難聴、統合失調、家庭不和に苦しみつつ
ユダヤ人を匿い、慈善活動に尽くした
プリンス・フィリップの母
Victoria Alice Elizabeth Julia Marie of Battenberg
1885~1969
幼少時
アリスは1885年、母ヘッセン大公女ヴィクトリア、父初代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイスアレクサンダー・マウントバッテンの長女として誕生。ドイツのヘッセン家由来の家系であるが、父は英国海軍に所属しており、母ヴィクトリアはヴィクトリア女王の孫にあたるため、英王室とも関係が深かった。住まいは、ヘッセンダルムシュタット、ロンドン、ユーゲンハイム、マルタなどを転々とした。
ヴィクトリア女王、後方は女王の末娘ベアトリス(バッテンバーグ公子ハインリヒ・モーリッツに嫁ぐ)、ヴィクリア、膝の上にアリス
生後、言葉の理解が遅く、話し方が不明瞭であった。耳鼻科医により先天性の難聴であると診断された。
アリスは読唇術を学び、英語、ドイツ語、フランス語を、ギリシャ王子との婚約後はギリシャ語も身につけた。
アリスには、4歳下に妹ルイーゼ(スウェーデン王妃)、7歳下に弟ジョージ(2代目ミルフォード=ヘイヴン侯)、15歳下に弟ルイス(初代マウントバッテン・オブ・バーマ)がいる。
母ヴィクトリアの母はヴィクトリア女王の二女、血友病保因者のアリスであるが、ヴィクトリアの子孫を追ってみると、息子ジョージとルイス、娘アリスの息子フィリップ、アリスの娘たちの男子12名、いずれにも発病者はいない。スウェーデン王室に嫁いだ妹ルイーゼは再婚で、子はいない。
ヘッセン大公女だった母の家系では、ドイツに叔父のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ、叔母プロイセン大公女イレーネ、ロシアに叔母のロシア大公女エリザベート、ロシア皇后アレクサンドラがいる。アリスは殺害されたロシア皇女たちにとっては、母方のいちばん年長の従姉にあたる。
ヘッセン大公家の4姉妹 左からイレーネ、ヴィクトリア、エリザベート、アリクス
幼い日のアリス
アリスとルイーゼ
マウントバッテン家 後方に立つのがアリス
ギリシャ王子との結婚
1902年、英国の新国王エドワード7世の戴冠式の席で、3歳年上のギリシャ王子アンドレオスと当時17歳のアリスは恋に落ちた。アリスは難聴、アンドレオスのほうは極度の近視だった。
翌年1903年10月、ダルムシュタットのヘッセン大公家にて結婚。(この行事のためにヘッセン大公の娘エリザベートがロシア皇室狩猟用別荘スパラで病死)
ギリシャ王ゲオルギオス1世第4王子 アンドレオス
英語、ロシア語、デンマーク語、フランス語、ドイツ語も堪能だった
アンドレオスは、デンマーク王クリスチャン9世の次男であったゲオルギオス1世の第4王子。エドワード7世の王妃は伯母、ロシア皇太后も叔母。アンドレオスにとっては、ニコライ2世やジョージ5世は従兄弟。兄のゲオルギオスは皇太子時代のニコライと日本を旅行中に大津事件に遭遇している。
結婚後、アンドレオスは陸軍で、一般軍人としてキャリアを積んだ。残されたアリスは、難聴をハンデともせず、慈善活動に勤しんだ。
1905年続いて1906年に、娘マルガリタとセオドラを出産した。
右側 アンドレオス、アリス、セオドラ、マルガリタ
右側 アンドレオスの兄で第3王子ニコラオス、エレナ・ウラジミロヴナ、オルガ、エリザヴェト、マリナ(のちのケント公ジョージ夫人)
1908年、アリスは叔母エリザベータ・フョードロヴナの養女マリア・パヴロヴナとスウェーデン王子ヴィルヘルムの結婚式のために、ロシアを訪問した。1905年にモスクワ総督だった夫セルゲイ大公がテロリストに爆殺され、寡婦となったエリザベータは修道会を設立しようとしていた。
アリスはエリザベータに深く共鳴し、修道会建設の礎石を一緒に築いた。(別記事「エリザベータ・フョードロヴナ」「マリア・パヴロヴナ」参考)
1911年、三女セシリアが生まれた。
ひざには1914年に生まれたソフィーも
