現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「武田 惣角」とは

2018-08-26 02:00:22 | わが家のこと

「武田 惣角」について、Wiki-pediaに載っていました。

安政6年(1859) 生まれで、昭和18年(1943年)青森で
亡くなっている。84歳。

武術家で宮相撲の力士でもあった会津藩士・武田惣吉の次男として、
福島県河沼郡会津坂下町で生まれた。幼少か ら相撲、柔術、剣術
(小野派一刀流、鏡新明智流)、槍術(宝蔵院流)などを学んだ。

(注:「会津藩士」というのは誤り。相撲取は武士ではない)

父「武田惣吉」は 、宮相撲の力士だった。
四股名は白糸。剣術、槍術、棒術、柔術の達人でもあり、戊辰戦争
には 250名を預かる力士隊の隊長として参加している。

なななんと。私の先祖「牧原奇平」は、戊辰戦争時、62歳だったが、
西軍が母成峠を越えて猪苗代に迫るの急報に、僧侶や力士を引きつれて
戸の口原に向かった。会津藩兵は 越後や日光方面に出払っていて、
城下には、老人子供しか残っていなかったのだ。この時、白虎隊も
共に出陣している。そして防戦空しく、牧原奇平は強清水で自刃。
白虎隊は飯盛山まで退いて自刃した。

牧原奇平と武田惣吉は、この時共に戦っていたのだ。「惣吉」の子
「惣角」は、この時まだ9歳。

明治10年 西南戦争の時、「武田惣角」19歳。「西郷隆盛」軍に参加
しようとして、九州に向かったが、検問厳しく、西郷軍に合流 叶わず、
西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行したという。

会津藩家老「西郷頼母」も薩摩の「西郷隆盛」と親交があったらしく、
「西郷隆盛」との関係を疑われている。

作家「司馬遼太郎」や「中村彰彦」氏によって、「西南戦争では、
旧会津藩士が大挙 警察隊に応募し、“戊辰の復讐”と、西郷隆盛軍に
向かっていった」かのごとく書きたてられているが、会津人でも
「西郷隆盛」を慕う人はいたのだ。意外な事実だ。


「武田惣角」は、明治21年(1888年)会津坂下町に戻り、佐藤忠孝の妹と結婚し、
佐藤忠孝の妹と結婚し、長男と長女をもうけた。
(この佐藤忠孝の妻が「牧原一郎の娘 やお」)。

明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた元会津藩家老「西郷頼母」より
「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と諭され、剣術の修行を止めて、
大東流合気柔術の修行をしたという。

その後、惣角は全国行脚して大東流合気柔術の技法を教授し、数多くの門弟を育てた。

大正元年(1912年)頃、惣角は北海道で再婚し、以後、北海道を本拠地とする。
そして、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)青森県で客死した。享年84。

「武田惣角」を扱った作品

津本陽 『鬼の冠』(新潮文庫)
今野敏 『惣角流浪』(集英社文庫)
今野敏 『山嵐』(集英社文庫)
池月映 『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』(本の森)
安彦良和 『王道の狗』
松田隆智 『拳児』
夢枕獏 『東天の獅子』(双葉社)


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1 コメント

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武田惣角 (池月映)
2011-09-07 20:46:20
 「秘伝」9月号(武道誌)に書きましたが、ウィキペディアは、口伝の創作で流派の宣伝でしょう。史実については真実が語られておりません。
 士族の佐藤忠孝、妻のコンが語られなかったのは、子孫に取材されると、武田惣角の生家が農民だとバレるからだと思います。
 地元では、先祖が甲斐武田家、西郷頼母の関係など否定的証拠しかないです。
 佐藤忠孝さんが、西南戦争の官軍巡査になっているのに、惣角が西郷隆盛の応援に行くはずはないと思います。
 再度、申しあげますが、武田惣角は故郷では大東流すら名乗れなかったのです。殿中護身術といっても、会津藩関係者には一人も教えてはいない。子孫の代になって、真実が語られないことが現実です。私のHPを見てください。
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