安倍昭恵には霞が関の女性官僚5人が専属スタッフとして付いていると、「週刊新潮」2017年3月30日号の記事を「デイリー新潮」が転載している。
5人の年収総額は2880万円。一人当たり576万円。月平均48万円。
ネットで調べてみると、2015年の国家公務員一般行政職の平均月収は約40万9000円だと言うから、 7万円程度高い月収を得ていることになる。
5人の名称は「総理夫人付き(づき)」。官邸の5階に専用の部屋を所有。主な業務は安倍昭恵スケジュール管理や移動手段の確保、関係各所への事務連絡、そして随行。
記事は、〈休日も返上でアッキーに付き従う〉と紹介している。
5人のうち2人は経産省から、3人は外務省からの出向者。普段は経産省の2人が安倍昭恵と行動を共にしていて、外務省の3人は安倍昭恵が外国の要人を接待したり、海外を訪問する時に行動を共にする、その他のことを書いている。
日本人の上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的性向からしたら、安倍昭恵は常に3人か2人が傍に付いていて、いつどこにいても背後に総理大臣の安倍晋三が控えている総理夫人の格式に添う失礼がないよう心配りした丁重さで扱われているに違いない。
だが、あくまでも安倍晋三によって与えられた総理大臣夫人という肩書が持つ権威に対する丁重さであって、安倍昭恵本人が何らかの権威を有していて、その権威に対する丁重さではない。
どこかの何かの講演に呼ばれるのも、どこかの何かの会合に招かれるのも総理夫人という肩書を持っているからであって、その肩書で紹介を受け、本人も総理夫人の肩書で行動し、その肩書で発言しているはずだ。
森友学園が新設予定だった瑞穂の國記念小學院の名誉校長の就任を依頼され、実際に就任したことも総理夫人という肩書があったからこそであろう。そして講演の際、この内の一人が安倍昭恵に付き添っていたという。
政府は当初は勤務時間外の私的な同行だとしていたが、公務による同行だと言い替えている。個人の私的な活動への公務同行を不適切とする批判をかわす意図があったに違いない。
政府は「連絡調整を行うため」と説明しているが、本人は携帯電話を持っているはずだ。どのようにも連絡の調整はできる。
だが、飛行機から新幹線、あるいはバスといった交通機関の連絡も役目の内に入っていて、チケットを手配するのも付き添いが行うと言うことなのだろう。安倍昭恵自身は単に指示を出すだけで、本人でなければできないこと以外は、例えばトイレに入って小便をするといったこと以外は全て任せっきりにしている様子が目に浮かぶ。
全ては肩書がそうさせている。以前ブログに安倍昭恵から総理夫人という肩書を取ったら、タダのオバサンに過ぎないと書いた。
このような肩書と肩書が必然化させている丁重な扱いを受けることになっている活動と発言の機会との関係を忘れて、自身が何らかの権威を有しているから丁重に扱われて、様々な活動の機会を得ることができ、様々に発言できると、いわば全て自分の力が成さしめている展開だと思い込んだとき、謙虚さをどこかに置き忘れて、自分を何様とする増長の芽が吹き出して、それが習慣化して、ついには性格化していく。
そのことを証明する記事がある。念のために全文を引用・紹介することにする。
《「しもべのように…」 作家が見た首相公邸の夫人付職員》(asahi.com/2017年3月25日13時32分) 藤田直央 学校法人「森友学園」への国有地売却問題で、安倍晋三首相の妻昭恵氏への陳情に対応した首相夫人付の政府職員に注目が集まっている。昭恵氏が「秘書」と呼ぶ夫人付職員らとの関係は――。作家の石井妙子氏が昭恵氏への取材のため、首相公邸を訪ねた時の様子を語った。 首相公邸は1929年完成の西洋風の建物で、かつての首相官邸。いま安倍首相が執務する官邸の隣にあり、昭恵氏は来客対応に使う。今年1月5日、石井氏は夫人付職員の女性を通して調整した上で訪れた。脇の入り口から入ると、その彼女が出迎えた。 国有地問題で話題の女性とは別の人で、30代ぐらい。服装は地味で、事務職員のように見えた。差し出された名刺に「内閣総理大臣付」と肩書があり、左下には「内閣総理大臣官邸」の住所と連絡先。携帯電話の番号とGメールのアドレスも記されていた。 アフリカ問題のNPO関係者だという先客と入れ替わりで、エレベーターで上の階へ案内され、部屋に入った。6~7人は囲めそうな楕円(だえん)形のテーブルの奥の席で、昭恵氏が座ったまま迎えた。来客に慣れた様子で「謁見(えっけん)」の趣だった。 雑誌「文芸春秋」のインタビューで首相夫人としての思いを聞いた1時間。活発な活動に批判もあるがと問うと、「昔風のファーストレディーではないですが、主人にやめろと言われたことはない。目指すところは一緒で、日本のためにやっています」。自信にあふれた話しぶりだった。 先ほどの夫人付職員の女性もいたが、質問には口を挟まず、部屋の隅の机でメモを取り続けた。時間がくると、彼女が「そろそろ」と声をかけてきた。「並んでください」とスマホを構え、記念撮影。土産に渡された紙包みには、昭恵氏の似顔絵があるメモ帳とボールペンが入っていた。 石井氏は「来客対応が一連の流れになっていて、あうんの呼吸だった。彼女はしもべのように動いていました」と振り返る。 公邸を出る際に彼女は玄関まで付き添った。石井氏が「秘書さんは何人いるんですか」と尋ねると、「5人です。外務省と経産省から来ています」。後で電話で確認すると、全員女性とのことだった。(藤田直央) |
