ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 149号、外交と内政

2005年09月27日 | 政治関係
教育の広場、第 149号、外交と内政

 先日、グルジア共和国のシュワルナゼ大統領が辞任に追い込
まれました。直接的な理由は、議会選挙での不正のようですが
、根本的には、その11年間に及ぶ統治が不適当だったことのよ
うです。

 〔2003年〕11月25日付けの朝日新聞は「『新思考』の悲しい結末」と題
する社説を載せました。その中で、次のように言っています。

─緊張緩和と相互依存を軸にした「新思考外交」を推進し、
東欧の民主化や冷戦終結の立役者となった同氏が、こんどは独
裁者打倒を叫ぶ民衆の声に囲まれた。

─米国は人口一人あたりでいえばイスラエルに次ぐ支援をし
てきた。しかし、期待された改革は進まず、国民の大半は貧困
生活を強いられたままだ。大統領の親族を含めて汚職も深刻化
し、世界で最も腐敗した国の一つとなった。

─シュワルナゼ氏の悲劇は、こうした困難の打開を対話と合
意による政治に求めず、他の旧ソ連諸国の指導者と同じように
強権的な手法に求めたことだろう。

これに対して、シュワルナゼ氏は28日、新聞記者との会見の
中で次のように言っています(29日付け朝日夕刊)。

─汚職はどんな国にもある。
─11年間で11% の経済成長を達成し、石油パイプライン建設
で戦略的要衝の地位を築いた。

しかし、こういう言い訳には一々立ち入る必要はないでしょ
う。

私の感想は又しても「修身と斉家(身の回りの公生活)ので
きない人が治国と平天下(国家レベルの公生活)を唱えても力
を持たない」というものです。この場合はその「修身と斉家」
が「内政全般」になり、「治国と平天下」が「外交」になると
いう違いがあるだけです。

実際、特に発展途上国の指導者の場合、その外交方針なり戦
略なりで国際的に注目され評価されたけれど内政で失敗したと
いう人が多いと思います。かつてのエジプトのナセル大統領、
1960年代のアフリカの時代に活躍した人(例えばガーナのエン
クルマ大統領)、インドネシアのスカルノ大統領などが典型的
な例だと思います。

なぜこういう事が起きやすいのでしょうか。外交は立場上対
等な外国と同じく対等な一員として議論し交渉することですが
、内政は自分がトップとして部下なり国民を指導して「何かを
創っていかなければならない」からだと思います。

批判は易しく創造は難しいのです。

そして、その創造(内政)の失敗の原因にはほとんど政権の
腐敗が挙げられ、親族の腐敗が絡んでいます。妻に振り回され
た大統領もかなりいるようです。これを「人間の弱さ」と一般
化して好いのでしょうか。

キューバのカストロ議長が反対派を弾圧はしているがそれほ
どひどい強権的手法に走らないでこれたのは、やはり国民的支
持があったから、反対派があまり強くならなかったからではな
いでしょうか。

それはともかくも政権の腐敗を防いだからであり、身びいき
をしなかったからではないでしょうか。経済危機を乗り切って
今や成長軌道に乗せることができたのも、根本的にはこの条件
があったからだと思います。

   日  本  語  疑  典(その1)

2003年11月12日付けの朝日新聞の「私の視点」欄には立教大
学講師の三浦展(あつし)さんが「地域社会の変質認識を」と
題した意見を発表しています。

内容は、最近の重大事件が「地方の郊外農村部」で起きてい
るとして、その背景として「地方の大きな変質」を指摘したも
のです。

その中に次の文がありました。

─私自身、新潟県上越市の出身であるから地方の変質は肌で
実感している。

「肌で実感する」という言い回しはあるのでしょうか。辞書
を引くと、「肌で感ずる(感じる)」「肌で知っている」は載
っていますが、「肌で実感する」は載っていません。

「肌で」と「実感」の「実」とが重なるから拙いのだと思い
ます。

最近の不適切な表現の1つの大きな原因は「不必要に強調し
て言おうとすること」だというのが私の推測ですが、これもそ
の1例です。

もう1つ次の文もありました。

─過去20年ほどの間に全国の地方の郊外農村部で道路が飛躍
的に整備され、住宅地が開発され、・・

「道路が飛躍的に整備される」と言うでしょうか。

どこに違和感を感じるのかと考えてみますと、「飛躍的」と
いうのは「飛躍的発展」と言うように、「進み方」ないし「進
む速度」のものすごく速いことを言うのに、「整備」自体は
「進む」という意味を含んでいないからだと思います。

