『やのはしる事は弓のちからくものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり、いまときどの(富木殿)のこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり
日蓮大聖人御書全集 975頁』
一月度の婦人部グループ学習の参考の御書である。
当たり前のことを当たり前に書かれた、それでいて、とてつもなく重要な御文である、と思う。
女子部の頃、年配の婦人部の人に言われた事がある。
「あなたは随分なかかぁでんかになるんでしょうね」
意味が分らなかった。
自分では決してそんなつもりはなかったのに、嫌な思いだけが残った。
結婚して、主人にその事を話すと、信心も古く、教学も上の方、組織活動も先頭切って、指導力もそこそこ、そうした総合的な評価で、どんな男子部でも負かすだろう、と言うイメージだったのではないか、と言われた。
実際家庭に入ってみると、確かに私は家庭的ではないと思う。
しかし一つだけ、絶対に守っている事がある。
主人に対する尊敬と感謝を忘れないようにする事だ。
私の願いの一つは、一家和楽の達成だった。
学会の五指針の最初の項目も一家和楽の信心、である。
この一家和楽の信心の達成には、亭主関白もかかぁでんかも必要ない。
互いが信じあい、尊敬しあうだけである。
男と女は体力も違うし、資質も違う。その違いを認めた上で、助け合っていくことが大事なのではないだろうか。
そしてそれを、大いに言葉に出して、確認していくことである。以心伝心なんてものは、思い込みの勘違い、すれ違いの元である。
外での嫌な事は家の中で癒されれば良い。
家の中が安穏でなくて、何が幸せなものか、と決めて、大いに本音で語り合うことだ、と私は思っている。
しかしその時に気を付けたい事は、当たり前だが、相手に対する個人攻撃は絶対にしないことである。
わずかなことに気を付けて行けば、強い弓によって放たれた矢のように、男は力を発揮する。
女は、矢が戻ってきた時、しっかりケアをして、さらに力を蓄えさせることだ。
その方法は各家庭によって違うだろうが、少なくとも、喧嘩などでエネルギーを使う事ではないと思う。
ちなみに、主人は入会も遅く、教学の資格も下だ。
しかし人間的なエネルギーと人生経験に於いて、私は遠く及ばないと認めている。
結構バランスの取れた夫婦、と自負しているのだが。
日蓮大聖人御書全集 975頁』
一月度の婦人部グループ学習の参考の御書である。
当たり前のことを当たり前に書かれた、それでいて、とてつもなく重要な御文である、と思う。
女子部の頃、年配の婦人部の人に言われた事がある。
「あなたは随分なかかぁでんかになるんでしょうね」
意味が分らなかった。
自分では決してそんなつもりはなかったのに、嫌な思いだけが残った。
結婚して、主人にその事を話すと、信心も古く、教学も上の方、組織活動も先頭切って、指導力もそこそこ、そうした総合的な評価で、どんな男子部でも負かすだろう、と言うイメージだったのではないか、と言われた。
実際家庭に入ってみると、確かに私は家庭的ではないと思う。
しかし一つだけ、絶対に守っている事がある。
主人に対する尊敬と感謝を忘れないようにする事だ。
私の願いの一つは、一家和楽の達成だった。
学会の五指針の最初の項目も一家和楽の信心、である。
この一家和楽の信心の達成には、亭主関白もかかぁでんかも必要ない。
互いが信じあい、尊敬しあうだけである。
男と女は体力も違うし、資質も違う。その違いを認めた上で、助け合っていくことが大事なのではないだろうか。
そしてそれを、大いに言葉に出して、確認していくことである。以心伝心なんてものは、思い込みの勘違い、すれ違いの元である。
外での嫌な事は家の中で癒されれば良い。
家の中が安穏でなくて、何が幸せなものか、と決めて、大いに本音で語り合うことだ、と私は思っている。
しかしその時に気を付けたい事は、当たり前だが、相手に対する個人攻撃は絶対にしないことである。
わずかなことに気を付けて行けば、強い弓によって放たれた矢のように、男は力を発揮する。
女は、矢が戻ってきた時、しっかりケアをして、さらに力を蓄えさせることだ。
その方法は各家庭によって違うだろうが、少なくとも、喧嘩などでエネルギーを使う事ではないと思う。
ちなみに、主人は入会も遅く、教学の資格も下だ。
しかし人間的なエネルギーと人生経験に於いて、私は遠く及ばないと認めている。
結構バランスの取れた夫婦、と自負しているのだが。