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ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

大学トップ30について

2005年12月23日 | タ行
 (2002年)06月19日の朝日新聞は大学トップ30への動きをこう報
じています。

 「世界最高水準の研究をめざして、国公私立の大学を選び国の予
算を重点的につける『21世紀COEプログラム(トップ30)』の公
募が始まった。国によるランクづけへの是非が問われたこの事業は
9月末に結果が出る。」

 この記事の横にこれについての加藤寛氏(千葉商科大学学長)の
批判文(多分談話)が載っています。私はこれに賛成ですので、こ
れを紹介し、少し補い、私見を述べます。

 「第1に、国際競争力を高めるねらいならば、池の中で鯉(こい
)を飼ってはいけない。日本という池ですでに太っている旧帝大や
私大の鯉をみて、『つやがいい』『これは大きい』と言って国費と
いう餌でさらに太らせる。これでは意味がない。

 海外の大学や教員を日本に入れて大海で競争をさせなければ本当
に強い魚は育たない。

 第2に、差をつけることに国費を出してはいけない。評価に国費
を入れたら評価がゆがむ。研究は五輪じゃない。順位をつけて賞金
を上げても、国全体の学問水準を上げないと、国際的な研究は育た
ない。

 第3に、生産者本位で消費者本位じゃない。学生や社会の評価を
観点に入れるのは当然だが〔当然なのに〕、そうした基準がない。

 第4に、対象となる分野が古い。これ〔トップ30の対象とされて
いる分野〕は18世紀の分野。あてはまらない学問もたくさんある。
人文社会系は2つしかなく、学問全般の競争には使えない。

 第5に、結果の公表がない。反論の機会も認めるべきだ。

 〔要するに〕これは規制緩和に逆行する保護政策にすぎない。

 〔ではどうしたらいいかというと〕大学はすべて私立にすればい
い。学生と教員が一緒になって大学祭のように研究〔と教育〕をす
べて公開する。

 民間の人が見て、『面白い。会員になろう』と資金を出す仕組み
にする。国はどんな研究や教育をしているかの情報を流すだけでい
い。

 国費はむしろ、市場に直結しない基礎研究をしている人や哲学者
にこそ出すべきだ。

 後は、学生に国費を配分し、どの大学でも同じ授業料で入学でき
るようにする。その方が国費も生きる。」

 私は、国公立の大学と研究機関はいったん民営化し、どうしても
国公立にする必要のあると分かったものだけ、公営化し直すといい
と思います。

 その時でも職員は5年以下の任期制にするべきだと思います。終
身雇用が甘えを生んでいるからです(そもそも公務員はすべて任期
制にするべきです)。

 「市場に直結しない基礎研究や哲学者に国費を」出すというのは
、私のような「市場に直結していない哲学者」にはありがたいです
が、誰がどのように選ぶのか、いくら出すのかといった問題があり
、それを扱う役人のポストが必要になりますから、止めた方がいい
と思います。

 要するに、文部科学省の「改革」とか「改訂」とかはみな、役人
の保身のための仕事作りなのだということを見抜く必要があると思
います。そうすれば、本当の改革は役人を出来るだけ減らすような
事をしなければならないということになります。

 情報の公開を国の仕事としていますが、これも賛成できません。
そういう事は経営主体に法律で義務づけるのが筋だと思います。そ
して、民間人に対して、「大学と教員を自由に評価しましょう」と
首相が呼びかければそれで十分だと思います。

 学費補助に国費を使うのは大賛成です。しかし、大学によって授
業料が違うので、例えば医学部などは授業料がとても高いので、す
べての学生が同じ授業料を払うようにするとなると、奨学金の金額
を授業料との関係で変えるのでしょうか。

 ともかくこれはいい事です。6月22日の朝日新聞の「土曜自説」
で民主党の小沢鋭仁氏は「公共事業より学費貸与を」という主張を
展開しています。これも同じ考えだと思います。

 4月12日付けの朝日新聞は東京薬科大学の多賀谷光男教授の調査
結果を伝えています。それによると、東大への国費投入は学生1人
当たり 515万円で断然トップなのに、教員の研究業績はそれに比例
しておらず、平均レベルだ、ということです。

