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名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

王室の血友病 全体像

2015-07-29 20:20:30 | 出来事

19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの王室内で、血友病罹患者が多く出現しました。
1853年、ヴィクトリア女王の第4王子に最初に発現し、その後、王女らの他国王家との婚姻により大陸へ拡がりました。ドイツ、ロシア、スペインの王族間で、1914年までのおよそ60年間の3代に亘って、10名の王子らに発現しました。
今回は、血友病発現の概説及び、保因者第1世代であるイギリスのヴィクトリア女王と、発現者として第2世代である子1名、第3世代である孫3名、第4世代である曾孫の6名についてまとめます。

また、次回の記事にて、家族とともに銃殺された第4世代のロシア皇太子の遺骸からのDNA鑑定とともに、鑑定により判明した王室の血友病の同定、血友病の症状と、当時および現代の治療についてを報告します。



血友病の発現について
血友病は男児5000~1万人に1人に発現する遺伝性の病気です。
遺伝性血液凝固異常症といいます。
血液凝固は、多くの段階を経る複雑なプログラムの下に完了するものですが、遺伝子の変異により凝固因子の一つが欠損することで、出血を起こした場合に凝固しにくく、出血多量を引き起こし死に至る可能性を高くするのが血友病です。
性染色体に依存する遺伝(伴性遺伝)のうちの、X染色体連鎖劣性遺伝であり、同様の遺伝病に、赤緑色覚異常、筋ジストロフィーがあります。

この遺伝はX染色体上に起こる変異であるため、例えば、異常のある染色体をx、正常な染色体をXとすると、女親が保因者Xxだった場合、女児はXxまたはXX、男児はxYまたはXYとなりますが、xは劣性なので、男児xYの場合だけ、つまり男児においてのみ、確率50%で発現します。ただし、女児Xxは自身に症状は現れませんが、保因者となり、これも確率50%です。
逆に、男親が発現者の場合は、Xx、Xx、XY、XYのパターンとなり、つまり女児は100%保因者に、男児は100%健常者となります。



イギリス/ヴィクトリア女王
王室に現れた最初の血友病罹患者は、ヴィクトリア女王の9子のうちの第8子、四男のレオポルド・オールバニ公です。
それまでの母系家系を遡っても、血友病罹患者はいません。また後年、ヴィクトリアの娘が保因者となって孫にも罹患者が出たことを考えると、レオポルドだけに起きた突然変異ではなかったことがわかります。つまり、ヴィクトリア女王が保因者であったことは確実となります。
一般に、遺伝に依らない、突然変異による血友病は25~30%です。ヴィクトリア女王自身に突然変異が起きていたか、あるいは母系のどこかから保因されてきて、ヴィクトリアで初めて発現した可能性もあります。


第3子アリス王女、第9子ベアトリス王女が保因者に、第8子レオポルト王子が発現者になりました



では、第2世代(子:ヴィクトリア女王を第1世代とする)レオポルド・オールバニ公から始めます。
この系図を参考にしながらお読みください↓






①イギリス/レオポルド・オールバニ公



王室最初の血友病患者 レオポルド王子とその母ヴィクトリア女王


レオポルトとすぐ上の兄アーサー





オールバニ公レオポルト
1853~1884年。
血友病の他に軽い癲癇(てんかん)もあった。ヴィクトリアの子のなかでは飛び抜けて高い知的能力、該博な知識を持っていた。
持病のため軍務には着けず、女王の秘書の役割をしていた。
1882年にドイツ侯爵の娘ヘレーネと結婚、翌年、長女アリス(+)誕生、さらにその翌年、長男チャールズ・エドワード(ー)誕生。しかし、長男誕生の4ヶ月前にレオポルドは死亡。
死因は、転倒による膝からの出血過多と頭部打撲による脳内出血。つまり血友病による失血死だった。血友病に併発する関節痛治療のための転地療養先でのことだった。



