法華講の方がこだわる『法主による開眼』
その拠り所となっているのは、文永元年、四十三歳の時に認められた『木絵二像開眼之事』です。この御書の中には、明らかに『法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し。(木絵二像開眼之事 469頁)』と開眼の事が、述べられています。
しかしこれは絵に描かれた仏像、木に彫られた仏像を、法華経を以って開眼しなければ、三十二相のうち、最後の梵音声が備わらず、ただの木偶でしかないから、きちんと法華経によって、三十二相を備えるように、と言うぐらいの意味でしかないようです。
第一、この時はまだ御本尊は顕されていませんから、法華講の言う、御本尊の開眼を言ってあるのではない事は明らかです。この文を以って、法主による開眼のない御本尊は云々、などと決して言えない事は、日本語の意味が分かる人なら、すぐに理解可能でしょう。
大聖人は竜の口で発迹顕本され、佐渡で人本尊開顕の書である『開目抄』を表され、次いで法本尊開顕の書『五五百歳始観心本尊抄』を表されます。この中でまさに今、顕される御本尊の事を『末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。(248頁)』と仰せです。
正象二千年には、顕されたことのない仏像が出現する、それは生命を図顕した御本尊の事に他なりません。その御本尊を大聖人は、
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(経王殿御返事 1124頁)』
と仰ったのです。
仏が全生命を賭して顕された御本尊。その御本尊に,あと、何が必要なのでしょうか。何を以ってしても、御本仏の生命を汚すだけではないでしょうか。法主の開眼など、大聖人の生命に比べれば、カスほどの物でしょう。御本尊はそれ自体で完璧なのです。
もっと言えば、単なる書写係りの法主が、その権限以上の事をすれば、それはもはや大聖人の生命を写した御本尊とは、似て非なるもの、になってしまうのではないでしょうか。
しかし当時は、像法時代の残像が、色濃く残っていた時代です。
大聖人が、御本尊を顕したぞ、さあこれこそが末法の衆生の機根に叶ったものだから、今までの教えを捨てなさい、などと言ったら、たぶん日興上人以外、誰も信ずる事が出来なくて、大聖人の仏法は、そこで終わってしまっていたでしょう。
だから大聖人は、回りくどいほどに、言葉を選び、時を選び、相手を選んで御本尊の流布をして行かれたのだと思います。その作業は、現代の私たちからは、想像も出来ないほど、困難を極めたはずです。
その証拠に、文永十年、娘の病気を機に、御本尊を受けたはずの四条金吾夫妻が、建治二年と弘安二年に、釈迦像を作って供養している事が、御書の中に見えます。御本尊を受けてから、建治二年は三年、弘安二年は六年も後の事です。
それに対して大聖人は、釈迦像を作ったことをなじるのではなく、一応認め、その上で題目を唱えるように指導してあるのです。
それほどまでに、像法時代の残像を消すのは、難しかったのです。
今、開眼が必要だの、法主の御指南がどうたらこうたら言っている方たちは、結局はこの七五〇年前の人たちが、像法時代の残像を引きずって生活していたと同じく、二千年も昔の、像法時代の残像を引きずって生活している事と同じなのでしょう。
『像法残機』
天台の法門は、現代には無用ではあっても、これほど理解しやすく、信じやすく、抜け出しにくい法門なのです。
学会は、二十一世紀を直前にした平成三年十一月、宗門から破門されることによって、この像法時代の残像を、消す事が出来たのです。
だから、破門された日は、魂の開放日、なのです。
その拠り所となっているのは、文永元年、四十三歳の時に認められた『木絵二像開眼之事』です。この御書の中には、明らかに『法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し。(木絵二像開眼之事 469頁)』と開眼の事が、述べられています。
しかしこれは絵に描かれた仏像、木に彫られた仏像を、法華経を以って開眼しなければ、三十二相のうち、最後の梵音声が備わらず、ただの木偶でしかないから、きちんと法華経によって、三十二相を備えるように、と言うぐらいの意味でしかないようです。
第一、この時はまだ御本尊は顕されていませんから、法華講の言う、御本尊の開眼を言ってあるのではない事は明らかです。この文を以って、法主による開眼のない御本尊は云々、などと決して言えない事は、日本語の意味が分かる人なら、すぐに理解可能でしょう。
大聖人は竜の口で発迹顕本され、佐渡で人本尊開顕の書である『開目抄』を表され、次いで法本尊開顕の書『五五百歳始観心本尊抄』を表されます。この中でまさに今、顕される御本尊の事を『末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。(248頁)』と仰せです。
正象二千年には、顕されたことのない仏像が出現する、それは生命を図顕した御本尊の事に他なりません。その御本尊を大聖人は、