第一次大戦期
第一次世界大戦を目前にするその頃、ギリシャは1912年からバルカン戦争に突入する。
アンドレオスは従軍し、アリスは看護師として野戦病院で働いた。
バルカン戦争から第一次大戦に突入した。
ドイツによる占拠のあと、1916年にはフランス軍の爆撃が始まり、王室の方々とアリスは宮殿の地下壕で空襲に耐えた。
戦後の新政権とのトラブルにより、ときのギリシャ王コンスタンティヌス1世(アンドレオスの長兄)が退位させられ、王室はスイスへ亡命。1920年に復権し、コンスタンティヌス1世王が復位。
しかし、間も無く希土戦争により軍事政権へ。アンドレオスはクーデター未遂で逮捕、死刑を宣告された。そこへイギリス海軍が介入し、王室を救ってフランスに亡命させた。ギリシャ王とその弟妹にとって従兄弟であるジョージ5世が差し向けたものである。(アンドレオスの父ゲオルギオス1世とジョージ5世の母アレクサンドラは姉弟)
1921年に生まれたばかりのフィリップを含め4女1男の子どもたちを連れて、アリスは亡命、その後しばらくはパリで過ごした。
息子フィリッポス
1921年、結婚から18年、第4子ソフィーが生まれてから7年後に、初めての男子フィリッポスが誕生した。
ジョージ5世によって亡命を叶え、命をつないだこの家族から、ジョージ5世の愛する孫娘エリザベスの夫が現れるとは想像しえなかっただろう。エリザベス2世は1926年生まれである。
フィリッポス 1921~ 現在94歳
12歳
神経衰弱
亡命先のフランスで、家族揃って暮らせる喜びは、夫アンドレオスの不貞により引き裂かれた。
アンドレオスは愛人との不安定な生活を続け、ホテルやヨットに滞在した。
そんな中、アリスは熱心に信仰し、ギリシャ正教に改宗する。しかし、それでも家庭不和に持ちこたえられず、統合失調症あるいは神経衰弱となった。
心に病を抱える娘アリスを案じた母ヴィクトリアは、1928年になるとアリスの息子フィリッポスを引き取り、フィリッポスにとっては叔父であるゲオルギーやルイスとともに養育した。1930年には、ベルリンのサナトリウムに、その後スイスのサナトリウムに入院した。
また、その頃には4人の娘達は皆ドイツの貴族に嫁いでいったが、アリスは入院していたため結婚式に出席できなかった。長く独身だった妹ルイーズも、スウェーデン王の後妻として嫁いでいった。
長い入院生活の折、1937年、三女セシルと家族が飛行機事故で全員即死という不幸が起きた。預けられていたために残された末子ヨハンナは、後を追うように病死した。(別記事「ヘッセン大公家 呪いのうわさ」参考)
この葬儀で、アリスは6年ぶりで夫に会い、フィリッポスやマウントバッテン卿にも会った。葬儀にはヘルマン・ゲーリングも参席した。セシルと夫のヘッセン大公ゲオルク・ドナトゥスはナチスに入党していたためだ。これがきっかけとなって、アリスは家族とコンタクトを取るようになった。1938年、アテネに再び帰る。
セシルと娘ヨハンナ
ヨハンナ その死顔は同じ年頃のセシルとそっくりだったとアリスは語った
第2次大戦
アテネに帰ったアリスは寝室2つだけの部屋を借りて一人暮らしを始めた。じきに始まった第2次大戦、ドイツに嫁いだ娘達と、イギリス海軍士官となった息子は敵国の関係になった。ギリシャ王家は南アフリカ共和国へ亡命したが、アリスと兄嫁にあたるエレナ・ウラジミロヴナはアテネに残り、慈善活動を続けた。
孤児や浮浪児のための2つの避難所を運営した。
赤十字で炊き出しをしたり、スウェーデン王家に嫁いだ妹から薬品を送ってもらい提供していた。
1943年にムッソリーニが失脚すると、ドイツが支配するようになり、ユダヤ人が多数、収容所送りとなっていた。アリスは、かつてゲオルギオス1世を助けたことがあり、彼の求める望みは叶えるよう王がはからったが、何も要求しなかったハイマキ・コーエンの家族のうちの妻と息子2人を匿い続け、命を救っている。
アリスの勇敢さが窺い知れるエピソードがある。
占領するドイツの将兵が王女アリスのもとにやってきて、
Is there anything I can do for you?