長兄エドワード7世と風貌が似ています

第1子アリス


レオポルトの死後に誕生した第2子チャールズ・エドワード


享年30歳。しかし、レオポルドは王室の10名の血友病罹患者のなかで唯一、子孫を残せた一人でした。のちに他に2名が結婚しましたが、子を持ちませんでした。
男親からの遺伝の場合は、女児は保因者に、男児は健常者になることがはっきりしています。つまり、血友病の父親は、血友病の子供は持たないことになりますが、娘から孫に遺伝する可能性は高くなります。長女アリスは保因者であり、のちの結婚により、血友病の子を持つことになります。


レオポルドと姪アリクス(+)
アリクスはレオポルトの姉アリスの娘で、のちに血友病のロシア皇太子を生むことになる(ロシア名アレクサンドラ)。アリクスは皇太子出産までの間に、自分の兄とこの叔父と甥が血友病で亡くなっている。リスクは認識していた。待望の男子出産の喜びも束の間、臍からの出血が止血するのに数日かかったことから、彼女ははっきりと運命を悟った。



続いて第3世代です。ヴィクトリア女王の孫達に保因者4名、発現者3名が生まれました。

ヴィクトリア女王の娘アリスの娘たち
ヴィクトリア(一)、エリザベス(一)、イレーネ(+)、アリクス(+)兄弟の男子1人が発現者に。



ヴィクトリア女王の末娘ベアトリスの娘ヴィクトリア(+)
兄弟の男子2人が発現者に。写真はベアトリスとスペイン王室の孫たち




②ドイツ/フリードリヒ・フォン・ヘッセン

フリードリヒ・フォン・ヘッセン
1870~1873年。ヴィクトリア女王第3子2女アリスの7子(2男5女)のうちの第5子2男。
ヴィクトリアの2女アリスはドイツのヘッセン大公ルートヴィヒ4世と結婚。


嫡子エルンストと母アリス

男子は2人生まれ、長男エルンストは健常でのちにヘッセン家を継いだが、二男フリードリヒは、血友病がもとで亡くなった。この時点で母アリスが保因者であることがはっきりした。
5人の女児のうち、三女イレーネ、四女アリクスが保因者であることは、のちにそれぞれの出産後にわかる。

第2世代、ヴィクトリア女王の第3子第2王女アリス(保因者)はプロイセンのヘッセン家に嫁ぎ、5女2男を生みました。そのうち、第3子イレーネ、第6子アリクスが保因者に、第5子フリードリヒが発現者になりました。






フリードリヒの兄姉妹(2男フリードリヒの死後)このうち、3女イレーネ、4女アリクスは保因者、長女ビクトリアはその後のイギリス王室の家系に繋がるが発現なし、2女エリザベスは夫が同性愛者であるためか子が生まれなかったため保因者だったかは不明、5女は夭折、長男エルンストは発現せず





フリードリヒは享年2歳。兄エルンストと母の部屋で遊んでいて、窓の手摺をすり抜けて6メートル下に転落、しかし幸い大したけがはなかった。ところが、重篤な脳内出血を起こして死亡。事故そのものが死因ではなく、血友病が起因して死に至った。




③イギリス/レオポルド・オブ・バッテンバーグ、④モーリス・オブ・バッテンバーグ



ヴィクトリア女王末子ベアトリスは、ヘッセン大公家庶家のバッテンバーグ家のハインリヒ・モーリッツと結婚。3男1女のうち、二男レオポルトと三男モーリスが発現者、長女ヴィクトリアが保因者となった。


左から弟モーリス(+)、母ベアトリス(+)、姉ヴィクトリア(+)、次兄レオポルド(+)、長兄アレクサンダー(-)
母ベアトリスはヴィクトリア女王の末娘。保因者。
長女ヴィクトリアはスペイン国王アルフォンソ13世と結婚。スペイン王家に血友病をもたらした。




ヘンリーとベアトリス 第1子アレクサンダーと
父ヘンリーは英国軍に従軍中アフリカでマラリアに罹患し38歳で亡くなった





二男レオポルド・オブ・バッテンバーグ。1889~1922年。享年32歳。膝の手術中に血友病が原因で死亡。


レオポルド

右レオポルト






三男モーリス・オブ・バッテンバーグ
ヴィクトリア女王の42人の孫のうち、1番最後に生まれた。
1891~1914年。享年23歳。第一次大戦で英陸軍ライフル兵部隊。第一次イープルの戦いで戦死。

