Nスペ「総理秘書官が見た沖縄返還」で佐藤秘書官楠田實は沖縄に感謝すべきと言うが、感謝してはならない

2015-05-25 12:23:59 | 政治


 2015年5月9日(土) NHK総合放送で、NHKスペシャル「総理秘書官が見た沖縄返還~発掘資料が語る内幕~」を放送した。佐藤栄作(在任1964年11月9日~1972年7月7日)が自身で「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出しながら、沖縄返還を有事の際は米国の核の持ち込みを許すとする密約で獲ち取った日本国民に対する裏切りであったことは既に周知の事実となっているが、番組はもう一つ、日本国民と言うよりも、沖縄県民対する裏切りを浮き立たせている。

 番組の構成は1967年から1972年まで佐藤栄作の首席秘書官を務め、佐藤栄作のスピーチライターでもあった産経新聞出身のが楠田實残した沖縄返還に関わる膨大な政府中枢の資料の一部を読み解き、沖縄返還と返還から約40年経過しても在日米軍施設の74%が沖縄に集中する表と裏を見るという体裁を取っている。

 因みに安倍晋三のスピーチライターは谷口智彦内閣官房参与である。勿論谷口が元となる文章を作った上で安倍晋三の希望等を入れて、二人で最終稿をつくり上げるのだろうが、言葉は美しいが内容のないスピーチは安倍晋三の人格的体質とうまくマッチしていることの反映でもあるはずだ。

 〈佐藤の政治方針を言葉にしていく過程で沖縄返還に関わる政府中枢の情報が首席補佐官の楠田の元に集まり〉、その数段ボール箱100箱余りが自宅で発見され、現在は楠田が沖縄返還の歴史を書きたいので手伝ってほしいと伝えていたという和田純神田外語大学教授の千葉にある研究室に非公開のまま保存されている。

 資料の中には録音テープも残されいていた。

 楠田實テープ音声「沖縄返還後の日本の政権というのは沖縄問題というものを返還だけで事成れリと。

 何か上滑りというか、『おカネだけ、補助金だけやればいいんだろう』という感じのものがあって、1億2千万人の国民が一緒になって考えなきゃいけないという政治的リーダーシップが必ずしもないんじゃないかと思っている」

 番組は沖縄県民は日本復帰で基地が本土並みに縮小されると期待したと解説しているが、佐藤栄作も含めて返還後の歴代政権は沖縄の日本への返還という歴史的事実のみを成果としていたとことになり、政府と沖縄県民のこの食い違いが今日の普天間基地の辺野古移設反対へと発展しているはずだ。

 いわば沖縄県民の多くは沖縄の日本への返還だけではなく米軍基地の返還をも求めていたが、日本政府は前者のみの返還で良しとしていた。

 では、返還に向けてどういう動きがあったのか。

 佐藤の首相就任直前、当時佐藤番記者だった(番組では解説していない)楠田實は先ず沖縄を訪問し、沖縄返還を大きな政治課題だとすべきだと進言。

 楠田メモ(佐藤宛)「これまでの沖縄の努力に報い、現状を知るために1965年夏までに沖縄を訪問したいとの意向を表明すべきである」

 1965年とは敗戦から20年目だと解説している。
 
 楠田實テープ音声「100万人も日本人がいる島をアメリカが占領してそこに日本の施政権が全く及ばないと。(沖縄戦で)沢山の人が島で死んでいるわけでね。

 その島そのものをいつまでも放おっておくのかと。日本の責任下に置けないのは非常におかしいじゃないかと。それを政権構想に持って行こうじゃないかと――」

 楠田の進言通りに佐藤栄作は訪問。空港に降り立つと、楠田が用意していた首相として戦後始めて沖縄を訪問したことを謳う演説を行う。

 佐藤栄作「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後は終わっていないことをよく承知しております」

 その後人口に膾炙されることとなった「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終わらない」は楠田實考案の言葉だった。

 だが、沖縄県民は祖国復帰のみならず、米軍基地返還なくして日本の戦後は終わらないとしていた。そして沖縄と日本政府との、あるいは沖縄と日本本土とのこの大きな懸隔は今日にまで続き、沖縄の戦後は終わっていない。

