「義父の1周忌法要をした。義父は優しい人で、連れ合いは、ただの1度も叱られることなく育ったと言う。俺と結婚すると決めたときに、親子の縁を切ると怒られたのが、最初で最後だったらしいが、何時も穏やかに話し、笑っている人だった。
連れ合いの実家に行くたびに、そこにいないのが不思議な気持ちがして、俺が感じるのだから、連れ合いや家族は、さぞやと思っていたが、1周忌法要をしても、その不思議さは消えなかった。
田舎の暮らしは、庭の草取りから、やることが多くて、たまに行く我々夫婦が手を出すくらいでは、とても収まらない。法事で、あれやこれやをして見ると、改めて義父がなしていたことの大変さを知ったし、存在の大きさを教えられた感じだった。」
上の文章は、夫のブログをコピーしたもの。
夫の思いは嬉しいけれど、「ちょっとちがうんだけど・・・」の思いを、ここで書かせてもらう。
父は気の短い人だった。母が言うのだから、そうなのだろう。
正義感が強く、曲がったことが大嫌いな人だったんだ、と改めて、この2年半(夫の再審裁判が勝利判決で終結したことを契機に)仕事を辞め、両親と過ごした時間(父とは1年半だったが)の中で実感できたことだった。
そして、病院への送り迎えの車の中で、父親としての家族への思いを初めて直接に聞いたことで、父の優しさも知る機会となった。
また、がん闘病の最後の姿は、「人間としての尊厳」(単にプライドだけでない)を教えられたようなそんな姿でもあった。
今回の一周忌は、やはりまだ私たちのすぐそばに父がいて、ひょいっと笑って法要の祭壇の間から出てきそうなそんな身近な感覚を覚えたのは私だけではなかったことを、夫のブログで知った。
そんな父に私が怒られたことがなかった?
そんなことはない。
兄弟3人の二番目に女の子で生まれた私は、「おとうちゃん子」(兄がおばあちゃん子、弟はお母ちゃん子)として可愛がられて育った。
そのせいばかりではないが、結構わがままだった。
「泣いて」自分の要求を通してしまうような・・・。
自分が間違ったことをしても素直に「ごめんなさい」を言えない子だった(これは、今でも同じで夫を閉口させているかもしれない・・・)
小学校へあがる前だったろうか。
同様に「泣き戦法」でやり過ごそうとした私に、父が怒って、私を横抱えにして蔵に行き、その中に閉じ込められたことがある。
押し入れにも何度か入れられた・・・。
「言って効かない」こどもへのお仕置きだ。
しばらくして、そのまま寝てしまったり、母や祖母がそっと迎えに来て、諭されたり?・・・。
でも、そのあと「ごめんなさい」を言った記憶がないことが、今にも通じているのかもしれない・・・(ウン、そうなんだ!)
泣きやめば、父は許してくれていたのかもしれない。
私は、高校入学を機に、実家を離れ、自活を始めた。
当時、田舎からの交通の便が良くなかったこともあり、地元から離れた高校に行くには、それは特別なことではなかった。
以来、専門学校、就職、結婚・・・と実家を出たまま(もちろん頻繁に帰ってはいたが)の生活が続いた。
順風とは言えない人生の波も経験し、そのたびに両親や家族に心配をかけてきたが、やはり一番は「夫との再婚」だった。
夫の文章にあるように、この時ばかりは「勘当」ということばを父から突き付けられた。
私は、正義感の強さとそれまでの長い公務員生活を経験した父は、必ず公正に判断して「理解してもらえる」と信じていた。
でも、結果は「勘当」だった・・・。
夫から、親として「当然」の反応。その気持ちは「最大の心配」なのだ、と言われた。
不思議と、その時、両親には申し訳ないが、「必ず理解してもらえる」、「時間が必要」と思い、私は迷いなく選んだ道を歩き出した(実際、2年で勘当は解け、両親は夫の支援者に変わってくれた)
父への思いは、まだまだ遠くならない。
15歳で、実家を離れ、心配をいっぱいかけ続け、やっと父の86、87歳の最後の人生に娘として関わったわずかな時間。
父と娘としての穏やかな時間。
そんな時間が「もう少し続いて欲しい」という思いが、強く父にあったことを感じつつ、見送らなければならなかった。
無念さは残るが、でも、そんな時間を持てた安堵感が私の中には残っている。
