山下奉文が原爆について語った部分を追加引用しました 2015・8・10
◉きたるべき終戦記念日によせて
まもなく8月15日。今年は終戦から70年目を迎えます。あの戦争を振り返るにあたって気をつけていることは、当時、日本だけが苦しかったのではなく、参戦した国全てと戦場とされた国、あらゆる国の人々が苦しみをかみしめていたことを思考から落とさないようにすることです。
前世紀の大戦を振り返るにあたり、私もご多分にもれず、太平洋に展開した戦線や国内の情勢から追い始めましたが、大陸に進出していった動機、経過、結果、それが彼の地にもたらした状況と列強国に与えた影響、それらを追ううちに手元の地図はどんどん西を指し、今はヨーロッパの戦況を調べています。
日本の学徒出陣、インパール作戦での無駄死、ドイツのユーゲント隊員、スターリングラードでの両軍の凍死、たくさんの若者が命を差し出すことを余儀なくされ、そしてあまりにも無益な作戦に浪費されました。
日本にしてもドイツにしても、戦争を起こした当事国であるため、たとえ敗戦国として裁かれねばならない軍事裁判が不当であったとしても然るべき責任は負わねばなりません。自国土が戦場となったドイツと比べて、本土決戦を避けられた日本はまだ救いがあったと思います。しかしそれは、沖縄、広島、長崎の一極集中の犠牲の上に成り立ったものです。
今でも米国内では、原爆投下が戦争の終結を早める効果をもたらしたと、その有効性が評価されており、確かにそれには一理があります。しかし、その目的のために原爆という究極の暴力を使用した容赦のなさは、あまりに非人間的であり言葉を失います。戦勝国であるからとして、その暴力を使用した残虐性は不問にされています。
長崎
戦敗国、戦勝国いずれも戦争を起こしたことで、他国に現在にも禍根をのこす被害を与えたことを重く見なければなりません。戦闘が終わっても回復できない問題が70年を経ても山積しています。
私にとって最も心苦しいものの一つは、マニラ攻防戦のような、日米の戦いが別の国の国土で行われた戦いです。本来、本土決戦として受けるはずの被害を他国に肩代わりさせたようなものだからです。
◉マニラ攻防戦と山下奉文
1945年2月、前月にフィリピンに再上陸した米軍が首都マニラを手中に収めるべく、現地日本軍と激戦を交わす。フィリピンのゲリラ軍も米軍とともに戦闘に参加。この地を統括していたのは日本陸軍第14方面軍山下奉文であった。山下はマニラを無防備都市として戦地とはせず、奥の山岳地帯に陣を張り、米軍と対峙する戦略を立てていたが、大本営と海軍がマニラに拘り、都市部での激戦になった。1カ月ほどの戦闘の中、市民およそ10万人が犠牲になった。その被害は日本軍の大虐殺によるものだとして、戦後のマニラ法廷で山下が追及される。しかし、実際のところ市民の被害は米軍の空爆や艦砲射撃によるところが大きく、日本軍による虐殺も確かにあったが法廷で米軍に体良く罪を着せられたかたちとなった。山下はその責任を問われ、「私は知らなかった。だが私に責任がないとは言わない」と返した。山下は結局、この件も含めフィリピンへの被害全般の罪により絞首刑となる。
シンガポール攻略後、イギリス軍司令官パーシヴァルとの会談
開戦時にマレー作戦を指揮し、マレーの虎とあだ名された英雄山下だったが、2・26事件以降天皇は山下を蔑み、敗戦の煮え湯を呑む役回りを充てがわれ、もともと巨漢であったのがフィリピンの奥地で別人のように痩せ細っていた。
山下の裁判は早く、おそらく最も早くに処刑された軍人であったかと思う。裁判は1945年10月に開廷、同年12月7日に死刑判決、12月23日に処刑された。
山下が処刑前に教誨師に言葉を託している。それは今後の日本を生きる人々に向けての強い訓戒であり、願いである。
その冒頭は、このように始まる。
「私の不注意と天性が閑曼であった為、全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。
かって、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった「山下奉文」は峻厳なる法の裁を受けて死刑台上に上がらんとしているものであります。アメリカ初代大統領ジョウジワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは偶然の一致ではありますが誠に奇しき因縁と云わねばなりません。
謝罪の言葉を知らない私は今や私の死によって、私の背負された一切の罪を購う時が参ったのであります。もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が精算されるであらうというような安易な気持ちを持っているものではありません。
全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、私の命が断たれるという機械的な死について抹殺されることとは思わないのであります。絶えず死と直面していた私にとりましては死ということは極めて造作のない事であります。
私は大命によって降伏した時、日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。事実私はキャンガンで或はバギオでかってのシンガポールの敵将パーシバルの列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。然し其の度に私の利己主義を思い止まらせましたのは、まだ終戦を知らないかっての部下達でありました。
私が死を否定することによって桜町(キャンガン)を中心として玉砕を決意していた部下達を無益な死から解放し祖国に帰すことが出来たのであります(私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誡師に質問され詳しく説明致した所であります。)
私 は武士は死すべき時に死所を得ないで恥を忍んで生きなければならないということが如何に苦しいものであるかと云う事をしみじみと体験致しました。此の事よ り■して、生きて日本を再建しなければならない皆様の方が戦犯で処刑されるものよりどれだけ苦しいかということが私にはよく分るのであります。
若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう。
、、、、」
以下は上記コメントの後半にあたる、戦後をいきる人々に向けた提言であり、大きく4つのことを語る。傍線、太字は私が施しました。
◉山下奉文の遺言
私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう。私は森田教誡師と語ることによって、何時かは伝はるであろう時を思い、皆さんに伝えて頂くことに致します。
