空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

武器よさらば 【エッセイ】

2023-05-06 14:05:47 | 文化




この間のショートショートは舞台がイタリアが多かったですね。
若い頃、ヨーロッパ旅行に行ったことはありますが、出発点はローマでしたね。
バチカンは見る芸術品が圧倒的に多いだけでなく、ミケランジェロを始めとする深みのあるものが多く、時差ボケで二日間で見るには無理があったようです。
ホテルの一室を二人で借りたのですが、列車を取材に来た記者の方と一緒になり、大変良い方だったので、夜、二人で散歩しました。
二人とも外国の夜は慣れていないので、一緒が良かったのでしょう。バーで一緒にアルコールを入れ、ローマを楽しみましたけれど、何と言っても、短い時間でしたからね。
次のフローレンスとヴェニスへの旅が楽しみでした。しかし、それからは一人旅ですから、英語に自信があるわけでないし、イタリア語はまるで知らないのですから、大変です。若さで乗り切るしかありませんでした。

乗った列車が満員電車で、真中へんに立って吊革につかまっていたのですが、小用に行きたくなりましてね。周囲の人に聞いたのですよ、この電車にトイレがあるのかと、勿論イタリア語が出来ませんので、何か言ったと思いますよ。どうもあるらしいということで、移動を開始したのですが、この移動が大変で、それよりも、小さな駅に止まったので、飛び降りてしまいました。
トランクとミノルタのカメラと三脚持って、田舎の広広した駅の構内に飛ぶようにして行き、用をすますと、地獄から天国に行った人のようなうきうきした気分で、駅の前のカフェーの椅子に座り、コーヒーを飲み、写真を撮っていたら、十名ぐらいの若者が集まってきましてね、一人初老の人がまじっていましたけれど、私のカメラに興味を持つのです。
身振り手振りの会話はしましたけれど、日本のカメラの素晴らしさに感心し、譲ってくれるとありがたいといわれたようですけれど、これは旅に必要だと言って断りました。そのあとは、フローレンス行きの電車に飛び乗ったという印象でした。
フローレンスでも、ヴェニスでも、これと似たいくつかのエピソードを交えながら、芸術品を楽しんんだわけですが、そのあとはスイスへいきました。電車では、北イタリアの風景が見えました。
【 映画「武器よさらば」にも、北イタリアの描写があったと思います。】
美しい景色を車窓から楽しんだと思います。なにしろ、若い頃の旅なので、記憶も遠いものとなっていますので、細かいことは忘れてしまいました。
列車の中では、若い夫婦に声をかけられ、旦那は英語が駄目なので、奥さんと長いこと、話したことを覚えています。【今は英語はすっかり忘れてしまいましたけれど、】
それから、スイスに入り、フランスのグルノーブル、リヨンと行ったわけですけど、ヘミングウエイの「武器よさらば」の最後は船で湖をボートで、イタリアからスイスに逃げる所が大変な冒険で、素晴らしい描写でしたね。映画も良かったと思いますよ。以前、掲載した感想文で、恐縮ですけど、
下に書いておきました。

【小説の魅力はなんと言っても文章である。北イタリアの風景の緻密な描写は素晴らしい。だから、主人公の中尉フレディック・ヘンリーとイギリス人キャサリン・バークレイの恋愛はその風景の中に綺麗におさまってしまう。
そこへ行くと、映画は二人の話がクローズアップされているせいか、何かメロドラマ風になってしまっている。
ロミオとジュリエットは素晴らしいが、メロドラマ風というのは、小説のようなしっかりした反戦映画を期待している私を少しがっかりさせる。それでも、映画では、中盤のドイツ軍に攻撃されたイタリア軍の敗退と民衆が逃げる様子は沢山の人間が戦争の悲劇にまきまれていく様子が映像化されていて、迫力がある。

さて、「武器よさらば」は、反戦の文学である。第一次大戦を扱っている。「西部戦線異状なし」ではドイツ側から描いた戦争の悲劇であるが、「武器よさらば」はイタリア側から見た戦争である。最初はイタリアとオーストリアの戦いの描写がある。

イタリア軍に占領された戦場の町が美しかったというのは、私は不思議に思うのだが、ヘミングウェイの筆によると、町も、主人公の住む家も綺麗ということである。背後には川が流れている。背後の山々はまだ敵の手中にある。オーストリア軍は戦争が終わったあとには、またこの町に帰ってくる気持ちがあるらしい。そのために、彼らはこの町を本格的に大砲で破壊することを避けているようだった。

こういう合間に、ヘンリーは病院の看護師の女に手を出し、キスまでしてしまう。もっとも、こう平凡に書いたのでは、文豪の素晴らしさは消えてしまうので、そんなことがあったというにとどめる。この場面は出会いから、キャサリンが美人ということで、ヘンリーは楽しんでいるだけで、戦争の合間の一幅の休憩という感じで、この恋愛の最初の幕が開けられようとしている。

そして、前線に行く。
ところが、ヘンリーは前線に出てしばらくして直ぐに、迫撃砲で足に大けがをしてしまう。
そして、ヘンリー中尉は、前線からミラノにある病院に送り返される。ここで、ヘンリーと看護師キャサリンは再会し、あれほど彼女と恋に陥るまいと思っていたし、ほかの女性との恋も望んでいなかったのに、彼は、キャサリンを恋してしまい、ミラノの病院の一室のベットに横たわることになってしまうのだ。手術は成功だった。
新聞によると、戦争はまだまだ続きそうな状況である。西部戦線では、まだどちらの側も相手を叩いていない。最初はみんな直ぐ終わると思っていた戦争。

たった四年間で、若者が二百万人死ぬ戦争とは最初、誰も考えていなかったが、結果としてそうなっていく様子が小説にも映画にも描写されている。愚かな戦争である。知恵を誇る人間の歴史にこのような戦争があったとは、不可解と思わざるを得ない。この愚かさを小説も映画も見事に描写している。

やがて、前線に戻るヘンリー中尉。
「さようなら」
ヘンリーは雨の中に踏み出すと、馬車が走りだした。馬車、いいね。これは町がまだ自然の色を残したロマンチシズムにあふれた面影を感じさせる。そこへ行くと、今はどうでしょうか。高速道路が風景をぶちこわしていたり、京都のように寺や美しい庭園の多い所でも、主要な道の多くでこのロマンチシズムは消えてしまっている。残念なことである。


それはともかく、二人の別れである。キャサリンが身を乗り出し、その顔を灯火が照らす。彼女は微笑して、手をふる。
こうして、ヘンリーは再び、前線に戻るのだが、すさまじい戦闘のあと、退却がはじまった。ドイツ軍とオーストリア軍が北方の戦線を突破し、山岳地帯の渓谷を下って、進撃しているらしい。ドイツ軍は中尉の言葉を借りると、ぞっとするほど強いようだ。

この退却も大変なものだ。しまいに、乗っている車の車輪は空転するばかりで、前に進めなくなる。「命令だ。小枝を切ってこい」と軍曹に命令するヘンリー中尉。しかし、軍曹二人は逃げていく。ヘンリーは拳銃を引き抜き、口数の多かったほうの軍曹に狙いを定めて、引き金を引いた。

この場面は映画にはない。私の好きな主人公、ヘンリー中尉は命令に違反したということで、一人の兵士を射殺しているのだ。戦争とはそういうものなのだろう。恐ろしいことだ。

夜明け前に、ヘンリー中尉の一行は川の岸辺に着き、増水している川沿いに進んで、あらゆる車両や人馬が渡っている橋までたどり着く。
そこで奇妙で恐ろしい事件に遭遇する。
みんな年齢が若く、救国のヒーローを気どっている憲兵が待ち構えているのだ。第二軍は川の対岸で再編成され、その一環として、彼らは原隊を離脱した少佐以上の階級の将校たちを銃殺しているのだ。彼らは同時にイタリア軍の軍服を着たドイツ軍のゲリラたちを即決裁判で処分している。

映画では、一応、年配の大佐を始め、裁判官らしい年令の将校が裁判席に座り、ヘンリーの親友の軍医リナルディ少佐に銃殺の判決を下し、ヘンリーもイタリア語になまりがあるということで、疑われる。危機一髪で、ヘンリーは即決裁判の場所をけちらし、逃げ、川に飛び込むのである。小説では、川に飛び込み、銃弾を避けるために、川の中をもぐっていく描写を細かく描いている。
この場面は小説でも映画でも、ヘンリーにとってまさに危機一髪、銃を持った何人もの憲兵がいる中を逃げるには、余程の運動能力と体力と運がなければ無理だろうと思われる。ともかく、ヘンリーは逃げ切る。

やがて、列車にたどりつく。飛び乗り、貨車の床に、ヘンリーは野砲と並んで横たわる。早朝、まだほの暗いミラノの駅に汽車がゆっくりと侵入したとき、彼は飛び降りた。線路を渡り、コーヒーを飲みにカフェーに入ってみる。

その後、彼は馬車に乗り込んで、友人シモンズの住所を御者に伝えた。シモンズは、このミラノで声楽を学んでいる男だった。彼の家を訪問すると、ヘンリーは友人として大歓迎を受け、こう言われた。

「君が欲しい服があれば みんなあげるよ。だから、服は買う必要がない。君の服装を見れば、立派な男だと思うように、いくらでも服装を整えてあげるよ」
さすが、芸術家である。それにいい友達だね。今の日本はどうだろう。絆が叫ばれているのは良いことだが、絆がなくなっていく裏返しのような感じもする。こういう人間関係を日本に復活させたいものだと私は切に思う。それはともかく、声楽家はイタリア軍の監視のある町で、脱走兵ということで、追われるヘンリーを友人として助けるのだ。

