に選ばれて宮中晩餐にも参加していたとはさすがですね。
↑皇室御用達
それから、良質の真珠を得るため、長崎や沖縄、パラオ島まで進出していたとは素晴らしいです。
↑真珠の品質を守る
ただ戦争中は昭和15年には真珠養殖が禁止され宝飾品販売も禁止となって大変だったようです。
↑戦争と真珠養殖業
なお、養殖真珠の価値を人々に知らせるため、御木本幸吉は戦前も進んで世界中の博覧会へ参加したようです。
そのため真珠をふんだんに使った豪華な工芸品を出品し、人々を驚かせていたようです。
↑海外に飛躍「博覧会」
それから皇室との関わりも深かったとは興味深かったですね。
↑皇室との関わり
↑皇室との関わり
せっかくなので、思い出にこの真珠島のショップのパールプラザで真珠を買ってみました♪
さすが素敵な箱に入り、鎖はホワイトゴールドで、ダイヤ付きのパールのネックレスでシンプルで美しく、想像以上に妻が大喜びだったのは嬉しかったですね♪
鎖部分には、ミキモトのイニシャルのMの刻印がアコヤガイマークの中に小さくあり、これは本物のミキモト製ということが分かるようになっているとのことでした。
なるほど♪
またホワイトゴールドなのでゴールドが75%の18金で、K18の刻印もありましたね。
↑素敵な箱
↑パールのネックレス
それからアコヤガイで作られた、トレイや丸い箱が猫の絵柄で素敵だったのでこちらも購入しました♪
良い思い出になります♪
↑アコヤガイで作られたトレイや箱
ミキモト真珠島の海女の実演は実際に海に潜ってアコヤガイを採るだけでなく真珠養殖にも海女が活躍していたとが分かり、また御木本幸吉記念館は御木本幸吉が赤潮被害等の苦労の末、世界で初めて真円真珠の養殖に成功し、真珠を宝飾品として世界に広げたことなどがよく分かりとても素晴らしかったです♪
そして実際に真珠を買って妻が大喜びだし、アコヤガイの製品も買えたのは嬉しかったですね♪
ミキモト真珠島見学はとてもオススメです!
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