祖母ヴィクトリア女王とモーリス

母ベアトリスとモーリス


左からモーリス、アレクサンダー、レオポルト







王室の血友病罹患者のなかで、モーリスとロシア皇太子アレクセイの2人は血友病が死因ではなく、不慮の死でした。そのため血友病を生き延びたとはいえません。



以上、第3世代までにイギリス王室から、婚姻によりドイツの大公家にまで波及しました。
ここまでで、
発現者
レオポルド・オールバニ 英
フリードリヒ・ヘッセン 独
レオポルド・バッテンバーグ 英
モーリス・バッテンバーグ 英

保因者
子アリス
子ベアトリス
孫イレーネ(アリスの娘)
孫アリクス(アリスの娘)
孫アリス(オールバニ公の娘)
孫ヴィクトリア(ベアトリスの娘)

第4世代はヴィクトリアの曾孫の代に移ります。孫の代の上記4人の保因者により、いよいよ、スペイン国王直系、ロシア皇帝直系にも発現します。



⑤ドイツ/ヴァルデマール・フォン・プロイセン、⑥ドイツ/ハインリヒ・フォン・プロイセン

ヴァルデマールとハインリヒの父はドイツ帝国フリードリヒ3世の二男であり、のちのドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世の弟にあたる、ハインリヒ・フォン・プロイセンである。
母は、イギリスのヴィクトリア女王の孫でヘッセン大公の三女イレーネ。母が、血友病保因者である。
イレーネは三人の男子を産み、長男ヴァルデマールと三男ハインリヒが血友病になり、二男ジギスムントは健常だった。

家族5人揃っている貴重な写真

父ハインリヒ・フォン・プロイセン



ヴァルデマール・フォン・プロイセン
1889~1945年。享年56歳。最も長く、また一番最後まで生きたのは、このヴァルデマールだった。第二次大戦末期に、彼はソ連軍を避けるためバイエルン州のトゥツィンクに住んでいたが、近在のダッハウ強制収容所を1945年5月1日に米軍が解放し、医療施設をも接収したため、彼は輸血を受けることが出来ず、翌5月2日に死亡した。
30歳のときに結婚していたが、子供はなかった。

ヴァルデマールと、、他の大人の皆さんはこれまでの記事でおなじみの面々。わかりますか?




左端ヴァルデマール、右端ジギスムント







ハインリヒ・フォン・プロイセン
1900~1904年、享年4歳。
三男ハインリヒは、テーブルの上に登って降りようとするときに、誤って頭から落ち、脳内出血で死亡した。血友病患者は脳内出血は致命的になる。英国王子オールバニ公の主な死因も脳内出血であった。頭が重く転びやすい幼児期に最も死のリスクが高い。



ヴァルデマールとハインリヒは、血友病のロシア皇太子アレクセイとは母方の従兄弟。ただし、ハインリヒはアレクセイ誕生より5か月前に亡くなっている。



⑦ロシア/アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ



アレクセイと母皇后アレクサンドラ



アレクセイ誕生の日の父皇帝ニコライの日記。結婚から10年、ようやく待望の男子が生まれた喜びに溢れている

1904~1918年。ロシアのニコライ2世治下の皇太子。のちにスペインに誕生する血友病の王太子アルフォンソ同様、生まれながらの皇太子でした。
これまで女の子が生まれるたび、皇后は精神的に追い詰められてきましたが、ニコライは日記には毎回、冷静に、「無事に」「時間がかからず」つまり安産で生まれてきたことへの感謝を記していました。しかしアレクセイ誕生のこの日の日記は躍る心を抑えながら書いたような喜びが感じられます。

詳細は過去の記事「悲劇のロシア皇太子 アレクセイ・ニコラエヴィチ」「ロシア最後の皇帝ニコライ2世」をご参照ください。







⑧イギリス/ルパート・オブ・テック

1907~1928年。享年20歳。
父は国王ジョージ5世王妃メアリーの弟、アレグザンダー・オブ・テック、母は、ヴィクトリア女王の息子で血友病だったレオポルドの娘アリスである。
長女メイ、長男ルパート(+)、二男モーリス(+?)がいる。

