橋下流教育改革は生徒の暗記思考強化には役立つ

2012-01-15 11:44:05 | Weblog

 2007年より開始の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)(小学6年生、中学3年生全員対象)の大阪府の成績が指定席というわけでないだろうが、2008年と最下位に近い成績を獲ち取った(?)ことに、当時知事だった橋下徹が怒り心頭に達した。

 悪い成績を逆に笑いのネタにして笑い飛ばす大阪人の思考的余裕はなかったようだ。

 《全国学力テスト:「このざまは何だ」 大阪府低迷、橋下知事が教委批判》毎日jp/2008年8月30日)

 8月29日結果公表。小中学校の国語、算数・数学とも基礎を問う「知識」(A)と応用力をみる「活用」(B)の双方で2年連続で全国平均を下回り、34~45位に低迷。1都1道2府43県、合計47地方自治体中の2年連続34~45位内である。「教育日本一」を目指していた橋下氏から見たら、バンジージャンプ台から見た奈落の底の飛んでもない順位に見えたに違いない。

 橋下徹「教育委員会には最悪だと言いたい。さんざん『大阪の教育は違う』と言っておきながら、このザマは何なんだ。抜本的に今までのやり方を改めてもらわないと困る」

 2007年単独では41~45位に終わったと記事に書いてあるから、08年は少しは成績を挙げていることになる。それでよしと済ますわけにはいかなかったらしい。

 だが、日本の教育は暗記教育で成り立っている。テストの成績だけを問題とすること自体、既に暗記教育の強化のみに囚われていたことの証明となる。

 日本の教育が暗記教育そのものであることは、文科省を初めとして多くの教育学者が「考える力」の育成を訴えていること自体が証明している。散々に言ってきたことだし、誰もが同じことを言うと思うが、暗記教育とは教師が教える知識を教えたとおりにそのまま頭に暗記することをいう。そこには「考える」という思考作用を介在させない。生徒が思考作用を介在させたなら、暗記教育とはならない。生徒それぞれが自身の知識に高めていく思考型教育となる。

 テストの成績だけを問題とすれば、次にその成績を上げることだけを問題とすることを必然化する。暗記型思考のなおさらの刷り込みである。

 府教委は、〈今年の全国学力テストまでに教員向けセミナーを開き、学力向上担当教諭の各校配置などを提案した。〉

 だが、その取り組みが市町村教委や各校に委ねられたことについて。

 末永尚子大阪府豊中市主婦「補習のため放課後に先生が待機する学校があると聞いたが、長女の中学にはない。対策は学校に任せず、横断的にノウハウを共有してほしい」

 全地域的に平等となる暗記教育の徹底を求めて、その徹底化によるテストの成績の底上げを願っている。

 公立中学校国語科男性教諭「結果が出るたび、教育施策を変えられてはたまらない。現場が地道に積み上げてきた人間教育が壊されないようにしたい」

 記事はこの発言を学力偏重に警鐘を鳴らしたものだとしている。

 府教委職員「就学援助を受ける割合が全国より高いことなどを踏まえ、長い目で学校と家庭を変えていくべきだ」

 この発言に対する記事の解説は載っていないが、経済的な教育環境の整備の必要性を訴えたに違いない。昨今、教育格差と経済格差の相互関連性が言われている。

 橋下徹が代表を務める維新の会は大阪府と大阪市で共同して教育改革を進めようとしている。勿論、以上見てきたように維新の会の教育改革とは、あるいは橋下徹の教育改革とは暗記教育の徹底化によるテストの成績の底上げを狙いとしていることは次の記事を見ても明らかである。

 《クローズアップ2011:大阪ダブル選 都構想に難問山積》毎日jp/2011年11月28日

 (維新の会)教育基本条例案

▽知事が教育目標を設定し、目標実現の責務を果たさない教育委員は罷免
▽全府立高校長を公募
▽3年連続定員割れの高校は統廃合
▽2年連続最低評価の教職員は分限処分(免職を含む)
▽学力テストの学校別結果を公表

▽君が代起立斉唱を想定し、職務命令違反の教員の分限処分(免職を含む)

 暗記教育によって機械的に植えつけた暗記知識を問うテストの成績が上からの強制的な規定に基づいて、即、教育委員や校長、教師の地位・生活、名誉・不名誉を決定するバロメーターとなる。

