現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

初心忘るべからずの真意

2011-11-16 15:13:30 | 虚無僧日記
「初心忘るべからず」とは、物事を始めた頃の
「初々しい気持、真剣な思いを忘れるな」という
ことだと思っていた。

能を大成した世阿弥の言葉であれば、頂点を極めて
も、初心の頃の思いを忘れるなという戒めの言葉と
誰もが思いこんでいる。ところが、これは全く逆だ
という。磯部欣三著『世阿弥配流』P17

「初心にかへるは能の下る所なるべし」(『花鏡』) と
書いているように、現今多用されている「初一念を
忘れるな」とは逆で、それぞれの時分の未熟さを
忘れることなく、一生が稽古であり、30代になって
20代の「初心」に後退することは許されない」。

私はこの部分をかつて読んではいたのだが、思い込み
が激しいと目にはいらなかった。見方を変えてみると、
世阿弥は、初心は若い時の始めだけでなく、20、30、
50、60代になっても、その時々の初心がある。25歳頃
一番花もあって、世間からももてはやされ有頂天になるが、
やがて花は枯れることを知り、未熟を反省して新たな芸の
高みに達する。それも初心。さらに老いてまた新たな境地
にはいる。その時も初心。「その時々に初心があることを
忘れるな」と説いているのだ。

60を過ぎて、私の芸風も変わってきた。今さら若い者と
競ってブーブーガシャガシャ尺八を吹く気はない。
新たな世界を模索し逡巡している。これが60にして知る
「初心」なのだ。

また、逆に若者が年寄りの芸風を真似ることもいかんと
世阿弥は説いている。20代は20代の初心を貫けばいいのだ。
若い者が変にわかったふり、悟った芸はあさましいと。

「パイパース」という管楽器専門誌の取材を受けたが、
そのライターの竹内氏が、最後に結んでくれた。「一路は
今が“旬”です」と。いつもその時々の花を咲かせるのだ。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


邦楽は音楽か?

2011-11-16 11:40:03 | 虚無僧日記
最近は「facebook」に はまってしまって、ブログが
おろそかになり スミマセン。

「facebook」で、Oさんと こんなやりとりがありました。

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昨今の大方の邦楽演奏家は「楽譜を弾いている」のであって、
「音楽を表現している」とはいえない。古典も、流派としての
「学習的古典でしかない」。

音色ひとつひとつを吟味して、「盲人にはできなかった色彩・
映像感ある音楽表現としての古典」に取り組んでいかないか

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まさに、わが意を得たり。

地唄は、どれを聞いても同じように聞こえる。それはそうだ
「地唄は盲人の音楽なのだから、色をつけてはいかん」。

なんていう大先生が多い中で、私の師「堀井小二朗」は、
「邦楽も音楽だよ、花風鳥月、色も情景も 心も 表さな
ければ」古典は滅びると説いた。
『残月』『楫枕』『夕顔』『ままの川』『新娘道成寺』
そして『千鳥』『六段』。そのくらいしか習わなかったが、
全部曲想が違う。それを表すためには、最初の一音から、
同じ「レ」の音であっても、音色、音質、強弱を変える
ことで、その曲の内容を表すように と。

私は、そのように心がけてきた。先年、NHK FMラジオ
「邦楽のひととき」で、梶田昌艶先生と『千鳥の曲』を
演奏した時、琴古でも都山でもない手付けで、波や磯、
千鳥の鳴声を表現した。

「古曲にトレモロなんてトンドモない」という お叱り
覚悟だったが、一部の方からは「すごい新鮮だった」
「磯に遊ぶ千鳥が目に浮かんだ」と評価いただいた。

しかしその声が、潮流とならないのは、流派にどっぷり
浸っている方々には、自分の流派の楽譜通りにキチンと
吹くことしか念頭にないから、全く理解できないようだ。


宮城道雄氏も「自分は目は見えないが、音にはそれぞれ
色がある」と語っている。「楽譜を出版したことで、琴の
曲は飛躍的に広まったが、反面、“曲”が失われた」とも。

「盲人にはできなかった色彩・映像感ある音楽表現としての
古典」に取り組むことに、私も参加したいが、その“違い”
がわかる人が居なくなってしまった。