 つまりナレーションで解説しているように、日本に復帰すれば敗戦後米軍に接収されて20年間施政権下に置かれていた基地が本土並みに縮小すると抱いていた期待は裏切られることとなった。
 
 那覇での総理大臣歓迎式典での演説では楠田が作成した原稿に新たな文章が付け加えられていた。

 佐藤栄作「我が国が日米安保条約によって米国と結ばれており、盟邦として互いに相協力する関係にあります。

 また、極東に於ける平和と安定のために沖縄が果たしている役割は極めて重要であります」

 番組は楠田の演説草稿にはなかったこの発言が沖縄の米軍基地の日米にとっての軍事戦略上の重要性を謳い、沖縄に於ける米軍基地の必要性を意味づけているといった解説をしていたが、後から気づくことになるのだが、この時点で既に米軍基地の維持を暗黙の了解としていたということなのだろう。

 このことは佐藤とアメリカとの沖縄返還交渉が核の問題に集中し、基地返還が背景に押しやられていたことが証明する。

 その結果、2015年3月29日NHK「日曜討論」での外交評論家岡本行夫の「本土の基地は65%以上、削減されたけれども、沖縄は20%しか削減されていない。それが現在の74%という数字になっている」という言葉につながっている。

 本土の基地を削減して、削減した分を沖縄の基地を維持することで補填していた。だから、65%以上の本土基地削減に対して沖縄基地削減は20%という少ない割合となって、依然として在日米軍施設の74%を占めるに至っている。

 1967年11月、佐藤栄作は訪米、当時のションソン米大統領と会談、沖縄のアメリカ軍基地が極東で重要な役割を果たしていることを認め、返還の時期については2、3年のうちに合意することが決まったと解説している。

 但し沖縄には当時核兵器が配備されていて、アメリカ側はそれを維持したいと日本側に申し入れていたが、唯一の被曝国という立場上国民の反核感情は根強く、佐藤自身、「核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず」の非核3原則を宣言していた手前、核を残した返還を認めることができる状況ではなかった。

 当時父島が米軍の核貯蔵庫となっていた小笠原諸島返還が核の扱いをどうするかの試金石となった。

 番組は駐日米大使館で小笠原返還交渉を担当した書記官のロドニー・アームストロング氏の、両者の会談に直接加わっていたわけではないが、書記官という立場上、知ることができたのだろう、その証言を用いて1968年の三木武夫外相とジョンソン駐日米大使との会談の経緯を映し出している。

 アームストロング氏は会談後部屋から出てきたジョンソン大使の顔が怒りで赤くなっていたのを見て、会談の結末を咄嗟に判断できたという。

 ジョンソン大使の緊急時には今後も父島に核兵器を持ち込みたい、日本側もそれに理解を示して欲しいとする要望に対して、三木外相は日本には非核3原則があり核兵器の持ち込みは許すことができないと抵抗した。

 アームストロング元書記官「三木外相は署名した場合に起き得る国内での政治的反応に耐えられないと感じたから、サインをしなかったのだろう。しかし私たちは小笠原の返還のあり方が沖縄返還のあり方になると考えていたのです」

 「小笠原の返還のあり方」たるや、核兵器の再持込みは棚上げされたまま小笠原は返還された(1968年(昭和43年)6月26日)と番組は解説することになった。

 沖縄の核問題が不透明となったことで、佐藤は野党の「核抜きで沖縄返還が実現できるのか」と追及を受けるたびに、「基地のあり方についてはまだ白紙でございます」という答弁を繰り返したという。

 楠田實テープ音声「(核抜き返還を)発言すること自体、非常に賭けなんですね、政権としては。だって、できるかどうか分からないし、まだ交渉が始まっているわけではないですから。

 だから、失敗すれば、もう当然引責辞職しなければならない」

 引責辞職を避けるために有事の際は核の持ち込みを許すとする密約で凌いだことになる。佐藤本人にしたら、日本の安全保障にとって米軍の核は必要だったから、国益を考えて密約を結んだと言うだろうが。