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(経王殿御返事 1124頁)』
と仰ったのです。
仏が全生命を賭して顕された御本尊。その御本尊に,あと、何が必要なのでしょうか。何を以ってしても、御本仏の生命を汚すだけではないでしょうか。法主の開眼など、大聖人の生命に比べれば、カスほどの物でしょう。御本尊はそれ自体で完璧なのです。
もっと言えば、単なる書写係りの法主が、その権限以上の事をすれば、それはもはや大聖人の生命を写した御本尊とは、似て非なるもの、になってしまうのではないでしょうか。
しかし当時は、像法時代の残像が、色濃く残っていた時代です。
大聖人が、御本尊を顕したぞ、さあこれこそが末法の衆生の機根に叶ったものだから、今までの教えを捨てなさい、などと言ったら、たぶん日興上人以外、誰も信ずる事が出来なくて、大聖人の仏法は、そこで終わってしまっていたでしょう。
だから大聖人は、回りくどいほどに、言葉を選び、時を選び、相手を選んで御本尊の流布をして行かれたのだと思います。その作業は、現代の私たちからは、想像も出来ないほど、困難を極めたはずです。
その証拠に、文永十年、娘の病気を機に、御本尊を受けたはずの四条金吾夫妻が、建治二年と弘安二年に、釈迦像を作って供養している事が、御書の中に見えます。御本尊を受けてから、建治二年は三年、弘安二年は六年も後の事です。
それに対して大聖人は、釈迦像を作ったことをなじるのではなく、一応認め、その上で題目を唱えるように指導してあるのです。
それほどまでに、像法時代の残像を消すのは、難しかったのです。
今、開眼が必要だの、法主の御指南がどうたらこうたら言っている方たちは、結局はこの七五〇年前の人たちが、像法時代の残像を引きずって生活していたと同じく、二千年も昔の、像法時代の残像を引きずって生活している事と同じなのでしょう。
『像法残機』
天台の法門は、現代には無用ではあっても、これほど理解しやすく、信じやすく、抜け出しにくい法門なのです。
学会は、二十一世紀を直前にした平成三年十一月、宗門から破門されることによって、この像法時代の残像を、消す事が出来たのです。
だから、破門された日は、魂の開放日、なのです。
それは国内より海外に顕著に出ていますね。
これもひとえに、各国のSGIメンバーに対して先生が一つひとつ、丁寧に種を蒔かれ、指導という肥やしを絶やすことなく、寸暇を惜しんで海外に赴き、同志を激励された賜もの以外の何物でもありませんね。
おそらく日顕宗の坊主では、到底まねをすることはできません。海外に出た機会を待っていたかのように、弘教はそっちのけで、遊ぶことにうつつをぬかし、買春でもしているのが、関の山でしょう。そのお手本が日顕です。
俗に言う「生臭坊主」とは、まさしく彼等を指しての言葉です。
危うく樋田氏の術中にはまる所でした。
樋田氏は11/18の質問会の初めではっきりと、『木絵二像開眼事』は文永11年作と断言しています。
そして耕治さんに始顕本尊開顕が文永8年、『この仏像出現……』の観心本尊抄が文永10年で、わずか翌年の文永11年に述作された 木絵二像開眼事、は曼陀羅本尊に関する指南に決まってるだろう。と猛攻します。
しかし述作年代が文永元年なら全てがひっくり返ります。
御書全集にあたりましたが間違いありません。文永元年は本尊始顕以前だし、佐渡流罪?発迹顕本以前です
一体 樋田氏は?年号を単に間違えたのか?それとも確信犯的に謀ったのでしょうか?
彼の知識、性格から言って単なる間違いは考えにくいですね。
やっぱり齋藤さんの言うとおり『サイコパス』なんでしょうね。 彼こそ時代遅れの『大石寺残機』の典型です。
もし ここを見ている 法華講諸氏がいたら是非コメントを書き込んで頂きたいものです。
樋田さんの策略か勉強不足か、はたまた僧侶の御指南か分かりませんが、『開眼』の文証としてあげている、文永元年の『木絵二像開眼之事』と、最蓮房に与えられた、文永九年の『草木成仏口決』を、あえてごっちゃにして論じていたみたいですね。
そこを突っ込まれなかった事で、してやったり、の表情になった所があったのだとしたら、これは意図的にごまかしたのでしょう。
もし御指南だけで、本当に知らなかったとたら、樋田さんは法論をやる以前に、御僧侶の傀儡であったことに気付くべきです。
樋田さんの敵は学会員ではなく、樋田さんの教学を、大聖人の教えから、遠くへ遠くへと持って行ってしまった僧侶です。樋田さんは、自分の戦うべき相手は、間違った指南を続ける僧侶、と知るべきなのですね。
でなければ、結局は、僧侶を拝んでいることになってしまって、大聖人も御本尊も、ただの飾り物にされてしまっている事になるのですから。
法華講を始とした、僧侶大事の人たちって、何のために信心しているのでしょうか。
意見をお聞きしたいものです。
彼等の脳の中は遊蕩と金だけですから、今回のカタの嵌め方はたぶんMKでしょうね。間違いないです。
樋田さんが言っているものですが、大聖人は佐渡で御本尊を顕されている。それは文永九年頃だが、その後の十年か11年頃の『木絵二像開眼之事』に、はっきりと開眼が必要だと書いてある。
御本尊が顕された後の御書に、開眼が必要だと言う事は、御本尊への開眼が必要だ、と言うことでしよう、と言う部分です。
