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えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

かんぽの宿大洗から

2012-03-25 | 日記

那珂川河口に架かる海門橋の夕景を見ています。
奥は太平洋です。

今は、満ち潮の時間なのでしょうか?

海から川上に向かって、小波が見えます。

今日は、ここで救援会関東ブロックの合同会議が行われています。

春ですね

2012-03-24 | 日記
                           

我が家の庭にも緑色の芽吹きやかわいい花が見られ、春の訪れを実感できるようになりました。

庭に出るのが楽しくなりました。
これからどんな庭にしていこうかな?

またひとつ、区切りがついて

2012-03-20 | 日記
 今日、「櫻井家」の開眼法要が営まれました。
夫の両親の眠るお墓です。(いずれ私たちも)

夫の兄姉妹、従妹、本家の義従妹の出席をいただき、長いこと集まる事のなかった親族が一同に会し、和やかなひと時を過ごしました。 

 今日は、お義母さんの命日でもありました。
まだ、守る会もない時代、拘置所に囚われていた息子の無実を信じ、最後まで「悔しい」と言い続けながら亡くなられたという事を義妹から聞いて、私も胸が詰まりました・・・。

お義父さんが、駅頭に立って息子を取り戻すために署名を訴えていた姿を知る、従妹の話も聞きました。

義父母の無念さ、悲しみ、怒りはいかばかりだったろう・・・。
どれだけ、この親族はそれらを味わってきたのだろう?
そんなことを考えながら、皆さんの話を聞いていました・・・。

 でも、今日の皆さんは、とても明るく、長い間バラバラになっていた親族の再会に誰もが喜んでいました。
楽しい話もたくさんあり、私も一緒にそのひと時を楽しみました。
長い間、夫が
「誰が植えてくれたんだろう」と言っていたお墓の沈丁花と白い椿は、お義兄さんが挿してくれたことも分かり、私は、お義兄さんの「優しさ」を今までになく強く感じました。


夫と結婚し、私が、
「両親のお墓を造ろう」と言った時、夫は
「今はとてもそんな余裕は無い。俺たち生きている者を優先する事を両親も分かってくれているはず。裁判が終わったら『俺が造る』から」と言いました。

 仮釈放で社会に戻ってから15年4ヶ月。
やっと夫の思うように夫自身の手で、両親への思いを建墓という形で成し、親族の再会の場も無事に終え、気持ちの上でも一区切りがついたことを実感しているようでした・・・。

・・・・・・・・・

夫へ
「本当に今日の集まり、よかったね。
 長い間抱えてきたもの、またひとつ下ろすことができたね。
 お疲れ様でした。
 私も、皆さんといいお付き合いを続けていきますね。
 お墓参りも、これまでのようにできる限り、年に何度でも行きましょう」

3月18日

2012-03-19 | 日記
第65回解放運動無名戦士合葬追悼会が行われた3月18日は、とても霧の深い朝でした。

私は、東京・日本青年館で行われる式典のお手伝いのため、赤塚駅から上野に向かうスーパーひたち10号に乗るため、霧の早朝、車を走らせました。

早春

2012-03-19 | 日記
彼岸に入ったのに「春まだ浅い」毎日ですが、代々木公園の椿の花を見ていたら、何だか嬉しくなってしまいました。

「私は、椿が好きなんだな」
って改めて思いました。
幼い頃から、実家の庭にあったのを見てきたせいでしょうか…。

残しておきたいもの

2012-03-16 | 日記
夫の生まれ育った利根町。
3月の初め、そこから沈丁花と白い椿の枝を切って持ち帰った。


椿は
「切ってしまう」
沈丁花は
「植え替える」という夫の判断だったが、業者さんとの行き違いで両方とも「切られて」しまったもの。
沈丁花への夫の思いは、特別なものがあったので挿し木で残せるかもしれない、との考えだった。しっかりとつぼみをつけていて、やっと待ち望んだ春に花を見せてくれるところだったことを思ったら、私もとても心が痛んだ。
まだ固いつぼみで「咲いてくれるかな」と心配があったが、水に挿しておいたらどちらもかわいい花を見せてくれた。

花の開く前に、夫は出張?して行ったので、今日、帰って、見たら喜んでくれるかな?

