橋下徹、北の湖相撲協会理事長、川勝静岡県知事の発言に日本の教育を見る

2015-01-09 09:49:05 | 教育
 


 日本人について言うと、上に立つ者は自らが位置する上の地位を権威として下を従わせ、下は上の権威に従う権威主義を思考傾向・行動傾向としている。勿論、すべての日本人がそうであるわけではない。

 この権威主義的思考傾向と行動傾向が日本の教育に於ける思考様式・行動様式に現れて、暗記教育を連動させている。教師を上の権威として、教師が発する情報・知識を下に位置する児童・生徒が自らの考えや主張を介在させずに、考えや主張を持たないからだが、そのまま丸呑みする形で頭に暗記させる形式の教育となっている。
 
 その結果、テストの成績は教師が伝えた知識・情報をそのままの形で如何に頭の中に暗記しているかによって決まることになる。

 何十回となくブログに書いてきたことだが、今の日本の教育は暗記教育を脱して、児童・生徒が自らが考える教育となっているという人もいる。

 だが、1月7日(2015年)のNHKニュース「おはよう日本」を視ていて、なかなかどうして暗記教育から脱しきれていない思いを強くした。ニュースで流していたことをNHKサイト、《NHK報道番組「特集まるごと」ポータルページ》でテキスト版として紹介している。  

 《“強い組織”作る秘けつは…》NHK NEWS WEB/2014年2015年1月7日)

 日本ラグビーチームを去年2014年にテストマッチ10試合で9勝に導き、11月の世界ランキングで過去最高の9位につけたエディー・ジョーンズヘッドコーチが日本人メンバーの特徴を発言している。

 母国オーストラリアをワールドカップ準優勝に導いた経験があると記事は紹介している。

 エディー・ジョーンズ「私が日本代表にまず伝えたことが、“日本人でも世界で成功できる”ということでした。

 そのためには“ビジョン”を持ち、すべての戦略をそのビジョンに向かわせる必要があります。つまり、組織が“団結”しなくてはならないのです」

 ここで言う組織の団結とは上が指示した考えに従って、いわば上が指示した考えを全員の考えとして、集団として一つの行動を取るということではなく、このような行動は戦前の国家権力と国民との関係に見られたものだが、メンバー一人ひとりが自分の考えを出し合って、チームとしての一つのビジョンに創り上げ、そのビジョンに向かって一致団結して力を合わせるという意味での組織の団結であるはずである。

 前者は上の言うことを聞いて、上が言っていることを成績の形で如何に実現するかにかかることになるから、行動や思考の忠実性のみを求められて、メンバーそれぞれの主体性・自律性の要素は必要とせず、後者は思考上も行動上も極めて主体的・自律的であることを求められる。

 上の指示から離れて、自分たちでチームを創り上げて、自分たち考えてプレーして、成績の形として残さなければならないからだ。

 エディー・ジョーンズ「私が一番苦労したのは、日本選手は練習熱心で規律正しい一方、“自主性”が欠けているため、すべての原動力をトップが与えなくてはならないことです。

 本当に強いチームは、トップからも現場からも原動力が生み出されます。選手がもう少し“自主的”になれば、日本は必ず強くなるんです」

 「すべての原動力をトップが与えなくてはならない」という言葉が日本人の行動的傾向・思考的傾向である権威主義を最もよく形容している。上が指示し、下がその指示に従うということであり、上が指示した考えを下が自分たちの考えとし、そのような上の考えを下の者が行動(=プレー)の原動力としているということである。

 いわば自分たちの考え・ビジョンそのものを原動力(=行動原理)としていない。

 自主性(=主体性・自律性)の欠如そのものの具体的な指摘であり、だから、その欠如を直接的な言葉で二度も言及しなければならなかった。

 では、なぜ欠如しているのかというと、元々権威主義的傾向のあるところへもってきて学校教育で暗記教育という形で知識・情報を権威主義的な伝達方法で刷り込まれ、慣らされることになっているからだろう。

 ラクビーと学校教育とではそれぞれが関わることになる行動や思考の内容は違っていても、知識・情報を受入れる姿勢そのものは変わらない。もし変わっていたなら、エディー・ジョーンズヘッドコーチは自主性の欠如を指摘などしないだろう。学校授業での自主性の欠如を引き継いだプレー上の自主性の欠如としなければならない。

 このことは2006年8月から2007年11月まで日本サッカーチームの監督をしたイビチャ・オシム(ボスニア・ヘルツェゴビナ)も指摘している。2003年の言葉だというから、「ジェフユナイテッド市原」(新名称「ジェフユナイテッド千葉」)の監督時代の言葉なのだろう。

 オシム「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けているから、選手にもそれが欠ける。コーチが変わらないと選手は変わらない。そういう指導者からは、創造性に欠ける選手しか生まれない。

 文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない。サッカーは普遍的なもの。そして常に変わっていくからコーチも常に変わっていく必要がある」――

 「即興性、柔軟性、創造性」とは極めて個性的な能力であって、当然、それぞれの主体性・自律性を要素として生まれる。主体性も自律性もない姿勢からは「即興性、柔軟性、創造性」は生れない。

 個性的とはそれぞれが独特だということであって、独特から離れて多くの人間が同じ「即興性、柔軟性、創造性」を持ったなら、それぞれの特性を失って、自己否定を為すのみである。

