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えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

お芝居

2012-06-18 | 日記
 ひょんなことから、
児童劇団の公演のお手伝いをする事になった。
公演日が流動的であったことから、
「日程が合えば・・・」と、保留にしていた事が、今日、正式に、今後の予定が通知された。

「空いてるので、詳しいけいこ日等知らせてください」と返事した。


 ずーっと昔、高校のとき少し演劇部にいて、学生時代、社会人になってからも少しだけアマチュア劇団でお世話になった。
演ずるというより、「みんなで1つのものを作り上げる楽しみ」がそこにあった。
だから裏方も好きだった・・・。

 今回、稽古をしている現場を見学していたら懐かしくなって、すぐに断る事もせず、ずるずると見学を続けてしまったことが、最終的に「手伝う」ことになってしまったのだ。

 でも、子供たちはもちろん、大人も熱心に取り組んでいる姿は、私には刺激的だった。
「主婦」の生活に慣れてきて、やることはいろいろあるのだが、それでも、「何かやりたい」と自分の中でくすぶっていた思いが、「児童劇団のお手伝い」となった。

 公演日まであまり時間が無い。
どこまでできるか・・・。
少し緊張が増してきた

脳より膝・・・

2012-06-18 | 日記
 先日受けた、脳ドックの結果が届いた。

「年齢相応のわずかな梗塞が見られますが、日常生活に支障なし。
 3年後にまた健診を」

と、総合所見にあった。

不安が無かったわけでは無いけれど、

「やっぱりね~。だって、ぜ~んぜん、『頭』は元気だもん!」

と、結果を見て、安堵と同時に開き直りも。

 それより、それより・・・
左ひざが痛い!
平坦なところを歩くのはなんでもないが、屈んでする仕事、特に草取りのときがしんどい!

で・・・

グルコサミンを注文した。
夫も友人も、TVや、新聞、折り込みチラシ、み~んなが
「いい」
と、言うから・・・。

膝のサポーターも注文しました。

年齢をつい意識してしまうこの頃です

あ~ぁ・・・
来月の「早池峰山行き」
行きたかったな~・・・

『絶対』おかしい・・・?

2012-06-04 | 日記
 先日の人間ドックを終えて、この際だから脳ドックも受けておこうと思い、予約をとっておいた。
夫に話したら、
「それはいい!ちゃんと調べてもらったらいい」と即賛成の表明をしてきた。
私からしてみれば、
以前から気になることがあったことと、過去の脳外外来で診断受けたものが、今どうなっているか知りたい思いからなのだが、
夫は、どうも最近、私が、
「聞いてない」
「覚えてない」ということが多く、
「絶対、あんたの頭、おかしい!だから良く調べて貰え。絶対おかしいから!」ということになったのだ。

 今日、出先からの連絡に
「終わったよ」と、言ったら、
「どうだった?」と聞いてきた。
「あっ、すぐには解らないか?はははっ」と言いながら。

「何かあったほうが楽しいみたいね。本当に何かあったら、私どうなるのかしら」と、返した。

『絶対』という言葉を良くつかう夫。
こんなときに使われると、本当に凹んでしまう。
何でも『絶対』・・・。
本当に『絶対おかしい』のかな?
脳に異常がなくて「おかしい」事が続いたら、夫は、次は何と言うのかな・・・。
頚部エコーでは、検査技師さんが知っている方で、
「頚動脈は、とてもきれいです」って、褒められた?んだけどな・・・。

 結果は数日後にわかります。
夫は、昨年のドックで要注意となった項目のフォローを中断しています。
今年のドックの予約をやる、やると言って、まだやってないまま・・・。

最近・・・

2012-06-03 | 日記
 ずっと夫と離れての生活があって、その間、ほとんど毎日、夫から定刻に電話が入り、その都度一日の報告をしあうのが私たちの日課だった。
 でも、毎日、予定があって「報告することがある」夫と、「特に無い」私の間にいつしかその温度差が生じ始めてきた。
それでも、夫は、出かける事が多く出先から必ず電話をくれた。
だから、初めてお会いする人でも、何処で夫がお世話になったのか、ある程度自分で解って対応も出来た。
逆に電話が無いときは、
「何かあったのかな」と心配にもなった。

