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えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

父の一周忌

2013-07-18 | 日記
「義父の1周忌法要をした。義父は優しい人で、連れ合いは、ただの1度も叱られることなく育ったと言う。俺と結婚すると決めたときに、親子の縁を切ると怒られたのが、最初で最後だったらしいが、何時も穏やかに話し、笑っている人だった。
連れ合いの実家に行くたびに、そこにいないのが不思議な気持ちがして、俺が感じるのだから、連れ合いや家族は、さぞやと思っていたが、1周忌法要をしても、その不思議さは消えなかった。
田舎の暮らしは、庭の草取りから、やることが多くて、たまに行く我々夫婦が手を出すくらいでは、とても収まらない。法事で、あれやこれやをして見ると、改めて義父がなしていたことの大変さを知ったし、存在の大きさを教えられた感じだった。」

 上の文章は、夫のブログをコピーしたもの。
夫の思いは嬉しいけれど、「ちょっとちがうんだけど・・・」の思いを、ここで書かせてもらう。


 父は気の短い人だった。母が言うのだから、そうなのだろう。
正義感が強く、曲がったことが大嫌いな人だったんだ、と改めて、この2年半(夫の再審裁判が勝利判決で終結したことを契機に)仕事を辞め、両親と過ごした時間(父とは1年半だったが)の中で実感できたことだった。
そして、病院への送り迎えの車の中で、父親としての家族への思いを初めて直接に聞いたことで、父の優しさも知る機会となった。
また、がん闘病の最後の姿は、「人間としての尊厳」(単にプライドだけでない)を教えられたようなそんな姿でもあった。

 今回の一周忌は、やはりまだ私たちのすぐそばに父がいて、ひょいっと笑って法要の祭壇の間から出てきそうなそんな身近な感覚を覚えたのは私だけではなかったことを、夫のブログで知った。

そんな父に私が怒られたことがなかった?
そんなことはない。
兄弟3人の二番目に女の子で生まれた私は、「おとうちゃん子」(兄がおばあちゃん子、弟はお母ちゃん子)として可愛がられて育った。
そのせいばかりではないが、結構わがままだった。
「泣いて」自分の要求を通してしまうような・・・。
自分が間違ったことをしても素直に「ごめんなさい」を言えない子だった(これは、今でも同じで夫を閉口させているかもしれない・・・)

 小学校へあがる前だったろうか。
同様に「泣き戦法」でやり過ごそうとした私に、父が怒って、私を横抱えにして蔵に行き、その中に閉じ込められたことがある。
押し入れにも何度か入れられた・・・。
「言って効かない」こどもへのお仕置きだ。
しばらくして、そのまま寝てしまったり、母や祖母がそっと迎えに来て、諭されたり?・・・。
でも、そのあと「ごめんなさい」を言った記憶がないことが、今にも通じているのかもしれない・・・(ウン、そうなんだ!)
泣きやめば、父は許してくれていたのかもしれない。

 私は、高校入学を機に、実家を離れ、自活を始めた。
当時、田舎からの交通の便が良くなかったこともあり、地元から離れた高校に行くには、それは特別なことではなかった。
以来、専門学校、就職、結婚・・・と実家を出たまま(もちろん頻繁に帰ってはいたが)の生活が続いた。

 順風とは言えない人生の波も経験し、そのたびに両親や家族に心配をかけてきたが、やはり一番は「夫との再婚」だった。
夫の文章にあるように、この時ばかりは「勘当」ということばを父から突き付けられた。
私は、正義感の強さとそれまでの長い公務員生活を経験した父は、必ず公正に判断して「理解してもらえる」と信じていた。
でも、結果は「勘当」だった・・・。
夫から、親として「当然」の反応。その気持ちは「最大の心配」なのだ、と言われた。
不思議と、その時、両親には申し訳ないが、「必ず理解してもらえる」、「時間が必要」と思い、私は迷いなく選んだ道を歩き出した(実際、2年で勘当は解け、両親は夫の支援者に変わってくれた)

 父への思いは、まだまだ遠くならない。
15歳で、実家を離れ、心配をいっぱいかけ続け、やっと父の86、87歳の最後の人生に娘として関わったわずかな時間。
父と娘としての穏やかな時間。
そんな時間が「もう少し続いて欲しい」という思いが、強く父にあったことを感じつつ、見送らなければならなかった。
無念さは残るが、でも、そんな時間を持てた安堵感が私の中には残っている。