今、88歳の母と過ごす時間の大切さを感じつつ、夫に、そんな時間を持たせて貰えていることへの感謝を忘れずに、今日を過ごしている・・・。
連れ合いの実家に行くたびに、そこにいないのが不思議な気持ちがして、俺が感じるのだから、連れ合いや家族は、さぞやと思っていたが、1周忌法要をしても、その不思議さは消えなかった。
田舎の暮らしは、庭の草取りから、やることが多くて、たまに行く我々夫婦が手を出すくらいでは、とても収まらない。法事で、あれやこれやをして見ると、改めて義父がなしていたことの大変さを知ったし、存在の大きさを教えられた感じだった。」
上の文章は、夫のブログをコピーしたもの。
夫の思いは嬉しいけれど、「ちょっとちがうんだけど・・・」の思いを、ここで書かせてもらう。
父は気の短い人だった。母が言うのだから、そうなのだろう。
正義感が強く、曲がったことが大嫌いな人だったんだ、と改めて、この2年半(夫の再審裁判が勝利判決で終結したことを契機に)仕事を辞め、両親と過ごした時間(父とは1年半だったが)の中で実感できたことだった。
そして、病院への送り迎えの車の中で、父親としての家族への思いを初めて直接に聞いたことで、父の優しさも知る機会となった。
また、がん闘病の最後の姿は、「人間としての尊厳」(単にプライドだけでない)を教えられたようなそんな姿でもあった。
今回の一周忌は、やはりまだ私たちのすぐそばに父がいて、ひょいっと笑って法要の祭壇の間から出てきそうなそんな身近な感覚を覚えたのは私だけではなかったことを、夫のブログで知った。
そんな父に私が怒られたことがなかった?
そんなことはない。
兄弟3人の二番目に女の子で生まれた私は、「おとうちゃん子」(兄がおばあちゃん子、弟はお母ちゃん子)として可愛がられて育った。
そのせいばかりではないが、結構わがままだった。
「泣いて」自分の要求を通してしまうような・・・。
自分が間違ったことをしても素直に「ごめんなさい」を言えない子だった(これは、今でも同じで夫を閉口させているかもしれない・・・)
小学校へあがる前だったろうか。
同様に「泣き戦法」でやり過ごそうとした私に、父が怒って、私を横抱えにして蔵に行き、その中に閉じ込められたことがある。
押し入れにも何度か入れられた・・・。
「言って効かない」こどもへのお仕置きだ。
しばらくして、そのまま寝てしまったり、母や祖母がそっと迎えに来て、諭されたり?・・・。
でも、そのあと「ごめんなさい」を言った記憶がないことが、今にも通じているのかもしれない・・・(ウン、そうなんだ!)
泣きやめば、父は許してくれていたのかもしれない。
私は、高校入学を機に、実家を離れ、自活を始めた。
当時、田舎からの交通の便が良くなかったこともあり、地元から離れた高校に行くには、それは特別なことではなかった。
以来、専門学校、就職、結婚・・・と実家を出たまま(もちろん頻繁に帰ってはいたが)の生活が続いた。
順風とは言えない人生の波も経験し、そのたびに両親や家族に心配をかけてきたが、やはり一番は「夫との再婚」だった。
夫の文章にあるように、この時ばかりは「勘当」ということばを父から突き付けられた。
私は、正義感の強さとそれまでの長い公務員生活を経験した父は、必ず公正に判断して「理解してもらえる」と信じていた。
でも、結果は「勘当」だった・・・。
夫から、親として「当然」の反応。その気持ちは「最大の心配」なのだ、と言われた。
不思議と、その時、両親には申し訳ないが、「必ず理解してもらえる」、「時間が必要」と思い、私は迷いなく選んだ道を歩き出した(実際、2年で勘当は解け、両親は夫の支援者に変わってくれた)
父への思いは、まだまだ遠くならない。
15歳で、実家を離れ、心配をいっぱいかけ続け、やっと父の86、87歳の最後の人生に娘として関わったわずかな時間。
父と娘としての穏やかな時間。
そんな時間が「もう少し続いて欲しい」という思いが、強く父にあったことを感じつつ、見送らなければならなかった。
無念さは残るが、でも、そんな時間を持てた安堵感が私の中には残っている。
今、88歳の母と過ごす時間の大切さを感じつつ、夫に、そんな時間を持たせて貰えていることへの感謝を忘れずに、今日を過ごしている・・・。