 ところが、いつ頃からか、
「詳しくは、ブログ、見て」と言われる事が多くなった。
正直、その頃の夫のブログの書き方が、私はあまり好きでなかった。
「好きじゃない」と言ったら、
「いいんだ。俺は、俺のやり方でやるんだ」と、その姿勢は変わらなかった。
あまりのストレートな表現に、ネット上の顔の見えない不特定多数に発信するブログで、
「見えない敵を作るような不安」が私にはあったのだ。
訴えられる事は無いだろうか、知らないうちに監視され続けたりしてないだろうか、襲われたりしないだろうか、酔って帰る途中でトラブルに巻き込まれたりは無いだろうかと。
そんな不安を口にし、
「どう思いますか?」と何人かの、ブログファン(支援者)に聞いた事もある。
その方たちの決まって返ってくる返事は、
「いいんじゃないの、sakuraiさんらしくて。sakuraiさんじゃなくては言えない事だし、書けないことだよ」と夫を擁護する意見が多かった。

 だんだん、夫の忙しさも増し、
「ブログ、見て」の回数が増えていった。
それは、私にとって、会話が減ったな、という寂しさでもあった。
その分を補うように、私は、夫の出先での様子、夫の感情などいつしかブログから読み取るようになっていった。
でも、「声」以上のものは、ブログでは伝わって来ない。
第三者が知りえるものと同じものしか伝わって来ないのだ。


 先日、電話もなく、ブログも更新されて無いことが続いた。
「何かあったのかな」と心配していたところ、案の定、帰宅した夫からその理由を聞き、
「そうだったんだ・・・」と納得。
それなのに
私はメールで、何と間の抜けた内容を送ってしまったのか、と反省した。
どうりで「返信」も無かったわけか・・・とその訳が想像できた。

 些細な事かもしれないが、私は実家に通う時間が増え、夫は長く家を開ける日が続き、お互いが「違う空気」を吸っている不安を感じている・・・。
いよいよ、夫の新しい闘いが始まろうとしているのに・・・。

ふるさとの山間で出会ったもの

2012-06-03 | 日記
 父に印鑑証明を取ってもらわなくてはならず、父と一緒に城里町七会支所に車で出かけた。
「近道をしよう」という父の言うとおり、途中山道をぬけようとしたら、突然目の前を小動物が横切った。
一時停止し、目で追うと、それは「野うさぎ」だった。
「えっー!うそでしょう!うさぎだよ!」と、つい大きな声を上げてしまった。
間近で見たのは初めて。
左から出てきて右手の山へ駆け上がり、その中腹で二本足で立って、こちらを見ているではないか。
茶色のその姿、くりっとした目。とにかく可愛かった。
「写真撮りたい!」という私に父が言った。
「だめだ。すぐ行っちゃうから。でも、珍しいなぁ。こんなところで見られるなんて。交通量は大分あるんだけどなぁ」


 用事が済んで、帰り道。
「父が、別な道で帰ろう」と言う。
聞けば、車を手放した父は、役場の支所や農協に来るとき、農業用のライガーで山を越えて来たのだと言う。
その道を教えるからと言うのだ。
車はもう運転しない、と決めたものの、やはり用事を済ませるには移動手段が必要で、私たちが行けない時は不自由を感じている事が想像できた。
父の案内で、今まで走った事の無い来る時よりももっと細い山道を走った。
自分のふるさとであるのに、私の知らない道だった。
でも、「関東ふれあいの道」と呼ばれ、笠間から御前山に抜ける県道らしい。
道幅は途中から狭くなり、対向車があったらどうするんだろう、と思うようないかにも「山道」といえる道だった。
でも、「森林浴」もできる気持ちいい森を抜ける道で、不安ながらも楽しいドライブとなった。