レオポルト・オールバニ公の長女アリスは保因者

弟モーリスを囲んでにっこり。嬉しそうなメイとルパート。しかし弟はまもなく亡くなった。文献によって、死因を血友病にしているものとそうでないものがある






ルパート・ケンブリッジ
ドイツ由来のテックの名を捨て、父の母方の旧名ケンブリッジに改名。
ジョージ5世により、外国の爵位を持つ全ての者に改名が要請され、父方の祖母のケンブリッジを名乗ることになった



ルパート・ケンブリッジ・トレメイトン子爵
1907~1928年。友人とドライブ中に自動車事故に遭う。同乗者1人が亡くなるほどの事故であった。ルパートはそれほど重症ではなかったにもかかわらず、頭を打っており、血友病による脳内出血の重症化が原因で死亡。

残された長女メイは、保因者であったのかどうか。メイの子孫の男子に血友病は出ていません。女子に保因されているかどうかですが、女子の子孫をたどると、現在1人の女性がいます。保因者である可能性は0ではありませんが、メイ以降の3世代に1人も発現はしていません。



⑨スペイン/アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ、⑩スペイン/ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルク

第1子にして王太子が誕生、しかし血友病が原因で王と王妃の間に生じた亀裂は埋まることはなかった


アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルク(アストゥリアス公:王位継承第1位の王太子の称号)
1907~1938年、享年31歳。
父はスペイン国王アルフォンソ13世、母はヴィクトリア女王の孫ヴィクトリア・フォン・バッテンベルグ。ヴィクトリアは保因者です。
父アルフォンソは生まれたときから国王であり、国王の花嫁探しで見初められたのがヴィクトリアでした。しかし、ヴィクトリアには血友病の保因者である疑いがあり、周囲には反対もあったのですが、国王は、「保因者でないかもしれないし、保因者であったとしても子供がみな全て血友病になるわけではない」、と考えて結婚を決めました。

そして最初に誕生したのは待望の男子、しかし血友病でした。いきなり最初から血友病の子が生まれてきたので、楽観的に考えていた国王は、大いに怒り、全て妻のせいだと罵りました。この先、国王と王妃は関係が悪化したまま。結婚前から女癖の悪かった国王は、従来通りたくさんの愛人を宮廷に呼び、王妃に全く心を砕くことはありませんでした。








第2王子ハイメ


血友病の王太子アルフォンソ(アストゥリアス公)に引き続き生まれた男子ハイメは、血友病ではなかったものの、乳児期に乳様突起炎という耳の病気にかかり、聾唖になりました。
その後、王女2人が誕生し、三男ファンが誕生、血友病もなく、継承者に相応しいと国王は考えます。続けて四男ゴンサーロが誕生、しかしゴンサーロも血友病でした。
王妃は病気の子供に向き合う気持ちになれず、あまり関わらなかったようです。

のちに、アルフォンソが貴賎婚を望んだとき、国王はアルフォンソの継承権だけでなく、彼の子孫の継承権も放棄するよう求めました。血友病を王統の子孫に残したくないためです。
ハイメも同様に放棄させられました。
一方で、スペインでは1931年、共和制へ移行したため、国王一家はフランスへ亡命となり、再びスペインに王室が戻ってくるのは1975年、ファンの息子のフアン・カルロスが即位しました。

アルフォンソはたびたび血友病の症状で動けなくなることもあり、生活に支障があったようです。
アルフォンソは自動車運転中に事故を起こし、ひどい内出血を起こしたことが死因となりました。


コバドンガ伯アルフォンソ(王位継承放棄後に賜った爵位)




ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ
スペイン国王アルフォンソ13世の末子、アストゥリアス公アルフォンソの末の弟。
1914~1934年。享年19歳。





血友病の症状は兄アルフォンソほどではなかったそうだ。亡命後に父母が離婚してからは、パリ付近で父と姉たちと暮らした。夏の休暇を家族と別荘で過ごす間、上の姉ベアトリスと自動車で出かけ、事故に遭う。二人とも軽傷であったのだが、ゴンサーロは腹部を打っており、本人が大事にしたくないため放置していた。次第に容体が悪化し、手術もできない状況になり、2日後に死亡した。
兄アルフォンソが亡くなったのは、この4年後である。