 いずれにしても基地のあり方が本土並みの縮小ではなく、核抜きであるかどうかに与野党の関心は集中していた。

 楠田實は佐藤と日米の有力政治家に太いパイプを持ち、当時のニクソン大統領とも面識があったハリー・カーンとの会談の際の発言を官邸で書き取ったメモを自身の資料の中に残していた。

 小笠原諸島が返還された年の1968年12月9日、佐藤の公式上の面会が全て終わった後、カーンとの会談が行われた。

 佐藤栄作「沖縄についてのことなのだが、今話すには一寸早い。はっきり言うわけにはいかない。頭の中は実はこの考え(核の問題)で一杯なのだ。

 沖縄の祖国復帰を一日も早く実現したい。しかも日本の安全を些かも弱めないで解決する方式があるか。その方式が何かということだ」

 カーン「米国にとって日本本土及び沖縄の基地は基本的に朝鮮半島の事態に対処するために必要なのだ。朝鮮半島の事態に対処する戦略的な根拠地はホノルル、あるいはグアムだ。

 米軍を支援する後方基地として日本と沖縄の果たす役割は絶対だ」
 
 佐藤栄作「それでは日本は困るのだ。非核3原則もあり、そうなると沖縄の基地の取り扱いを難しくする」

 佐藤のカーンの発言に対する反応からすると、カーンが沖縄の基地と言うとき、核の存在を前提としていることが分かる。核のある基地がイコール沖縄の基地となっている。

 佐藤栄作「僕としてはニクソン新大統領に日本の実情を十分に且つ正確に理解して貰いたい。米国が今後も沖縄の基地を利用していく上でも、現地住民の協力なくしては、その有効利用は確保できない点を十分認識して貰いたい。

 ニクソンは1月20日の就任式まで外国からの来訪者には一切会わないというのは本当かどうか。僕としては岸(信介)にでも行って貰いたいと思っていたのだが――」

 カーン「岸程の人が来たら、タテマエは何だとしても、ニクソンも会うのじゃないだろうか。いずれにしても、帰ったら、確かめてみる」

 1969年1月ニクソンから佐藤に親書が届いていたことが楠田の資料から分かる。

 ニクソン親書「就任式が終わったら、すぐにあなたの兄(岸信介)と話すことを楽しみにしています」

 親書が届いた直後の2月、カーンが再び佐藤の元に現れる。

 カーン「沖縄の核装備はいずれにしてもその規模は小さいものだ。日本国民は沖縄の基地の現状維持を認めると思うか」

 カーンの論点は相変わらず核抜きかどうかではなく、核付き現状維持に主眼を置いている。誰が見ても分かるように、アメリカ側の意見を代表している。

 佐藤栄作「それは問題にならない。(核抜き)本土並みの世論が極めて強いのを理解して貰わなければならない。

 沖縄に核が残らない方がよいのか、それとも沖縄に核があることが日本のために必要だとお考えなのか。

 いずれにしても沖縄の核は通常時には要らないだろう。核については憲法上の制約の関連から、色々難しい問題がある」

 佐藤栄作「朝鮮半島情勢に対処するためには何も沖縄に核を置く必要はないだろうし、むしろそのような核なら、韓国に置いたらよいだろう。

 尤もそういう事態が発生したら、米軍は日本本土の基地を使えばいいのだ。その結果、日本が戦争に巻き込まれても、仕方がない」

 番組は佐藤のこの提案をこれまでにないものだと解説している。

 佐藤栄作「朝鮮半島で米軍が出なければならないような事件が起こった場合、日本がそれに巻き込まれるのは当たり前だ。このことを自分の口から言うのは初めてだ。国会では勿論、こんなことは言ったこともないし、絶対に口外しないで欲しい」

 カーン「よく分かっている」

 番組は佐藤のこの発言と異なる国会答弁を紹介している。野党の日米安保条約があるために日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのではないかという追及に対してものである。