 生徒のテストの成績次第で地位や生活、名誉や不名誉が守られたり、守られなかったりするということである。

 当然、大多数の教育委員、校長、教師が自己保身を優先させて、生徒のテストの成績を上げるためにせっせと暗記教育を強化し、徹底させる態度を取ることになるだろう。

 暗記教育の強化・徹底とは暗記型思考の育成であり、その反動としての考える教育の一層の排除を意味することになる。

 橋下徹「(現場の抵抗は)狙い通りだ。ダメな教員には去ってもらう。教育現場に民意が届くようにする」

 「ダメな教員には去ってもらう」の発言は一見、競争原理の導入に見えて、結構毛だらけに受け止められるかもしれないが、あくまでも暗記教育の場での競争原理の導入であって、教師は生徒に如何に多くを暗記させて、テストの成績の底上げを図り、それを以て自らの実績とする競争を展開することになる。

 成果が上がるまでの時間がかかる思考型教育は文科省がいくら「考える教育だ」、「自分から考え、自分で決定し、生きる力を養う教育だ」と騒いだとしても、生活がかかってるんだ、短期決戦で生徒の成績を挙げなければ、自分のクビが危ないとばかりに見向きもされないことになるだろう。

 いわば見えないムチで教師は橋本徹に尻を叩かれ、教師は生徒の尻を叩き、暗記を励ますことになる。

 橋下氏「市教委が機能していない。教育現場の感覚と市民の感覚にはずれがある。大きな方向性を有権者が支持すれば、修正も含めて詰め直す」

 「教育現場の感覚と市民の感覚にはずれがある」のは当然の成り行きである。世の親はその場その場のテストの成績さえよければ、その知識がその場限りの暗記知識であっても構わないとしているからである。

 テストを終えて暫くすれば忘れてしまうテスト限定の暗記知識となっているから、大学生の学力低下が言われ、基礎学力の欠如を指摘されることになる。

 では、以前の大学生はそうではないのかと言うと、暗記知識を忘れずに新たな暗記知識を詰め込み、積み重ねていって、それらの知識を当てはめていく知識活用の構造と、現在ある製品を改良のたびに新たに知識を付け加えて改良に改良を重ねていくモノづくりの知識活用の構造と重なるゆえにモノづくりには役立っても、あくまでも思考作用を介在させて自身の知識として積み重ね、新たな知識の発見につなげていく創造型知識ではないから、無から有を作り出すような発明には向かないことになる。

 日本人の発明とされるものであっても、外国人が既に打ち立てていた理論をモノづくりの技術で製品化したという例が少なくないはずである。

 大阪維新の会のこの「教育基本条例案」は昨年9月21日(2011年)、大阪府議会に提出。現在継続審議中。

 同じく維新の会は同じ昨年9月に市議会に提出したが、否決。

 府議議会と市議会に同時期に案提出となったのは共通の内容ながら、府立高校と市立小・中学校を対象とした条例であることからの動きだそうだ。

 橋下徹は2008年9月6日、枚方市で開催の日本青年会議所大阪ブロック協議会主催フォーラムで次のように発言している。

 橋下徹「指導助言が無視されるようなら府教育委員会も解散する、小中学校課の予算は付けない」

 以前当ブログに、いくら地方分権を叫んでも、中央(=国)を上として地方を下とした中央集権の構造を地方自治に持ち込み、都道府県を中央として上に立ち、市町村を地方自治に於ける地方と看做して下に置いた中央集権の構造を取った場合、真の地方分権・地方自治は期待不可能となるといったことを書いたが、橋下徹氏のこの「指導助言が無視されるようなら」、「小中学校課の予算は付けない」は国が地方に対して予算の権限を楯に言うことを聞かしてきた中央集権の構造を踏襲するもので、国の中央集権体制を自らの血とし、肉として小中学校を支配下に置こうとする意志の発動が見える。

 橋下大阪府知事「国と地方は奴隷関係」

 如何に日本の現在が強固な中央集権体制となっていて、国が如何に地方を縛っているかを表す府知事時代の発言である。

 この発言を前の発言に重ねると、「大阪府と小・中学校は奴隷関係」となる。

 中央集権体制は日本人性としている権威主義の思考様式・行動様式から発している。いわば前々から指摘していることだが、橋下徹自身が中央集権体制を性格傾向としている権威主義者だということである

 だから、橋下徹のこの権威主義が教育にも発揮されることになる。「暗記教育と権威主義との関係性」について、2010年9月23日当ブログ記事――《2010年7月11日放送「新報道2001」『答のない時代 教育とはナンだ?』を読み解く- 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のようのように書いた。
 
 〈暗記教育は何を発生原因としているかと言うと、このこともHPやブログで前々から言ってきていることだが、日本人が伝統的に行動様式・思考様式としている権威主義を成り立ちの基としている。教師と生徒との関係を上下関係に規定して知識・情報の伝達・受容に於いてもその他あらゆる指示に関しても、上の教師が下の生徒を機械的に従わせ、下の生徒が上の教師に機械的に従う権威主義の構造を取るためにそこに教師が伝える知識・情報、その他指示に対する生徒の機械的なぞりが発生し、必然的に暗記教育の形式を取ることになる。

 なぞり覚えるは暗記の別名でもある。そこにあるのは機械性を持った記憶である.