 つまり、今でさえ文部科学省は東大を依怙贔屓(えこひいき)し
ているのです。この差別を更に強めるのが今回のトップ30なのだと
思います。そして、こういう「仕事」を作ることで文部科学省の組
織も太りつづける、というのがこれの狙いなのだと思います。

 トップ30構想は中止するべきです。国公立大学は民営化するべき
です。そして、第57号で述べましたように、大学の規模について法
律でその上限を定めるべきです(例えば学生数の総合計を1万人以
下にする、とか)。

 文部科学省の大学部門を出来るだけ縮小して残った部門は文化庁
に移すべきです。高校以下を担当する部門は都道府県に委譲するべ
きです。つまり、文部科学省をなくすべきです。これが当面の改革
であるべきだと思います。

(2002年08月04日発行)

都立高校とタイムカード

2005年12月18日 | タ行
 01、都立高校とタイムカード

 (2002年)08月15日の日経は、東京都が9月から20校の都立高校で試験的にタイムカードを導入することを決めた、と報じています。来春から約 200校の都立高校(高専を含む)全てでそれを実施するそうです。こういう事は全国的に見ても珍しいそうです。

 都立高校の教師は戦後早くから、週に1日の「研究日」が認められていました。組合が「戦い取った」ようです。しかし、これも数年前に取り上げられたと聞いています。これは都立高校の教師だけの話ではありませんが、今年の夏休みは教師たちは研修とかで出勤させられる日が多かったそうです。新聞に載っていました。

私も都立の高専で授業を持っていました。その経験から見ても、その他の見聞から判断しても、都立高校の教師が全体としてサボっているのは事実だと思います。しかし、だからと言って、研究日を取り上げたり、タイムカードを導入するのが正しいとは思いません。

研究日は必要です。中学以下でも本質的には同じだと思いますが、高校教師は週に3日の研究日(土日+研究日)が必要です。そうでなければ好い授業は出来ないと思います。夏休みも、正規の有給休暇のほかに、出勤日を減らして、旅行したり勉強したりする時間が必要だと思います。

では、そのような自由時間を悪用してサボっている教師をどうしたら好いのでしょうか。

私は結果責任を取る制度にするのが本筋だと思います。第1に、情報の公開を義務付けることです。インターネットのHPに1人1人の教師のコーナーを作って、そこに経歴、業績、授業内容、研究状況等を報告させるのです。

そして、そこには関係者からの質問に答える欄も作ると好いと思います。サボっている教師はそのままではいられないようにするのです。

教師といわず公務員を全て任期制にすることも必要だと思いますが、これはかなり難しいでしょう。

このような情報公開は個々の平教師の前にまず校長がするべきです。評価もまず校長の評価をするべきだと思います。

その他の公務員についても「平」はともかく「長」のつくものはこうするべきだと思います。教育について言うならば、教育長はHPで自分の公的活動について情報公開をし、住民の意見や批判に答えるべきだと思います。

或る県の定時制高校では、校長の考えで、定時出勤をさせられているそうです。しかし、教師たちは定時に出勤した後、新聞を読んで時間潰しをしているそうです。直接聞いた話です。

外面的な規制では教育は良くならないと思います。

(メルマガ「教育の広場」、2002年08月30日発行)


 02、投書(都立高校を民営化すべし)

                        匿名氏

 教員にHPを作らせたって、何のインセンティブもなければいつか風化するでしょう。HPをつくることが教員がさぼってないかどうかを管理するためのものであれば、あまりに幼稚な手段で、またいちいちそれを管理する人間をおくことにさらにコストがかかります。税金の無駄遣い。

 根本的な問題は、教師になんのインセンティブもないこと。具体的な目標(学習面、運動面、その他子供の人格形成に直接的に関係するものであって、研究ノルマなどではない)を設定して、その評価に応じて報酬を与えるような制度にかえることが必要ではないでしょうか?