聞いて頂きたい・・・・
其の第一は義務の履行ということであります。
この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そして又此の事程実践に困難を伴うことはないのであります。又此事なくしては民主主義的 共同社会は成り立たないのであります。他から制約され強制される所のものでなく自己立法的内心より湧き出づる所のものでなくてはなりません。
束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんがこの徳目を行使される時に思ひを致す時聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回此言葉を部下将兵に語ったことで しょうか。峻厳なる上下服従の関係に在り抵抗干犯を許されなかった軍隊に於いてさえこの事を言はざるを得なかった程道義は著しく頽廃していたのであります。甚だ遺憾な事でありますが今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果たすべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。他律的な ■務に於いてさえ此の通りでありますから一切■絆を脱した国民諸君の■に為すべき自律的義務の遂行にあたっては聊か難色があるのではないかと懸念されるの であります。旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては突如開顕された大いなる自由に幻惑された余り他人との関聯ある人間としての義務の履行に怠慢でありはしないかと云うことを恐れるのであります。
自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。此の倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ■を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。
此の人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。
諸君は、今他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人と雖も此の責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶ事は許されないのであります。こゝに於いてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。
第二に、科学教育の振興に重点をおいて頂きた度いのであります。
現代に於ける日本科学の水準は極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。一度海外に出た人なら第一に気のつく事は日本人全体の非科学的生活ということであります。
合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは、宛も水によって魚を求めんとするが如きものであります。我々は資材と科学の欠除を補ふ為に汲々としたのであります。
我々は優秀なる米軍を喰い止める為百萬金にても贖い得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつける事によって勝利を得ようとしたのであります。必殺肉弾攻撃体当り等 の戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。僅かに飛行機の機動性を得んが為には、防衛装置の殆どを無視して飛行士を生命の危険にさらさざるを得なかったのであ ります。
我々は資材と科学の貧困を人間の肉体を以って補わんとする前古未曾有の過失を犯したのであります。この一事を以ってしても我々職業軍人は罪萬死に価するものがあるのであります。 今の心境と、降伏当時との心境には大なる変化があるのでありますが、ニュービリヒット収容所に向ふ途中、ヤングの記者スパートマクミラン君が「日本敗戦の根本的な理由は何か」と質問された時、重要かつ根本的な理由を述べんとするに先達って今迄骨身にこたえた憤懣と■■な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ漸く潜在意識のなかに押込められていたものが突如意識の中に浮び上がり、思はず知らず飛び出した言葉は「サイエンス」でありました。敗因はこれのみではありませんが重大 要因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。 若し将来不吉な事でありますが戦争が起こったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は廃人の夢の昔語りと化し短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであろうことが想像されるのであります。戦争の惨禍をしみじみと骨髄に■して味うた日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心■を打込むに違ひありません。又このことが人間に課せられた重大な義務であります。
あの広島、長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、それは長い人間虐殺の歴史に於てかって斯くも多数の人間が生命を大規模に然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。獄中にあって研究の余地はありませんのでしたが、恐らくこの原子爆弾を防御し得る兵器は、この物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。
過去に於ては、如何なる攻撃手段に対してもそれに対する防御は可能であるといわれて参りました。実際このことは未だに真実であります。過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去ったこの恐るべき原子爆弾を防御し得る唯一の方法が若し有るとするならば世界の人類をして原子爆弾を落としてやろうといふような遺志を起こさせないような国家を創造する以外には、手はないのであります。敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとへ破れたりとはいへ斯くも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうといふ事であります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発或は生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります。