 今、88歳の母と過ごす時間の大切さを感じつつ、夫に、そんな時間を持たせて貰えていることへの感謝を忘れずに、今日を過ごしている・・・。




記憶・・・

2013-07-06 | 日記
 ゆうちょの暗証番号が分からなくなり、普段使うことのないカードだからと放っておいたのだが、最近になって使用頻度が増え、いよいよ暗証番号の照会手続きをすることになった。

 そして届いた私の暗証番号・・・。
全く記憶にない番号だった。
どうしてこんな番号が並んでいるのか、自分ではまったく思い当たらないのだ。
これでは、自分が何度も何度も「これかな?」「ちがう?なら、これ?」とやり直してもヒットするはずはなかった。

あらためて数字を眺めてみる・・・。
自分で決めたはず、と言われても、いまだに手続きをしたその時の情景は思い出せるが、やっぱり、この番号にした理由が分からない。
本当に、この番号、私のものなのかなァ・・・。

記憶って、本当に曖昧なものですね。
でも、私がおかしいのかな・・・。

結婚記念日を忘れてしまった!!

2013-07-04 | 日記
 今日は14回目の結婚記念日だった。
それに気付いたのは、夕食も終わってスマホの画面の日付「7月4日」を目にした時だった。


「あっ!
「どうしたの?」
「今日、結婚記念日だった!すっかり、記憶の中から飛んでた!!」
「あっ、そうか。俺も、まったく頭になかったな・・・」

   ・・✿・・✿・・✿・・✿・・

 あ~、あ~、あ~・・・・!
それにしても、今まで、一度だって忘れた年はなかったのに・・・。

今回は、参院選の公示日が「7月4日」と、ずーっと前から聞いていて、その時点で「7月4日」=「結婚記念日」という記憶が私の中に戻って来なかった。

 そして、今年の平和行進が水戸に入ることを聞き、その朝も、
「私は、予定があって参加できないの」と言い、夫も
「オレも無理だな」
そんな会話を二人で、したのだった。
と言うのは、
14年前、私たちが、結婚の祝う会を仲間の皆さんにしていただいた翌日、平和行進が水戸市内で行われると知り、「二人で公に行動する初めての仕事」として意識して参加したのだった。
そして、その後も毎年、出来る限り平和行進も「意識して」迎えていたのだ。
だから、「結婚記念日←平和行進」
これも、記憶を呼び戻すきっかけとなったはずだった。なのに・・・。

 確かに今年の私は、今までになく、頭の中が「余裕のない」状況にある。それは、夫が言うように「能力ないのに、いろんなことをやりすぎる」状態にあるということなのだろう。
そして、加齢のせいか、処理能力も明らかに減退している。
とにかく目先のことを消化するだけで、精いっぱいなのだ。

 だから、「もう少し、自分の役割を整理して、任務をから解放してもらおう」と真剣に考えている最中だったのだ。

 でも、夫も忘れていたという。
これって、私たちの日常が「今までになく平穏」に過ごせているということと考えていいのかな?
虫がよすぎるかな、こんな考え

 夫は、今週、ずっと私の実家に通い詰め、父の1周忌を前にして、屋敷周りの生け垣を刈る作業を続けてくれていた。
明日から週末は、また、「おでかけ」だ・・・。

帰ってきたら、15年目に入ったお祝いに「乾杯」だけでもしようかな・・・


同窓会名簿

2013-06-10 | 日記
 創立90周年記念「会員名簿」平成25年版という、高校の同窓会名簿が届いた。

そこに私の名前がちゃんと今の姓で、今の住所で書かれてあることを確認し、ほっとしながら、遠い記憶を呼び起こした。
何故かと言うと、卒業当時のクラスの名簿順に掲載されているのだが、各クラスとも「住所不明者」として、確認が取れない方の名前が別掲されているのだ。

 実は、ずっと以前、私も「住所不明者」に挙げられていた時期があったらしい。
友人からそのことを聞いた時、
「えっ?ちゃんと、この水戸市内で生活してたのに・・・」と思った。
思ったけれど、実は
「下記の方と連絡が取れません。ご存知の方は、本人に連絡をしてくださるか、事務局までお知らせください」という形で、追跡調査がされていたのだ。
当時、私は、水戸市を離れたのはほんのわずかで、実際にはずっと水戸市にいたのに、それだけクラスメイトと交流がなかった、ということだったのだ。

