「邦楽ジャーナル」連載 虚無僧曼荼羅 No.7 11月号
一休こそ虚無僧の元祖か
虚無僧の源は「薦(こも)を腰に付けて諸国を回遊していた薦僧(こもそう)」でした。
その薦僧と中国唐代の普化(ふけ)を結びつけたのは誰かが虚無僧の最大の謎です。
普化は『臨済録』(1120年)などに登場してくる奇僧ですが、中国では普化の後継者はおらず、
普化宗などは存在しませんでした。日本でも『臨済録』がはいってきたのは鎌倉時代の末ですから、
それ以前に普化を知っている人はいなかったはずです。その『臨済録』を読んで、普化に注目したのが
一休(1394-1481)でした。そう、あのトンチで有名な一休さんです。
一休が普化僧(こもそう)に?
江戸時代の初めに刊行された『一休関東咄(はなし)』に、「一休が関東下向の折、
普化僧(こもそう)の尺八を吹きて通らせ給う」という話があります。「普化僧」に
「こもそう」とルビがふられています。
一休は室町時代の臨済宗大徳寺派の僧ですが、既存の教団を批判し、
風狂に生きた禅僧でした。その実相を探る史料は『一休和尚年譜』と『狂雲集』です。
今日「一休さん」として親しまれている逸話のすべては、江戸時代以降に創られたものです。
一休が関東に赴いたこともありませんし、「水飴」の話、「屏風の虎」「このハシ渡るべからず」
などの話は、すべて後世の創り話です。しかしこれらの話は、一休の言行を知り尽くした上での創作なのです。
では「一休が普化僧となって」とはいったい何を意味しているのでしょう。
一休ゆかりの寺、京田辺市の酬恩庵一休寺と大徳寺芳春院には「一休愛用の尺八」というのが
遺されています。1尺1寸(33cm)ほどの短い「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる尺八です。
その真贋(しんがん)は不明ですが、一休は尺八に関する詩をいくつか作っていますので、
尺八大好き人間だったことは間違いありません。そしてまた「普化」についての詩を
3編作っています。そのひとつ「普化を賛す」と題して
徳山臨済同行をいかん
街市の瘋癲(ふうてん)群衆驚く
坐脱立亡(りゅうぼう)敗闕(はいけつ)多し、
和鳴隠隠たり宝鈴の声
そう、普化は瘋癲(ふうてん)と呼ばれていました。その「瘋癲の普化には名僧の徳山も
臨済もかなわない」と一休はいうのです。
大徳寺の住持に
一休がいかに普化を賛美し、尺八を愛したかは、『狂雲集』に記載された次の
法語からわかります。81歳で大徳寺の住持(=住職)に就任した時の法語では
「明頭来明頭打 暗頭来暗頭打
四方八面来旋風打 虚空来連架打」 (以下略)
と、普化の偈(げ)を借用しているのです。
続いて退任の法語が
「酒に淫し色に淫し亦詩に淫す (中略)
尺八を弄(ろう)して云う
一枝の尺八知音少なし」 と。
退任の挨拶が「この尺八のすばらしさを知る者はおるまい」というのですから、
これを聞いた人たちは、なんのこっちゃ、ちんぷんかんぷんだったことでしょう。
一休の晩年は応仁の乱で荒廃した時代。多くの知識人が都を離れ一休のもとに
集まって来ました。そして一休の言行から普化を知り、尺八を吹く人も増えたのでした。
その一人が朗庵、そして一路でした。この続きは次回。
風の吹くまま
『一休関東咄』(1672年刊)
一休が関東に赴いた時、山伏から問答をふっかけられる。
山伏「これ普化僧、いずれへ?」
一休「風の吹くまま」
山伏「なに、風吹かぬときはいいかに?」
一休「(尺八を)吹いていく」
他愛ない話ですが、「風が吹かなければ、自ら吹いていこう」という言葉が
私を虚無僧に駆り立てたのでした。バブルはじけてリストラ失業。尺八演奏の仕事も
こなくなって、喰うや喰わずの時、虚無僧になって自己PRに励んだのでした。