 そこで、また、目の前を横切る小動物が!
「えっ!ネコ?」
一匹が姿を消した後、もう1匹!
これは、子どものようだった。
よちよち(に、見えた・・)目の前を歩き、先に行ったものを追いかけるように山の中に消えた。
後から見たのは間違いなく「イタチ」だと父が言った。
確かに、ネコでなかった事は私にも分った。
「なら、前に行ったのは、イタチの母親?そうだよね~。こんな人の住んで無い山の中に、ネコがいるはずない。 何だか、すっごい、今日は得した気分!嬉しいなぁ」
私は、運転しながら、ついはしゃいでしまった。

 それにしても、私は、子どもの頃随分兄たちと山に入って遊んだけれど、実際に野うさぎやイタチなど見たことが無かった。
今頃になって、ふるさとの山に生息する小動物を実際に見られるなんて、何か不思議な気がした。
時間があったら「ハイキング」してみようかな、と、そんな気分になった。
そしたら、もう一度、あの動物に会えそうな気がして・・・。

 父がライガーで山越えした事も、「こんなに長い距離(片道10キロぐらい)を?」と驚かされた。山の中で脱輪してしまったら、どうするのか?と不安になった。もう少し、頻繁に私が足を運ばなければ・・・と反省もさせられる、そんな一日となった・・・。





88歳の誕生日まで・・・

2012-05-29 | 日記
 父の、
「この頃、また、死にたくなくなってきた」のことば。

病が、父を苦しめている現実はあるが、どうも私には、外見では判らないくらい「安定」して見える。
たぶん症状はあっても、「食べられる」「動ける」ことの喜びが父をそんな風に考えさせるのかもしれない。
そして、初夏の自然の力が「何かをしたくなる」思いを引き出してくれるのだろう。

 車はもう運転できないからと、手放したとたん、
「野菜の苗を買いに行きたい」
「支柱が足りないから買い物に行こう」
と、頻繁に私の元に電話が来るようになった。
それだけ、外に出て行動したいという積極的な意思の表れでもあると考え、実家に向かう。
「緩和ケア」のDrから
「思っている以上に急激に悪くなるという事も念頭においてください。そのような時は、いつでも連絡下さい。すぐ対応しますから」と説明を受けていたのが、何だか嘘のような時間が今の父には流れているのだ。

 確かに、田舎では車がなければ生活できない。
でも、臀部に腫瘍が大きく出てきて、痛みも薬が無いとコントロールできなくなって、普通に座る事のできなくなった状態では
「もう、車の運転は無理」と判断せざるを得なかった現実があった。

 昨日は、「郵便局」に父と行った。
「もう長くないから」と、何度も口にする父に、窓口の女性が、
「その言葉、もう、何年も聞いてるんだけど・・・」と笑って応えていた。

 父は長く、この「特定郵便局」に勤めていた。
局舎の前の松やヒノキを指して、
「これは若い頃、俺が植えたんだ。ずいぶん大きくなっちゃったなぁ」と見上げながら言った。
「ダメだな、少し切ってやんなくては」と。
民営化になって、今の局長?さんも職員の方も、もう地元の人ではなくなった。
局舎の周りの樹木の手入れは、職務外だし、時間もなく手が回らないのだろう。
伸ばし放題になりつつあるその周辺に目をやりながら、私は父の若いころを思い出していた。

 でも、でも、でも、
やっぱり、益々頑固で、愚痴の多くなった父。
あ~ぁ、これって娘だから受け入れられるけど、お嫁さんだったらイヤになっちゃうだろうな・・・

「今年の誕生日まで持たないなぁ」と言っていた、数ヶ月前。
大丈夫!
このままきっと迎えられる。8月なんて、もうすぐだもの!


 そんな時間を過ごして帰宅。
「お義父さん」ってどんな人だったんだろう、と思った。
「ショージは似てきたよな」と、義父の晩年を知る支援者の方のことばが思い出され、夫の姿と重なった。

 


初めてのお茶作り、失敗!