 また、「文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない」との指摘で「即興性、柔軟性、創造性」の欠如が日本人全体の傾向としてあることを言っている。

 2003年にオシムによって「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けている」という言葉で日本人の主体性・自律性の欠如を言われながら、2015年の年頭早々にエディー・ジョーンズヘッドコーチに「自主性が欠けている」と、同じく主体性・自律性の欠如を言われる。

 日本の教育が暗記教育から脱していたなら、このような指摘は受けない。

 橋下徹も日本の暗記教育の悪影響を受けている。

 維新の党が2015年の年明けから、当選1回議員の選挙対策強化ために江田代表が支援者の発掘と組織作りなどを手ほどきする新人教育を始めると、「YOMIURI ONLINE」が伝えていた。

 テーマは「脱・風頼み」。衆院選の伸び悩みに危機感を覚えた橋下徹最高顧問(大阪市長)が、無所属での当選経験もある江田氏に指南役を要請したのだそうだ。

 橋下徹が衆院選中の「候補者の演説の下手さにあきれ」て、演説のモデル原稿を江田氏と共に作り、候補者に配っり、投開票日に江田氏に「新人教育をしてほしい」と依頼したのだという。

 国会議員を目指す者が共同代表に演説のモデル原稿を作って貰い、ほぼそのとおりに自分の主張として街頭で演説する。江田の演説を下敷きにした多少のアレンジはあるだろうが、元々の独創性はないことになる。

 何のことはない、学校教育に於ける教師から児童・生徒への知識・情報の伝達と、伝達された教師の知識・情報を児童・生徒の知識・情報とするのと同じ構造を取っているに過ぎない。

 なぜそれぞれの主体性・自律性に任せることができないのだろう。人の考えを自分の考えとさせるような訓練を行っていたなら、当然主体性・自律性は育たない。

 「国会議員になりたければ、国会議員としての義務と責任を満足に果たすことができるように自分で勉強しろ」と突き放した指示を出すことによってのみ、自らの思考・行動で主体性・自律性を獲得することができる。

 あるいは、「党の政策があり、それぞれが自分の言葉で表現して有権者に訴えて欲しい」と言うことで独自性が生れ、国会議員として、あるいは政治家として自律的・主体的存在足り得る。

 勿論、演説の文言もその中に入る。自分なりに独自の言葉を創造しなければならないだろう。

 確かに橋下徹は内容の当否は別にしてシャベリはうまい。その思考や行動は主体的であり、自律的であるかもしてないが、議員たちに主体性と自律性を求めることができない点は日本の暗記教育の欠点を受け継いでいるとしか見えない。

 昨年の暮の12月26日、東京・両国国技館の相撲教習所で横綱審議委員会による稽古総見が行われたという。11月場所で大鵬の優勝回数に並ぶ32回目の優勝を果たした白鵬がすり足やぶつかり稽古で胸を出しただけの練習で、相撲は一番も取らなかったという。

 北の湖理事長「もう少し(力を)長く維持したいのなら(稽古を)やれる時にやっておかないと駄目」(日刊スポーツ

 記事は、〈苦言を呈した。〉と解説している。

 32回も優勝した男に一切を任せることができない。自分の考えに合わないと、ついつい口を出してしまう。本人の主体性・自律性に恃むことができない。

 学校の先生が時間がないと言っていることは、児童・生徒を自律させることができず、その主体性に頼むことができないままにああしろ、こうしろと何から何まで手を掛けなければならないから、結果として時間を取られるということであるはずだ。

 北の湖理事長の言葉に学校教師の姿を見る思いがした。

 最後に川勝静岡県知事の仕事始め式の挨拶。

 川勝知事「今年の干支の羊は臆病な動物だが、皆さんにはじっくり考えつつも迷いを断ち、決断し、実行する人であってほしい」(NHK NEWS WEB

 川勝平太は国際日本文化研究センター客員教授、麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授、早稲田大学政治経済学部教授、静岡文化芸術大学学長などを歴任している教育者でもある。

 「今年の干支の羊は臆病な動物だが、皆さんは仕事をするに当たって臆病なままの羊であってはならない。決断と実行の人であって欲しい」と言うなら分かるが、羊と職員を関連づける言葉を欠いたままつなげる、教育者にあるまじき言葉の使い方をしている。

 だが、何よりも問題なのは、大の大人を相手にして指示しなければならない立場にあり、職員側にしてもそのような指示を受けなければならない関係に立たされているのだろうか。

 両者の関係がそのようなものなら、言葉の裏をそのまま返した意味で、上が指示しなければ「決断し、実行できない人」たちばかりの状況になっているということになる。

 いわば主体性も自律性も持ち得ていない職員ばかりとなる。

 オシムの言葉を利用させて貰う。「コーチが変わらないと選手は変わらない」

 「県知事の意識が変わらないと、職員の意識は変わらない」

 一々上が指示を出さなくても、職員が主体的・自律的に思考・行動できなければ、決して仕事の生産性は向上しない。地方創生も覚束ない。

 上に立つ人間が暗記教育の弊害をいつまでも日本の文化としていたのでは、自律的行動も主体的行動も、さらには自律的思考も、主体的思考も期待できない。当然、下も変わらない。


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