と伺いを立てると、彼女はこう返した。
You can take your troops out of my country.
内紛のため夜間外出禁止令が出ているにもかかわらず、警察官や子供への配給に出かけるアリスに撃たれる危険があるからと注意する者に対し、
They tell me that you don't hear the shot that you and in any case I am deaf.
So why worry about that?
難聴であることを強みにしてしまう巧さに、何も言えなくなるだろう。
この戦争期間中、1944年、夫アンドレオスは心臓発作により愛人と滞在していたホテルで急死した。アリスは夫とは1939年以降、ずっと会っていなかった。
1944年、アテネは解放された。
晩年のアンドレオス王子
近視でありながら陸軍で、王子の名誉職ではない一般軍人として戦場に出た。戦場では様々な悲惨を見てきたことだろう。フィリッポスの誕生も王子を家庭に向かせることはできなかった
フィリッポスの結婚
1947年、フィリッポスがイギリス国王の後継者エリザベスと結婚する。フィリッポスは結婚のために、ギリシャおよびデンマークの王位継承権を放棄し、グリュックスブルグではなくマウントバッテンに名を変えた。女王の夫、王配であり、エディンバラ公フィリップとなる。
ウェストミンスター寺院での結婚式に、アリスは北側に親族の筆頭として着席。英国王家と向かい合って座る。しかしドイツに嫁いでいる娘達は、英国の反ドイツ感情を鑑みて出席しなかった。
アリスは左側前列にメアリー皇太后と並んでいる
エリザベスを見上げるページボーイ役のウィリアム王子が可愛らしい
アテネに戻ったアリスは、1949年に正教会修道女による看護婦の組織を立ち上げた。かつて1909年に叔母エリザベータ・フョードロヴナがモスクワに作った組織をモデルにしている。
1950年と1952年に、寄付の呼びかけでアメリカを訪問。1960年、インドでガンジーとともに人権活動をしていたRajkumari Amrit Kaurの招きでインドを訪れたが、訪問旅行の途中で体を悪くし、当時インドで慈善活動を続けていたルイス・マウントバッテン卿夫人エドヴィナの助けを借りた。しかしこの頃、エドヴィナは心臓を病んでいたがひた隠して無理を続け、翌月に突然死した。彼女の遺言に従い、後日、遺体は水葬にされた。
慈善活動に燃え尽きていった若い義理の妹の死に、アリスは何をおもっただろうか。
棺が海に投下され、ルイスが花輪を投げる
アリスの姿も見える
1953年、エリザベス2世女王の戴冠式には正教会の修道女の装束で列席した。
最晩年
1967年、ギリシャで軍事クーデターが起こり、アリスは以降はイギリスへ移り、バッキンガム宮殿内に暮らすようになった。
晩年のアリスの写真は表情が豊かに見える
1969年12月、バッキンガム宮殿内でアリスは亡くなった。体は老衰していたものの、頭は明晰であった。死の時には、彼女は何も持っていなかった。全て、人生のどこかで誰かに差し出してきたからだ。フィリッポスが結婚する時に、手持ちの宝石はエリザベスとの婚約指輪に使われた。
遺言により、叔母エリザベータも埋葬されているイスラエルのゲッセマネの聖マリア・マグダレナ修道院に1988年、埋葬された。
マリアマグダレナ修道院