2012-05-28 | 日記
 昨年は、セシウム残留濃度が高く1年分の実家の茶葉を放棄した。
今年はどうかと城里町の発表を待っていたところ、安全性が確認され、新聞で公表された。製茶工場も稼動していると人伝に聞き、それじゃ、「お茶摘みしよう!」と
​父と母と決めた。

 その前に、製茶工場に持ち込みの予約をしなければ、と、電話をしたら、「個人のは今年もやっていません。契約農家(組合)分だけで、それも、すべて検査をしながらやっているんですよ」とのこと。

やっぱり!
まだ、その段階なんだと了解するしかない。
なら、自分で飲む分だけ作ってみよう!と、初めて自宅でのお茶作りに挑戦・・・。

「美味しいお茶を作って持ってくるから!」

そう言って、実家の茶葉を少しだけ持って帰った。
         

早速、キッチンにたって、やってみた。
けれど、思っていた以上に難しく、それに、結果(風味・味・見た目も)も納得いかない・・・。

 悔しい。考えていたより、かなり労力いるし、上手くいかない。

           

                        

また、リベンジしたい


・・・・・

 お茶は自分の家で、と長い間そういう生活をして来た人たちにとって、
「今年もダメなのか・・・」と、原発事故によって壊された自然と生活形態への失望感でいっぱいのはずだ。
ひとたび事故が起ると、無限の被害と、人間の知恵と科学で収束させることの出来ない原発は、使用してはいけない、強くそう思う

36年のご支援に感謝して

2012-05-27 | 日記
  
                              
                


 布川事件守る会の解散総会が東京で行われた。
第36回と書かれた横断幕と活動の経過報告を受け、改めて、夫たちの支援がこんなにも長く続けられたのだと再認識し、胸がいっぱいになった。
 前日の、名張事件の再審取り消し決定の直後でもあり、再審裁判の厳しさが言われる中、「布川」の勝因がどこにあったのか、何がその分かれ目になるのか、夫たちの幸運に感謝せずにはいられなかった。

 弁護団の先生方の周到な準備、守る会の多彩な分野からの支援、企画、当事者に寄り添った地道な援助、そして、当事者二人が支援者に信頼を寄せ、依拠した、意欲的な活動。
私が関わった後半の第二次再審に向けた闘いの時間は、人間関係の面から見ても、決して順調に進んできた来た事ばかりではない。
二人を囲み、大きな、大きな人間集団がそこにでき、さまざまな摩擦、感情の行き違いによるトラブルも少なからずあった。
それでも、みなさんは二人をいつも寛容に受け止め、励まし続けて下さった。
 しかし、私が見てきたのは、希望を持って前へ、前へ、と前進し続けていく姿だった。
それだけに、そこに至るまでの、展望が見えなかった時代のたたかいはどんなだっただろうと思うと、
改めて熱いものがこみ上げてきた。

 何人かの方から、私が関わる前の初期の段階でのお話をうかがうことができた。
夫の父が、守る会の方たちとどんな交流があったのか、義父がどんな人だったのか、話の断片から窺い知ることもできた。
「父子だな」と思わせられるようなエピソードも・・・。

 特に、杉山さんの叔父さんが地元の知人と、東京の松本善明法律事務所に相談に行ったこと。
そこで出会った柴田弁護士が、杉山さんの私選弁護人になり、1審敗訴から、夫の弁護も引き受けてくださり、「裁判だけでは勝てない。日本国民救援会に支援を訴えるように」と助言をいただき、二人が支援を訴える手紙を救援会東京都本部に送った事。
その手紙に高橋勝子さんが応えて下さり、
以後、東京都本部は毎月二人への面会を重ねながら、学習会、現地調査を重ね、守る会の基盤を作ってくださった。

 それから、36年間。途絶えることなく、面会、差し入れ、署名宣伝、支援コンサート、支援美術展、裁判所要請など、など、守る会活動を発展させ、二人を励まし続けて下さった。
仮釈放になってからも、精神的援助のみでなく、多彩な企画で支援カンパを作り出し、経済的援助もし続けて下さった。

