ロイヤルモータースとその仲間たち

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山田郷土誌から見えてくるもの!

2015-07-12 16:49:27 | ハイキングおじさんの「ひとりごと」

戦前と戦後の「山田」の郷土誌です。

     
左が戦後の「山田郷土誌」   右が戦前の「山田村郷土誌」
戦後は神戸市に編入したので村が無い。  戦前のは村で村役場があり神戸の話はない。 
「山田村郷土誌」は文字や文章は古いので読みずらいが昭和20年8月以前と以後の日本人の心情の違いがわかり大変興味あります。
また、全国各地にある「白滝姫」の伝説も山田村郷土誌を見るとビックリするような結末がありますが、次回掲載します。


「神戸市北区の伝説」を取材するのに昔の町や村の「郷土誌」を図書館で借りてきてその中から厳選して「ロイヤルモータースニュース」に掲載します。 話が長すぎても、短すぎても出来ないものがある為、そのへんは苦慮しています。

また、それ以外にも地方の小さな山村から日本の政治や経済の状況が見えてきます。

「山田郷土誌」から見るアジア、太平洋戦争までの戦死者名簿を見ると戦争の側面が見えてきます。
亡くなった人の名前、亡くなった年月、場所が掲載されています。
12~17年までは中国が多く18年以降はビルマ、ラバウル、ルソン島など南太平洋や東南アジアで亡くなっています。
そして戦死者も急に増えてきます。
これは「有野町誌」でも全く同じです。

昭和11年から昭和20年8月15日までの戦死者(戦病死含む)は269名です。
特に昭和19年は69名、昭和20年は8月15日までの8ヶ月で139名戦死しています。
昭和11年1月から18年12月までが61名の戦死者を比較すると終戦の1年8ヶ月
で208名が戦死していることなり、日本の置かれた状況が解かります。
もう少し早く終戦になっていれば若者の命が助かったのにと悔やまれます。
以上は兵隊の戦死者です。

もっと悲惨なのは昭和20年3月から6月にかけての神戸大空襲です。
8841名の市民が亡くなり15万人が負傷しました。 
人や家が無くなっても「恩給」も何も付きません。

その当時の事も「山田郷土誌」に掲載されています。
山田郷土誌に「教育」の項 「戦時教育の思いで」に西脇義夫氏の文が掲載されています。
その中から「町から疎開をしてきた児童」の話を抜粋しました。

・・・都会からの疎開っ子に生気がないのに気づくことがあった。 聞いてみると、農家とちがって食料が充分に確保できないので、昼の弁当を持ってこられない児童が多かったのも事実である。・・略・・忘れることのできないのは。横山一隆君のことである。 彼は昭和19年の春 横山君が母や姉と共に須磨区戎町から縁故疎開して中村に住んでいた。 高等科1年生の時、無動寺の裏山から炭の原木を運び出したことであるが、横山君のように小さい子は先に山を下り、大きい子は重い木を持って後から続いたのだが、その大きい子の一人が足を滑らせて持っていた木を落としてしまった。 重い木はラグビーボールのように思いがけない方向にはねながら落下し、たまたま下を通っていた横山君の後頭を直撃し、彼はその後口もきけないまま、1週間後に死んでしまいました。
縁故疎開者でもう一人思い出す傷ましい出来事は、古川良造君のことである。 彼も疎開勧奨に従って神戸から山田の伯父の家へ来て生活していたが、別れて暮らす母への恋しさが募ったのであろう、ある日神戸のわが家へ帰った。 その日が昭和二十年六月の土曜日、米軍のB29による神戸大空襲にあって古川君は即死だった。 横山、古川両君の冥福を祈りたい。   

神戸には北区だけでも有野、有馬、八多、大沢、淡河、・・・など沢山の郷土誌があり、更に神社や寺の誌史があります。
図書館で探すのも新しい発見があり、私たちの郷土を知り、郷土を愛する気持ちになります。
勿論、日本中どこでもその土地その土地にあるわけで、その人たちは私たちと同じ気持ちです。
もっと言えば世界中同じ気持ちがあるわけです。
最近テレビ番組で「こんなところに日本人が」というのがあります。
皆「住んだらこんないい所はない。」と思っています。
旅番組では、日本でも外国でも暑い国でも寒い国でも「ここが最高~!」と言っています。・・・住めば都、天国です。
皆、「郷土愛」を持っています。

何処の郷土誌でも「このような事がありました。」と現在の私たちに伝えようとする意気込みを感じます。

戦後70年、何かの参考になれば幸いです。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ビスマルク

 肝に銘じたいものです。


コメント
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