アリスの叔母エリザベータ・フョードロヴナはロシアに嫁いでその地に尽くしたにもかかわらず、革命が命をもぎとった。
アリスの嫁いだ国ギリシャでもクーデターは度々起こり、2度の大戦のうち1度目は亡命したが、2度目は敢然と、人としてなすべきことをやり通した。しかしこの2つの戦争の間は、精神を病んでいたのである。
生まれつきの難聴であるアリス。
目は他の者と同じ視力を持つとしても、見ている世界も違ってくるはずだ。視力で聴力を補わなければならないからだ。そこにもハンデが生じている。
そんな状態で、戦争のもとで、弱者に尽くし、ユダヤ人を匿うという危険も敢行した。
神経衰弱に苦しんだアリスの心の中に住み、立ち上がるのを支えたのはエリザベータだったのではないだろうか。
身内の者から遠い土地であっても、エリザベータの近くに落ち着きたかったアリス。
強さと慈愛を併せ持つことで道は切り開ける、と2人は教えてくれる。
エリザベータのそばで安らかに、
本当の静けさの中で。
This is the day at Westminster Royal Wedding
Roral Wedding Prince William and Kate leave at Westminster Abbey
Royal Wedding on the balcony
ウィリアム王子の結婚式の様子です。
同じ教会でのフィリップ王子とエリザベス王女の結婚式は64年前。
64年前のご自分達の背中を見ているようなお気持ちでしょうか。
動画で寺院の空間もご覧下さい。
ユダヤ人を匿い、慈善活動に尽くした
プリンス・フィリップの母
Victoria Alice Elizabeth Julia Marie of Battenberg
1885~1969
幼少時
アリスは1885年、母ヘッセン大公女ヴィクトリア、父初代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイスアレクサンダー・マウントバッテンの長女として誕生。ドイツのヘッセン家由来の家系であるが、父は英国海軍に所属しており、母ヴィクトリアはヴィクトリア女王の孫にあたるため、英王室とも関係が深かった。住まいは、ヘッセンダルムシュタット、ロンドン、ユーゲンハイム、マルタなどを転々とした。
ヴィクトリア女王、後方は女王の末娘ベアトリス(バッテンバーグ公子ハインリヒ・モーリッツに嫁ぐ)、ヴィクリア、膝の上にアリス
生後、言葉の理解が遅く、話し方が不明瞭であった。耳鼻科医により先天性の難聴であると診断された。
アリスは読唇術を学び、英語、ドイツ語、フランス語を、ギリシャ王子との婚約後はギリシャ語も身につけた。
アリスには、4歳下に妹ルイーゼ(スウェーデン王妃)、7歳下に弟ジョージ(2代目ミルフォード=ヘイヴン侯)、15歳下に弟ルイス(初代マウントバッテン・オブ・バーマ)がいる。
母ヴィクトリアの母はヴィクトリア女王の二女、血友病保因者のアリスであるが、ヴィクトリアの子孫を追ってみると、息子ジョージとルイス、娘アリスの息子フィリップ、アリスの娘たちの男子12名、いずれにも発病者はいない。スウェーデン王室に嫁いだ妹ルイーゼは再婚で、子はいない。
ヘッセン大公女だった母の家系では、ドイツに叔父のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ、叔母プロイセン大公女イレーネ、ロシアに叔母のロシア大公女エリザベート、ロシア皇后アレクサンドラがいる。アリスは殺害されたロシア皇女たちにとっては、母方のいちばん年長の従姉にあたる。
