えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

歩き出した道の前にsyoujiさんが

2006-05-21 | 日記
 keikoさんがsyoujiさんと結婚するって決めたとき
あの時、みんな驚いたよね。
「えー!!なんでー?なんでまたそんなひとと?!
 どこで知り合ったの?!!」(茨城弁?)って。
でも、ワタシは何だか分かるような気がした。
ほとんど、誰にも相談することなく淡々と自分の生きる道(方向)を決めたって感じだった。
keikoさんの友人は
「どうしてそんな大事なこと決める前に相談してくれなかったの?」と聞いたんだ。
keikoさんも、そう言われて考えた。
そう!迷うことなくきめてしまったなぁ・・・って思った。
相談というのは、迷うときにするもので、迷わないときって相談する必要もないんだ・・・なんて妙に自分で納得していたように思える。
そして、keikoさんを見ていて思ったんだ。
人間て「迷わず決断できる」そんな時ってあるんだ・・・って。

 あの頃、(Kちゃんの就職が決まったその冬から翌年の春頃まで)
keikoさん、メチャクチャ落ち込んでいたんだ。
どうしたのかと思うくらい、暗かった。
必死にもがいていたんだ。
二人の子どもたちを社会人として送り出せるという安堵感が、ひとりで頑張ってきたことの反動だったのか、一気に大きな虚脱感が襲ってきてそこから這い上がれなくなってしまっていたんだ。
職場の人間関係にも疲れていた。
将来に何の目標も見つけられず、大きなため息をついたり、いきなり訳も泣くハラハラと涙を流したり、仕事も集中できず、そしてとうとう上司と面接し、
「仕事をやめたい。今の部署から離れさせて欲しい」って申し出てしまったんだ。
中途半端な仕事しか出来ないのが許せなくて、環境を変えないといけないって考えたんだ。
実家に帰って両親と一緒に住もう、とも考えた。
上司は、職場の中で「部署」を変更することも考えてみましょうって言ってくれた。
面接を終えて、少し気持ちが軽くなって
keikoさんは、翌日
開催中の日本国民救援会茨城県本部の主催する
「救援美術展」の会場へ行ったんだ。

 これは、前の年の12月
落ち込んでばかりいたkeikoさんに
「救援会の仕事を手伝ってくれませんか」と突然、県本部のSさんから電話があって、迷っているところへ何度も何度も「お願いコール」があり、その熱意に断りきれなかったことと、
「一つぐらい、一生懸命自分の意志で関われることが欲しい。救援会の仕事だったら、迷うことない」と思ったんだ。

 そして、年が明けて行われた1月末の救援会新年会。
keikoさんは、syoujiさんを初めて「見て」衝撃を受けてしまったんだ。(でも、この時は、壇上のsyoujiさんを眺めていただけ・・・。)
それが、5月・・・
仕事もやめて、実家へ帰ろうとまで考えていたのに
救援美術展の運営に関わっていたkeikoさんは、syoujiさんと再び会ってしまったんだ。
この2度目の出会いがなかったら・・・

 とにかくkeikoさんは元気になった。
そりゃ、あのsyoujiさんと一緒に人生を共にする、苦労がないはずないよね。
でも、keikoさんが元気になって、輝きだしたんだ。
今となっては、それが、ワタシは一番嬉しいんだよね・・・