それから、戦争ぎらいになったヘンリーは、ホテルで、事実上の妻である恋人キャサリンと会う。その後、彼女と一緒に、嵐の中、湖をボートで漕いで、スイスに逃げるのだ。距離は三十キロ以上はある。キャサリンはおなかに、赤ちゃんがいるのに、むしろ彼女の強い意志のもとに、逃げる。
風を顔に受けながら、暗闇の中を漕いでいく。彼は一晩中 漕ぎつづけた。


このようにして、スイス領に入る。これで赤ちゃんを無事に産めば、この物語はハピーエンドになる筈だったが、ラストは私の期待に反して、おかしなことになってしまう。スイスは二人を歓迎してくれ、その点では申し分なかった筈なのに。

このラストシーンは書かないで、興味を持った読者がご自分で確認した方が良いと思うので、あえて書かない。人生は不条理なものだ。それだけ言っておきたいと私は思う。

何故、「武器よさらば」に感動するのか。戦争の悲惨さの中で、愛があるからではないか。この娑婆世界は仏教の教える所によると、無明におおわれ、真理に目覚めていない衆生が多く住んでいる。つまり忍土である。その中で、一条の光を見た時に、人は感動する。

その光とは「愛」である。恋愛の愛はエロスで、欲望の延長線にあるから無明におおわれているのだが、まれに、一瞬の間、そこにキリストの愛のような光がさすことがあるのではないかと私は考える。それは肉親の愛でも、猫と人間の間の愛でも同じことである。
そういう愛を神であると思うこともできるのではないか。
何故なら、そこに不生不滅のいのちの発見があるからである。仏教的に言えば、無明の娑婆世界に浄土の発見がある。
人生はこの娑婆世界で、この不生不滅のいのちの発見をすることに意味があるのではないかと、ふと思うことがある。】




【コメント】
詩を書くのも、小説を書くのも、絵を描くのも創作という点では 同じです。
  公園で、絵を描いている人の邪魔をする人はいません。
しかし、私の場合、小説を書いているだけなのに、中傷する人がいるのに困ることがあります。人を困らすには中傷以外にも、嫌がらせというのがあります。
おそらく、憲法九条を守るを看板にしているからでしょうね。
民主主義の基本を知らない人が結構います。【私は学生の時、一流の法哲学の講義を聞くことがよくありましたので、よく分かります】
ボランチア活動、助け合う精神、SDGsの精神など、良い動きをする人も増加する一方、ジェラシーで、得意の「出る杭は打たれる」という合唱に加わって、その人が困るのを見て、喜ぶ卑しい価値観が少しずつ広がっているような気がします。SNSのいじめなどもそうでしょう。
どうでしょう。皆さん。道元や空海そして親鸞を勉強してみませんか。そうすれば、世界情勢を武力だけで、解決しようなんていうのは 愚かであることが分かります。
話し合いです。文化の交流も必要です。そのために、憲法九条が必要なのではないでしょうか。
国を守るために、武力を強くするという人の意見も分かりますし、尊重します。
でも、それで軍拡という風にいくとすると、始めたら、第一次大戦のように、最初は小さな武力衝突で、すぐ終わると思っていたのが、西部戦線だけで、二百万の若者が死に、戦争をやめられなくなり、大戦へと発展していったことを我々人類は学習したのに、又大きな戦争を始めてしまうということになりませんか。
ウクライナ戦争でも、はたして人類は歴史を学習したのかと疑問になります。
悲劇的で、やめられない戦争をしないための話し合いの方法を政治家だけでなく、皆が考えることが大切なのではないでしょうか。   
そのためにも、憲法九条は必要なのではないでしょうか。

くどいですが、日本の武力を強くして、日本を守るというのも自然な日本人の気持ちだと理解します。特に北朝鮮の状態があのような状態で、それがテレビを通じてお茶の間に入ってくるのですから。
ここで、国論が二分されますけど、互いに非難しあうのは意味がないことです。皆、心配なのです。平和を願う気持ちは同じです。
国会で、充分議論して結論を出すべきです。そのためにも、ネットなどでも一般の市民が声を上げるべきです。
脱原発の時も、そうでしたけれど、互いが互いの意見をもう少し聞き、尊重していれば、大地震のあとの福島の原発事故はもう少し、小さいものに出来たのではないかと、想像します。

これからは、SDGsに「核兵器を廃棄しよう」を加えることも大切だと思います。
私の小説「森に風鈴は鳴る」は平和産業をつくるがテーマになっていて、民間企業がそんな政治的なことに口出しするなんて、非常識と思った方がおられたら、SDGsの内容が温暖化阻止とか貧困阻止とか今までの企業の常識とは違うことを言っておりますよね。
もう利潤追求だけでは、企業そのものもやっていけない時代が来たのです。
私が学生時代に学んだ法哲学の理念では、公害反対運動の中からだと思いますが、企業の社会的責任ということが言われるようになったことを覚えています。
水俣病なんかが一番有名ですね。会社の工場が水銀を海に流したために、多くの人が被害にあったのです。私の長編小説では、IC工場のトリクロロエチレンが地下水を汚すということが問題になっていた時に小説を書いたので、地下水で有名な所を見学に行って現地の人の声を聴いたこともあります。そのあとに、脱原発を書くようになったのです。
こうしたことは地球温暖化などを含めて、国連で問題になり、その延長線上にSDGsの取り組みが始まり、今や日本のマスコミにも登場するようになって来ているわけですから、SDGsの延長線上に「核兵器をなくそう」を入れるのは自然の成り行きです。
ただ、今、ロシアとウクライナが戦争をやっていますね。これを早く停戦に持ち込まないと、この「核兵器をなくそう」のテーマは現実的ではないですね。まず、停戦。それから、軍縮というのが世界の声になる必要があると思うのですが、そしてSDGsに「核兵器をなくそう」を入れようということでしょうか。

それから、日本は中国ともっと話し会い、文化交流を進めないと、いけないと思いますね。
道元や空海を勉強すれば、あるいは漢詩や平安文学を見れば、中国と文化土壌が同じではありませんか。その中国と、武力で対峙するというのはおかしな話です。

マルクス主義というのは学生時代に哲学をかじった人ならば、分かると思いますが、【私の学生時代には、マルクスを勉強しないのは、大学生とは言えないという人が周囲にいたぐらい、マルクスの影響力があった時代です、今はソ連の崩壊で、まるで違ってきているようですが 】  人類の理想国家を夢見た思想を集めて、つくられたものなんだと思います。だから、世界中に影響したのではないでしょうか。ただその通りに、つまり哲学通りに人間は動かないというのが分かってきましたが。
【極端な例では、ソ連の例のように、看板と中身がまるで違ったということがあるから、そう楽観視してはいけませんが、】
中国が軍拡をして、我々日本人が不安なのですから、もう徹底して話し合うしかないと思います。中国が戦争をして、人類危うしの方向にもっていく筈がないと信じたいです。

あるとすれば、日本を含めた西側諸国の接触の仕方にも問題があるという反省が必要なのではないでしょうか。
憲法九条を持ち、文化外交で、話し合いが始終、なされる必要が中国にはあると思います。
互いの不信感を取り去る必要があるのです。
まさに、今やこういう風に良い方向に前を進めないと、人類危うしだと思います


【久里山不識】
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ヨーロッパ 【ショートショート 】

2023-04-19 21:05:06 | 文化


ヨーロッパ【ショートショート 】
           
 ローマに到着すると周囲の急激な変化に気持ちも紛れた。バチカンでルネサンスの芸術に宗教的な衝撃を受けた。ここではすべてがキリスト教一色になっていた。露野は西洋の深さが東洋の崇高な仏像の祈りと繋がっていると思った。ミケランジェロの到達した美と仏の賛歌は真理という深い海に船出する二そうの黄金の船に違いなかった。同時に彼は真理発見と実現のためには西と東が手を結ぶことが必要なのだと思い、道元の説く仏性への目覚めの中でこそ 理想社会が実現されるのだという確信を強めたのだった。
 そしてフローレンスへ。町全体が芸術品だった。
 彼はそこで『文芸の街角』という文芸雑誌をつくるアイデアを心に浮べた。ビデオカメラを持って行ったので彼は花の聖母寺やドゥオーモ広場の魅力的な町角をとった。そしてこれを編集しなおして、公害のない芸術的な町を公害に満ちた日本の町と対比した形で映像を創造してみたりあるいは雑誌づくりに役立てようかと思った。その時 明珠の町を思いだした。IC工場の進出という話などあったがそれも今の所 食い止められ 目立つ公害もなく 大変な魅力がある。しかしこの明珠の魅力には何かが欠けていたのではないかという気が今はする。それは芸術ではないか。たしかに美術館も映画館もあり、高倉電気のしょうしゃな建物もあったがフローレンスに比べると貧弱だ。
 自由な雰囲気の中で真理を知り、そこから芸術を創造する町こそ彼の理想の町だと思った。
 フローレンスの夕暮れ。西の空に茜色の雲が荘厳に棚引き、彼は町を歩きづくめた昼間の足の疲れを休めようと、広場にあるレストランに入った。客は店の半ばほど占めていたし、外に出してあるテーブルについている者も多かった。彼は外の木陰に席をとり、ワインと少々の食事を注文した。そして彼は昼間 見たアルノ川やミケランジェロ広場から見た町の風景それに数々の美術品に思いをはせていた。あまり沢山の絵を見たので少々混乱していた。彼はそれに整理をつけ、明日 丹念に見るものを頭の中でピックアップしていた。
 