石井氏を迎えた女性秘書の名刺の肩書は「内閣総理大臣付」。「内閣総理大臣夫人付」としたら、安倍昭恵を公人の扱いにすることになる。実態は夫人付きで動いていながら、あくまでも私人の扱いとするために「内閣総理大臣付」の肩書を与えたに違いない。
だが、この肩書が秘書に対してばかりか、安倍昭恵自身の意識に影響を与えないでおかないはずだ。「内閣総理大臣付」の秘書でありながら、その夫人に内閣総理大臣に対するのと変わらない至れり尽くせりの丁寧さで対応する。
その厚遇が安倍昭恵に対して当たり前となったとき、大抵な人間だったなら、自分の中に勘違いした何様意識を育てるものだが、もしも安倍昭恵の心にそのような意識を芽生えさせなかったとしたら、稀有な存在と言える。
実際には何様意識を芽生えさせて、何様さながらの態度を取っていたことは記事の次の一節が証明してくれる。
〈アフリカ問題のNPO関係者だという先客と入れ替わりで、エレベーターで上の階へ案内され、部屋に入った。6~7人は囲めそうな楕円(だえん)形のテーブルの奥の席で、昭恵氏が座ったまま迎えた。来客に慣れた様子で「謁見(えっけん)」の趣だった。〉
秘書が石井氏を案内して部屋に入ってきた。入ってきた石井氏を座るべき椅子を手で示して座るように指示したのかどうかは分からない。指示したとしても、座ったままで指示したことになる。
例え相手が初対面であったり、地位が自分よりも低かったとしても、部屋に入ってくる相手を椅子から立ち上がって迎え、それから座るべき椅子を手で示して座るように指示するのが地位や立場の違いに拘らない、いわば権威主義に囚われずにフランクな付き合いを心がけている人間のすることであろう。
だが、安倍昭恵はその逆だった。安倍晋三によって与えられた総理夫人の肩書を身に纏っている存在に過ぎないにも関わらず、椅子に座ったまま石井を迎えるという、それがささやかなものであったとしても、一定の権威と権力を示した。
でなければ、椅子に座ったまま迎えることなどできない。明らかに自身が意識している権威に基づいた一つの権力行為に他ならない。
ここに権威主義的な何様意識を見ないわけにはいかない。しかも安倍晋三の地位が作り出している総理大臣夫人という権威が可能としている権力に過ぎない以上、安倍晋三の権力の威を借りた何様意識がそうさせた応対であろう。
この応対は来客を迎えるテーブルの大きさにも現れている。
来客一人に対して、それが三、四人であったとしても、その人数が座ることのできる、間に長方形のテーブルを挟んで向き合ったソファを用意しておいて、双方が身近に顔を近づけ合って話をする上下関係を排した場を用意するのではなく、「6~7人は囲めそうな楕円(だえん)形のテーブル」のある部屋に案内させて、「奥の席で」と書いてあるから、楕円形の長辺の一方の席を上座として安倍昭恵が占め、もう一方を下座として石井氏を距離を取る形で座らせたのだろう、この点にも安倍昭恵自身を上に置いた権威主義的な何様意識を窺うことができる。
だから、石井氏は「来客に慣れた様子で『謁見(えっけん)』の趣だった」という印象を受けた。
「謁見」とは、「貴人や目上の人にお目にかかること」を言う。ここで言っている「目上の人」とは主として立場の上の人を言う。
いわば安倍昭恵は来客に貴人や立場の上の人間に対するような振舞いを自身に求める雰囲気を漂わせていた。
このような雰囲気は自分自身が貴人や立場の上の人間のように振舞う様子を醸し出しているからであって、その相互対応としてある“謁見形式”ということであろう。
勿論、これは石井氏の印象に過ぎないと、その描写を排除することができる。
だが、来客を座ったまま迎えたという一点で、印象に過ぎないと排除することは一蹴されなければならない。
全ては繋がっている。安倍昭恵が権威主義的な何様意識を内心に抱えているからこそ、「謁見(えっけん)」の趣」を石井氏に印象づけたのである。
更に言うと、自身の活動は安倍晋三と「目指すところは一緒で、日本のためにやっています」と言っている発言にも権威主義的な何様意識が明らかに現れている。
例え安倍政権と言えども、一つの政権が首相をトップリーダとして多くの閣僚によって構成されていたとしても、体系立った統合的な動きを得て国を動かし、発展させていくのは至難の業である。
対して安倍昭恵は政権の中に位置しているわけでもなく、その点、立場自体も大違いであるし、総理夫人の肩書で個人的に発言しているに過ぎない。例え官僚が安倍晋三に対する忖度から裏で動いて何らかの活動に予算をつけたとしても、それが国全体を動かす統合的な原動力に発展していくわけでもない。
もし発展したなら、政治などチョロイものとなる。
大体が元々は総理夫人という肩書を借りた活動に過ぎない。それを「日本のためにやっています」などと言うのは思い上がりも甚だしい。
この思い上がりこそが、安倍晋三の権力の威を借りた権力主義的な何様意識そのものであろう。
総理夫人の肩書を借りた活動という自らの限界を弁えずに思い上がって来客を座ったまま迎える。テーブルに上座と下座を距離を置いて用意して、自身は上座に座り、来客を下座に座らせて、その距離感によって権威主義的な上下関係の差違を暗に印象づけるだけではなく、それゆえに来客に対して気さくに対応することはなく、面会を「謁見(えっけん)の趣」にしてしまう。
安倍昭恵はその資格もなく、これらの権威主義的な何様意識を内心に抱えている。
それが安倍晋三の権力の威を借りた何様意識である点で、その内心は誰からも好かれるスマートなものでは決してなく、それとは正反対の太った醜いブタの様相を見せているはずだ。