 ゆえに暗記教育を権威主義教育とも言い換えることができるはずである。教師の知識・情報を権威と看做し、それに従う。なぞって、暗記し、教師の知識・情報のままに機械的に自分の知識・情報とする。

 当然、生徒に於いて知識・情報の画一化、平均化が発生する。違いは多く暗記しているかいないか、暗記能力に応じた暗記量の違いしか出てこないことになる。

 教師の知識・情報をそのままの形・内容で生徒自身の知識・情報とする伝達形式はその中間に教師の知識・情報に対する生徒自身の側からの思考に関わる濾過・咀嚼を何ら置かないことを意味する。生徒自身の側からの思考に関わる濾過・咀嚼とは生徒自身が主体的に自分なりの考え・思考で以って教師の知識・情報を解釈し、自分なりの知識・情報へと主体的に消化・発展させることを言う。

 逆説するなら、教師の知識・情報を生徒が受容する中間過程に生徒自身の側から主体的に思考に関わる濾過・咀嚼の工程を置いて自分なりの知識・情報へと消化・発展させた場合、その知識・情報は暗記知識でも暗記情報でもなくなる。

 いわば暗記教育は生徒が自分なりの考え・思考で教師の知識・情報を主体的に(=自分から)濾過・咀嚼することを阻害要因として成り立つ。暗記教育は生徒の考える力を養う教育形式ではないということである。考える力をつける教育は暗記教育ではなくなる。

 逆説するなら、暗記教育は生徒の考える力を養う教育とはならないということである。

 主体性という点でのみ説明すると、生徒が自分から学ぶ、自分から考える主体的姿勢を取る学習のプロセスを暗記教育(=権威主義教育)は構造としていない。そのようなプロセスを備えていたなら、同じように暗記教育(=権威主義教育)でなくなるからだ。あくまでも教師が与える知識・情報を生徒がなぞり暗記する非主体的・受動的学習のプロセスを取る。それが権威主義教育であり、暗記教育である。

 日本の政治体制、官僚体制が中央集権と言われるのも中央を上に位置づけて、下に位置づけた地方を従わせ、下の地方が上の中央に従う権威主義の行動様式・思考様式を構造としているからなのは断るまでもない。日本人全体が権威主義の行動様式・思考様式に絡め取られているから、教育にしても、政界、官界の組織・体制にしても、その他、上が下を従わせ、下が上に従う上下の力関係に従った意思伝達で何事も推移することになる。

 上下の関係を取った者が対等に意見を闘わすことは、会議の場等のそれが前以て許されている形式を取っている場以外、先ず存在しない。下の者が対等な意識で意見を言うと、上の者は下の者を生意気だと把え、下の者は上下関係を気まずくしないために上の者の言うことを聞いて置けば無難だといった態度を取ることになる。

 教育について論ずるどの場面でも、誰もが「基礎学力」の必要性を訴えるが、例え基礎学力が身についたとしても、それが暗記教育に則った基礎学力の授受であるなら、教師が伝える基礎学力を単になぞって暗記する形式を踏んだ基礎学力に過ぎないことになり、考える力への発展に役立つとは思えない。単に基礎学力がついていると言うことだけで終わるだろう。

 その視点なく、誰もが基礎学力だ、基礎学力だと基礎学力の必要性を訴える。〉・・・・・

 結果、橋下流教育改革は暗記教育の強化・徹底化、暗記思考の強化・徹底化に向かい、テストの成績の底上げには役立つことになる。

 このことは当然のこととして生徒から柔軟性に満ちた考える力、思考能力の育成の機会を奪うことを必然化させる。

 またこのことは子供たちを教科書に書いてある知識、教師の知識の奴隷にするということでもある。

 単に暗記して、テストの設問に当てはめていくためだけの知識の暗記なのだから、知識という点で、教科書や教師の知識の奴隷となるということであろう。

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