スペイン王室の場合、発現者のアルフォンソは2度結婚していましたが、子供はおらず、今後の血友病については、王女2人の子孫の動向に依ります。
現在までで、男子の子孫に血友病は出ていません。女子の子孫については、いまだ保因されている可能性は残ります。しかし、メイの家系と同様、こちらも3世代の間に発現は起きていません。

ロシア皇太子アレクセイに重篤な病気があるため温室の植物のように育てられていることと、皇太子の粗暴な性格について書かれている

ロシア皇太子アレクセイとスペイン王太子アルフォンソが同じ病ということなどが書かれている

血友病は劣性遺伝なので、発現する率が低いということと、発現することで死のリスクが高まり、子孫を残すことが容易でないという性質を持つため、減衰していく宿命にあります。ただ、女子保因者には、上乗せされる死のリスクはなく、脈々と母系を伝って受け継がれている可能性もあります。





第4世代を整理すると、

発現者
ヴァルデマール(ドイツ)
ハインリヒ(ドイツ)
アレクセイ(ロシア)皇太子
ルパート(イギリス)
アルフォンソ(スペイン)王太子
ゴンサーロ(スペイン)

たまたま、生まれながらの皇太子と王太子に血友病が出たことは、王家にとっては大変な事件です。

保因者
いないか、または発現者が出ていないため解明できない

第4世代の女子7名のうち、子孫を残しているのは3名。
4名はロシアの皇女で、いずれも子孫を残さず殺害されている。
遺骸を用いた、のちのDNA鑑定では、4名のうち四女のアナスタシアのみが保因者であったことが判明した。



まとめ

1853 レオポルド 英
1870 フリードリヒ 独
1889 レオポルド 英
1889 ヴァルデマール 独
1891 モーリス 英
1900 ハインリヒ 独
1904 アレクセイ 露
1907 ルパート 英
1907 アルフォンソ 西
1914 ゴンサーロ 西

1853年のレオポルドの誕生から1914年のゴンサーロの誕生までのおよそ60年の間に生まれた10人。
そのうちの2人、モーリスは戦死、アレクセイは銃殺。まさに激動の時代が背景にあったことに思い至らされる。特に、アレクセイは皇太子という地位が、その死因になったといえる。戦争、革命が死に導いたが、アレクセイの血友病が革命を導いたとも言われている。
あとの8名は、いずれも血友病が災いして死に至っている。
手術中の失血で亡くなったレオポルド、輸血できなくて亡くなったヴァルデマール。ヴァルデマールの死も、戦争が引き起こした死だといえる。
つまり、レオポルド以外の3人は、時代によって突きつけられた死だったといえよう。生きるか死ぬかの線上で、彼らは血友病を持っていたために死へ向かう羽目になった。
残りの6名は、事故が引き金となった。
血友病は幼児期をいかに生き抜くかが大切だ。平衡感覚、行動の傾向から、幼児期は非常に危険が多く、気をつけていてもそれは突発的に起こる。フリードリヒ、ハインリヒは不幸にも頭部を打った。
また、運良く成人したものの、その分、時代を反映して自動車が普及したため、なんと3人が自動車事故で亡くなった。その死を決めたのは、怪我ではなく、やはり血友病だった。
しかし、レオポルド以外の彼らは子を残すことがなく、血友病の男子から遺伝は絶たれた。さらに、時代も大きく傾き、革命、戦争を経て、ドイツ、スペイン、ロシアも君主を捨てた。それぞれのやり方で。
苦難な時代の王族として生まれ、病によってさらに生死が背中合わせであった。一番長く生きたヴァルデマールさえも、時代の運命が病に降りかかった。
生きるのが綱渡りだった彼らに、ようやく生きても王家のものとしてはあまりにも寂しい未来しか用意されていなかった。