こういう意味でしたが、本文にも書きました、『木絵二像~』は文永元年、御本尊を顕される、ずっと前に書かれたものです。
これを佐渡流罪以降に書かれた、と言い切るには、やはり少しは後ろめたかったのでしょうか、はっきりと年号を言っていないんですよね。
まだ、ほんの少しは良心と言うものが、残っていた、と言うことでしょうか。
法華講の方の言い分を聞いていると、御書のすべてを、と言って良いほど、自分の都合に合わせて解釈しているようですね。内容は言うに及ばず、年号を捏造してまで、開眼を必要としている、と言うことは、うがった見方をすれば、そこまでしないと開眼の説明が付かないって事ですよね。
つまりは、大聖人の教えを捻じ曲げないと、開眼の説明はつかない、と言う事。
なんだ、法華講さん、やはり開眼は必要ない、って、知っているんじゃないですか。
無理に辻褄合わせなんかしようと思うから、あっちこっちにぼろが出てくるんですよ。
もう、無理しなくて良いんですよ、素直に、曇りのない眼で、もう一度、御書に接してみましょうよ、法華講さん。
ちょっと寄っただけで大変ぶしつけで申し訳ありませんが、以下、ちょっと気になりましたので。記させていただきます。
『日明目録』『高祖遺文録』『縮刷遺文』は文永元年、『日諦目録』は文永十一年、『境妙庵目録』では弘安五年として示されているようです。
現代の『定本』『新定』は文永十年としています。
文中に真言華厳の破折があることから、「文永元年」説は現在の学術の知見では否定される方が有力に扱われると思われます。
もちろん、この御書の開眼が「御本尊」のことを指すというのは誤りで、これまで学会が繰り返し指摘して来た通りです。
木絵二像では可見有対色の三十一相は表現できても、梵音声は心法なので表現できないので開眼の必要性が生じ、法華経安置によって開眼することが説かれます。ですからこの御書で、御本尊の開眼の文証とすることは無理です。
「仏が全生命を賭して顕された御本尊。その御本尊に,あと、何が必要なのでしょうか。」との言、まさしく同感です。
失礼いたしました。また、時折拝見させていただきます。がんばられてください。
750年前の文献を検証して行っているのですから、諸説あるのは、当然かもしれませんね。
ただし、この前の法論も、今度の質問会も、御書を以って説明する、と言う事が、大前提になっていますので、他の文献は,認めない、と言うのがルールです。
また真言に対する破折も、立宗宣言の時の四箇の格言があるわけです。
>文中に真言華厳の破折があることから、「文永元年」説は現在の学術の知見では否定される方が有力に扱われると思われます。
そうかもしれませんが、あくまでも御書の文のみを使用する、と言う質問会のルールがあります。法華講の方たちも何度も、御書の何ページにあるのか、と詰めていましたから、御書の文を以って説明いたしました。
その上で、法華講の方の意見をお待ちしているのです。
あくまで 堀日享編纂の学会版御書を共通ルールとする点は前述の市丸さんとわたしは同意です。その上で。
>>『日明目録』『高祖遺文録』『縮刷遺文』は文永元年、『日諦目録』は文永十一年、『境妙庵目録』では弘安五年として示されているようです。
>このご意見は想定しておりました。
そもそも木絵二像開眼之事は 正本も存せず、古写本も無いのですからこれらの他山の抄録も決定打にはならないと思います。
今回は身延とかとの論争ではないので、あくまで 『堀日享、戸田会長説の文永元年説を取る』で良いと思います。
>>文中に真言華厳の破折があることから、「文永元年」説は現在の学術の知見では否定される方が有力に扱われると思われます。
>これは建治二年、41歳作の報恩抄に 既に真言華厳破折の義がありますから、二年後の文永元年に木絵二像で真言破折の可能性も十分あると思います。
いずれにしても 樋田氏はあくまで 文永11年説を取るなら 真っ向から堀師説と対立しますから、まず詭弁を弄さずしっかり立証すべきだと思います。
もう一回だけ私の考えを投稿させていただきます。
おっしゃられていることはわかりますし、
「どういう共通の理解のもとでの論理であるか」ということは重要なことです。
ただ、実際のやりとりにおいての最中ならともかく、こうして客観的に評価するにあたってのものですから、もう少し普遍的な視点でないともったいないように思います。
「既にご本尊が図顕されておられての御書だから」からは、この御書の「開眼」は御本尊のことだ、というようなものは全く論理的必然性を構成しないので、
法華講員のこの件の主張は子供だましなわけですから、そこにあえて「堀上人の見解」というルールでしか通用しにくい系年で指摘する理由が見出せません。
それを指摘するなら、あくまでその議論の場においてのみ実際的には有効と思います。
見解の相違を埋められるかどうかはわかりませんが、せっかく素晴らしい考察を示されているのですから、こういう見方もあるということで記憶に留めていただければ幸いです。
なお、文永、健治の年次順を鉄齋さんは思い違いをされているのではと存じます。
大変お騒がせいたしました。ありがとうございました。