第三に申し上げたい事は・・・特に女子の教育であります・・・
伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏から開放され参政権の大いなる特典が与えられた様でありますが現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。
日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものではなく占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念を生ずるのであります。
贈与といふものは往々にして送り主の意を尊重するの余り直ちに実用化されないで観賞化され易いのであります。
従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人 のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切 に発揮して下さい。 自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。
最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は、
皆さんは既に母であり又は羽となるべき方々であります。母としての責任の中に次代の人間教育という重大な本務の存することを切実に認識して頂き度いのであります。私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。
幼児に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適切な素地が培われるのであります。若し皆さんがつまらない女であるとの謗りを望まれないならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。然も私のいう教育は幼稚園或は小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て始められなければならないのであります。愛児を しっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時何者も味う事の出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。
母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。
■が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、強調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。
皆さんが子供に乳房を哺ませた時の幸福の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、更に知的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駆け巡る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでせう。
将来の教育の■分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。功まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでせう。
こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを「乳房教育」とでも云い度いのです。
どうかこの解り切った単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めて下さいますよう。
これ が皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」
マニラ軍事法廷にて
牢獄の中で、あるいは既にフィリピン奥地の塹壕で、山下は日本の未来像を真剣に考えていたのだろう。彼のメッセージには、自分の過去への回顧も言い訳もないが、当時の日本の病的な状況を、自分への猛省もこめて怜悧に分析して、あり得るべき日本への最後の言葉を残した。浮ついた理想では全くなく、そして自分のいないであろう未来、それは決して明るくなく、前途多難で危なっかしい未来への警告を、聞こえてきそうな「身のほどもわきまえず」という言葉を敢えて脇へやり、あとに遺した言葉。
優しく諭すような表現で語りながらも、内容はとても重い。4つのうち2つが女性への提言であることは、無骨な軍人であった山下にあってはそうとう意外である。しかし死の時が刻々と迫る状況のなかでこれを語ったということは、重きを置いていた考えだったからだろう。
私の立場に強く響いてくるのはもちろん4番目の、
母は子供の生命を保持することを考えるだけでは十分ではない、
子が自らの命を自ら保つ能力、
あらゆる環境に耐える身体的、精神的力量、
健全に平和を希求すること、
協調、
自分以外の人々に寄与しようと考え、行動に起こす強い意志、
それを子供一人一人のうちに育む責任を持てと、厳しく訴える。
自分の子が狙われるとなれば、どんな親も、時に動物でさえ、親は盾となり子の前に立ち塞がるだろう。しかしそれはほとんど無力であり、意味がない。あっけなく親は倒され、次の瞬間にはもう子供らも同じく餌食になるだけだ。
そういう状況に陥らないよう世界を保つ能力を授け、継承させよということ、それを母親の使命にしている。父親にではなく、これを敢えて母親に求めた山下の考えは深い。
軍人の遺言であるということに少し躊躇しつつも、この言葉を常に手元にして、母としての私の座右の銘としてきた。
「これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」
この言葉の重みをしっかりと受け止めて、、。
戦時にうたわれたものを幾つか引用します
開戦の時に
戦争が廊下の奥に立つてゐた
十二月八日の霜の屋根幾万
出征のときに
わが生のあらむ限りの幻や送りし旗の前を征きし子
老母は狂へるごとく吾が顔をはげしく抱くこの人中に
咲きそめし百日紅のくれなゐを庭に見返り出征たむとす