ヘッセン大公家の4姉妹 左からイレーネ、ヴィクトリア、エリザベート、アリクス
幼い日のアリス
アリスとルイーゼ
マウントバッテン家 後方に立つのがアリス
ギリシャ王子との結婚
1902年、英国の新国王エドワード7世の戴冠式の席で、3歳年上のギリシャ王子アンドレオスと当時17歳のアリスは恋に落ちた。アリスは難聴、アンドレオスのほうは極度の近視だった。
翌年1903年10月、ダルムシュタットのヘッセン大公家にて結婚。(この行事のためにヘッセン大公の娘エリザベートがロシア皇室狩猟用別荘スパラで病死)
ギリシャ王ゲオルギオス1世第4王子 アンドレオス
英語、ロシア語、デンマーク語、フランス語、ドイツ語も堪能だった
アンドレオスは、デンマーク王クリスチャン9世の次男であったゲオルギオス1世の第4王子。エドワード7世の王妃は伯母、ロシア皇太后も叔母。アンドレオスにとっては、ニコライ2世やジョージ5世は従兄弟。兄のゲオルギオスは皇太子時代のニコライと日本を旅行中に大津事件に遭遇している。
結婚後、アンドレオスは陸軍で、一般軍人としてキャリアを積んだ。残されたアリスは、難聴をハンデともせず、慈善活動に勤しんだ。
1905年続いて1906年に、娘マルガリタとセオドラを出産した。
右側 アンドレオス、アリス、セオドラ、マルガリタ
右側 アンドレオスの兄で第3王子ニコラオス、エレナ・ウラジミロヴナ、オルガ、エリザヴェト、マリナ(のちのケント公ジョージ夫人)
1908年、アリスは叔母エリザベータ・フョードロヴナの養女マリア・パヴロヴナとスウェーデン王子ヴィルヘルムの結婚式のために、ロシアを訪問した。1905年にモスクワ総督だった夫セルゲイ大公がテロリストに爆殺され、寡婦となったエリザベータは修道会を設立しようとしていた。
アリスはエリザベータに深く共鳴し、修道会建設の礎石を一緒に築いた。(別記事「エリザベータ・フョードロヴナ」「マリア・パヴロヴナ」参考)
1911年、三女セシリアが生まれた。
ひざには1914年に生まれたソフィーも
第一次大戦期
第一次世界大戦を目前にするその頃、ギリシャは1912年からバルカン戦争に突入する。
アンドレオスは従軍し、アリスは看護師として野戦病院で働いた。
バルカン戦争から第一次大戦に突入した。
ドイツによる占拠のあと、1916年にはフランス軍の爆撃が始まり、王室の方々とアリスは宮殿の地下壕で空襲に耐えた。
戦後の新政権とのトラブルにより、ときのギリシャ王コンスタンティヌス1世(アンドレオスの長兄)が退位させられ、王室はスイスへ亡命。1920年に復権し、コンスタンティヌス1世王が復位。
しかし、間も無く希土戦争により軍事政権へ。アンドレオスはクーデター未遂で逮捕、死刑を宣告された。そこへイギリス海軍が介入し、王室を救ってフランスに亡命させた。ギリシャ王とその弟妹にとって従兄弟であるジョージ5世が差し向けたものである。(アンドレオスの父ゲオルギオス1世とジョージ5世の母アレクサンドラは姉弟)
1921年に生まれたばかりのフィリップを含め4女1男の子どもたちを連れて、アリスは亡命、その後しばらくはパリで過ごした。
息子フィリッポス
1921年、結婚から18年、第4子ソフィーが生まれてから7年後に、初めての男子フィリッポスが誕生した。