              
  その時、楽団が出てきて彼等の向う側の女神の彫刻がある所に陣取って演奏の準備を始めていた。
 いつの間に演奏が始まった。
楽団は露野の座っている所から、少し離れていた。そのあたりの人はそれまでの会話をストップしないで、話し続けている者もあれば、音楽に耳に傾ける者もいた。
露野のすぐ横の席に座っているすらりとした白人の女が「素敵ね」と英語で言った。
「素晴らしいわ」と細面の日本人のような顔立ちをした女が言った。
彼女たちは音楽について話している。
アメリカ人と一目で分かる白人のがっちりした男が音楽の持論を早口の英語で喋っている。
すらりとした女はピアノソナタのような美しい笑い声をする。
細面の女は露野の方に時々顔を向ける。露野にとって、かっての恋人を思い出させるような
魅力のある風貌をしている。
「いい音楽だね」露野は何気ない気持ちで英語で声をかけてみた。
「ヴィヴァルディーの『調和の霊感』でしょう」と細面の女が言った。
「そう、『四季』の方が有名だけどこれも中々の傑作だ。中世の水の都ヴェニスの風景が目に浮かぶ様だ」と露野は言った。
「へえ、そうかしら」
「僕はヴィヴァルディーの明るい所が好きなんだ。中世のヴェニスが貿易で繁栄し、ビルの間の静寂に包まれた運河をゴンドラが行きかう所をどこからかこの音楽が泉のごとく流れてくるなんて想像することはとても楽しいね」と露野は言った。
「ふうん、ロマンチックなのね。でもあたしはフローレンスの方が好きだわ」
「どうして?」
「たいして理由はないけど、ここにはルネサンスの香りがふんだんにあるからかしら」
「なるほどね」
 細面の女のブルーの服の胸には調和と美を誇るブローチが飾られていて、それが彼女のアジア系のつつましい知性のある顔を際立たせていた。
 それで、露野はぼんやり、若い頃 郷里で知り合った恋人の京子を思い出した。そのあと直ぐに彼女は交通事故で死んでしまった。彼女の思い出は強烈だったからその後 何年も彼の脳裏を支配した女は京子であって時の経過につれて彼女の影像が遠くなり、殆ど彼女を思い出すことが少なくなっていたが、フローレンスの広場でありありと鮮明に思い出されたことが不思議だった。
 春の夕暮れは美しかった。そして『調和の霊感』は彼の胸に染み渡った。その時、ふと黒いカバンの中に入れてきた仏教の文句を思い出した。
 『人々がこの世界を大火に焼かるると見る時でも、わが浄土は安穏にして神々と人間達にみち溢れるのだ』
 どうしてこの文句が思い出されたのか彼にも分からなかった。ただヴィヴァルディーの音楽の源泉である『調和』と『浄土』がどこかで符合している様な気がしていた。バッグの中にはそれ以外に新約聖書や道元、空海の本が何冊かあった。これらの宗教が啓示している真理の泉から、もしかしたらその様な素晴らしい音楽が流れ出てくるのかもしれないとふと思った。
「源氏物語、読んだことありますか?」とすらりとした白人の女が露野に顔を向けて唐突にそう聞いた。彼女はジーンズのズボンにブルーのシャツを着ていた。胸は薄く乳房の面影はなかった。
 「現代語訳で少し、読んだことがある」と露野は答えた。
「あら、日本人なのに全部読まないの?少しならあたしだって読んだわ」
「日本語で?」露野はちょっと意外という表情をして聞いた。
「勿論、英語よ」              
「おもしろかったかい」
「結構おもしろかったわ」


「優れた文化は時代や社会を越えて人の心の琴線に触れるものがあると思うわ。源氏の魅力は愛欲の葛藤だけではないのよね。自然描写の素晴らしさとか男と女の心理描写が凄いわね」とすらりとした女がそう言った。
その時、白人の男が彼女に何か話かけた。すると彼女は笑った。
「珍しい人」と彼女は英語で言った。露野は何が珍しいのかよく分からなかった。
「ビーナスの誕生がカンバスから飛び出たみたいね」とアジア系の細面の女が言った。
よく見ると、白人の男が雑誌を広げてその中のヌード写真について何か言っているらしかった。露野は昨日見たボッティチェリの二枚の絵を思い出した。貝から生まれたままの姿で立つ気品が印象的だったし、『春』という絵も豊かで官能的な肉体の美しさが目に焼き付いていた。



彼はちょっとの間、回想に耽っていた。その時、白人の男が露野にもそれを見せた。
「人間は神の贈物なんですよ。それを粗末に扱うことは許されないです」と露野はそれを冗談とも真面目ともつかない気持ちでその様に言った。その写真はひどく官能的で刺激的なものだった。彼はよく見たいと思ったが抑制した。露野の言葉に細面の女が笑った。その笑いがあまりに美しかったので露野は見とれていた。まるで箱に入ったダイヤモンドやルビーなどの宝石がテーブルの上に一度にちりばめられた様な笑いだと彼は思った。
「あたしは仏教に興味を持っているの。西欧では、 今や、キリスト教は衰退して若者で神なんか信じている人は少なくなっているのに東洋人の貴方が信じているとしたら興味深いですわ」と細面の女が言った。
「僕の神様は美しいと思う所に現れてくるのです。貴方達の様な乙女の姿には神は好んで顔を見せます。夕日が美しければそこに神は現れるでしょうし、花や家具などの調度品にも現れます。僕達東洋人はこの神様のことを仏性といっているのです」
彼は手帳を取り出し、『仏性』と漢字で書いた。二人の女がそれを見た。白人の男はそれを横目でちらりと見た。
細面の女は微笑して言った。
「面白そうな神様ね」
「大自然や人間の中に普遍的に存在する永遠のいのちです」
「永遠のいのち?」と言って彼女はちょっと不安そうな顔をした。
「そう。大自然や人間はこの仏性という永遠のいのちが自らの姿を現わしたものともいえます」
「そんなもの、科学が否定しているのではないかね」と白人の男が横から口を出した。
「否定しておりませんよ。それは科学の誤解です。さっきも言いました様に物質の中に普遍的に流れているものについて人間は直感的に知ることが出来るのです。この普遍的なものは永遠のいのちを持っているものであって、これを道元は仏性と呼んでいるのですよ」
「道元?」すらりとした女は魅力的な笑いを浮かべ、「興味あるわ。でも、難しいわね」

露野は日本の鎌倉時代に活躍した曹洞宗の開祖、道元について少し解説した。
「禅のことね。素晴らしい話ね。」と細面の女が言った。
そのあとの仏教や禅の説明についても彼女達は熱心に聞いていた。
 
細面の女が言った。「あたしはアメリカの日系人なのよ。それもあって、日本語を勉強しているの。源氏物語だけでなく、日本の文芸にはとても興味を持っているのよ」と日本語で言った。
ヨーロッパに来て、初めて聞く日本語に、露野は新鮮な美しさを感じた。
男は「俺たちはれっきとしたアメリカ人だ」と英語で言って、すらりとした女の肩を抱いた。すらりとした女は笑った。露野は言われなくても見れば分かると思って、微笑した。

「ええ、ところで、日本語の文学、勉強しているなら、日本語の詩を読みますか、たとえば
松尾芭蕉とか萩原朔太郎とか」
「松尾芭蕉は読むわよ。萩原は名前ぐらいしか知らないわ」
「ところで、僕は詩を書くのですよ。見てくれますか」
露野は書き留めたノートを広げて、最近 書いた詩を見せた。



人をおとしめる快楽を感じる悪人のメフィストよ
オセロウを見たかそなたのいきつく先はどこか
機械が発達しても、花一輪の美しさに勝てると
思っている連中よ。愚かな。
キリストの言われた野の百合はソロモンの栄華よりも美しいという意味が本当に分かっているか
大自然の美しさは機械のおよぶ所ではない
一見 便利になった世の中
魂が堕落する人が増えてはいまいか
キリストのいう美は 宇宙の神秘だ
人の心にもある神秘で
花からも人の表情からも突然飛び出してくる神秘の美
おそらくは真如を感づいた人でないと見れない美がこの世にある
泥沼の中にハスの花が咲く
足を泥沼につけていても、真如を見る人は
このキリストのいう花の美を見る
この花の美しさは奥が深く
おそらくは無の深淵に行き着くのだろうか
そこで、法を説く仏を見る
そこで、真実の自己を知る
大自然を愛する人よ あなたこそ仏性に目覚める人だろう
おお、今は つつじの色が美しい時期だ


露野は花を見て、悟った禅僧がいることを思い出していた。
「キリスト教と仏教の教えが詩に入っている。」と日系人の細面の女が驚いたような顔をして、日本語で言った。その表情は美しいというよりは神秘な感じがした。この神秘な表情は死んだ昔の恋人京子にも見たものだ。


 彼女はギリシャの彫刻の様に彼の目の前に微笑している。人は何故 衣服を着るのか?この当り前とも言うべき疑問が彼女の豊かな髪、なめらかな小麦色の肌に流れる曲線美を感じた時 湧いてきた。寒さを防ぐためとか身を飾るためとかいう紋切型の答えでは何かつまらない気がした。彼女は健康な美しさに満ちていると思った。
 露野はこの女の野性のままの姿を写真におさめたいという誘惑にかられた。だが、それは無理だろうと、思った。

「写真を撮らして下さい」
「いいわよ」と日系人の女は日本語で言った。


 身体の中にめらめらと燃えてくる情欲の炎。しかし一方で岩村夫人の像が鮮明に彼に蘇ってきた。それはほとんどプラトニックな愛の憧憬を含んだ悲しみというようなものを伴っていた。
「ここで撮ってもモデル料はいりますか」と露野は冗談半分に言った。
「いらないわよ」 ナーラと名乗った細面の日系人の女は目を輝かした。
「源氏物語の国の男にしては随分とナイーブなのね」 すらりとした女は微笑してそう言った。
露野は彼女達への快楽を失ったことに対する哀惜の念と同時に岩村夫人の精神的な美しさが心に鮮やかに蘇ってくるのだった。一体、何がこんなに彼をひきつけるのか?海外へ出掛けてきたのはしばらくでも彼女を忘れるためにという意味もあったのではないか?
 