 佐藤栄作「日米安保条約があるから、日本が戦争に巻き込まれた、そういう経験はございません。また今後も左様な発展は実はないと――」

 ただ単に日本が戦争に巻き込まれる有事を経験していないというだけのことで、有事を前提とすると、安倍晋三の集団的自衛権行使にしても自衛隊の海外派遣にしても、戦争に巻き込まれる可能性は否定できないし、巻き込まれる可能性を想定した軍事的危機管理に立たなければならないはずだが、安倍晋三は佐藤栄作の表向きの態度と同様に戦争に巻き込まれる可能性の否定一点張りを押し通している。
 
 番組はここでこの両者の会談の遣り取りについての楠田の日記を紹介している。

 楠田日記「沖縄は核抜き本土並み。但し朝鮮半島で事が起こったら、本土基地を使わせる。その際、日本が戦争に戦争に巻き込まれても止むを得ない、というのをこれではっきりした」

 この会談の10日後、1969年3月佐藤は国会で初めて沖縄の核抜き返還をアメリカに求めると発言。

 実際の交渉に当たった外務省の担当者が官邸に直接上げた、アメリカが沖縄の核兵器の維持よりもアジアに広く展開できる作戦行動の自由に重点を移しているとする「千葉北米課長報告書」が楠田の資料に残されていた。

 当時アメリカはベトナム戦争の只中にあり、爆撃機の発進地として沖縄の重要性が高まっていたと番組は解説しているが、こういった状況を受けた北米課長報告の“米軍活動の自由度”ということなのだろう。

 いわば沖縄は朝鮮戦争時の発信基地となったことを始まりとして、以後朝鮮半島有事に備えた米軍基地としての役割を担うことになり、さらにベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争等に於ける発進基地・補給基地・訓練基地へと役割を拡大していった。

 楠田の資料に残されている千葉北米課長作成の外務省内部文書が紹介される。

 「米軍がいる地域ということになりますと、朝鮮半島及びベトナムにとどまらず、フィリピン、タイ、あるいは台湾も入ってくる。いくらでも広がるのではないかということにもなろうかと思われる」

 ベトナム以外はアジアを飛び越えて中東にまで広がっていった。出発点が出発点にとどまらず、際限もない形で広がっていく。

 この前例からすると、安倍晋三が自衛隊の活動を中東にまで広げようとしていることについても、「必要最小限度の実力行使」と決めている出発点が際限もない武器使用となる可能性は否定できない。

 以後も日米間で沖縄返還の交渉が行われて、1971年(昭和46年)6月17日に沖縄返還協定の調印式が行われる。

 佐藤栄作「沖縄返還は協定は日米両国間の信頼と友好関係を緊密にして強固なものとするものであります」(首相官邸記者会会見)

 協定は沖縄配備の核兵器撤去、朝鮮半島有事に於ける本土基地の使用、さらに情勢次第での台湾やベトナムに対応可能を確認する内容となっていた。

 和田神田外語大学教授「戦後の日米安全保障体制の、あるいは極東の安全に関わる日米協力に関しての大きな方向性がここで決められたということだと思いますね。

 沖縄の基地から米軍が海外に出ていくことに関して、日本がそれに協力するというか、そういう基地を提供するということの出発点になった」

 際限のなさへの出発点となったということである。

 1972年7月7日、佐藤栄作は沖縄返還を花道に退陣。

 誰もが有事の際の核の持ち込みと軍用地の原状回復費用の日本の肩代わりを密約していたとは気づかなかった。

 佐藤栄作は1974年、それが偽りのものだったが、非核3原則が主として評価されてノーベル平和賞を日本人として初めて受賞することとなった。

 と言うことなら、安倍晋三もノーベル平和賞受賞の資格者足り得ることになる。

 番組は他にも、1995年9月4日の沖縄米兵少女暴行事件がキッカケに当時の橋本内閣とアメリカとの間で普天間基地の返還が合意されたのを受けて楠田實が再び活動を開始、沖縄基地問題に関する提言を行おうとして有識者を集めて会合を開いたことを伝えている。

