現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

富士松松園

2007-10-22 20:19:42 | 虚無僧日記
富士松松園は新内浄瑠璃の芸名。本名は増田松子さん。

9/30 愛知県吟舞道文化連盟の大会に、京都から友好団体
の一員として来られた時、私が尺八伴奏を務めた。その時
の尺八を気に入っていただき、10/20の円光寺さんでの観月会
に招かれた。

私は、開演前に、虚無僧姿で尺八を吹き、来場者を迎える役。
今日、増田さんからお礼の電話があり、好評だった由。「別世界に
引き込まれるような演出で良かった」との感想など、聞かされた。

増田さんは、印刷会社の経理担当で、日常多忙ながら、詩吟、
新内、都都逸と多芸多彩。10年前から始めたこの「観月会」、
毎回100名余のお客を集めている。客層が違う。さすが、ご婦人
方は着物が多い。

人脈もすごい。三味線は家元の富士松菊三郎師匠、上調子の
相方に富士松菊子さん。そして篠笛を望月太喜助師。みな東京
から呼んでいる。

演目は、「沓掛の時次郎」「お富・与三郎」そして「鳥辺山心中」
私の年代で、かろうじて知っている話だ。私より若い世代は、もう
なんのこっちゃ判らぬ世界だろう。食事の後は、ライトアップされ
た幻想的な庭で、新内流し、都都逸、詩吟などが披露された。
最高に贅沢な時間と空間だった。こういう催しが、いつまで続く
のか。貴重な会だ。

平成の虚無僧一路のホームページも見てください。



精進料理 お多長

2007-10-22 19:50:32 | 虚無僧日記
10/20 円光寺さんで、富士松松園の新内浄瑠璃を聞いた
後、精進料理が出された。右京区花園妙心寺の南にある
老舗「お多長」のお弁当である。鴨肉や刺身に見立てて、
すべて野菜の食材で作られている。小さいながら松茸も
入っていた。今年は松茸が不作という。いただけただけ
でも至福の時であった。

その箸袋の内側に『食事五観文』が書かれてあった。

一つには、功の多少を計り、彼の来所を量る
二つには、己が徳行の全欠をはかって供に応ず
三つには、心を防ぎ、過貧等を離るるを宗とす
四つには、正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり
五つには、道業をね成ぜんが為に、将にこの食を受くべし

この食をいただくまでには、幾多の人の労力がかかって
いることに感謝。
徳が至らぬのに、この食をいただくことは過分に思います。
食に対して、むさぼりの心、厭(いと)う心を起こしません。
この食は、命を宿す良薬と心得ていただきます。
この食は、道業を成すためにいただくものです。

という意味。虚無僧の私には、過分に贅沢すぎる食。心して
有り難くいただきました。「有り難い」とは、有り得難い、
有り得ない事、つまり、仏が現出されたという驚きと感謝の
気持を表す言葉である。




大道芸

2007-10-22 13:43:34 | 虚無僧日記
中日新聞10/20に『大道芸』として今村太郎記者の
コラムが載った。
 NPO法人「大道芸支援協会 そら」を立ち上げた
 田辺靖彦さん。大須で毎日曜日に、大道芸を開催。
 彼等芸人は、投げ銭で食べているのだが、投げ銭
 をする文化が衰退している。楽しませてくれる芸
 には、価値を与えてほしい。ただ、未熟なのに、
 「貧乏です」と情に訴える若手は熱心に叱る。

なるほど、虚無僧も尺八で生活している。心に響く
尺八だからこそ、喜捨していただく。哀れみを誘って
の投げ銭にならないように心したい。

「虚無僧は大道芸ではない」と力んでみたところで、
江戸時代でも、大道芸と同様に取り締まわれた例が
ある。一休もいう、『遊女は紅を売り、坊主は経を売
る。生業(なりわい)を得るに貴賎上下は無い』と。

大須大道町人祭り

2007-10-22 07:01:19 | 虚無僧日記
今日10/21「大道町人祭」で賑わう大須に行ってみた。
ここは大須観音の門前町。信長が父親の葬儀で灰を投げ
つけたという万松寺もある。私が名古屋に来た十数年前
までは、閑古鳥が啼くシャッター通りだった。それが、
起死回生、奇跡の復興を遂げた商店街として、全国から
見学者が訪れるほど、注目の町となった。