モーツアルトの演奏が終わって少したつと、彼等は別れた。白人の男はおおげさな身振りで露野の手を握って、握手した。女達は手を振った。


露野はそのあと、ヴェニスに向かった。
しかし、それもヴェニスの運河を見た時、薄らいでいた。。彼はそこでは全く 孤独だった。周りは殆ど東洋人はいなかったし、ゴンドラに乗ったり、車のない町並を隅々まで歩いた。確かにフローレンスもヴェニスも美しかった。しかし美しいだけでなく明珠市と同じように謎がある。外国人の彼にはそれが何であるか指摘することは出来ない。サンマルコ寺院を見てもゴンドラに乗って古い建物の間を潜っていっても一向にその謎は分からない。歴史の重みの中でその謎は一層 進化しているに違いない。
 露野は日本を思い出し、明珠市は露野を恋愛や事件に引き込むブラックホールをうちに持っていたのだろうか?

 
露野は「夢のゴンドラ」という詩を書いて、ノートに書き留めた。

春の日差しのふりかかる舟の上。
大男の船長は悠然とオールを漕いでいる
ナーラはパレットに絵具をなすりつけている
ゴンドラはゆったりと動く
ここはヴェニスか蘇州か、それとも夢の中

ふと美しい蝶がゴンドラの上にとまる
金色の素晴らしい羽をゆっくり動かす
いのちは花も小鳥も昆虫もそれぞれの形を変えて現れる
ゴンドラはゆっくりと周囲の風景を変えながら、進んでいる
いつの間にか、月の光が照っている

川の向こうに明珠の街角が見える
ビルの窓には、可憐なバラの花が咲いている
夢見ごこちで見る、ナーラの微笑そして町の静けさ

ああ、その時、青空の街角で
パパ、ママと言う兄弟の泣き声がする
上の子の表情は悲しみと苦しみに満ちている
何がかくも悲惨な表情を作り出すのか
ああ、救え、この悲しみをこの地上からなくせないのか
戦争がある、地震があると耳元で、ささやく声がある

川の向こうに古典的な古い美しい廃墟の城が見える
遠くで稲光がした。
しばらくすると、空に黒雲が続き
稲光と雷の来襲と共に、夜のように、暗くなった

やがて、一瞬の暗闇に光が射すと、
天から聞こえるように
先ほどの緑に満ちた美しい街角で
再び、パパ ママと泣き叫ぶ声がする
雷が天から地に落ち、空間を引き裂くように
その表情に痛ましいものはなかったか
天と地にひそむ神々の心をゆるがすものはなかったのか
ああ この平凡なゴンドラの上で
いのちの神秘を知り
ああ、パパ、ママと叫ぶ子供たちにほほ笑みと食料を渡し
どうしたのと優しい言葉をかけようではないか

大男の船長はゴンドラをとめ、
「坊や、どうした」と声をかける
その満面の笑み
それが子供達を救った
ああ、子供たちの美しい笑い声
誰もが慈しみあっている町になった。
そこは、永遠の今が見える広場になっている。
おそらく、そこで、コーヒーを飲む時、永遠が舞い降りてくる
そのような時、どこからともなく祭りの太鼓 祭りの笛が聞こえてくるものだ

そうした夢のような幻想からはっとして、ナーラに呼びかけられているのに気付く
ナーラの絵には、青色の川と河岸のビルや広場や森が描かれている


      
その後、露野はスイスに向かった。
   彼はスイスの国境近くまで来た時、些細な事件に遭遇した。かなり酔っ払った車掌が彼のいる列車の部屋に入ってきて切符を見せる事を要求した。その時はすでに夜の十時を過ぎていた。酔っているため早口でだらしないイタリア語は露野を面食らわせた。しかし自分が遠い異国の旅人であることを思って彼は愛想笑いを浮かべた。
 車掌はぺらぺら喋りまくる。露野は相手が何を言っているのか分からなかった。
 切符は国境までの分しかなかったのでジュネーブまで買わねばならなかった。小銭のない彼はおつりを貰おうと思って大枚を出した。車掌はちょっと卑しい笑いを浮べながら、酔いに任せてイタリア語をしゃべりまくる。そしておつりを渡して出て行ってしまった。露野は狐に包まれた様な気持ちでその釣銭の硬貨をしばらく見詰めていた。そのうちに釣りが著しく足りないことに気がついた。彼は急に怒りが込み上げてきて部屋を飛び出ると廊下の向こうの端にいる先程の車掌の所に掛け合う為に急いだ。車掌はうさんくさそうに彼を見る。露野が英語を使って釣銭の大幅な間違いを指摘する。車掌は意地悪そうな顔つきをしてやはり早口に喋りまくった。その時 車掌の顔が死んだはずの青林の顔に見えた。露野は驚愕し、金を取り返すことは忘れて呆然と彼は車掌を眺める。背が低くこぶとりで丸顔の車掌をスクリーンにして精悍な青林の青白い顔が映っている。
 英語とイタリア語ではまるで会話にならず、露野は諦めてコンパートメントに戻った。そして先程の青林の幻を思い浮べた。錯覚であることは分かっていたが彼は多大な不安を感じた。異国の深夜の列車の中でのトラブルという異常な雰囲気の中で青林の亡霊が隙を狙って忍び込んだ感じがした。そうしたことに対するある種の恐怖と大量の釣銭をごまかされた悔しさが入り交じって彼は一人 物思いに耽った。窓の外にイタリアとスイスの国境の山々が暗黒の夜の中にうっすらと流れていくのをぼんやり感じていた。
 いつの間に列車はスイスに入り、小さな駅に到着した。そこに警察官が入って来て、露野にパスポートを見せることを要求した。
 露野は絶好のチャンスと思い、先程の車掌とのトラブルを英語で説明した。そのスイス人と思われる男はカーキ色のきちんとした制服を着ていて、穏やかなまなざしで話を聞いた。酔っ払った車掌が地獄の使いとすればこのスイス人は実に見事な紳士で天国の使者のようであった。
 警察官は自信を持って客の苦難を取り除く職務を遂行するという堅い決心を微笑に含ませてオッケーと言い、出て行った。
しばらくするとさっきのイタリア人の車掌が酔いを覚まし、申し訳なさそうな顔付きをしてお釣りを返しにやってきた。
 露野はこの出来事を思い出すたびにフローレンスやヴェニスの様なユートピアを持つ伝統ある国の緩みを感じた。ゴンドラを思い出し、ゴンドラの船長のおおらかな目と美しい
笑い声が水路の行きかうビルの間に響くのを、ふと思い出した。
 
天国と地獄の交錯する所で人間世界の謎や面白さが味わえるのであろうか。楽園に住むイブに蛇が誘惑をかけた様に楽園に罠があるのは案外、神の配慮かもしれぬ。地獄にしてもそこに至る道程には甘く美味しいデザートを備えて客人を歓迎するものだ。退屈は人を大変 苦しませるというパスカルの指摘を彼は思いだしていた。
なつかしの明珠も美しく優雅であったが故に様々の罠があったのであろうか?絢爛たる薔薇には鋭い針があるとは言い古されたことではないか?



【久里山不識】
詩「夢のゴンドラ」は 前に書いた詩を少し直して、ショートショートの中に入れました。







道元とマルクス

2023-04-07 14:42:11 | 芸術
道元の考えの核心に触れるには正法眼蔵を読まなくてはなりません。私が四十年前に書いた小説の中に、そういう場面を発見し、自分でも驚いたのですが、少し直しても読者に分かりやすくなっているのか、疑問です。この場面をさらに、面白く読めるようにこれからも、座禅をして正法眼蔵を読み、この場面をさらに面白く読めるように、工夫しなければと思いましたが、今は退院したばかりということで、このレベルで掲載しました。