 一番良いのは公立学校の廃止。全て民営化。義務教育でない高校以上は全てそうすればよいでしょう。魅力的な学校でなければつぶれてしまう、逆に魅力のある学校ならばどんどん発展していく。学校の魅力は教員にあるわけですから、教員がいい仕事をすれば給料が上がる。だめな教師は学校から首にされる。

 官僚的な公務員が教員をしていても限界がありますね。もちろん、いい先生もたくさんいますが。

 03、お返事(牧野 紀之)

 都立高校を民営化すべしとの過激な提案をありがとうございます。

 高校は形式的には義務教育ではありませんが、実質的には義務教育になっていますので、民営化する場合は学費の問題は考える必要があると思います。

 現在でも、公立高校と私立高校とでは親の負担が違いすぎると思います。ドイツのように、私立高校でも、建物や設備の面は設立母体が負担し、教職員の給与は公共団体が負担して、公立の場合と同じようにするべきだと思います。

 私の真意は、個々の教師がHPを開くのではなく、学校のHPに個々の教員(管理職を含む)のコーナーを作り、そこに業績等を開示するというものです。

 批判検討は行政が行うのではなく、生徒や卒業生や保護者や地域住民が意見を言うといいと思います。ここはよかった、これは意味が分からない、この点はもう少し工夫してほしいといったように意見を出し、教師もそれに対して答えて、教師の向上を目的として建設的な話し合うという感じの掲示板を付けるといいと思います。

 高校教育の改革改善のために、匿名氏以外の方もそれぞれの考えを発表して下さい。

(2002年09月01日発行)


講壇学問の貧しさ

2005年10月25日 | タ行
01、講壇学問の貧しさ

 去る(2003年)06月30日の朝日新聞に伊藤成彦さん(中央大学名誉教授)の「『異端』のローザの魅力」と題する文章が載りました。新聞社の方で付けたと思われる「日本でR・ルクセンブルク全集完全版刊行へ」と「レーニンらの革命指導にあらがった先駆性」という説明的な見出しもありました。

内容は、日本(伊藤さん)が中心になって初めてローザ・ルクセンブルクの完全な全集が出ることになったというもので、ローザの意義を3点にまとめたものです。

これを読んで、(2003年)02月06日付けの朝日新聞に載りました的場昭弘さん(神奈川大学教授)の文章「世界最高水準のド・イデ研究」を思い出しました。これには「河出『広松版』28年ぶりに新編集」という説明的な見出しも付いていました。

これは昨年(2002年)の秋に岩波文庫でその新編集が出て評判になっていることを契機にして書かれたものです。内容は、マルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』(とされている)草稿の最も好い(実物に近い)出版物(の翻訳)はこれであるというものです。

1974年に広松渉さんが出したものがベースなのですが、その広松さんの仕事の意義を論じています。

この両者に欠けているものは何よりも自分の現在の生き方への言及です。伊藤さんも書いていますように「社会主義への関心が薄れています」。その中で自分は社会主義に対してどういう考えを持っていて、どう生きているのかに全然触れていないのです。お二人とも社会主義に賛成のようですが、それならその理由を述べるべきでしょう。

選挙になると、「自分はいかなる考えに基づいてどういう投票行動をとるか」を言わないで、傍観者的に何党が勝つか負けるかだけを論じるのが好きな日本人に相応しい知識人であり大学教授だと思います。しかし、これは本当の学問ではないと思います。

何も、「理論と実践の統一」とやらを振り回して政治ごっこを押しつけるのが正しいと言っているのではありません。そもそも「理論と実践の統一」とは「両者は統一するべきだ」というお説教ではありません。

しかし、的場さんも言うように1960年代、我々は「マルクスを片手に未来を語った」のです。その中心的書物を取り上げるのに「いま、自分はどう生きているのか」を言わないのでは、ほとんど意味がないと思います。

そもそも、的場さんの尊敬する広松さんはなぜこの編集にこだわったのでしょうか。それは、正しく編集すると、共産党系で信奉されているミーチン主義の「唯物史観」はマルクスの真意とは違うことがはっきりし、それによって共産党を批判できる、と考えたからだと思います。

もちろんその考えは間違っていました。共産党はマルクスの一言半句を重視する党ではありませんし、「ド・イデ」の正しい編集が出ても、正しい唯物史観が得られるわけではありません。広松さんの『唯物史観の原像』(三一新書、1971年)を見れば、大した事のないのが分かります。

しかし、広松さんはともかく当時の社会で戦って生きる武器としての理論を追求していたのです。

伊藤さんはローザを「人間の顔をした社会主義」思想の元祖だと言いますが、日本共産党も「ソ連や中国の社会主義は本当のものではない。自分たちは本当の社会主義を作るのだ」と言っています。では、伊藤さんはそういう日本共産党に対してどういう態度を取っているのでしょうか。なぜその事を論じないのでしょうか。

