現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虚無僧寺は風呂屋だった

2018-11-17 20:56:35 | 虚無僧って?

宇都宮城の前にあった虚無僧寺は、蒲生氏の時代、
風呂屋を経営していた。城内の侍も入りに来ていた。
しかし、本多上野介が入封すると「城前に胡乱(うろん)
なる虚無僧寺があるのは、けしからん」と、立ち退きを
命じられた。虚無僧寺が風呂屋を営んでいたという
例は、いくつかある。虚無僧寺は別名「風呂寺」とも
呼ばれていたのだ。

なるほど、尺八は「火吹き竹」を連想する。
虚無僧=乞食、風呂寺=浮浪児 なんか似ている。
一昔前まで、銭湯といえば、入口が唐破風(からはふ)
で寺院造りだったのも、虚無僧寺の名残りとか。



「慶長の虚無僧・御定書」

2018-11-17 20:55:39 | 虚無僧って?

虚無僧は、「家康公のお墨付」があると主張して、特権を振りかざそう
とした。しかし、「御定書」なるものは存在せず、「原本は火事で
消失した。その写しならある」というのだが、この「写し」が また
何種類もある。その一例。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『御入国の砌(みぎり)仰せ渡され候御掟書 控』

一 虚無僧の儀は、勇士浪人一時の隠れ家として、不入守護の宗門。
  よって天下の家臣諸士の席、定むべきの条、その意を得べきこと。
一 虚無僧取立の儀は、諸士のほか、一向坊主、百姓、町人、下賤の者、
  これを取立つべからざること。 
一 虚無僧諸国行脚の節、疑はしき者見掛け候時は、早速召し捕え、
  その所に留め置き、国領はその所役人へ相渡し、地頭、代官所は
  その村役人へ相渡し申すべきこと。
一 虚無僧の儀は、勇士兼帯のため、自然 敵など相尋ね候旅行ふ。
  よって、諸国の者、虚無僧に対し慮外の品または托鉢に障りむづかしき儀
  出来し候節は、その子細を相改め、本寺まで申し達すべし。
  本寺において済まざる儀は、早速江戸奉行所まで告げ来るべきこと。
一 虚無僧止宿は、諸寺院あるいは駅宿村々役所に旅宿いたすべきこと。
一 虚無僧、法閑(天蓋か?)猥りに取るべからざるものと、万端心得べきこと。
一 尋ねもの申し付け候節は、宗門諸派丹誠を抽んずべきこと。
  虚無僧敵討申したき者これあるにおいては、吟味を遂げ、かねて
  本寺に断り、本寺より訴へ出づべきこと。
一 諸士、血刀を提げ寺内へ駆け込み依頼のもの、その起本を問ひ、
  抱え置くべし。もし弁舌を以て申し掠むる者これあるにおいては、
  早速訴え出づべきこと。
一 虚無僧、常に木刀、懐剣等心掛け所持いたすべきこと。
一 本寺より宗法出し置き、その段油断なく相守らせ、宗法に相背く者
  これあるにおいては、急度きっと宗法に行うべきこと。

右の条々堅く相守り、武門の正道を失はず、武者修行の宗門と心得べきものなり。
そのため日本国中往来自由差免し置くところの決定、件の如し。


   慶長十九年甲寅年 正月   本田上野介(正純) 印
                 板倉伊賀守(勝重) 印
                 本田佐渡守(正信) 印
     虚無僧寺へ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

表題に「御入国のみぎり」とあるのは、秀吉によって小田原北条氏が
滅びた後、徳川家康が関東に入国した年。それは「天正18年(1590)」
なのだが、最後に「慶長19年(1613)」となっている。「慶長19年」は
「大阪冬の陣」が起きた年。「天正」と「慶長」を混同していることからも
後世の偽書とされる。



京都明暗寺と甲斐の明暗寺の関係は?

2018-11-17 20:52:52 | 虚無僧って?

京都の明暗寺は、板倉重宗が京都所司代の時に、妙法院門跡の
敷地内に45坪ほどを借り上げてできたのであるから、
1619年~1654年のことだった。しかし当初は「妙安寺」と
書いていた。

虚無僧が普化の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭来」を
唯一の教義として「明暗宗」などと呼ばれるのはもっと
後のことと思われる。

ところが、甲斐乙黒には、万治3年(1660)には「明暗寺」が
あった。これはどう考えればいいのだろうか。


京都とほぼ同時期に同名の寺が建ったことになる。