その要因のひとつが、商店街あげての「大道芸祭り」だ。
全国から大道芸人が集まる。そして“花魁(おいらん)道
中”も出るとあって、ものすごい人出。虚無僧で立って
いる場所もない。路地にそれると、そこも往来者があふれ
ている。
酒に酔って赤ら顔の一見こわそうなおじさんが、声かけて
きた。「尺八か、鳴らせるの」と。イヒゃーと一発鳴らすと
「すごーい」と。『下がり葉』を吹くと、聞きながら「すごい、
すごい」の連発。連れの女性に「尺八は首振り8年(?ホント
は3年)と言ってな、難しいんだ」と講釈をたれ、小銭をジャ
ラジャラと偈箱の中へ。こんなに喜んでいただけて、こちら
もうれしい。
あちこちでカメラに収まる。大道町人祭の出し物の一つと
思われたか。

門前で立って吹いていると、「一路さんでは?」と声をかけ
られた。「中村町の〇〇です。ブログ見てます」と。続いて
もう一人の男性も近寄ってきて「中日文化センターで」と
挨拶された。
こうして少しずつでも認知されてきたことが、うれしい。
帰りがけに、ふと横を見ると加藤さんが立っている。毎週
熱心に稽古にみえている方だ。

大須という町、また大道町人祭というシチュエーションが
虚無僧の舞台設定十分だった。おっと虚無僧は“大道芸人”
でも“町人”でもありませんからネ。

いかがわしい 虚無僧?

2007-10-22 07:00:40 | 虚無僧って?
ブログを見ていると「最近街でみかける虚無僧、あれっていかがわしい。
逮捕できないんですかね」とあって、「え、え、え??」びっくり。
中身を読んでみると「パルコの前なんかに立っていて、鈴をならしている」
という。それは、虚無僧ではなく普通の托鉢僧だ。

「あれってインチキが多いっていいますね。おばあさんなんか、お金を
いれているけど、だまされているみたいでかわいそう」。

これに対する回答の投稿があった。

「それは、気持の問題でしょう。虚無僧は本物も偽者もありません。
布施する人が満足ならそれでいいでしょう。徳積みなんだから、それに
価値を見出すかどうかです。本物のお坊さんであっても、読経に価値を
見い出す人は、ありがたく布施するでしょうし、ありがたいと思わない
なら、だまされたとなるでしょう。
ブランド品を買う人は、高くてもそれで満足しているのだからいいんです。
偽物とわかっていて買うのも、それで満足しているならいいでしょう。
ブランド品に価値を見出せない人にとっては、買わなければいい。
同じではないですか?」

なるど、なるほど、よくわきまえた御仁のアドバイスだ。しかし質問者は

「それでも、やっぱり、何か変。本物と思って買ったのに偽物だった、
なんて、やっぱりいけないと思います。捕まえるべきです。」

さて、何をもって本物偽物と判断するのだろう。

平成の虚無僧一路のホームページも見てください。

小泉八雲 『食人鬼』

2007-10-22 06:53:29 | 虚無僧日記
小泉八雲の『怪談・奇談』
「耳なし芳一」しか知らなかった私だが、そのほかにも
いろいろ、女の情念、夫婦の心の機微を感じさせるもの
があって面白い。『食人鬼(じきにんき)』は、死んで
後、死者を喰う化け物になった僧の話だ。

夢窓国師が、山中で道に迷い、泊めてもらった村人の家
で、死者が化け物に食べられるという怪奇を見る。夢窓
がその化け物と対峙すると、化け物はこう述懐する。

「私はこの地方で僧職を勤めていた。他には坊主は一人も
いなかったので、この地方で死者が出ると、皆私のところ
にお経をあげてもらいに来た。しかし私は、お経を唱える
のも、法事を営むのも、ただ渡世の方便としてやっていた。
心中では、坊主の職のおかげで得られる世すぎ口すぎの
衣食の御利益のみを思っていた。その罰当たりな不信心の
祟りで、死ぬやいなや、食人鬼に生まれ変わってしまった。
なにとぞ、この私めを憐れと思い、施餓鬼の法会を営んでは
くださらぬか」と言って消えた。

この話は、夢窓国師の徳を讃えるとともに、形ばかりの僧
を戒めるものとなっている。現代でも通用する話ではない
か。お経をあげてもらっても心に響かない“本物の僧侶”と
心に響く尺八の音を求める“贋僧侶”の虚無僧、どちらが
正しい?自問自答の毎日。