的場さんは広松さんの意義として、マルクスがこの本を契機として疎外論から物象化論に移ったことを明らかにしたことだと言っています。しかるに、的場さんは後の方で疎外論と唯物史観とを等置するような言い方をしています。そして、「物象化論のポイントは、人間と人間との関係が、物と物との関係として転倒した姿で現れるということだ」と解説しています。

まず、「ドイツ・イデオロギー」という題名の「イデオロギー」について説明するべきでしょう。なぜなら、それは今の日本語では「人間の行動を決定する、根本的な物の考え方の体系。(狭義では、階級的に規定を受けるとされる政治思想・社会思想を指す)」(新明解国語辞典)を意味しますが、それと違うからです。

それは「観念論的な歴史観」ということです。マルクスとエンゲルスは自分たちのそれまでの歴史観が観念論的だったと気づき、仲間たちの考えを批判するなかで自己批判したのです(観念論的と観念的とは違います)。

的場さんは、マルクスは「ドイツの哲学者に向かって『それは幻想だ、真実はここにある』と吠えている」と言っていますが、「幻想」などという不正確な言葉を使うのは分かっていない証拠です。唯物論か観念論かの問題なのです。

従って、「ド・イデ」の中心はあくまでも唯物史観です。それはもちろん物象化論への道を開くもので、それを完成させたものが「資本論」です。

物象化について説明するのなら、人間関係が物の関係として現れること自体を「転倒して現れる」と言ったのか、それとも、物として現れる場合に転倒して現れる場合とそのまま現れる場合と両方の可能性があるのか、そういう点にも触れるべきでしょう。

的場さんの文章は用語法が不正確すぎます。これが「世界最高の水準」なのでしょうか。

  (メルマガ「教育の広場」第130号、2003年07月12日発行)

 02、投書(第130号を拝読して)             K・S

 毎回おもしろく拝読しております。

 今回の「講壇学者」に「自分の現在の生き方への言及」が欠缺しており、それを自覚しないことが「貧困」であるとのご指摘は正鵠を得ていらっしゃると拝察を申し上げます。

「人間の顔をした社会主義」という概念自体が特に佐瀬昌盛『チェコ悔恨史』等で虚構であることが古くから指摘されております。またメイリア『ソヴィエトの悲劇』では、マルクス=レーニン主義が生み出す体制そのものが、人間の自由と両立せず、レーニン、トロツキー自体が恣意的な「人民の敵」への徹底的なテロを主張していたこと等への検討も我が国では十分に消化されていないように思われます。

 そもそもそのような「貧困」が生まれる原因を私個人としては、学者として物事を虚心坦懐に考察できない、学者としての素養にも問題があるように思っておりました。理論を考察する場合に、その理論についての肯定論・否定論を先入観なしに考察し、主体的に自己の議論を組み立てるという、当たり前の価値自由(Weber)なしに、社会科学・哲学等は成立しないように思われます。ご指摘の論者の出発点がすでに「社会主義者」の立場に立ち、「社会主義への関心が薄れています」と嘆いてみても、それは信仰告白以上のものではありえません。

「社会主義」への関心が失われたのは、「ヒューマニズム」「博愛主義」の否定という事実を、なぜこのような講壇学者は認識しないのでしょうか。やはりそこには先生がご指摘になった「自分の現在の生き方への言及」が欠けているところに、原因がありそうです。個人の実生活への現実性が欠けているから、先入観に簡単に支配されてしまうのではないか、と先生のご意見を拝読をして認識を新たにいたしました。

 そしてそのような「社会主義者」の経済学者が、学的批判勢力のない地方の国公立大学等で「正しい経済学」を教えています。このような「講壇学者」は独立行政法人化とともに淘汰されることを心より期待しているのは、私だけでしょうか。


 03、お返事(牧野 紀之)

 投書をありがとうございます。

 社会主義批判については、自分はかつて社会主義者だったのか否かをはっきりさせてからにするべきだと思います。

 又、批判の仕方も大きく分けると、現実の社会主義の間違いを指摘する方法と、マルクスとエンゲルスの思想そのものに間違いがあったとする方法とがあると思います。いずれの場合でも、社会主義の歴史的功績も認めるべきだと思います。