 お名前を聞いて私が知る限りでも本当にたくさんの方にご支援いただいた。
すでにお亡くなりになられた方もたくさんいる。
ひとりひとりに感謝とお礼の気持ちをお伝えしたい、と心から思った。

 昨日は、
昨年「晴れて無罪を獲得」し、真の自由を得て1年が経過した二人が、「ふつうのおじさん」になれた穏やかなの表情の姿に安堵された方も多かったと思う。
共に苦楽を分かち合って来た皆さんと、喜びを持って守る会解散となり、また、新しい歩みにそれぞれが足を踏み出す、それをご報告できるステキな1日となった。


 守る会事務局の皆さん、本当にありがとうございました。
ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました
また、参加できなかったみなさんは、それぞれの場所で、それぞれの思いで感慨に浸っていただけたかと思います。
亡くなられた皆さんは、きっと天国で共に祝杯をあげてくださっていた事と思います。

 本当にありがとうございました。


 一夜明け、夫は、水戸に帰らず、そのまま京都での可視化集会?に参加するため向かいました。

私は、仏前で夫の両親に昨日の報告をしました。

裁判所の責任

2012-05-25 | 日記
名張毒ぶどう酒事件の再審の可否の決定の日。

名古屋高裁の開廷は10時と聞いていた。
決定もすぐに出るはず。
なのに、現地に行っていた夫からいつまでたっても連絡が入らなかった。

 私は、朝からNHKをつけていた。
臨時ニュースで、
「再審開始決定」を知らせる臨時テロップが流れるものと信じて・・・。
でも、いつまで待っても流れなかった・・・。

11時のニュースで「不当決定」の垂れ幕を持って固い表情で法廷から走り出してきた弁護士の映像が流れた。
「なぜ?どうして?」の思いが走った。
奥西さんは、この決定をどんな気持ちで聞くのだろう、と思った。

夫にメールした。
「ニュースで見ました。なぜ?どうして?」と。

夫からは、
「酷い!言葉が無いよ」と返ってきた・・・。



 それにしても、最高裁が差し戻した意味が、名古屋高裁の裁判官には通じなかった…。
 「疑わしきは被告人の利益に」に働かなかった。
 冤罪被害者の人権、命までもが、こんなに軽んじられるなんて。

奥西さんの
「今後の勝利を信じます」のコメント・・・・を聞いた。

どんなに悔しかっただろう。
落胆しただろう。
なぜ?なぜ再審を認めないのだ!と、大声で叫びたかったろう。
胸の奥の怒りが抑えきれないはずだ。
でも、でも、冷静なコメント・・・。

 前回、最高裁が名古屋高裁に差し戻したとき、私は、「再審へ近づいた」と喜んだ。
しかし、夫は違った。
「最高裁はなぜ自ら『再審開始決定』を出さないのだ?」と。

今になって思う。
いたずらに時間をかけ、またもや奥西さんの再審にすがる思いを踏みにじり、奈落の底に突き落とすような決定。
いったい、裁判官は、人の命、人権を何と考えているのか?
あまりにも酷い決定・・・。

夫の言ったように、最高裁は名古屋高裁に差し戻すことなく、あの時最高裁の責任として「再審開始決定」を出すべきだった。
責任逃れをした最高裁の判断を、一時でも、よかった、と思ってしまった自分の判断を恥ずかしく思う。

1審で無罪、2審で死刑。
そして、やっと
第7次再審の1審で「再審開始決定」
いかし、同じ高裁でまた「決定取り消し」

そして今回だ。
何度、何度、奥西さんの無実の叫びを弄ぶように、裁判官は真実から眼を背けるのだろう。

2012年5月25日
奥西勝さんは、86歳4ヶ月の年齢で、冷たい裁判所の仕打ちに今夜も一人耐えている・・・。
何としても、一日も早く「生きて社会へ」帰っていただかなければ・・・。

奥西さんは「無実」なのだから。