道元とマルクス 【ショートショート】

「彼女はマルクスの資本論も読んでいる様な女性だからね。頭の良い女だと思うよ。人間は面白いがあの莫大な資産が彼女を駄目にする」
 その時、露野はキリストの言葉を思い出した。金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいという昔 覚えた文句だ。これは真の信仰生活には莫大な財産が邪魔になることを教えたものであろう。しかし岩村の言葉はそうした宗教を否定するマルクスの立場から言われたものなのに不思議にこのキリストの言葉と一致することが露野にある新鮮な驚きを与えた。
「そうかね」
「君の思想のその曖昧さは困るな。エコロジストにはそういう曖昧さがあるね。資本主義というのはやはりマルクスの指摘したように資本家と労働者の対立というのがあるのさ」その岩村の言い方にはちょっとトゲがある様な気が露野はした。岩村の強い性格から自然、ほとばしりでたのだからそこに悪意はないのは分かる。しかし、露野のことをエコロジ
ストと断定したのはちょっと不愉快だった。彼はその様な形で自分が分類されてしまうことを警戒した。確かに科学技術の発達よりも大自然との調和の中でこそ、人間らしい生活が出来るのだといい地球の環境保護を声高らかに叫ぶエコロジストの主張には共鳴する所が多い。しかし、そういうことは今や多くの人達の声になっているのであって、ある特定のグループだけの言い分ということでもないと思う露野はちょっと不服だった。
「確かに君の言う通り、政治経済的には対立があるかもね。でも仏教が教える様にあらゆるものに仏性があるということから考えれば人間としては平等だし、そこでは対立もなく慈愛によって結ばれねばならないのでは?」
露野はそう言いながら仏性とは何かという難しいことを説明しなければならないという予感がした。
「僕はこの頃思うのだけれど道元左派を自分の信条にしようかと考える様になっている。どう思う?」
露野にとって禅の大家、道元は近頃しだいに尊敬の対象になりつつあった。
「何だい?その道元左派というのは?」
「つまり 十八世紀のドイツにヘーゲル左派というのがあってここからマルクスが出てきたよね」
「ああ、それは知っている」
岩村はヘーゲルの逸話をうろ覚えであったがふと思い出した。後世に影響を与えた哲学書を執筆している時、窓の外を通る馬上のナポレオンを見て、あの人物こそ神の様な絶対精神の現われだとヘーゲルが考えたという話である。何かの本で見た馬上の凛々しいナポレオンの姿が岩村の瞼に浮かんだ。
 露野の方は自分の信条を説明することで頭が一杯だった。
「つまり僕は日本の鎌倉時代に出た禅宗の偉大な思想家である道元にマルクスを結合させたら良いと思ってね。これをヘーゲル左派を真似して道元左派と呼んでみたのだ。というのは今の日本で道元を熱心に勉強している人達には政治的に保守に傾く傾向がある。
これはおかしなことだ。道元は権力を嫌ったことでも有名なのだ。
それで僕はあえて道元にマルクスをプラスすることによって道元の様な禅宗の思想から政治的には革新を生み出したいのだ。
へーゲルの絶対精神の考えも、道元の「物は仏性の現われ」というのと似ている。似ていないのは仏性という実体はない。無と言っているところだ。そこのところを「無仏性」と道元は言っている」
 露野はこれこそ真理に至る道であると思う様になっていた。先程のキリストの文句が再び彼の心に響いた。確かに人はこの世の名誉、財産を捨て 逆境に耐えぬくことによって真理発見のチャンスに恵まれる。真理とは仏性であり、神仏であり、法である。
仏性とは輪廻転生して、多くの人生の中で修行して仏になる性質というそれまでの、考えを捨てたのが道元である。座禅した姿がすでに、この世で、仏であるという革命的な考えを打ち出したのである。
『幸いなるかな。心の貧しき者、その人は天国を見ん』というキリストの言葉が突然 理解出来た様に露野には思えた。人はその人の生きている位置によって人生の見方が変わるのだし、貧しさと逆境こそ真理に最も近いというというのは 案外本当かもしれないと思った。
 彼は応接室のソファーで近頃 花瓶に飾られた石竹の花を見た。あの時は気付かなかった美が今 哲学談義に移ろうとした時、不思議な美の光線をまきちらしたようだった。心の状態が変わると花も違って見えると思った。

「それは面白い。しかし僕には禅宗というのは分からない。説明してくれよ」
「道元は人間というのは本来 永遠のいのちである仏性が現われたものであると、言っているのだと思うがね」
「その永遠のいのちである仏性というのが分からない」
「僕だって分からないさ。ただ座禅していると何か自分というものが永遠なものに繋がっているという感じが朧気ながら掴めるような感じがしてきた」
「永遠なものね。芸術家の君としては分かることかもしれないが実務家の僕にはそういうことを理解するセンスが残念ながら欠けていてね」
露野はその通りと言いたかった。岩村の知性は鋭いが目に見えないで感じられるものには全く無能力であると思った。彼は『星の王子様』という童話で目に見えないものの中にこそ人生の素晴らしい宝があるのだという様な会話がなされているのをふと思いだした。そして岩村にはそれを感ずる能力がないのだと思った。岩村の反論を予想しながら露野は言った。
「永遠のいのちである仏性というのは最近思うのだが無ではないかと思うようになったよ」
「無って何も無いことだろう。ということは永遠のいのちも無いのではないのかね」
 岩村はそう言って皮肉な笑いを浮べた。露野は岩村にも一理あると思った。無というのは確かに考えれば考えるほど分からなくなる。無にはおそらく素晴らしい秘密があって人間の知性が介入することを拒んでいるのに違いない。目の前の石竹の花もその赤と白の斑の色とかれんな花びら以上の何かを語っている。つまり秘密がある。薔薇の中に神を見ると言った詩人がイギリスにいた様に記憶しているが無の中にも神仏あるいは法としかいいようのない存在がおられるのではないかという考えを露野は持つ様になった。確かに、この無は理解しにくい。ただの何もない無ではなく、この森羅万象を生み出す生命エネルギーを秘めているのだから。


「こう考えてみたらどうかな?無というのはプラスの無限のエネルギーとマイナスの無限のエネルギーが結合している状態なのだ。結合しているから何もない状態で無としかいいようがない。男と女が合体して法悦状態になっているのが宇宙の無の例えとして面白いのでは?」
 露野はにやりと笑った。たとえが少し適当でなかったという思いと良いたとえだという満足感が交錯した。そしてふとロミオとジュリエットの映画を思い出した。敵同士の名門貴族に生まれた二人が大きな障害を乗り越えて愛によって結ばれた朝の印象的な場面だった。朝を告げるひばりが鳴いているとロミオが言うとジュリェットがあれは夜 鳴くナイチンゲールだと言う。敵を殺したロミオにとって昼間になれば捕らわれ、死刑にされるかもしれないので逃げなければならない。ジュリェットは恋人を永遠に引き止めておきたい。窓の外で鳴く小鳥の声がひばりなのかナイチンゲールなのか会話する二人の愛が激しい
だけにそれを引き裂こうとする運命の力も衝撃的だ。ロミオとジュリエットが愛で結合している時は殆ど無を味わっているといっても良い様な幸せの絶頂であろう。その無に亀裂が走る。朝が来て、ひばりが鳴く。悲劇の始まりだ。そして人生の創造でもある。まさに宇宙も無から神のような力によって創造されるのだと露野は思った。
「そして男がそのほうえつ状態から起きだして朝の窓の外を見ると外には森や池の金魚が目にうつり小鳥がざわめいている。女は着替えをし、朝の食事の用意をする。そして一日が始まる。ちょうどその様に宇宙の無もプラスかマイナスかがこの無の法悦状態から何かの拍子で動きだす。そしてこの波紋は大爆発となる」
「君は独身なのにそういう例えがうまいね」
岩村は静かに笑った。


「僕はマルクスを信奉する者だからこの無限のエネルギーを持った無というのは物質と考えても良いのかね」と岩村は露野の瞳をのぞきこむようにしてそう言った。
「無は無限のエネルギーを持っているのですからね」
露野は難しく厄介な問題だという気持ちになって、ベートーヴェンに影響を与えたと思われるスピノザの言う「神」を思い出し、黙りこくり羊かんを口に入れた。少しの間 その沈黙が続いた後、露野は視線を羊かんから岩村に向けた。岩村は微笑していた。
「そこが難しいんだよ」と露野はちょっとおおげさに声を張り上げて言った。「無は意識の中にもあるのですよ。むしろ意識こそ無の存在の生き証人ともいえます」
露野はそう言い終えてから、自分の『無』の説明では聞いている相手に何がなんだか分からない気持ちを与えるかもしれないと思った。『無』よりももっと適当で良い言葉が見つかればと考えた。
「そうした考えは意識に魂の様な特別の地位を与えることで僕は納得できない」と岩村は言った。意識や心というものに宇宙の中心的役割を与えることは死の恐怖に対する一種の逃避であると岩村は考えていた。大自然こそ主人公であり、人間の意識はそこから作り出されたものであるという考えに彼は立っていた。しかし露野は心と大自然の奥底に同一の無という土俵があるのだと考えているようだった。岩村はその考えに好意を持たなかった。露野は宗教という罠にひっかかっているのだと思った。しかしこれは永遠のテーマで露野の考えを間違っていると断定する勇気は岩村にはなかった。
 

露野は多くの知識から解放され、明珠市の自然のような無垢の魂を漂わす岩村理香子夫人の感触を思い出した。あの時、彼女と自分が一体になった様な一瞬があったと思われた。夫人も自分も仏性の現われであるけれど、二人が分離されている時は仏性としての無を体験することは出来ない。二人が深い愛によって結ばれた時 宇宙と一体になり 神や仏性を知る。神は愛なりというではないかと彼は思った。 これは相手が恋人でなく、花や蝶や星でも良い。薔薇の花を見る。花を自分とは違う存在として乱暴に扱っている時は神や仏性は分からない。花を愛し、精神的に一体になると花と人間という風に分離されているものが克服され、その時 仏性や神が現われるに違いないと思った。


「結論めいたことを言うと、道元はね、人間を含んだ全ての物、花や蝶 星そして光にもこの永遠のいのちである仏性があると言ったのだよ。つまり無があるとね」
「ちょっと待ってくれ。こだわるけどそこの所が大変 理解しにくい。無があるという君の言い方に矛盾がある。無は何もないのだろう。それをさっきから君は無限のエネルギーを持つ無だの、永遠のいのちという無があるだの言っている。おかしな矛盾した言い方であるような気がする」
「ハハハ。なるほど僕も分からなくなってきたよ。ともかくこの道元とマルクスを結びつけて道元左派の文学をつくろうと考えている所なんだ」
「分かったよ。君の言いたいことは朧気ながら掴めた。そうした文学を創造したいという君に敬意を表するよ。今晩は少し、飲むか」
露野は目をあけて酒を誘う岩村を見た。
「そうだな」
 露野はそう言って淡い後悔の様な胸の痛みを感じた。夫人と離れねばならないことを思い出したからかもしれない。
「よし、今晩の夕食にはたっぷり酒を出そう」
岩村がそう言った時、露野はほっとした。


