れいな日記《Reina- diary》

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懐かしい、北茨城市のとりごや(どんど焼)

2006-01-11 | 北茨城市の歴史
この“とりごや”は、昔懐かしい正月行事の一つであり、1月15日にお正月様の門松、御札などを“とりごや”と一緒にお焚き上げ供養する目的のものである。

一般には、“どんど焼”と云って、地方毎に名称も方法も異なるが、爺達の頃は、前日(14日)の夕方に、蒟蒻で作った“べったら”や、お汁粉、焼き餅、お神酒などを売り歩き学費の足しにした。

そして、翌日(15日)早朝(日の出前)に集めておいた各家庭のお正月飾りと、この“とりごや”は、赤々と燃えていく幻想的なクライマックスで終わる。
又この時、余熱で餅を焼いて食べると病気に罹らないと餅に長い竹櫛を刺して火にあぶり、真っ黒く焼けすぎた餅を頬張る光景も見られた。

今年も街を歩いてみると、北茨城市中郷町、華川町、磯原町、関南町、大津町、関本町と殆んどの街で、とりごやを経験したお父さんたちが昔を思い出し、我子と一緒にとりごやを作っている。(爺としては、なんと、嬉しいことである。)

この“とりごや”も、七夕の短冊飾り、節分の豆まきなどの行事共々、これからも、長く長く、続けて貰いたい。

◎1月14日
爺も夕方、正月飾りをとりごやでお焚き上げして頂く為に中妻地区のとりごやに行ってきた。
とりごやには、蒟蒻で作った“べったら”が主役と思いきや、早々に“べったら”は、売れきれで、べったらの変わりに、今はおでん、スパゲティ、フランクフルトそして、フイルムが付いた既製品の“イカ飯”が“とりごや”の“売り商品”とのこと。
又、爺の生まれ故郷の地でもあるので、知っている若者が一人でも居るかと思っていたら、誰も見覚えの無い顔が並び、丁度爺は、竜宮城から帰った浦島太郎に為ったようだった。

◎後記(爺が経験した“とりごや”)
爺も中妻下地区でのとりごや経験者である。昔は、中妻上、中、下毎にとりごやをつくり競い合っていた。
爺は、小学四年生の頃からこの時期になると、学校の授業終了後、先輩格の宇佐美の浩ちゃん、桶やの村上の利(とっ)ちゃん、そして、精米の真(まあ)ちゃんと臼場、永久橋付近で小屋の材料である篠を刈る。
篠を刈る小さい手は、寒さで赤く、軽い凍傷になり、身より大きい篠の束の元を背負い同じところを往復した。

当時“とりごや”の運営は、父兄は、全てノータッチのため、篠刈りで一ヶ月は経過したが、今は、子供達が、ノータッチで「中妻小学校子供会(父兄)」の父兄が、とりごや作りから食べ物の販売、お焚き上げの一切を楽しむかの様に思われてくる。
しかし、この“とりごや”は、随分昔からの子供参加の行事なのだから、今後は、子供が出てきることは、子供で行い、出来るだけ子供中心の行事としての伝統を取り戻すことが、爺の願いである。

画像は、爺たちと当時のまったく同じ場所で行っている華川町中妻地区の「燃え落ちる“とりごや”」

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