◉きたるべき終戦記念日によせて
まもなく8月15日。今年は終戦から70年目を迎えます。あの戦争を振り返るにあたって気をつけていることは、当時、日本だけが苦しかったのではなく、参戦した国全てと戦場とされた国、あらゆる国の人々が苦しみをかみしめていたことを思考から落とさないようにすることです。
前世紀の大戦を振り返るにあたり、私もご多分にもれず、太平洋に展開した戦線や国内の情勢から追い始めましたが、大陸に進出していった動機、経過、結果、それが彼の地にもたらした状況と列強国に与えた影響、それらを追ううちに手元の地図はどんどん西を指し、今はヨーロッパの戦況を調べています。
日本の学徒出陣、インパール作戦での無駄死、ドイツのユーゲント隊員、スターリングラードでの両軍の凍死、たくさんの若者が命を差し出すことを余儀なくされ、そしてあまりにも無益な作戦に浪費されました。
日本にしてもドイツにしても、戦争を起こした当事国であるため、たとえ敗戦国として裁かれねばならない軍事裁判が不当であったとしても然るべき責任は負わねばなりません。自国土が戦場となったドイツと比べて、本土決戦を避けられた日本はまだ救いがあったと思います。しかしそれは、沖縄、広島、長崎の一極集中の犠牲の上に成り立ったものです。
今でも米国内では、原爆投下が戦争の終結を早める効果をもたらしたと、その有効性が評価されており、確かにそれには一理があります。しかし、その目的のために原爆という究極の暴力を使用した容赦のなさは、あまりに非人間的であり言葉を失います。戦勝国であるからとして、その暴力を使用した残虐性は不問にされています。
長崎
戦敗国、戦勝国いずれも戦争を起こしたことで、他国に現在にも禍根をのこす被害を与えたことを重く見なければなりません。戦闘が終わっても回復できない問題が70年を経ても山積しています。
私にとって最も心苦しいものの一つは、マニラ攻防戦のような、日米の戦いが別の国の国土で行われた戦いです。本来、本土決戦として受けるはずの被害を他国に肩代わりさせたようなものだからです。
◉マニラ攻防戦と山下奉文
1945年2月、前月にフィリピンに再上陸した米軍が首都マニラを手中に収めるべく、現地日本軍と激戦を交わす。フィリピンのゲリラ軍も米軍とともに戦闘に参加。この地を統括していたのは日本陸軍第14方面軍山下奉文であった。山下はマニラを無防備都市として戦地とはせず、奥の山岳地帯に陣を張り、米軍と対峙する戦略を立てていたが、大本営と海軍がマニラに拘り、都市部での激戦になった。1カ月ほどの戦闘の中、市民およそ10万人が犠牲になった。その被害は日本軍の大虐殺によるものだとして、戦後のマニラ法廷で山下が追及される。しかし、実際のところ市民の被害は米軍の空爆や艦砲射撃によるところが大きく、日本軍による虐殺も確かにあったが法廷で米軍に体良く罪を着せられたかたちとなった。山下はその責任を問われ、「私は知らなかった。だが私に責任がないとは言わない」と返した。山下は結局、この件も含めフィリピンへの被害全般の罪により絞首刑となる。
シンガポール攻略後、イギリス軍司令官パーシヴァルとの会談
開戦時にマレー作戦を指揮し、マレーの虎とあだ名された英雄山下だったが、2・26事件以降天皇は山下を蔑み、敗戦の煮え湯を呑む役回りを充てがわれ、もともと巨漢であったのがフィリピンの奥地で別人のように痩せ細っていた。
山下の裁判は早く、おそらく最も早くに処刑された軍人であったかと思う。裁判は1945年10月に開廷、同年12月7日に死刑判決、12月23日に処刑された。
山下が処刑前に教誨師に言葉を託している。それは今後の日本を生きる人々に向けての強い訓戒であり、願いである。
その冒頭は、このように始まる。
「私の不注意と天性が閑曼であった為、全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。
かって、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった「山下奉文」は峻厳なる法の裁を受けて死刑台上に上がらんとしているものであります。アメリカ初代大統領ジョウジワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは偶然の一致ではありますが誠に奇しき因縁と云わねばなりません。
謝罪の言葉を知らない私は今や私の死によって、私の背負された一切の罪を購う時が参ったのであります。もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が精算されるであらうというような安易な気持ちを持っているものではありません。
全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、私の命が断たれるという機械的な死について抹殺されることとは思わないのであります。絶えず死と直面していた私にとりましては死ということは極めて造作のない事であります。
私は大命によって降伏した時、日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。事実私はキャンガンで或はバギオでかってのシンガポールの敵将パーシバルの列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。然し其の度に私の利己主義を思い止まらせましたのは、まだ終戦を知らないかっての部下達でありました。
私が死を否定することによって桜町(キャンガン)を中心として玉砕を決意していた部下達を無益な死から解放し祖国に帰すことが出来たのであります(私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誡師に質問され詳しく説明致した所であります。)
私 は武士は死すべき時に死所を得ないで恥を忍んで生きなければならないということが如何に苦しいものであるかと云う事をしみじみと体験致しました。此の事よ り■して、生きて日本を再建しなければならない皆様の方が戦犯で処刑されるものよりどれだけ苦しいかということが私にはよく分るのであります。
若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう。
、、、、」
以下は上記コメントの後半にあたる、戦後をいきる人々に向けた提言であり、大きく4つのことを語る。傍線、太字は私が施しました。
◉山下奉文の遺言
私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう。私は森田教誡師と語ることによって、何時かは伝はるであろう時を思い、皆さんに伝えて頂くことに致します。
聞いて頂きたい・・・・