 私の人生、いろんな節目があった。
その都度岐路に立ち、自分で選択し、歩き続けてきた。
いろんな出会いがあり、その中で「夫」と知り合った。
夫と出会ってから、「人のつながり」「支え合い」「連帯して」仲間と生きて行くことの大切さを知った。

 いま、改めて、夫の姓を名乗る自分の名前と、この家の住所が記載された名簿を見ながら、不思議な感情を味わっている・・・。

 高校を卒業して、43年。
それぞれに、それぞれの人生があって、「今」という時間を生きている。 
名簿のひとりひとりを指で追いながら遠い記憶をたどる。
そして、「住所不明者」と書かれている級友の名前、「物故者」の中に挙げられている級友の名前を見ながら、それぞれの顔を思い浮かべている・・・。




 

迷い

2013-06-10 | 日記
体調を崩すと、気持ちまで弱って来る。
つい、逃げ腰になっている自分に気付く。

 愚痴を言う私に夫からの一言。

「自分の限界を知りなさい」

それは体力の限界でもあり、能力の限界でもある。

責任の重さと、関わっているものがみんな中途半端で充実感が得られないもどかしさと、自分の立ち位置が見えない不安・・・。
仕事を辞めて2年が過ぎ、そこには、その必要性があってのことだったのだが、それもなくなった今、自分が優先してなすべきことは何なのか・・・。

決まっているのに、分かっているのに踏み切れない自分が今ここにいる・・・・。

肋骨疲労骨折?

2013-06-03 | 日記
 まさか、とは思うけれど、
あ~、前に同じ痛みを感じたことがあった・・・。
風邪をひき、今回もまた、長く咳込むことが続いて・・・。

 深呼吸ができない。
体を伸ばすことができない。
左わき腹が咳をするたびにものすごく痛む。

 やっぱり、疲労骨折かな・・・?

だとしても、病院に行っても固定バンドで抑え、安静にしていること。
痛みが我慢できなければ、鎮痛剤を飲むこと。
それ以外には、治療法はないはず。

 そう思って、前に使用した固定バンドを探したが、これが見つからない。
どうも引っ越しと同時にどこかにしまい込んだままのようだ。

 近くの病院に行こうと、昼ごろ家を出たら、
午前の診療は、12:30まで。
午後の開始は15:30からだという。
結局帰ってきてしまい、また、今日一日、何も解明できないまま素人判断で過ごしてしまった。

 明日は、どうしようかな・・・。


拷問禁止委員会の傍聴に・・・

2013-06-02 | 日記
 国連(ジュネーブ)で行われた、拷問等禁止条約第2回日本政府報告審査(拷問禁止委員会)を、国際人権活動日本委員会の皆さんと一緒に傍聴して来ました。
2007年に、夫の代理で私が(一緒に杉山卓男さんが行きました)参加し、40年近くえん罪で苦しみ、裁判のやり直しを求め続けている布川事件について訴えてきました。
2008年には、今度は、夫が自由権規約委員会に。
(もちろん、たくさんの方々からご援助を頂いての参加でした)

 そして、今回は夫と一緒に「2011年に布川事件が解決したこと」を報告出来る喜びを持って参加して来ました。
同時に、裁判上の解決は見たものの、実際には「誤判の原因は解明されない」「誰も責任を取らない」「謝罪もない」「えん罪を繰り返さないための改善策も一つも明言されない」。
この日本の現状を訴えて来ました。

 審査委員とのミーティングでは、夫が英語でのスピーチに初挑戦。
出国前から、いろいろ準備面で間に合わない状況があり、現地に行ってからも直前まで夫は電子辞書が離せず、初めてというだけでもかなりのハードルだったのに、直前に原稿を3分で準備したものを2分で納めるように言われ、もう必死で迎えた本番でした。
でも、本当に本番に強い夫で、「堂々と」やってのけちゃいました。
すっごいひとだな・・・、と妻の私が改めて思うような・・・。

 でも、でも、でも・・・
出発前から、「体調がいまいち」と言っていた夫は、とうとう38度の熱を出してダウン!
翌日は「ホテル」に籠りきり。
観光どころではありませんでした。
同行者の皆さんには、たくさんお気遣いいただき、私は、夫の風邪が皆さんにうつらないかと気が気ではなかったのですが、その分、しっかり私が貰ってしまい、このツアーの後半は私が体調を崩す羽目に。(実際は帰国後に私も38度の熱を出し、寝てしまいました)

 現地(グリンデルワルト)でのホテルで、体温計を借りた時の話。
貸してはいただけたのですが、保証金として20スイスフランを出すように言われました。
返却時に返してくれるのですが、「あ~、日本と違うなァ~」と実感。
次回、海外に行く時は、体温計も必須かな、と思いました。