感想

スペインの王家の混乱を今回調べて初めて知り、ロシアのように5人目に初めてでしかも唯一の男子のアレクセイの場合と、一人目での男子の血友病で、その後3人の王子に恵まれたスペインの場合と、比較するにも、各家いずれにも難しい事情があり、血友病が介入することで、継承問題はひどく混乱するものだということを知りました。
また、結局、血友病の君主は生まれませんでした。
ロシアでは、アレクセイの即位が血友病を理由に父によって取り下げられ、実現しませんでした。革命に火がついた状況下に、12歳で、しかも血友病のリスクを抱えた新皇帝が、どうやって存在し得たでしょう?
一方、スペインでは無事に亡命し、王位継承でさまざまな揉め事も生じましたが、のちに王政復古を果たしました。
フアンの存在が希望を繋ぎ、こうして継承されたのです。
フアンは子供の頃、どのように自分と兄弟の関わりを感じていたのでしょう。
父母に対しても。


次回へつづく













(追記4)イパチェフの館で ロマノフ皇帝一家殺害

2015-07-17 00:44:04 | 出来事

追記 2015/9/13
アレクセイとマリアの、ロシア政府による正式な埋葬が計画されており、そのために正教会は更なる詳しい検査を政府に求めています/the gurdian

Russia agrees to further testing over 'remains of Romanov children'


追記2015/9/24
上記記事に関連し、ニコライとアレクサンドラの骨やアレクサンドル2世の暗殺時の服などの検体を提供するというニュース。アレクセイとマリアの正式な埋葬は2018年(暗殺後100年)の予定?/BBC


Russia exhumes bones of murdered Tsar Nicholas and wife


2015/10/27
Read This: Tsar Nicholas II's son and daughter will finally be buried with the rest of the family in Saint Petersburg eight years after their bodies were discovered




追記2015/11/4
上記の計画が実行される報告。/BBC


Russia inspects Tsar Alexander III remains in murder case


発見された2遺体のうちの1人はアレクセイ皇太子であることが過去のDNA鑑定で確認されている


同じく鑑定によりもう1人は三女マリア皇女(写真)あるいは四女アナスタシア皇女であると推定されている



2015/12/28
遺伝子鑑定の結果はまだですが、アレクセイとマリアの遺体はモスクワのロマノフ朝ゆかりの寺院に移送され保管されました


Remains of Tsesarevich Alexey, Grand Duchess Maria transferred to Novospassky Monastery





ロマノフ皇帝一家殺害
イパチェフの館の悲劇



0.ニコライ退位以降の、軟禁中の家族の生活を写真で振り返ります。


ニコライ、アレクサンドラ、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイ


アレクサンドル宮殿自宅軟禁中、自ら雪掻きをするニコライとアレクセイ


宮殿の庭の一角に畑を作る皇帝、家族、従者
そのうち監視の兵たちも加わった


1917年8月 一家はシベリアのトボリスクに移された ここで春まで過ごした 冬はマイナス40度


屋根の上で日向ぼっこ

ニコライは薪割りを好んでした 健康なアレクセイとともに家族の素朴な生活を満喫する


七面鳥にエサをやるニコライとアレクセイ


簡易ベッドのアレクセイと3人の姉でなごやかなティータイム? 父母姉マリアは先にエカテリンブルグへ、アレクセイの病気が良くなるのを待ってのちにエカテリンブルグへ向かう


無茶なソリ遊びで怪我をし血友病に再び苦しんだアレクセイは歩けなくなり姉たちが世話をした


エカテリンブルグへ向かう船中のアレクセイとオリガ 最後の写真と言われている




1.エカテリンブルグ、1917年7月16日
ニコライは少年の頃から日記を欠かさず書き続けていた。しかし、エカテリンブルグでの絶望の日々のなかで途切れがちになり、死の3日前の7月13日を最後に白紙となっていた。


エカテリンブルグのイパチェフ館 外部を見ることができないように高い塀を施した

ニコライの日記

「7月13日。土曜日。アレクセイはトボリスク以来はじめて入浴した。膝はよくなっているが、まったく曲げることはできない。天気はあたたかく、快い。外部からの知らせはまったくない」

このとき、ニコライが待っていたのは救出であって、秘密裏にやりとりがあった。しかしそれは赤軍のヤラセであって、ニコライもそれを見破っていた。自分が逃亡計画の嫌疑で処刑されることで家族が解放されることに一縷の望みを抱いていたようである。皇妃アレクサンドラは、ニコライの本心は知らなかったが、同じように救出のときを待っていた。