其の第一は義務の履行ということであります。
この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そして又此の事程実践に困難を伴うことはないのであります。又此事なくしては民主主義的 共同社会は成り立たないのであります。他から制約され強制される所のものでなく自己立法的内心より湧き出づる所のものでなくてはなりません。
束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんがこの徳目を行使される時に思ひを致す時聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回此言葉を部下将兵に語ったことで しょうか。峻厳なる上下服従の関係に在り抵抗干犯を許されなかった軍隊に於いてさえこの事を言はざるを得なかった程道義は著しく頽廃していたのであります。甚だ遺憾な事でありますが今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果たすべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。他律的な ■務に於いてさえ此の通りでありますから一切■絆を脱した国民諸君の■に為すべき自律的義務の遂行にあたっては聊か難色があるのではないかと懸念されるの であります。旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては突如開顕された大いなる自由に幻惑された余り他人との関聯ある人間としての義務の履行に怠慢でありはしないかと云うことを恐れるのであります。
自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。此の倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ■を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。
此の人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。
諸君は、今他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人と雖も此の責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶ事は許されないのであります。こゝに於いてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。
第二に、科学教育の振興に重点をおいて頂きた度いのであります。
現代に於ける日本科学の水準は極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。一度海外に出た人なら第一に気のつく事は日本人全体の非科学的生活ということであります。
合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは、宛も水によって魚を求めんとするが如きものであります。我々は資材と科学の欠除を補ふ為に汲々としたのであります。
我々は優秀なる米軍を喰い止める為百萬金にても贖い得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつける事によって勝利を得ようとしたのであります。必殺肉弾攻撃体当り等 の戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。僅かに飛行機の機動性を得んが為には、防衛装置の殆どを無視して飛行士を生命の危険にさらさざるを得なかったのであ ります。
我々は資材と科学の貧困を人間の肉体を以って補わんとする前古未曾有の過失を犯したのであります。この一事を以ってしても我々職業軍人は罪萬死に価するものがあるのであります。 今の心境と、降伏当時との心境には大なる変化があるのでありますが、ニュービリヒット収容所に向ふ途中、ヤングの記者スパートマクミラン君が「日本敗戦の根本的な理由は何か」と質問された時、重要かつ根本的な理由を述べんとするに先達って今迄骨身にこたえた憤懣と■■な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ漸く潜在意識のなかに押込められていたものが突如意識の中に浮び上がり、思はず知らず飛び出した言葉は「サイエンス」でありました。敗因はこれのみではありませんが重大 要因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。 若し将来不吉な事でありますが戦争が起こったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は廃人の夢の昔語りと化し短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであろうことが想像されるのであります。戦争の惨禍をしみじみと骨髄に■して味うた日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心■を打込むに違ひありません。又このことが人間に課せられた重大な義務であります。
あの広島、長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、それは長い人間虐殺の歴史に於てかって斯くも多数の人間が生命を大規模に然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。獄中にあって研究の余地はありませんのでしたが、恐らくこの原子爆弾を防御し得る兵器は、この物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。
過去に於ては、如何なる攻撃手段に対してもそれに対する防御は可能であるといわれて参りました。実際このことは未だに真実であります。過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去ったこの恐るべき原子爆弾を防御し得る唯一の方法が若し有るとするならば世界の人類をして原子爆弾を落としてやろうといふような遺志を起こさせないような国家を創造する以外には、手はないのであります。敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとへ破れたりとはいへ斯くも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうといふ事であります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発或は生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります。