 実際には、現実の社会主義社会の批判(あら捜し)が多すぎると思います。私はマルクスとエンゲルスの理論を再検討したいと思います。

 又、今後の日本の進路については資本主義を前提するとしても、ヨーロッパ型を取るのか、アメリカ型を取るのかの問題があります。

 そもそもヨーロッパ人の言う「社会主義」は日本で言う「社会民主主義」のことで、日本で言う社会主義はヨーロッパの人々は「共産主義」と呼ぶということも確認しておきたいと思います。

 (02と03は、メルマガ「教育の広場」、2003年07月17日発行)


教育の広場、第 143号、緑茶ってなんだ

2005年10月03日 | タ行
私は少しですが、茶畑を借りてお茶を栽培しています。時間のある時は夕方に1時間くらい畑仕事をします。お茶そのものとこの畑仕事が健康に役立っていると思っています。

この(2003年)8月に金谷町(静岡県)にあるお茶の郷博物館に行ってきました。世界の様々なお茶が紹介されていました。その時、1冊の本を買いました。小川誠二著「日本茶を一服どうぞ」(創森社)です。

 それを読んでいたらとてもびっくりする記述に出会いました。

- そもそも「茶色」という色の名前は、お茶の色からつけられたものだといわれますから、本来のお茶の色は茶色で、現在お茶屋さんに並んでいるような鮮やかな緑色ではなかったはずです。 -

 なるほど、「緑茶」という言葉は「丸い四角」というのと同じ形容矛盾なのだ、と思いました。もちろん形容矛盾にも根拠のあるものがあります。例えば「緑の黒板」がその例です。ですから、「緑茶」を形容矛盾だというだけで否定するのははやとちりでしょう。しかし、これは考えるに値する事だと思いました。

 小川さんは、緑色の茶と茶色の茶とを次のように比較しています。

 ★ 緑色の茶
  余所行きの茶、嗜好品、商品として作った茶、高級志向、近年のもの、未熟な葉から、啜る茶

 ★ 茶色の茶
  普段の茶、常食の茶、飲用に作った茶、安価で手頃、昔から親しんだもの、十分熟した葉で、ガブガブ飲む茶

 小川さんは夫婦でこのような「茶色の茶」を「常茶」と名付け、日本各地にそれを求めたようです。今では奥さんは亡くなり、小川さんが仲間と続けているようです。

 私はこの本で紹介されている美作(みまさか)晩茶(岡山県の美作で作られている)に特に興味を持ちました。

 常茶会に連絡をとってそれを取り寄せました。その入れ物の箱にこう書いてありました。

- このお茶は、春に芽吹いた新芽を摘まずにそのまま完熟育成させた茶葉を、8月の上旬に刈り取って鉄釜で煮出し、数日間真夏の炎天下で茶葉を広げて乾燥させる製法で、丹念に手作りで仕上げています。

 大地と太陽の恵みを十二分に受けたおいしいお茶です。昔から、「お茶は百薬の長」と言われたのはこのようなお茶のことを言っていたのでしょう。 -

 つまり、譬えて言えば、肉屋で売っている70日齢くらいのニワトリ(ブロイラー)の肉と2~3年生きてきたニワトリの肉との違いかもしれません。たとえそのニワトリが両方共、平飼いで適切な飼料で飼われていたとしても、70日齢と2~3年とではやはり大きな違いがあると思います。緑茶と晩茶にもそのような違いがあるかもしれません。

まだ飲みはじめたばかりですから、何とも言えませんが、調べてみるに値するものだと思っています。出来たら、来年から自分でも少しずつこの「晩茶」を作ってみたいと思っています。

もちろん緑茶にもその価値は十分にあると思います。しかし、「緑色のお茶が当たり前」というのは、必ずしも正しくないのだと知りました。伝統とか先人の知恵はおろそかにできないと思います。

(2003年10月16日発行)

  PS

 この「美作番茶」はとても気に入ったので、その後、岡山県美作町のお茶屋さんから直接取り寄せるようにしました。愛飲しています。

 私自身のお茶作りは、体力的な理由で、止めました。(2009年06月27日、加筆)