暖かくなってきたので、挿し木の準備も始めよう・・・。

     


              



母の笑顔

2012-03-14 | 日記
 実家に行くたび、父の容態や体調の訴えを聞く事が多くなり、母との会話が少なくなっている事を感じていた。
父と話していると、ほとんど会話に加わってくる事は無く、いつの間にか席を立っている、そんなことが増えていた。
「あっ、ごめん!」とそのたびに思った。
今は落ち着いているとはいえ、母も大きな手術をして、まだ半年。まもなく、すい臓がんの再検査も近づいているのだ。
母にも声を掛けてあげなければならないのに、父の容態のほうが不安定なものだから、つい・・・。

 今日は、私たちが今回引っ越した近くに母の従妹がいる事が分かり、その事を母に話したら、いつになく元気にその従妹の事、私の祖母の姉妹が嫁いだ話、一族の話で盛り上がり、父と母と私の3人の楽しいひと時となった。
(娘は、蚊帳の外・・・。仕方ない、遡った話は99年前?のご先祖様まで行ってしまったのだから・・・)
でも、母の生き生きと話す表情がなんとも言えずきれいに見えた。
どんなに歳をとっても、このような話は記憶が薄れる事はないのかな・・・。
今だからこそ、聞いておくことも大切なのかな?
父や母にとってばかりではなく、私にとっても・・・。

「『近くに引っ越してきました』って挨拶に行っといたほうがいいな。深い付き合いは必要ないけど挨拶だけでもしておくと、向こうも喜ぶから」

と、言われたけれど・・・。
う~ん・・・(思案中)

(実家の庭に植えられている金木犀は、99年前に植えられたものだった、と初めて知る)

心が痛む・・・

2012-03-14 | 日記
娘との会話

「あのね、おばあちゃんたちってさ、何かお母さんや○○さん(私の兄)に遠慮してるんだよね。私に言いやすいのかも知れないんだけどね。私は別に良いんだけどね、何だか可哀想になっちゃった・・・」

「『何か買っていく?』って電話したら、『パックになっているご飯を買ってきて』って言うから『どうしたの?お米は?』って聞いたの。そしたら、お米を搗かなければ無いって。」

「『どうしてお母さんに言わないの?』って聞いたら、『お母さんは忙しいんだよ』って言ってた。自分の娘にも息子にも遠慮してるなんて、何でなんだろう?」



その話を聞いて、すっごく心が痛んだ。
全く何も感じなかったわけではない。仕事を辞めて今までの何倍も実家には足を運んでいる。
でも、思えば、父や母の病院通いが主で、最近は用事が済むと、
「今夜会議があるから」「引越しで忙しいから」「今日は、syoujiさんが帰ってくるから」とゆっくり話す間もなく帰ってくることが多かった。
兄も東京から来てくれていたから、気にはなりながらそんな対応しかして来なかった。

「今日は夕ご飯、食べていけるのか?」
「ごめん!今日も、このあと予定が入ってるから食べないで帰る」
そんな会話を幾度繰り返してきたか・・・

両親が、一緒の食事をどれほど望んでいるかそれを感じながら来ていたから、娘から言われた言葉がストレートに理解できた。

・・・・・

 今日は、午前中に実家へ行った。
娘は一昨日の夜、夜10時まで勤務してその足で成田から2時間かけて深夜に帰ってきて水戸に泊まり、昨日午前中に実家に行って泊まっていた。
私は、前から予定していた、3部屋のカーテン交換を娘と一緒にやった。
それから、母の用意してくれた昼食を4人で一緒に食べて、
やっぱり、
「2時に工事の人が来るから帰るね。また、土曜日に来るから」
と、娘を置いていつものパターンでトンボ帰り・・・。

明日早朝出勤だと言う娘は、夕方、成田に帰る前に、両親から依頼されて精米をし、自分の分と私たちの分を合わせて持って寄ってくれた。

そう言えば・・・
「sakurai君に悪いから早く帰れ」という父の言葉も何度も思い返された。
それは、父の優しさでもあるのだけれど、遠慮もあることに気付いていた・・・。

遠方に出かけている夫に、娘との会話を伝えた。
「何やってんだよ。もう少し、あんたも気遣ってやらなくっちゃ!
 それにしても、kaoriは頼られてんだな・・・」

ハンセイの一日・・・でした。



夫婦って

2012-03-13 | 日記
夫婦似たもの同士、ということをよく聞く。

私たちはどうだろう・・・。

B型気質典型の夫とAB型の私。
最近思う。
夫と出会う前は、限りなくA型気質の占める割合が多かった私が、今は「限りなくB型気質」が多くなっているのでは・・・と。

新しい生活が始まり、私のずぼらな面が露出し、夫の異常とも言える細かいところへのこだわりに驚く。
お互いに感じあう微妙な空気・・・。

改めて、
私たちの新しい関係をここで築いて行くんだ、と考えている・・・。

少しきりきりしていたこと、キリキリさせていたことを、夫の留守の夜に一人反省している・・・。