 露野 耕三は岩村夫人に対する複雑な感情の整理がつかないままに出ていく気になれなかった。といってこの館のこの部屋にこれ以上いるのは彼の心の罪の意識が許さなかった。夫人に対する恋慕の情は今や彼の罪の象徴だった。館にこれ以上とどまることは毎日、この罪に心身をさいなまれる様な気がして耐えられない気持ちだった。。
 彼はそこでかねての予定通り明珠市の中心地にあるマンションを借りてそこに住むことにした。そこは聖ハレルヤ教会の裏通りに面した通りにある2LDKの赤い色をした小型のマンションだった。二つある部屋も居間もスペースが広く、彼は満足だった。三階にあるため、窓から教会の敷地がよく、見える。その向こうに寺院と青空の会の本部の建物も見える。
 そこに住んだのはやはり理香子が教会に日曜日 来ているのだから、会えるチャンスも多いだろうという期待も働いていた。
そこに住んでから半月ほどしたある土曜日の夕方、夫人が突然マンションを訪ねてきた。彼はびっくりして中へ通した。
「これから聖書研究会が始まりますの?いらっしゃいません」と夫人は言った。先週の土曜日にも来たのだけれど留守だったということも夫人は付け加えた。
 露野はかなりどきまぎしていた。
「特定の宗教を信ずるのではなくて、東西の思想の融合の中から、新しい哲学を見出だすという青空の会の方に共鳴していますから、そういう場に出席するのはなにかひやかしに行くみたいでよくないと思うので」
彼は自分がひどく緊張しているのを感じていた。殆ど機械的にそんな風に喋った。
「土佐 五郎さんも毎週いらしてますのよ」
「五郎君が?」
露野は意外な感じがした。
「五郎さんが今度お父様のあとをついで、社長さんになられて私どもの方に御挨拶に来ましたのでその時、私が教会の方にいらっしゃる様に言いましたらさっそく半月ほど前から通うようになりましたのよ」
露野は五郎の社長就任については知っていた。ここのマンションに来てから十日程して、挨拶に来たからだ。
理香子は窓の所に立って「見晴らしがいいわね。教会の敷地がよく見える。時々、来ようかしら」と言った。そして軽く笑った。その心地よい笑いはピアノソナタのように部屋の中に響いた。
「はあ、どうぞ」
そうは言ったものの、彼はどう考えてよいのか見当がつきかねた。これは誘惑なのだろうか。キリスト者として厳格なしつけを父君から受けたと言った人の言動とは思われない。とすると、自分をためしているのだろうか。それともその両者の中間の所でスリルを楽しんでいるのであろうか。彼は彼女をまともに見るのが怖い気がした。胸の膨らみや赤い唇が彼を酔わすことを恐れた。
「ねえ、露野さん、今度新しく来た牧師さんはフィリピン人なのよ」
「フィリピン人?牧師が変わったんですか」
「そうなの。そしてとても変わったお説教をするのよ。あたしは詳しいことはわからないけど、なんでも『解放の神学』とかいってとても魅力的な話をする方よ。露野さんならきっと興味を持つと思って」
「解放の神学ですか。興味ありますよ。僕もちょっと本などで得た知識しかありませんから」
 露野は急にその牧師の話を聞く気になった。
彼は彼女の白い首筋を一瞬 見たあと、「行きましょう」と言った。
彼女は目を輝かした。
彼が窓を閉めたり、電気を消したりする間、彼女は台所や書斎を興味深かげに見ていた。 彼女の案内で正門から花壇に取り囲まれた石畳を通り、一番大きな建物の脇の道をぬけて小さくしょう洒な建物の中に入った。
時計は五時少し前で既に十五人近い人が椅子に腰かけて円陣を作っていた。露野はすぐに五郎と目があった。  
 露野は土佐の横にあいていた席に座った。夫人は左側の少し離れた空席に座った。
「ここに来るのは始めてですか」と土佐は言った。
「うん、始めてだ。岩村夫人に誘われてね」
「マンションの住み心地はどうですか」
 土佐はこの前、社長就任の挨拶に来た時も同じことを言ったと露野は思った。
「うん、良いよ。所で社長の仕事の方は順調に行っているかい」
「ええ、社長といっても十人ほどしか従業員がいないんですから」
その時、正面にいた牧師が声を上げた。
「皆さん、そろそろ時間になりましたので今日の聖書研究会を始めたいと思います」
上手な日本語ではあったが明らかに外国人だと分かるなまりがあった。露野よりは十ほど年が上の感じがした。見事な口髭をはやしており、目は温和であったが、底の方に光るものは何か鋭いものが隠されているようだった。

 牧師は露野を紹介したあと、露野を意識したのか解放の神学の核心に触れた所を話した。集まっている聴衆の中では自分が一番年上の様な感じがしたが一人だけ自分に近い中年の紳士が会社帰りなのか背広姿のまま出席していた。
 露野は牧師の話が内容が高度であるけれども、既に自分が考えたり本を読んだりしてきた範疇に入っているもので特に目新しいものはなかったがフィリピンの故国に触れた所はさすがに迫力があった。
 『さいわいなるかな。心の貧しき者、その人は天国を見ん』というキリストの言葉がその牧師の話の核心だった。何も所有しない貧しい者こそ地上に天国を築く使命が神によって与えられると彼は熱弁をふるった。ラテンアメリカやフイリピンなどカトリックの強い所で信者達は新しい理想社会を夢みて、貧しく虐げられた人々の解放に立ち上がっていると話す牧師の目は輝いていた。



【久里山不識】
パブ―(Puboo)で電子書籍にした「森に風鈴は鳴る」(無料)は核兵器廃止をテーマにした青春小説です。よろしく。
Amazonには「迷宮の光」「霊魂のような星の街角」が電子出版されています。



 


明珠の町

2022-05-12 20:09:17 | 文化


今日は。今回は三十数年前に書いた私の長編小説から拾った散文詩になりそこねた文章の紹介です。脱原発をテーマにしたこの長編は本にして、一流の芸術家 武満徹氏から礼状をもらったもので、私にとって、記念碑的作品です。ご紹介する文に至る簡単なあらすじは、主人公が親友のいる明珠の町に来て、その家でしばらく滞在している時の様子を書いたものです。



明珠の町

彼はお茶の専門店で買った新茶の封を切って急須に入れた。中に絹のような緑茶の若葉がさらさらと音をたてて落ちた。入れ過ぎたかなと思ったが、まあ大丈夫だろうと考え、ちょっと首をかしげた。
 彼女は、陽気だった。軽い歌が彼女の喉の奥の方で歌われ、それは静かな部屋の中に十九世紀のレコードの様にやさしい音の流れとなって、澄んだ小川を流れる笹舟のような神秘な乗り物となって空気の中をさまよっていた。彼はその楽しげな彼女のピンク色の頬を見、急須の中にポットから流れ出る湯の上空に立ちのぼる湯気の白さを何ということもなしに見詰めた。湯気は魔法の国の雲のように感じられ、壊れた目覚まし時計のようなじいーっという湯の音が心地良かった。
「壁にかかっている油絵は、あなたが描かれたの?」
 彼女の視線が室内の調度品を描いたやや黄色味を帯びた油絵とカーネーションを描いた水彩画にそそがれた。
「ええ、こちらへ来てから描いたものです。うまくいきませんでした。なにしろ、絵は始めてからまだ日が浅いので、満足なものが描けませんよ。ハハハ」

 彼は改めて自分の絵を見、自分でも上手下手の評価をくだせないでいる、やや粗雑な感じのする描き方に不安を感じていた。カーネーションは今は部屋の隅の花瓶に挿してある。それを見た時はその美しさにはっと心をうたれたものだ。キリストの言われた「野の百合は宮殿より美しい」というにふさわしい美しさだった。生き物の美しさは人工の美しさがいくら頑張っても到達できない自然の神秘ないのちの深さを感じる。それで、思わずカンバスに向かい、絵にしたのだ。
油絵は窓から見た庭とその向こうに見える夕日の落ちる丘のような山という風景である。
彼女の視線が絵から彼の瞳に向けられ、その慈愛に満ちた深い瞳は彼に安堵の気持を与えて、今度は湯飲みの花模様に眼差しが移っていった。彼女は、そうして視線を徐々に移動させながら、さりげない調子で言った。
「日が浅いにしては、大変おじょうずな絵だと思いますわ。でも、正直言いますとすごくうまいというよりは、何か心の底を洗われるようなポエムを感じさせる面白い絵だと思います」
 彼女はその時、彼の方にきらりと光る知的な瞳を向け、やさしく微笑した。
「そんな風に言われると、大変うれしく感じるのですけど、絵にはそんなに期待していないんです。ただ、心の中にストレスがたまって来た時、そのもやもやした気持ちを吐き出すのにいいんです。カンバスの中に、様々の色をぬりたくっていくと、不思議に自分の心が洗われていくのです。小説を書いてもそういう効果はありますが、小説の場合の方は少々プロ意識を持っていますから、うまく書けないとむしろいらいらしてしまうことがあります。その点、油絵の方は本当に趣味ですから、へたに描けてもそれなりに憂さ晴らしになるものです。どうです。貴方も描かれてはいかがです」
「私はだめなんです。子供の時代から、文章を書いたり絵を描いたりするのは苦手なんです。小説を読んだり、展覧会に行って絵を鑑賞するというのは、随分経験を積んだつもりなのですけど、でも、自分自ら創作してみようなんていう野心を持ったことは、ついぞありませんのよ。最初から自分にはそんな才能はないのだとあきらめているのでしょうね。」 

