A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

97NY

2005年04月13日 | 旅の破片
 97年ニューヨークへ行った時、バルナック型ライカが欲しくなった。
 カメラ雑誌の「シャッターバグ」で所番地を調べて、Wall Street CameraとTamarkinというカメラ店へ行き、ライカとレンズを見て回った。後の方のカメラ店でライカIIIfとズマリット50mm/F1.5を買った。
 現像してみるとアンダーパーフォレーションのモノクロネガがずらりと並んでいた。

 フラット・アイアン・ビルは、前世紀の初頭に建てられた初期の摩天楼を代表するマンハッタンのナイフである。摩天楼のスターは、世界貿易センタービルの前がエンパイヤ・ステートビル、その前がフラット・アイアン・ビルであった。
 多くの写真家がこの建物を撮影をしている。確かアルフレッド・スティーグリッツも。

Flat Iron Building, NY

Leica IIIf, Summarit 50mm/F1.5

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CONTAX, Contax

2005年04月12日 | 横浜、横須賀
 京セラ・コンタックスがカメラ部門からの完全撤退を明らかにした。CONTAX G3を見てみたかったのだが、残念である。

 プラナー85mm/F1.4で女性を撮影するというたのしみ。もっぱらモノクロフィルムで撮影し、バライタ紙に焼いていた。
 開放からF2.0までだと、まともな写真が撮れたためしがなかったが、f2.4~2.8位の絞りで女性をとると、素晴らしかった。ピントのあったところからコントラストを保ちながら、とろける様になだらかにボケてゆく。暗部は銀の刷毛でなぞったごとくで、銀粒子が立ってキラキラしていた。
 私の使っていたコンタックスRXは、ピントの山を探すのが難しいカメラであったが、ファインダーの中で女性の表情やしぐさにコリコリとしたピントの芯を探り当てるという作業は、ちょっとエロティックなたのしみでもあった。

 コンタックスGシリーズは、G2よりG1のコンパクトさが気に入っていた。ライカのサブカメラとして、G1にプラナー45mm/F2、ビオゴン21mm/F2.8、ホロゴン16mm/F8の中の一本だけを付けて、その日はレンズ交換をしない。そんな贅沢な使い方がたのしかった。
 惑星ホロゴンは世界のすべてを写しこむことができる気がした。