 審査委員と日本政府代表のやり取りは、しっかり傍聴させていただきました。
正直、日本政府の回答は、2007年時と変わり映えのないものに思えました。相変わらず、「憲法第○○条に・・・・と定めてあります」「刑法第○○条に・・・と定めてあり、問題なく実行されています」とか、「200○年に○○委員会を立ち上げ検討中です」「あり得ません」「そのような事実はございません」などなどなど。
反対に、各審査委員の質問は、前回よりも踏み込んだ内容だったように思います。
私たちNGOが提出したレポートは、十分読まれていること、日本国内の問題をかなり具体例を持って理解されていることを感じました。
たとえば、委員からの政府代表者への質問の中には、「足利事件や布川事件の例にもあるように・・・」とか、「不十分な調査のまま死刑が執行された例も聞いている」など、私たちの知りえている内容で語られた時には、本当に嬉しく思いました。

 今回、1人の委員が「被疑者取り調べの時に弁護人が立ち会うことを認めない。その理由に『干渉されるから』とあげているが、その場は公正、透明性が求められ、公式な記録も残されなければならない。弁護人立ち会いを認めないというのは、長時間、長期間、自白を求めること鑿を目的とするようなまるで『中世のやり方』だ」と発言しました。
会場から、笑いが起こり、その後最後のあいさつに立った上田国連大使が突然声を荒げ、
「日本は中世の国ではない。近代国家の進んだ国である」と返し、会場の笑いを「シャラップ!」と二度も大きな声で制するという場面がありました。
一瞬会場に何とも言えない空気が流れました。
それはあまりにも公式な会議での発言としては受け入れがたい態度と言葉でした。

 私は、各国から選出されている審査委員に対しても、大変失礼な態度でななかったかと、今回も2007年の時と同様にまた、同じ場にいる私たちでさえ、日本人として恥ずかしいという感情を持ってしまいました。
日本政府は、この委員会そのものをどう考え、どういう姿勢で臨もうとしているのか・・・。
「日本には、国内法規があります。日本は、日本のやり方でやります」という姿勢が明らかで、委員会の勧告に従い、少しでも国際水準に近づけて行こう、という姿勢が見えないのがとても残念です。

 「日本には、『拷問』に関する定義が明文化されていない。まずは、そこを明らかにするように。それによって、違反した者には責任と謝罪、罰則を・・・」

と、指摘を受けた。
これに政府側は、「憲法、刑法、その他それぞれの法律で、拷問を禁じる条文があり、改めての明文化は考えていない」と答えましたが、本当にそれで通るのか・・・。

 これから出されてくる委員会から日本政府への「勧告」の内容が待たれます。

帰国後から体調を崩し、写真の整理も、傍聴の記録も全く手付かず状態ですが、これからぼちぼち勧めていきたいと思います。

バスの旅

2013-05-12 | 日記





毎年恒例の、「水戸映画サークル」バスの旅。
今年は、なんとタイムリーな企画!
世界遺産登録前の、富士山へ。
富士五湖を回っていろんな角度から、富士の雄姿を堪能して来ました。

サークルの皆さんは、本当に心を許しあえる「仲間」で、夫がたたかいの最中にあったとき、
「活動を離れて一個人として参加できる旅行だから、一緒に参加しよう!たのしいよ!」と夫から言われて私も参加するようになったのだが、
今回もまた、思い出いっぱいの楽しい旅となった。

富士山を見ていると、
本当に心が洗われる。
日本人が永く「信仰」の対象として拝してきたことに納得がいく。

旅行に出る前、お世話になった方の訃報が届き、気持ちが重かったが、やはり参加できてよかった、と思った。
(スカイーツリーの写真はおまけです)


千波湖畔はとても気持ちがいいです。

2013-04-26 | 日記


夫と夜、映画「わが母の記」を一緒に観に行く約束をしていたのだが、予定が入ってしまったと、キャンセルになり、一人、午前の部を観ることに。
友人を誘おうとしたが、留守で、已む無く一人になったが、やっぱり誰かと一緒に観たかった、そんな「いい映画」だった。
役者さん、みんなそれぞれに素敵だったが、樹木希林さんの演技には、何度も、笑わされ、泣かされた。

そんな映画の余韻をもって通りがかった千波湖畔は、これもまた、新緑と水と青空…。

癒されました。、