 窓の外には、五月のさわやかな青磁色の空が広がり、綿のような白雲が棚引いていた。彼はポットから再び急須に湯を注ぎ込み、花模様のついた二人の白い湯飲みにお茶を入れた。その温かい湯気のぬくもりが顎のあたりをゆらゆらなめていくのを感じて、五月の空を眺めた。
「本当に素晴らしい天気ですわね」
彼女はうれしそうな視線を湯飲みのお茶にそそいだ。
「僕はなぜか唐の都長安を思い浮かべます」
彼は唐突な調子でそう言った。
「長安ですって?」
彼女は驚いたように目を大きく見開いて、彼を見詰めた。
「そうです。唐の都長安です。僕はこの明珠の町に来た時から、長安のことを時々考えるのです。確かに、ここは長安に比べればはるかに小規模な町です。
しかし、千五百年前の国際都市長安が大規模であったことを除けば、ひどくエキゾチックで、しかも文化と魅力に富んでいるという点では、明珠の町は長安によく似ているのです。小さくともある種の謎を秘め、魅力があるのです。この部屋で、あなたのような方とお茶を飲み青空を眺めていると、なぜか長安の都がありありと目に浮かんで来るような気がするのです。
 花のような美しい季節。長安の都は、様々の人々にあふれ、活気を呈している。若者も乙女も純な瞳に輝き、音楽か舞踏に身をまかせている。最高の宗教の深みと平凡な生活の彩りが、さながら絵巻物のように長安の空と大地をカンバスにして描かれるのです。
 とまあね。こんな風に想像するのです。古代ギリシャのアテネでもなくローマ帝国のローマでもなく、まさしく唐の都長安でなくてはならないのです」
彼はちょっとした詩的気分を味わっていた。彼女はちょっと笑った。屈託のない健康な笑いだった。
「あなたはやはり詩人ですわね。最近は実務的に物事を考える生活に慣れしまっているので、そんな話を聞いていると、やはりとてもうらやましくなったりうれしくなったりしますわ。
 私はすっかり現実的な人間になってしまったみたい。今は、憧れの都などというものはなくなってしまいましたし、明珠の町も見慣れているせいか、そんな深い詩情を味わうなんていう、高級な精神状態になることは最近滅多にありませんわ 」
「随分謙遜されるのですね。あなたの魅力は、そうやって謙遜される純な雰囲気にあるのですよ。ご主人の木村君は、そうしたあなたの心の気高さに惚れ込んだのでしょう。あなたは相当芸術にも造詣が深いそうじゃありませんか。作詞作曲もいいものを書くというし、ピアノの腕もかなりのものだという話じゃありませんか」
 彼女は手を口にあてて笑った。それはさもおかしくてしかたないという風に部屋の中に響いた。
「昔、十代の頃はあたしも少しは詩人だったかもしれません。でも、芸術ってそんな甘いものでないことが最近、ようやく分かってまいりましたわ。あれはやはり才能がないと駄目ですよ。確かに、作詩・作曲は一時熱中して量の上では相当つくりましたが、人に見せられるのはそのうちいくつ、あるかしら」
彼女は一瞬 顔を曇らした。
「芸術がはてしなく、奥が深いということ僕にも理解出来ます。なにしろ、ゴッホは気が狂ってしまいましたからね。ゴッホだけではありません。ドイツ詩の最高峰であるヘルダーリンも後半生は精神を病みました。それに近い芸術家は沢山います。僕はそれでも芸術は素晴らしいし、人類の生み出した最高の文化だと思うし、芸術家を尊敬します」
「それはあたしも同じですわ。優れた芸術は生きる希望を与えてくれますもの」
「ある哲学者が言ってましたけれどね。芸術というのは神仏を直感的に表現することだと言っているのを考えてみても生易しいものではありませんね。僕も途中で挫折するかもしれません」
「本が売れてるそうじゃありませんか」
「ええ」と彼は生返事をした。そしてちょっと黙りこくった。彼は創作の展開の上で人物描写に行き詰まっている所があったので、その点の彼女の意見を聞いてみたいと思った。
「所で、お聞きしたいのですけど、僕は小説を書く時、人物の書き方が下手だといわれるのです。あなたなら人間というものをどういう風に描きますかね」
彼は自分が東京から送った小説についての彼女の詳しい批評はまだ聞いていなかった。明珠の駅で最初に会った時、そのことが話題に出て面白い小説だとほめてくれた時は嬉しかったが、それ以後 聞いたことはない。自分の小説の人物描写についての感想をふまえて、人間についてどう彼女が考えているのか喋って欲しいと彼は期待した。
彼女はちょっと真剣な表情になった。そして言った。
「難しいわね。今 あたしの頭の中にひっかかっているのはパスカルの言う繊細の精神ですわ」
彼は彼女が何を言い出すのか少なからず興味を持った。
「繊細の精神?」
彼はそうまるで独り言の様に言った。
「人間には繊細の精神と幾何学の精神を持つ二種類の人間がいるということですわ。御存知?」
「ええ、昔 読んだことがあります」
「この繊細の精神でとらえられる宇宙に興味がありますの」

 彼はその時、突然小説の構想が浮かんだ。彼は頭の中に浮かんだアイデアが気に入ったので空想の翼を広げたかった。彼女との会話を打ち切るのも悪い気がしたので、彼女の湯飲みにお茶を入れたり、自分も飲んで、適当に彼女の言葉に相槌を打っていた。
 彼のアイデアは、今まで歴史小説を書きたいと思っていた延長線上にあった。それは唐の都長安を描いてみようというものだった。そして今、彼女が喋っている繊細の精神と幾何学の精神の対立を描いてみれば面白いと思った。確かに彼女の言う様に彼の人生経験から言ってもこの繊細の精神を持つ人間と幾何学の精神を持つ人間の対立は深いと思った。物事を全て論理と理性で割り切って人生を渡っていく幾何学の精神の持主には今までも少なからず反発を覚えたものだった。そして今の日本が繊細の精神を持つ人間を非能率的な人間と断定してそのナイーブな魂の素晴らしさに気がつこうとしないし、気がついても軽蔑していることに腹を立てたことが何ども今までにある。だからこそ、彼の好きな長安の都を舞台にしてこの二つの精神の対立を書くことに興味があった。なにも唐の都、長安でなくても良いはずなのに、その時の彼の空想は昔の長安に空想の翼を広げたのだった。
 一体なぜ彼が唐の都長安にひかれるのか、彼自身よく分からない所があった。彼は、今まで自分が身につけてきた教養の多くは西欧的なものであるということを認めていた。そして、中国については、大した知識もないし、勉強もしていなかった。それでも、長安に惹かれるのは漢詩を読んだせいかもしれない。
唐の都長安は彼の心の奥底で長い間生きていた。この都で生きていた人々の喜びや悲しみは、どんなものであったのだろう。彼と同じような境遇で生きた男もいたに違いない。もちろん、時代や生きた場所に大変な違いはあるが、必ず彼にとって魅力的な人物がいたに違いない。その人は大変魅力がありながら、人生の苦悩を味わっていたに違いない。そうした埋もれた人生を発掘したいと彼は思った。
「きっと、あなたのように繊細の精神に富む女の方が、唐の都長安にはたくさんいたのですよ。ですから、長安は魅力なんだ。あなたのように純で清楚な人が、今の時代には大変少なくなってしまった。それに比べ、昔の長安にはたくさんいたのですよ。恋愛というと、ロミオとジュリエットなどのように西欧的なものしか思い出さない傾向にありますが、
それはおそらく片寄った見方でしょう」
 話題が又長安にもどったことに多少の物珍しさを感じたような瞳をちらりと見せた夫人は、再び静かな微笑に立ち返っていた。
「それは買いかぶりというものですよ。私が今誇りに思っているのは、二人の子供達だけですわ。自分の子供は、誰にとっても宝でしょう。その点では私の場合も同じです。ですが、今の私にとって、理絵と正武は私の生き甲斐であると同時に、私に様々のことを教えてくれる先生でもあるのです。二人とも、まだ幼く何も知らない子供達ですが、私の目から見ますと実に神秘的なんです。何もない所から一個の生命を形づくり、数年の歳月の間に人間としての歩みを始めました」

 


【久里山不識】
1 三十年以上前に書いて、本にした長編小説の長い文章の中から、推敲すれば散文詩になりそうな場面を拾ってみました。 【推敲すれば】ですけど、今、体調が悪いので、推敲する時間がとれず、少し手を入れる程度で、掲載します。長編ですから、散文詩の候補はいくつもあります。いくつも紹介して、面白そうだとなれば 長編小説全体を推敲しながら、長編を中編ぐらいにまとめることも考えねばなりませんけど、それをやるのはやはり、体調が回復してからということになるかと思います。
今回の文で、パスカルの幾何学的精神と繊細の精神の対立というのは文芸のテーマとしては面白いテーマと思います。
今の日本では、幾何学的精神の持ち主の方が優遇される傾向にあるのかもしれません。繊細の精神が軽く見られるというのは、今の日本に広がっていると思います。だから、ネット中傷なんかがはやるのかもしれません。
世の中全体が、長い時間の実務を要求するからでしょう。長時間労働と激しい競争が原因と思います。その点、ブログに花や鳥や大自然を撮る人、絵を描く人、優れた音楽を聞く人、詩を書く人それに、自然の中を歩く人は繊細の精神を無意識に磨いている方だと思います。
この本を作った当時はインターネットもブログもありませんでしたので、三十年以上前の私の場合、いきなり本にするのがベターだったのです。昔は宮沢賢治のように、出版社に原稿をいきなり持ち込む例もあったように聴いています。賢治の場合は断られ、無名のまま死んだようです。自費出版もしたようですが売れなかったようです。
あの有名な「銀河鉄道の夜」も死後、認められたと聞いています・

2  年相応の故障のため、三月下旬までお休みします。よろしくお願いします。





森に風鈴は鳴る

2022-03-06 10:18:28 | 文化

「青春の挑戦」はさらに直し、以前に書いた「危機と大慈悲心」を延長した小説という形にして、推敲して、タイトルは「森に風鈴は鳴る」という小説に衣替えしました。
パブ―に電子書籍に無料で出しています。




その後、一か月が経過し、いくつかの不備が見つかり、
小説「森に風鈴は鳴る」はいくつも直しました。下記に重要な所のみ掲載します。これからも、直し、完璧を目指したいと思います。


細かい所を直したのは「大山道長」という人物の描写です。この人は強烈な個性の持ち主で、小説「危機と大慈悲心」で活躍させた人物ですが、「森に風鈴は鳴る」の完成版にまとめる時に「危機と大慈悲心」を半分に削って、完成版の最初の少年版にしたものですから、問題が起こりました。
新しい小説「森に風鈴は鳴る」では、大山道長の個性が弱くなり、登場機会も少なくなり、小説を盛り上げるのに、迫力を欠いてしまい、残念なことをしてしまったということを今、思っています。少々直しましたが、まだ満足ということではありません。