ジョージ5世によって亡命を叶え、命をつないだこの家族から、ジョージ5世の愛する孫娘エリザベスの夫が現れるとは想像しえなかっただろう。エリザベス2世は1926年生まれである。
フィリッポス 1921~ 現在94歳
12歳
神経衰弱
亡命先のフランスで、家族揃って暮らせる喜びは、夫アンドレオスの不貞により引き裂かれた。
アンドレオスは愛人との不安定な生活を続け、ホテルやヨットに滞在した。
そんな中、アリスは熱心に信仰し、ギリシャ正教に改宗する。しかし、それでも家庭不和に持ちこたえられず、統合失調症あるいは神経衰弱となった。
心に病を抱える娘アリスを案じた母ヴィクトリアは、1928年になるとアリスの息子フィリッポスを引き取り、フィリッポスにとっては叔父であるゲオルギーやルイスとともに養育した。1930年には、ベルリンのサナトリウムに、その後スイスのサナトリウムに入院した。
また、その頃には4人の娘達は皆ドイツの貴族に嫁いでいったが、アリスは入院していたため結婚式に出席できなかった。長く独身だった妹ルイーズも、スウェーデン王の後妻として嫁いでいった。
長い入院生活の折、1937年、三女セシルと家族が飛行機事故で全員即死という不幸が起きた。預けられていたために残された末子ヨハンナは、後を追うように病死した。(別記事「ヘッセン大公家 呪いのうわさ」参考)
この葬儀で、アリスは6年ぶりで夫に会い、フィリッポスやマウントバッテン卿にも会った。葬儀にはヘルマン・ゲーリングも参席した。セシルと夫のヘッセン大公ゲオルク・ドナトゥスはナチスに入党していたためだ。これがきっかけとなって、アリスは家族とコンタクトを取るようになった。1938年、アテネに再び帰る。
セシルと娘ヨハンナ
ヨハンナ その死顔は同じ年頃のセシルとそっくりだったとアリスは語った
第2次大戦
アテネに帰ったアリスは寝室2つだけの部屋を借りて一人暮らしを始めた。じきに始まった第2次大戦、ドイツに嫁いだ娘達と、イギリス海軍士官となった息子は敵国の関係になった。ギリシャ王家は南アフリカ共和国へ亡命したが、アリスと兄嫁にあたるエレナ・ウラジミロヴナはアテネに残り、慈善活動を続けた。
孤児や浮浪児のための2つの避難所を運営した。
赤十字で炊き出しをしたり、スウェーデン王家に嫁いだ妹から薬品を送ってもらい提供していた。
1943年にムッソリーニが失脚すると、ドイツが支配するようになり、ユダヤ人が多数、収容所送りとなっていた。アリスは、かつてゲオルギオス1世を助けたことがあり、彼の求める望みは叶えるよう王がはからったが、何も要求しなかったハイマキ・コーエンの家族のうちの妻と息子2人を匿い続け、命を救っている。
アリスの勇敢さが窺い知れるエピソードがある。
占領するドイツの将兵が王女アリスのもとにやってきて、
Is there anything I can do for you?
と伺いを立てると、彼女はこう返した。
You can take your troops out of my country.
内紛のため夜間外出禁止令が出ているにもかかわらず、警察官や子供への配給に出かけるアリスに撃たれる危険があるからと注意する者に対し、
They tell me that you don't hear the shot that you and in any case I am deaf.
So why worry about that?