第三に申し上げたい事は・・・特に女子の教育であります・・・
伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏から開放され参政権の大いなる特典が与えられた様でありますが現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。
日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものではなく占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念を生ずるのであります。
贈与といふものは往々にして送り主の意を尊重するの余り直ちに実用化されないで観賞化され易いのであります。
従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人 のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切 に発揮して下さい。 自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。
最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は、
皆さんは既に母であり又は羽となるべき方々であります。母としての責任の中に次代の人間教育という重大な本務の存することを切実に認識して頂き度いのであります。私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。
幼児に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適切な素地が培われるのであります。若し皆さんがつまらない女であるとの謗りを望まれないならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。然も私のいう教育は幼稚園或は小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て始められなければならないのであります。愛児を しっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時何者も味う事の出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。
母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。
■が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、強調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。
皆さんが子供に乳房を哺ませた時の幸福の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、更に知的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駆け巡る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでせう。
将来の教育の■分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。功まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでせう。
こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを「乳房教育」とでも云い度いのです。
どうかこの解り切った単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めて下さいますよう。
これ が皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」
マニラ軍事法廷にて
牢獄の中で、あるいは既にフィリピン奥地の塹壕で、山下は日本の未来像を真剣に考えていたのだろう。彼のメッセージには、自分の過去への回顧も言い訳もないが、当時の日本の病的な状況を、自分への猛省もこめて怜悧に分析して、あり得るべき日本への最後の言葉を残した。浮ついた理想では全くなく、そして自分のいないであろう未来、それは決して明るくなく、前途多難で危なっかしい未来への警告を、聞こえてきそうな「身のほどもわきまえず」という言葉を敢えて脇へやり、あとに遺した言葉。
優しく諭すような表現で語りながらも、内容はとても重い。4つのうち2つが女性への提言であることは、無骨な軍人であった山下にあってはそうとう意外である。しかし死の時が刻々と迫る状況のなかでこれを語ったということは、重きを置いていた考えだったからだろう。
私の立場に強く響いてくるのはもちろん4番目の、
母は子供の生命を保持することを考えるだけでは十分ではない、
子が自らの命を自ら保つ能力、
あらゆる環境に耐える身体的、精神的力量、
健全に平和を希求すること、
協調、
自分以外の人々に寄与しようと考え、行動に起こす強い意志、
それを子供一人一人のうちに育む責任を持てと、厳しく訴える。
自分の子が狙われるとなれば、どんな親も、時に動物でさえ、親は盾となり子の前に立ち塞がるだろう。しかしそれはほとんど無力であり、意味がない。あっけなく親は倒され、次の瞬間にはもう子供らも同じく餌食になるだけだ。
そういう状況に陥らないよう世界を保つ能力を授け、継承させよということ、それを母親の使命にしている。父親にではなく、これを敢えて母親に求めた山下の考えは深い。
軍人の遺言であるということに少し躊躇しつつも、この言葉を常に手元にして、母としての私の座右の銘としてきた。
「これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」
この言葉の重みをしっかりと受け止めて、、。
戦時にうたわれたものを幾つか引用します
開戦の時に
戦争が廊下の奥に立つてゐた
渡辺白泉
十二月八日の霜の屋根幾万
加藤秋屯
出征のときに
わが生のあらむ限りの幻や送りし旗の前を征きし子
小山ひとみ
老母は狂へるごとく吾が顔をはげしく抱くこの人中に
菅野政毅
咲きそめし百日紅のくれなゐを庭に見返り出征たむとす
宮柊二