例】 亡くなった祖母は大山という男を知っていたろうか。彼は現代日本はニヒリズムに汚染されているからと言って、弱者救済のNPOに取り組んでいる。

ニヒリズムという言葉が一般化するのには、それまでの西欧のキリスト教的価値観を否定したニーチェやそれに影響されているカミュ(この方は最近のコロナの影響で、彼の書いた「ペスト」が読まれるようになったと報道されています)に発信源があるように思われているのでしょうが、今の日本に少なからず価値観の上で、薄いヴェールをかけているように思われます。
ですから、私の言うマナー倫理の崩壊の予兆を感じるようなことが起きていて、汚職、パワハラ・セクハラ・虐待・ネット中傷などに発展していると思っているわけです。金銭至上主義から来る経済格差もそうです。そういうことで、ニヒリズムは現代社会を見る上で重要ですけど、それを克服しようという動きも起きていますね。
今までにもNPOとかボランティアによる活動という善意の動きがありましたが、最近はSDGsとかドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの「会社に倫理部をつくれ」という発言が心強いですね。
考える人は「今の人類に危機感を覚え」、どうしたら、克服できるか考えているわけです。
大山道長の尾野絵ユートピアNPO[ニヒリズム同盟]も私の小説の重要なポイントです。「平和産業」は私の小説の中心的なテーマになります。今までのようなやり方では平和は勝ちとれないのではないうかという疑問があるわけです。
ニヒリズムに対抗して、人類愛・福祉の充実・戦争の克服・地球を守るなどがテーマになるわけです。それが十分に書けているか、今後推敲する機会があるとすればそのあたりでしょう。


後編では、直したところを具体的に書きました。

【 悪夢】
「産軍共同体もあるぞ」
「彼らも人類が滅亡になれば、滅びるのだ。今やそういう人類の危機に陥っていることを悟るべきなのではないか。」

重要な所なので、下記のように直しました

「産軍共同体もあるぞ。国によっては。この力は大統領に圧力をかける存在でもあるという」
「彼らも人類が滅亡になれば、滅びるのだ。今やそういう人類の危機に陥っていることを悟るべきなのではないか。
産軍共同体が平和な商品をつくるように、あるいはつくりやすいような社会的環境を作ることが政府の政策だ。そういう政策をするように、働きかけるのが我らの平和産業だ。つまり、そういう世論ずくりのために、声を大にして叫ぶのだ。





後編の詩を直しました。【ここは「青春の挑戦」の17番に書いてあり、詩としては長すぎますので直しました】

(新しいpoem)
なにゆえに こころは 乱れ迷い 君を思う
銀河 霧深き天空の波さわぐ所
名も知れぬ巨木の幹の黒の黒き肌に
いくつもの緑の葉が糸のように天に伸びている

しなやかな枝の伸びゆく空間のあたりにすみれ色の音がして
銀河の天空もオオカミ族の亡霊に満ち、狂えり
折しも かなたの星々の野原の上は
珈琲のにおう不思議なオオカミ族の跡

名も知れぬ巨木の年輪の刻まれた太い幹に
りこうそうなリス一匹悲しき笛を持って立つ
珈琲から立ち上る白き蒸気はゆらゆらと幻となりて
そこに昔の雄々しき君ありし

春のさわやかな風が吹いているというのに、何故悪があるのか
我々は不死のいのちの海にいるのだ
山も森も川も不死のいのちの現われと聖人が言われたではないか
なのに、何故、悪があるのだろうか

花の色を見、小鳥のさえずりを聞きながら、森羅万象が真理であることを忘れ、宴会で騒ぎ立て、恐怖の武器を発達させていたオオカミ族よ、仏性そのものを見るのは自我を無にする修行が必要なのだ

虹が真実であり、幻のような夢も真実であるように、現実世界も幻のようなものでありながら、真実であり、みな不死の愛のいのちの現われだ。そのことを忘れたオオカミ族は悲しい

座禅をする。只管打座だ。あるいは瞑想。
身体と光と空気と風景は一体になる。法身の世界だ。
それすらせず、科学の繁栄した豊かさにおごり、その天の罰なのか、それは厳しかった
身体の内部はこくこくと変化しているけれども、
その見事で精緻な細胞は見事なからみあいの中で新陳代謝をおこない、生きている。
それ故にこそ、座禅の中で呼吸がいのちのシンボルとなる

そのことを忘れたオオカミ族は悲しい
銀河の天空もオオカミ族の亡霊に満ち
折しも、かなたの星々の野原の上は
珈琲の匂う不思議なオオカミ族の墓
ああ、栄光の日は過ぎ去り
幻影の亡霊となりて
あでやかに浮かび立つ悪の舞台
何ゆえにわが心かくも乱れ君を悲しむ
    

     


直す前の(古いpoem)

なにゆえに こころは 乱れ迷い 君を思う
銀河 霧深き天空の波さわぐ所
名も知れぬ巨木の幹の黒の黒き肌に
いくつもの緑の葉が糸のように天に伸びている

しなやかな枝の伸びゆく空間のあたりにすみれ色の音がして
銀河の天空もオオカミ族の亡霊に満ち、狂えり
折しも かなたの星々の野原の上は
珈琲のにおう不思議なオオカミ族の跡

名も知れぬ巨木の年輪の刻まれた太い幹に
りこうそうなリス一匹悲しき笛を持って立つ
珈琲から立ち上る白き蒸気はゆらゆらと幻となりて
そこに昔の雄々しき君ありし

春のさわやかな風が吹いているというのに、何故悪があるのか
我々は不死のいのちの海にいるのだ
山も森も川も不死のいのちの現われと聖人が言われたではないか
なのに、何故、悪だの亡霊だのがあるのだろうか

庭には、様々な形と色をした花が咲いている。
色々な形の昆虫がいる。蜜を集めに来ているようだ。
不死の愛のいのちは真理そのものだ
花も昆虫も大地も不死の愛のいのちの現われだ
オオカミ族が滅びたのは不死のいのちという霊性を見ようとしなかったからではないか

空には白い雲が流れ、鳥の鳴き声が聞こえる。
いのちの朝日と永遠の夕日の美しいこと。
あの赤と燃えるような色の混ざった神秘な色

そうだ、この世は色と形と音で埋まっている。
科学では、物に反射した光が目に入り、電気信号になり、
脳神経細胞の神経が波長の長さで色々な色を感覚とうけとめる。
そうしたクオリアは色だけでなく、形も音も同じ。

そんなありふれた説明は証明されたのだろうか

感覚器に送られた電気の波長を色と感ずるとしても、不思議なことではない
電磁波とハートをくっける魔法のノリは不死のいのちそのものだからだ。

確かに脳の電磁波がハートになるというのは大きな飛躍のように見える
オオカミ族はこの飛躍に混乱した

海も山も川もすべてのものが不死のいのちである。そのことを忘れたオオカミ族の末路は哀れだった
不死のいのちとは仏性であり、真理である。
全ての現象に、真理が現われているというのが昔の偉人が悟ったことだ。
不死のいのちがあってこそ、山や海や川などの森羅万象は現われる。
主客未分の世界、そこは一個の明珠で仏性という真理が現われている

だからこそ、ヴァイオリンの音楽はかくも燃えるのだ
音楽にあのような神秘な深みが生じるのだ。
だからこそ、花はあんなに美しいのだ。昆虫の蜜を集めるためのおびき寄せというのは理屈だ。
あの美しさは不死の愛のいのちの働きがあるからだ

花の色を見、小鳥のさえずりを聞きながら、森羅万象が真理であることを忘れ、宴会で騒ぎ立て,、恐怖の武器を発達させていた
オオカミ族よ、仏性そのものを見るのは自我を無にする修行が必要なのだ

虹が真実であり、幻のような夢も真実であるように、現実世界も幻のようなものでありながら、真実であり、みな不死の愛のいのちの現われだ。そのことを忘れたオオカミ族は悲しい

座禅をする。只管打座だ。あるいは瞑想。
身体と光と空気と風景は一体になる。法身の世界だ。
それすらせず、科学の繁栄した豊かさにおごり、武器を異常に発達させたその天の罰なのか、それは厳しかった
身体の内部はこくこくと変化しているけれども、
その見事で精緻な細胞は見事なからみあいの中で新陳代謝をおこない、生きている。
それ故にこそ、座禅の中で呼吸がいのちのシンボルとなる

そのことを忘れたオオカミ族は悲しい
銀河の天空もオオカミ族の亡霊に満ち
折しも、かなたの星々の野原の上は
珈琲の匂う不思議なオオカミ族の墓
ああ、栄光の日は過ぎ去り
幻影の亡霊となりて
あでやかに浮かび立つ悪の舞台
何ゆえにわが心かくも乱れ君を悲しむ
    
   

小説のラストの所を直しました。
「一切は神秘な虚空から創造され、そして又 虚空に戻る。この神にも匹敵する創造の働きは東洋では仏性と言われ、今も自分に働き、永遠に自分を創造していくだろう。彼はそう思った。もはや死は恐れる敵ではなかった。完」


上のラストの部分を下記のように変えました。

「一切は神秘な虚空から創造され、そして又 虚空に戻る。この神にも匹敵する創造の働きは東洋では仏性と言われ、今も自分に働き、永遠に自分を創造していくだろう。優紀は全てのものは不死のいのちが現われたものであるとお釈迦様の言われらたことに納得した。それ故、彼自身にも生と死があるが、優紀の本当の自己は不生不滅であると思った。確かに、彼はそう思ったのだが、はたして松尾優紀自身は本当にそのことを知ったのだろうか。


【完】