都立大学問題のその後

2005年09月21日 | タ行
 石原東京都知事が都立新大学を作ろうとしている問題はその後新たな展開を見せました。

 第1は、その新大学の「都市教養コース」と「国際文化コース」の「理念」について河合塾にその「補強」を委託することにしたというものです。

 人文・社会系各コースの授業科目名の提案、都市教養学部全体の設計、教養教育の英語、情報教育プログラムの設計なども「補強」してもらうそうです。

 12月05日付けの朝日新聞が報じていました。委託料は3000万円だそうです。

外部委託をする理由は「大学の先生方は法学、経済学など既存の学問分野での縦割りの検討は得意だが、学際的に横断するのは苦手。河合塾は大学評価手法の調査を経済産業省から委託された実績もある」とのことです。

理由の前半は正しいと思います。しかし、東京都や知事が自分で「理念」すら作れないということは、大学を作る能力と資格がないということだと思います。

都立大学は民間に売却するべきだと思います。

第2は、東京都のやり方に抗議して都立大学の法学部の4人の教授が辞任の意思を表明したために、2004年04月に開校予定の都立大法科大学院の予定が立たなくなり、01月に予定していた入試を延期することになった、というものです。〔2003年〕12月12日の朝日新聞が報じていました。

あらたに専任教員を採用して間に合わせるつもりのようですが、本当に間に合うのでしょうか。「週刊朝日」はその4人の内の2名の名前まで上げていました。

たしかに東京都のやり方は民主的ではありません。それに抗議するのは結構ですが、これまでの都立大学のやり方に抗議してこなかった点の反省が欠けていると思います。

第3は日本独文学会が声明を発表して「都立新大学構想の再検討を」求めたということです。12月17日付けの朝日新聞が報じていました。

その声明の中に「問答無用の形で出された新構想は、人文学部の廃止を前提としているとされ、大学の自治を完全に無視する暴挙」という言葉があるそうです。

前から思っていたことですが、今度の都立新大学設立自体とそのやり方は、かつて東京教育大学を廃止して筑波大学を作ったこと及びそのやり方と酷似していると思います。

あの時も文部省と教育大学内部の保守派の狙いは文学部の解体であり、政治に無関心な大学を作ることだったと言われました。

教育大学の文学部も都立大学の人文学部も、保守派が思うほど左翼的ではないと思います。被害妄想でしょう。

しかし、教育大学に代わって作られた筑波大学が政治に無関心になったことは事実のようです。巷間では「筑波大学の奨励するのは3S(study, sports, sex)」と言われたものです。

 独文学会がなぜ声明を出したのか知りません。それは自由です。内容も必ずしも間違っているとは思いません。しかし、やはり自己反省が欠けているのではないでしょうか。

1991年の大学設置基準の大綱化以来、集中的に縮小の対象となったのが第2外国語であったということ、その結果、大学でのドイツ語教育の比重は極めて小さいものになったということ、そして、その大きな原因の一つが、「教養教育の一環としてのドイツ語教育はどうあるべきか」を熱心に追求してこなかったことにあること、つまり大学におけるドイツ語教育の縮小はドイツ語教師の自縄自縛的側面が大きいこと、を反省していない点で、極めて不十分だと思います。

        投  書

 拝啓

 私は八王子在住のFと申します。Yさんから紹介されてこのHPを読んでいます。

 今回の都立大学の件は、〔牧野さんの意見に〕本当に同感します。私は中央大学が母校なので、都立大学の凋落ぶりは手に取るように分かります。またメルマガに記されている教授たちの怠慢ぶりは予備校、LECを職場とする私のようなアカデミズムの門外漢にも知れ渡っています。

 現在、私が委員を務めている八王子教育改革プランでも次回はこの話題を出してみます。


        お 返 事(牧野 紀之)

 投書をありがとうございます。

 LECとは何でしょうか。又、あなたが委員をしている「八王子教育改革プラン」とはどのようなものでしょうか、行政組織上の何かの権限があるのでしょうか。

 こういった外部の人間の知らない点についての説明があるともう少し親切になったと思います。

 そこで取り上げた結果をまた知らせて下さい。お願いします。

(2003年12月25日発行)