CONTAX G1, G Hologon 16mm/F8

桜雨

2005年04月11日 | 旅の破片
花に嵐。あいにくの雨。今日で今年の桜も散り始める。

京都錦市場は千年の市場。通りからは分からないが、その地下には千年を支える豊富な水源が埋まっている。

朝と夕に地震があった。
中国各地で若者を中心とした反日デモが広大。

プラナー50mm/F2

桜満開の京都にて

2005年04月10日 | 旅の破片
 昨日は午後より、阪急電車にて京都へ。久しぶりに河原町4条から3条の雑踏を歩き、高瀬川沿いの桜を見物。三条大橋付近の鴨川土手は込み合っていた。映画「パッチギ」を思い出した。
 当時デートした和菓子屋さんの2階の喫茶店にも上がってみた。なくなっているかと思っていたのだが、しっかり残っていた。名前に花の名が付く女性だった。暗に部屋に泊まっていくことを誘われたのに、こっちはそうしなかった。純情だったのかな。彼女は昔の同級生の友人と結婚してしまった。錦市場を往復し撮影。
 その後、タクシーにて北区紫竹へ。ここで大学浪人の下宿生活を始めたのが29年前である。大宮通りで降ろしてもらえば、おおよそ分かるだろうと考えていたら、はたしてそうであった。最初の横道を入ってみたところ、記憶のある四つ辻にたどり着いた。家主の名前は忘れていたが、表札を見ると、それと思い出した。
 家主のおじさんは、われわれ下宿人を家に招いて、戦後ロシアに抑留され、長く苦労した時の話、ロシア人と数学の問題を出し合って、無聊を慰めたという話を繰り返し語った。表札が変わっていないので、まだご存命であろう。同志社の女子大生のきれいな娘さんがいたが、つんとしていて、こちらには話もしてくれないと、われわれ下宿人は僻んでいた。 
 下宿はマンションにでも変わっているだろうと諦めていたが、これもそのままあった。五友寮という名前で、これは当時もそうだったか記憶がない。3人まで下宿人仲間の顔と声を思い浮かべられる。多感だったのだろう、お互いに影響を受けた。彼らはどこにいったのだろうか。
 下宿の四つ辻の町屋と桜も全く当時のままである。北区のこのあたりは、昔からの商店街と古くからの住民で、ほとんど変わっていないようだ。通りがかりの青年と自転車を押して往く女子高生が、立ち止まって携帯電話を桜にかざし、カメラで撮影しては、通り過ぎて行く。
 公衆電話ボックスは、今ほとんど見かけなくなっているが、同じ場所に残っていた。ここで夏場にものすごい汗をかきながら従兄弟に電話したことがあった。
 今宮神社、大徳寺と歩き、再び大宮通りへ戻った。商店街は変わっている店もあるようだが、しかとは分からない。その中に千成食堂を見つけた。店名も忘れていたが、見るとここだと分かった。この食堂で毎日350円のハムエッグ定食か薄いコロッケ定食をよく食べた。
 入ってチキンかつ定食640円を頼んだ。店内はきれいに改装され、若い主人が注文を聞いた。代替わりしたのだろうと思っていたら、そのうちに奥から見覚えのあるおばさんが出てきた。当時店をきりもりしていた人である。店の中できびきび働いている姿を記憶していたが、今は立ったり座ったりが少し辛そうな様子に見えた。30年の時間が流れたのだ。

Summilux Asph. 35mm/F1.4

大阪ことば

2005年04月09日 | 旅の破片
 朝、コーヒーショップで朝食を取っていると、隣の若い2人連れの女性の話声が聞こえて来る。仲の良い友人の打ち解けた会話という感じだ。
 「わたし、5日に生まれたから、いつ子(逸都子?)っていうのんよ」
 「ああ、そうなんやあ」
 「そやから、人が誕生日よう覚えてくれはるわ」
 手振り、身振りを加えて、明るい声で笑う。脚を組んだり、指で髪に触ったりのしぐさが優雅な2人であった。
 元もとの大阪人の女性のことばが、聞いているととても心地持ちいいことがある。敬語や人称や言い回しが豊富で、ニュアンスに富んでいて、逆に標準語の底の浅さを感じてしまう。男のことばの方は、仕事で切り結ぶことが多いので、そんな感じになることはない。というか、こっちとしてはどうでもいいからか。
 京都に1年、大阪に3年住んでいたので、関西弁は慣れているが、こちらに来ると、一時的に大気圏突入の抵抗感を感じる。しばらくすると、意識しなくなり、下手な大阪弁で喋りたいという下心に駆られる。
 谷崎潤一郎は、この関西の女性のことばにまことに敏感で、東京から関西に移り住み、松子夫人のうつくしい関西ことばの世界で日常を送った。昨夜は駅の書店で「細雪」を買ってホテルに入った。ベッドで読み始めたら、妹雪子の見合い相手の品定めの場面で、最初のページから、美しい大阪ことばの世界が立ち上がっていた。明治以後の小説家の中で、最も文学的な天才に恵まれていたのは、やはり谷崎であろうと思った。

Caplio GX

横須賀ベース桜祭り

2005年04月03日 | 横浜、横須賀
晴れて、暖かい一日。雨という天気予報だったが、はずれた。
2年ぶり横須賀へ。桜祭りと云うものの、ベース内の桜並木の桜は、まだ3分までも咲いていなかった。
この2年くらい桜の開花が異常に早い年が続き、4月になるともうほとんど散っていた。
今年は逆で、記録的な遅咲きであるという。

プラナー50mm/F2