新橋を起点に、江戸前島の東岸を歩いた。
先ず重ね合わせ地図で、現在と江戸期の地形を比べ合わせ、日比谷の入り江の入り口にあたる西岸突端を探した。意外なことに、銀座八丁目の、例の静岡新聞ビルが、その地点であることが分かった。このビルは長方形のオフィス部分を塔が串刺しにするような建築デザインであって、見る者に非常に不安定で、奇妙な印象を与える。ところが江戸前島の先端を指し示す記念碑として建っているのだと考えれば、それはそれで土俗的でもあり、相応しいようにも思えてくるから不思議である。電柱に道しるべの板が打ってあるデザインと云えないこともない。ここからお江戸というわけである。
一方、東岸突端には、RICOHのビルが建っていたので、GRDでその看板を記念撮影。
東岸は、昭和通りにあたり、銀座八丁目から京橋まで歩く。この辺は特徴のないビルが続き、面白みも少ないが、RICOHのサービスセンターがあった。日曜日で閉まっていたため、隣のタリーズで熱いコーヒーを飲みながら、一休み。
原地形では、京橋あたりで直角の突端を形成し、その付近から隅田川河口に向かって八丁堀が伸びる。現在八丁堀跡は、東京都所有地との表示のある空き地や桜川公園になっているが、その幅を見ると、かなり広い水路であったことが分かる。墨田川まで辿ると、そこが八丁堀船入である。
鉄砲洲から湊のあたりは独特な町並みであった。地上げが進んで、所々に空き地がみられ、衰えつつある街の感じが漂っている。通りがかりの短時間では、撮影しきれない。高橋でバイクとタクシーの接触事故を目撃。救急車を呼ぶ。
江戸初期に日本橋から京橋にかけて、中央通りに垂直に十本の船入堀が存在していた。江戸中期には埋め立てられているが、どこかにその痕跡が残っていないか探してみた。跡地と思われる部分は、どこもビルの間の、ありふれた路地になっており、残園ながら全くその名残は残っていなかった。
銀座へ出て、地下鉄を乗り継ぎ、お濠端の東京国立近代美術館へ向かう。アウグスト・ザンダー展と「ドイツ写真の現在」展を見るためである。感想は後日。
GRD, ISO64, F5.6
先ず重ね合わせ地図で、現在と江戸期の地形を比べ合わせ、日比谷の入り江の入り口にあたる西岸突端を探した。意外なことに、銀座八丁目の、例の静岡新聞ビルが、その地点であることが分かった。このビルは長方形のオフィス部分を塔が串刺しにするような建築デザインであって、見る者に非常に不安定で、奇妙な印象を与える。ところが江戸前島の先端を指し示す記念碑として建っているのだと考えれば、それはそれで土俗的でもあり、相応しいようにも思えてくるから不思議である。電柱に道しるべの板が打ってあるデザインと云えないこともない。ここからお江戸というわけである。
一方、東岸突端には、RICOHのビルが建っていたので、GRDでその看板を記念撮影。
東岸は、昭和通りにあたり、銀座八丁目から京橋まで歩く。この辺は特徴のないビルが続き、面白みも少ないが、RICOHのサービスセンターがあった。日曜日で閉まっていたため、隣のタリーズで熱いコーヒーを飲みながら、一休み。
原地形では、京橋あたりで直角の突端を形成し、その付近から隅田川河口に向かって八丁堀が伸びる。現在八丁堀跡は、東京都所有地との表示のある空き地や桜川公園になっているが、その幅を見ると、かなり広い水路であったことが分かる。墨田川まで辿ると、そこが八丁堀船入である。
鉄砲洲から湊のあたりは独特な町並みであった。地上げが進んで、所々に空き地がみられ、衰えつつある街の感じが漂っている。通りがかりの短時間では、撮影しきれない。高橋でバイクとタクシーの接触事故を目撃。救急車を呼ぶ。
江戸初期に日本橋から京橋にかけて、中央通りに垂直に十本の船入堀が存在していた。江戸中期には埋め立てられているが、どこかにその痕跡が残っていないか探してみた。跡地と思われる部分は、どこもビルの間の、ありふれた路地になっており、残園ながら全くその名残は残っていなかった。
銀座へ出て、地下鉄を乗り継ぎ、お濠端の東京国立近代美術館へ向かう。アウグスト・ザンダー展と「ドイツ写真の現在」展を見るためである。感想は後日。
GRD, ISO64, F5.6