教育の広場、第 188号 独断論と不可知論

2005年06月28日 | タ行
教育の広場、第 188号、独断論と不可知論

ここ2回の本メルマガで取り上げました田中正史著『?(なぜ)と!(びっくり)を見つけよう』(KKベストセラーズ、本体1800円)の目玉の1つが、「育てて、解体して、食べる授業に賛成か反対か」の議論でした。その最後( 235頁)に田中教諭は締めくくってこう書いています。

- あなた達の意見を読んで、私はこう思いました。「考える」だけでは十分ではない。「考え続ける」ことが大切である。違う意見を聞いて、何度も何度も考えていくと、今まで思いもしなかったことが見えてくる。

あなたの今の生活や将来の希望も、違った方向から見ると変わって見えるはずです。その違った方向を教えてくれる人や話をおろそかにしないでください。テスト問題と違って、生きていく中での問題には、明白な正解はありません。答えは、求めつづける中にある。と私は思います。 -

ここには3つの事が書いてあると思います。

① 考える以上に考え続けることが大切である。
 ② 自分の考えは違う意見を聞いて又考える事は有益である。
 ③ テスト問題には明白な正解があるけれど、生きていく中での問題には、明白な正解はない。

こう整理すると色々な感想が浮かびます。

 第1に、①はそのまま肯定できると思います。

 第2に、②もそうでしょうけれど、これは大人、特に「偉い人」にこそ求められることだと思います。例えば小泉首相とか東京都教育委員会とかです。田中教諭にとって身近な例を出すならば、校長とか教師とかです。②だけ言って、誰に必要な事かを言わないのは片手落ちでしょう。

 第3に、③は大問題です。テスト問題には確かに「明白な正解」がありますが、その「正解」とやらは本当に「真理」でしょうか。それはなぜ「正解」とされているのでしょうか。教科書検定委員が「正解」と決めただけではないのでしょうか。田中教諭は教科書に書いてある事を本当に「真理」だと思って教えているのでしょうか。そうだとしたら、とんでもない間違いです。

 逆に、「生きていく中での問題」には、本当に「明白な正解」はないでしょうか。どうしてこんな事を断言できるのでしょうか。

もしそうだとすると、テスト問題で扱っている事は「生きていくなかでの問題」と無関係だということになりますが、そんな下らない事をどうしてテストに出したりするのでしょうか。

哲学を知らない田中教諭は独断論と不可知論の間を揺れ動いているようです。しかし、これは大多数の教師の考え方でもあると思います。こうなっている一因は哲学がこういう現実の問題を扱わず、しっかりした事を言わないからだと思います。

私見を箇条書きにしておきます。

1、人間の認識は何らかの意味で認識対象を反映している。その意味で「正しい」。

 2、しかし、その反映の正確さには度合いがあるから、「正しさ」にも程度がある。従って、正しいか否かの問題は何%正しいかの問題でしかない。

 3、しかし、所与の場合には真偽を分ける基準が決まっていて、それを境にして真偽に分かれる。つまり何%以上正しければ真理とされ、それ以下の認識は虚偽とされる、そういう基準がある。

4、従って真理は相対的であり、歴史的である。これはどんな認識でも同じである。

 5、学校教師にとって大切な事は、自分の教えている事は決して絶対的真理ではないことを自覚しておくことである。それは教師個人の能力による部分と歴史的制約による部分との2つがある。

 6、換言するならば、学校で教えている事の8割は間違いである。今「真理」として教えられている事の内、何%の事が50年後の学校でそのまま「真理」として残っているか考えてみれば分かるであろう。

 その内のいくつかは完全な間違いとされているであろうし、残りの大部分もより正確な真理(理論)の1部に格下げされているであろう。

7、では、8割も間違っているのにそれを教えるのは間違いか。否、現在真理とされている事、自分が科学的に正しいと思う事を教えればよい。それ以外のやり方はない。それを絶対的真理と思い込まないことであり、「現在はそうなっている」と断って教えることであり、「自分と違った意見(生徒の意見)」を聞く耳を持つことである。

個人によって変わる事柄については、私の哲学の授業のように、「自分の考えを自分にはっきりさせること」を授業の目的として断ればよい。しかし、それは「明白な正解がない」という不可知論ではない。正解があるからそれを求めて考えるのである。どんな正解でも歴史的な正解(その時点での正解)でしかないだけである。

   (2004年11月19日発行)