やはりここは「道路の整備が飛躍的に進み」だと思います。

(2003年11月13日執筆)

      日  本  語  疑  典(その2)

朝日新聞夕刊では最近、少し大きめのテーマについてそれぞ
れ5回の連載コラムを載せています。今回は「監視する社会」
という題でした。

2003年11月12日、その最終回のコラムはICタグ(電子荷札
)を扱っていました。このICタグというのは砂粒以下の大き
さのチップだそうで、それにアンテナを付けて、チップ内に書
き込まれた情報が無線で飛び交うようになっているそうです。

 それは「モノを追跡するために使う」のですが、同時に「そ
のモノを持っている人も追跡してしまう」ことが避けられない
そうです。そのため、便利さとプライバシー保護の相剋が起き
るのです。

その文の最後は次のように締めくくられていました。

─野村総研が昨年9月、全国2400人に実施したアンケートで
は、情報化の進展で8割が「生活が便利になる」と答えた。一
方、「新しい犯罪が増えそうで不安」「プライバシーが侵され
そうで不安」という人は、約9割だった。・・

どこに問題を感じるかと言いますと、情報化に期待する人が
8割であることと、それに不安を感じる人が9割であるという
2つの事実を報じるのに、このように「一方、~という人『は
』」という言葉を使っている点です。

私は、この文を読んできて、「一方、『新しい犯罪が増えそ
うで不安』『プライバシーが侵されそうで不安』という人は、
」と来て、最後に「約9割」という数字を読んだとき、とても
驚きました。こういう言い方をしたならば、「約2割だった」
といったように、前者に対して少ない数字が来るものだと、無
意識のうちに予想していたからだと思います。

2つの相反する事が8割と9割だったのなら、私なら次のよ
うに書きます。

─野村総研が昨年9月、全国2400人に実施したアンケートで
は、情報化の進展で8割が「生活が便利になる」と答えた。『
同時に』、「新しい犯罪が増えそうで不安」「プライバシーが
侵されそうで不安」という人『も』、約9割だった。・・

皆さんはどう思いますか。

(2003年11月13日執筆)

      日  本  語  疑  典(その3)

11月30日の朝日新聞に次の文がありました。

─「封印」してきた地域金融機関の処理・再編には、もはや
ぎりぎりの時間しか残されていなかった。・・

「ぎりぎりの時間」という言い方があるのでしょうか。

学研の国語大辞典で「ぎりぎり」を見ると、次の用例が載っ
ていました。

1、国電の始発時間ぎりぎりまで交渉が難航することは必
至。

2、そうそう、僕、あんたのぎりぎりの意見聞きたいんやけ
ど。

3、中尉さんはこう言えたのがぎりぎりでした。

「ぎりぎりの時間」がなぜおかしいかと言うと、「ぎりぎり
」とは「必要な量や時間に余裕のないこと」だからだと思いま
す。

上の用例の「ぎりぎり」の所を「余裕のない〔こと〕」で言
い換えてみると次のようになります。

1、国電の始発時間に余裕のない所まで交渉が難航すること
は必至。

2、そうそう、僕、あんたの余裕のない〔言い残す所のない
〕意見聞きたいんやけど。

3、中尉さんはこう言えたのが余裕のない所〔精一杯〕でし
た。

では、最初に挙げた朝日の文の「ぎりぎり」を「余裕のない
〔こと〕」で置き換えますと、「『封印』してきた地域金融機
関の処理・再編には、もはや余裕のない時間しか残されていな
かった」となります。

「余裕のない時間」自身もおかしいし、「余裕のない」と「
残されないなかった」が重複すると思います。

代案としては次のようなのがどうかと思います。

「封印」してきた地域金融機関の処理・再編に、残された時
間はほとんどなかったのである。

あるいはどうしても「ぎりぎり」を使いたいならば、

「封印」してきた地域金融機関の処理・再編には、時間的に
ぎりぎりだったのである。

くらいでどうでしょうか。

(2003年11月30日執筆)

(2003年11月30日発行)