市丸の雑記帳

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御書に学ぶ 『法華経の題目』

2007-01-16 11:05:05 | Weblog
 『問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし。
                  本尊問答抄 365頁』
 
 御書十大部の一つ、本尊問答抄の冒頭の文である。

 本尊雑乱の中で、衆生に善根も無くなった末法、一体何を以て根本尊敬の対象とすれば、人は幸せになれるものなのか。それを日蓮大聖人は、法華経の題目を以て、と仰せである。
 では、法華経の題目とは、一体何か。
 誰が説いたものを指すのか。

 一般に、仏教は釈迦が説いた、と言われているから、諸説あげる者もいる様だが、私はこの説に従っていく。
 
 釈迦五十年の説法のうち、最後の八年で説いたものを法華経と言うが、この題号は何か。多くの人が、南無妙法蓮華経だと、勘違いをしているようだ。
 釈迦は、妙法蓮華経と言ったが、南無妙法蓮華経とは言っていないのだ。
 そして、ここで言う法華経の題目とは、南無妙法蓮華経を指しているのである。

 仏法は、説いた人と、説かれた法と、説いた場所が一体となって、初めて法である。
 そしてその法に依って、功徳を受ける時代も決まっているのだ。
 そこには伝説や言い伝えなどと言った、原因と結果を無視したものは存在しない、厳しい検証がなされている。

 主人は二十代半ばで創価学会にめぐり合った。
 それまで、地蔵を拝んでみた。念仏も拝んでもた。各所祈祷師の所へも行った。
 何も良い事は無かった。心身ともに、堕ちて行く自分の姿だけが分っていた。
 学会の話を聞いて、これしかない、と思って入会した。
 博打だった。自分に運があるのなら、最後に掴んだものぐらい、正しいはずだ、との勝手な思い込みだった。

 御書を学ぶ中で、この一節を知って、本尊の間違いの恐ろしさが、実に沁みて分った、と主人は言う。
 本尊とは、我が命を預けるものであり、我が命そのものであるが故に、決して選び間違えてはならないのだ。
 そして、今この時、自分の命を預け得る宗教は、法華経の題目、即ち、日蓮大聖人の説かれた、南無妙法蓮華経しかないのだ。
 どうこう言う人は言っても良い。
 ただ、私も主人も、自分の身で体験し、自分の命で実感した事なのだ。
 だから、創価学会にめぐり合えた事に、限りない感謝があるのみである。