四川大地震報道/「個人物語」はチベット人もミャンマー人も持っている

2008-05-22 10:39:58 | Weblog

 日本時間の5月12日午後3時半頃中国・四川省で発生したマグニチュードは7.5(後に8.0と修正される)の大地震報道は当然の流れとして最初は被害規模の全体像からスタートした。死者が1万人に迫るとか、倒壊建物は50万戸、生き埋め1万人。行方不明者何人といった具合に。あるいは校舎の倒壊により、多数の生徒が倒壊建物の下敷きになっているとか。

(asahi.com記事/中国四川省綿竹で21日、崩壊した小学校の前で12歳の子どもの写真を抱え、泣き崩れる母親=ロイター)

 死者は4万人に達し、行方不明者は3万人を超えているというから、死者はさらに相当数増えるに違いない。

 報道が被害規模の全体像を伝えている間は個々の生命の姿は全体像の陰に隠れて見えてこない。名前も顔もない人数でもって紹介されるだけとなっている。だが、報道が被害者の「個人物語」に移った途端にそれぞれの生命の姿が剥き出しに曝け出される。その酷さ、悲惨さ、虚しさ、脆さ等々を携えて顔と名前を持ち、生命(いのち)を備えた人間として前面に出でてくる。

 倒壊した学校校舎の前で額に入れた子供の写真を胸に抱きかかえて建物の下敷きになっているから誰か早く助け出してくれと泣き叫ぶ母親たち。お父さんもお母さんも死んじゃったと目を手でこすりながら泣きじゃくって途方に暮れる小学生低学年くらいの少女。子供も夫も家もすべて失くしてしまったと絶望感を顔全体に漂わせて泣きながら悲嘆にくれる中年女性等々、予期しない災害が見舞うこととなった過酷な運命になす術もなく無力な状態で立たされた個人個人の姿が次々と紹介されていく。

 かくかように報道の「個人物語」は死者にしても行方不明者にしても、また死者や行方不明者を出した親兄弟、姉妹、近親者にしても、顔と名前をを備えた生命(いのち)ある一人ひとりとして描き出すこととなる。

 それは生命(いのち)そのものが何ものにもまして尊い存在だからであろう。奪われたり喪うことによって尊い存在となるのではなく、奪われたり喪うことによってその尊さまで奪われたり喪うことになるから、そのことへの怒り、悲嘆、そして押しとどめることのできない無力感・絶望感にに囚われることになる。

 生命(いのち)はこの世に存在してこそ、価値ある存在となる。人間らしく自由に生き・活動する生命(いのち)を保障されてこそ、その生命(いのち)は真の価値を備える。死は生命(いのち)が自由に生き・活動することの終焉を意味する。

 学校の校舎の倒壊で子供を喪った父母が教育関係者に校舎だけが倒れたのはなぜなのかと抗議を行ったのは校舎の耐震性のなさが子供が自由に生き・活動する生命(いのち)の保障を奪い、そのことが原因となって二度と自由に生き・活動することはないことへの悲しみ・怒りからだろう。

 5月21日の読売インターネット記事≪日本救助隊の犠牲者への黙とう、中国で絶賛≫は次のように嬉しい内容を伝えている。

 <【北京=杉山祐之】四川大地震被災地での活動を終え、21日に帰国する日本の国際緊急援助隊救助チームが、中国で絶賛されている。

 生存者救出こそならなかったが、整列して犠牲者に黙とうをささげた1枚の写真が、中国人の心を激しく揺さぶったためだ

 この写真は、援助隊が17日、四川省青川県で母子の遺体を発見した時のもので、国営新華社通信が配信、全国のネットに転載された。

 「ありがとう、日本」「感動した」「かっこいいぞ」……インターネット掲示板に賛辞があふれた。犠牲者数万人、遺体は直ちに埋葬という絶望的状況に圧倒されていた中国の人々は、外国、しかも、過去の「歴史」から多くが嫌悪感を抱く日本の救援隊が、二つの同胞の命にささげた敬意に打たれた。

 「大事にしてくれた」ことへの感謝と同時に、失われた命もおろそかにしない姿勢は、「我々も犠牲者に最後の尊厳を与えるよう努力すべきだ」(新京報紙の論文)という、中国人としての自省にもつながった

 ネット掲示板は元来、「反日」の温床だが、日本隊の黙とうで、「対日観が大きく変わった」との声も寄せられている。強硬派らしい人物は「日本と戦わなくてはならない時は全力で戦う」と記した後、「だが、日本人が助けを必要としている時には必ず行く」と続けた。「とっとと出て行け!」という反日的な声には即座に非難が集中した。> 


 「失われた命もおろそかにしない姿勢」とは、「失われ」ていない、この世に現在生きて在る「命もおろそかにしない姿勢」を前提として正当化される姿勢であろう。

 またそういった生命(いのち)の扱いに感謝するのは、自らもそういった生命(いのち)の扱いをしてこそ、「感謝」は真正な感情の発露となりうる。

 この世に現在生きて在る生命(いのち)を疎かにしておいて、死んだ生命(いのち)対しては疎かにせず敬虔に扱う、丁寧に黙祷を捧げるなどというのは滑稽な倒錯でしかないし、自分は疎かに扱っておいて、他人が丁寧に扱うのを感謝するというのも倒錯行為でしかない。

 もし中国人が日本救助隊の発見遺体に対する「整列した黙祷」の捧げを 「失われた命もおろそかにしない姿勢」と受け止め、そのような丁寧な扱いに感謝の気持を抱くなら、チベット人もミャンマー人もそれぞれが「個人物語」を抱えているのである。中国当局がチベット人に対して、ミャンマー軍事政権がミャンマー国民に対して人間らしく自由に生き・活動することに制限を加える生命(いのち)の「疎かな扱い」に敏感であるべきで、無頓着であるのは一国主義的であり過ぎるのではないだろうか。

 あるいは国籍や民族の違いで生命(いのち)の扱いに差別を設ける矛盾行為にならないだろうか。

 国籍や民族の違いに関係なしに死者に対しても尊厳を示す。現在生きて在る生命(いのち)に対しても尊厳の気持を忘れない。そうしてこそ生命(いのち)を「おろそかにしない姿勢」だとすることが初めてできるはずである。 
 ≪四川大地震、校舎崩壊に怒り 子ども亡くした父母ら≫(asahi.com/2008年05月21日23時32分)

 【都江堰(とこうえん)(中国四川省)=小山謙太郎】パソコンやコピー機を放り出して踏み壊す母親。テントを引きずり倒し、怒りをぶちまける父親――。

 中国・四川大地震で校舎が崩落、生徒ら430人が亡くなった四川省都江堰市の新建小学校の父母ら約400人が21日、臨時に置かれた市教育局のテントに押しかけた。

 「周りの建物が無事だったのに、校舎だけ崩れたのはおかしい」

 校舎の建築に問題があったとする父母らは、教育局長を取り囲み、建築を許した責任、救援が遅れた理由などについて説明を求めた。

 「時間をください」。小さな声を絞り出す教育局長。

 「そう言って、いつもだまされてきた!」。父母らは教育局の備品を壊し始めた。

 救援物資の中に子供用リュックを見つけた母親が叫んだ。「私たちは子供を失った。今更こんなもの要りますか?」。次々とリュックを空に放り投げた。「不要(プーヤオ)(いらない)!」「不要!」。涙ぐんだ声が飛ぶ。

 900人が生き埋めになった同市の聚源中学校でも、父母らが市への抗議を準備。綿竹市にも同じ動きがあり、校舎崩落の責任を問う声が広がっている。

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