難聴であることを強みにしてしまう巧さに、何も言えなくなるだろう。
この戦争期間中、1944年、夫アンドレオスは心臓発作により愛人と滞在していたホテルで急死した。アリスは夫とは1939年以降、ずっと会っていなかった。
1944年、アテネは解放された。
晩年のアンドレオス王子
近視でありながら陸軍で、王子の名誉職ではない一般軍人として戦場に出た。戦場では様々な悲惨を見てきたことだろう。フィリッポスの誕生も王子を家庭に向かせることはできなかった
フィリッポスの結婚
1947年、フィリッポスがイギリス国王の後継者エリザベスと結婚する。フィリッポスは結婚のために、ギリシャおよびデンマークの王位継承権を放棄し、グリュックスブルグではなくマウントバッテンに名を変えた。女王の夫、王配であり、エディンバラ公フィリップとなる。
ウェストミンスター寺院での結婚式に、アリスは北側に親族の筆頭として着席。英国王家と向かい合って座る。しかしドイツに嫁いでいる娘達は、英国の反ドイツ感情を鑑みて出席しなかった。
アリスは左側前列にメアリー皇太后と並んでいる
エリザベスを見上げるページボーイ役のウィリアム王子が可愛らしい
アテネに戻ったアリスは、1949年に正教会修道女による看護婦の組織を立ち上げた。かつて1909年に叔母エリザベータ・フョードロヴナがモスクワに作った組織をモデルにしている。
1950年と1952年に、寄付の呼びかけでアメリカを訪問。1960年、インドでガンジーとともに人権活動をしていたRajkumari Amrit Kaurの招きでインドを訪れたが、訪問旅行の途中で体を悪くし、当時インドで慈善活動を続けていたルイス・マウントバッテン卿夫人エドヴィナの助けを借りた。しかしこの頃、エドヴィナは心臓を病んでいたがひた隠して無理を続け、翌月に突然死した。彼女の遺言に従い、後日、遺体は水葬にされた。
慈善活動に燃え尽きていった若い義理の妹の死に、アリスは何をおもっただろうか。
棺が海に投下され、ルイスが花輪を投げる
アリスの姿も見える
1953年、エリザベス2世女王の戴冠式には正教会の修道女の装束で列席した。
最晩年
1967年、ギリシャで軍事クーデターが起こり、アリスは以降はイギリスへ移り、バッキンガム宮殿内に暮らすようになった。
晩年のアリスの写真は表情が豊かに見える
1969年12月、バッキンガム宮殿内でアリスは亡くなった。体は老衰していたものの、頭は明晰であった。死の時には、彼女は何も持っていなかった。全て、人生のどこかで誰かに差し出してきたからだ。フィリッポスが結婚する時に、手持ちの宝石はエリザベスとの婚約指輪に使われた。
遺言により、叔母エリザベータも埋葬されているイスラエルのゲッセマネの聖マリア・マグダレナ修道院に1988年、埋葬された。
マリアマグダレナ修道院
アリスの叔母エリザベータ・フョードロヴナはロシアに嫁いでその地に尽くしたにもかかわらず、革命が命をもぎとった。
アリスの嫁いだ国ギリシャでもクーデターは度々起こり、2度の大戦のうち1度目は亡命したが、2度目は敢然と、人としてなすべきことをやり通した。しかしこの2つの戦争の間は、精神を病んでいたのである。
生まれつきの難聴であるアリス。
目は他の者と同じ視力を持つとしても、見ている世界も違ってくるはずだ。視力で聴力を補わなければならないからだ。そこにもハンデが生じている。
そんな状態で、戦争のもとで、弱者に尽くし、ユダヤ人を匿うという危険も敢行した。
神経衰弱に苦しんだアリスの心の中に住み、立ち上がるのを支えたのはエリザベータだったのではないだろうか。
身内の者から遠い土地であっても、エリザベータの近くに落ち着きたかったアリス。
強さと慈愛を併せ持つことで道は切り開ける、と2人は教えてくれる。
エリザベータのそばで安らかに、
本当の静けさの中で。
This is the day at Westminster Royal Wedding
Roral Wedding Prince William and Kate leave at Westminster Abbey
Royal Wedding on the balcony
ウィリアム王子の結婚式の様子です。
同じ教会でのフィリップ王子とエリザベス王女の結婚式は64年前。
64年前のご自分達の背中を見ているようなお気持ちでしょうか。
動画で寺院の空間もご覧下さい。