 楠田の資料に残されていたテープ。

 田中明彦国際政治学者「本当に嘉手納基地というのは立派な基地ですね。あれ程の立派な基地はなかなかないんじゃないかという感じがしました。沖縄の米軍基地が有効に機能し続けることを確保するのは日本にとっての通常の意味での国益であろうというふうに思います」

 下河辺淳元国土庁事務次官「米軍も沖縄にとってはプラス要因なんですね、経済的に言えば。ただ気持はあまりいいはずはないですね。占領されたような気分ですから。知事は深刻そうに『一つ沖縄に来て住んでくれませんか』と言ってましたよ。

 何かこう同情的な話とか、平和がいいねとかっていう話から始まるもんですから、こじれるわけです」

 田中明彦国際政治学者「こちら側からですね、『(米軍が)やっぱりいなくなってください』という筋合いは今はないと思う」

 京極純一政治学者「居て貰った方が日本がより多く平和維持的と言いますかね、いられるわけだし、軍備増強しなくても済む面もあるし、無理に帰って貰う必要はないな」

 ナレーション「有識者の本土側から見た沖縄、楠田がこれらの意見を元に政府に提言したという記録は残されていない。楠田は何を考えていたのか」

 番組は最初の方でテープに残した楠田自身の言葉を紹介していた。「沖縄返還後の日本の政権というのは沖縄問題というものを返還だけで事成れリと。

 何か上滑りというか、『おカネだけ、補助金だけやればいいんだろう』という感じのものがあって、1億2千万人の国民が一緒になって考えなきゃいけないという政治的リーダーシップが必ずしもないんじゃないかと思っている」――

 「返還という歴史的事実だけで終わらせてはいけない、1億2千万人の国民が一緒になって考えなければいけない」と言っているのに対して、あるいは沖縄県民の多くが本土並みの基地縮小を伴った本土返還を求めていたのに反して有識者は日本の側からのみ沖縄を見て、日本全体で負担するという思いをサラサラ持たない。火葬場とか焼却場は人間生活に必要な施設だと頭では理解していても、近所にできると土地の資産価値が下がるとか環境が悪化すると反対して、遠くにできることを望むように沖縄の問題を対岸の火事としていた。

 政府に提言できようがないではないか。

 番組は最後に楠田の手記を紹介する。

 楠田實手記「日本人は昨日のことは考えない。今日と明日のことしか考えない民族だとよく言われるが、考えてみよう。祖国復帰までの27年間、沖縄県民は特殊な環境下で日本人としての魂を守り続けた。

 復帰後、日本政府は巨額の公共投資をして街並みも以前とは比較にならない程近代化した。しかし、それとても沖縄県民の魂の飢餓を満たすものではない。

 日本政府は沖縄県を47都道府県の一つの単位としか思わないし、日本の若者たち快適なリゾートの一つとしか映っていない。沖縄県民に対する感謝の気持が国民感情の中にどの程度存在するのか定かでない。

 今沖縄の有識者層の間で沖縄独立論が持ち上がっているという話を聞いたが、そのことの可否はともかく、日米両国で知恵を出し合って、沖縄の未来像を描くべきときが到来したと思う」

 楠田が亡くなったのは2003年9月、それから約12年、日米双方共に沖縄の基地の重要性の観点は変わりはない。楠田は「沖縄県民に対する感謝の気持」を持つべきだと指摘しているが、感謝してはならない。

 なぜなら、感謝というのはありがとうという気持を示すことを意味するからだ。これまでの沖縄の基地の歴史と現在の基地負担とそれらによって否応もなしに見舞われている「沖縄県民の魂の飢餓」にありがとうの気持を示したとしたら、それらを全て是とすることになる。

 例え変えることができない歴史であっても、忌避しなければならない歴史であり、忌避しなければならない基地の現状であり、あってはならない飢餓感として、そのように仕向けている諸々の事柄を忌避し、是としてはならない「沖縄県民の魂の飢餓」だからだ。

 逆に鹿児島藩の琉球征服以来抱えることとなった沖縄の不公平に対する謝罪の感情であり、更に持つべきはその不公平を放置し続けている日本政府に向けた怒りの感情であろう。

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