同じ日のアレクサンドラの日記

「7月13日。6時30分、ベビーがトボリスク以来はじめて入浴した。彼は自分でバスに入ることもできたし、バスから出ることもできた、またベッドに這い上がることも、這い下りることもできた。だが立っているのはまだ片脚でだけ。夜中に雨が降っていた。深夜に3発の銃声が聞こえた」

父母はともにベビーが入浴できたことを喜んでいる。ベビーといってもヨチヨチ歩きのベビーの話ではなく、14歳の誕生日を間近にした皇太子だ。血友病を悪くし、病臥していた息子がようやく自力で入浴できたことが悲しいほどささやかな喜びとして記されている。


7月14日日曜日、祈祷式の許可が出て神父が来た。この神父がここへ来て皇帝一家に会うのは2度目だった。数カ月の間にアレクセイは「ひどく背が伸びて」「長く病臥していたために青白かった」。皇女たちは髪が肩まで伸びていた(前年2月にはしかに罹って5人の子供全員、頭を丸坊主にした)。
神父は祈祷の間の家族の様子に、静かな異変を感じ取った。
帰途、輔祭は神父に言った。
「彼らに何かがありましたね。どことなく以前と違っていました」

翌日15日から、警備司令ユロフスキーは上部の命令に従い着々と準備した。
館内の電気の修理、床の掃除、窓の点検、そして殺害実行の打ち合わせ。出血を少なくするため心臓を狙うこと、誰が誰を射つかの分担、死体を埋める作業など。

最後の日、7月16日。朝は曇っていたが、日中はさわやかに晴れ渡った。彼らは9時に起きて父母の部屋に集まりお祈りをする。しばらく差し止められていたアレクセイのための卵と牛乳が、ユロフスキーの配慮により修道院から届けられた。(しかしこの卵を食べるのは翌日のユロフスキーだ)
皇帝と皇女は午前と午後に30分ずつの散歩。風邪気味のアレクセイと皇后は部屋で過ごした。
エカテリンブルグのこの日の夕日はとても美しかったらしい。

夜7時、家族は最後のお茶を飲んだ。この日朝に、料理係の13歳のセドネフは連れ去られていた。おじさんが面会に来たから、ということで。これは子供を、銃殺から遠ざけるためにかくまったのだが、皇帝の家族たちはこのことで非常に不安になっていた。今までどの従者も、連れ去られて戻ってきた試しがないからだ。セドネフは同年齢のアレクセイの遊び相手でもあった。
冷酷なユロフスキーはセドネフも従者として抹殺するつもりであったが、周囲に反対されたため対象から除外した。セドネフは後年、手記を出版している。

アレクサンドラのこの日の日記の最後。
「ニコライとページク(トランプゲーム)をした。10時30分、ベッドに入った。15度」

イパチェフの館での幽閉は、窓を開けることも滅多に許されず、夏のこの時期の日中は毎日耐え難かった。しかも窓は視界を遮るために白く塗られて、精神的にも耐え難い。日記には「室内温度24度!」と、意外に低そうな温度で音を上げていて、日本に住む者からすれば驚きだが、いかに暑くても軍服にブーツやロングドレス姿。暑かろうと元皇族がランニング一枚ではいられない。また、監視の警備兵らと同じトイレを使わねばならず、その使い方のひどさに辟易し、「使用後は元の通りに戻すよう切に願う」と触書きをせねばならなかったり、卑猥な落書きがされたり、トイレに行く皇女がからかわれたり。イパチェフでは皇帝には耐え難い生活だった。家族の生活環境のために警備兵にたびたび交渉を重ねるが、望みを聞いてくれることはほとんどなかった。

話が随分それてしまった。
7月16日、深夜。


皇女たちはもう眠っていた。
この日、アレクセイは父母の部屋で寝た。
皇帝と皇后はおやすみのお祈りをして、11時ころに眠った。



2.銃殺
皇帝たちが眠りにつく頃、準備は着々と進められた。深夜12時に着くはずのトラックが遅れて1時半に着いた。モスクワからの最終的な指令を待っていたため遅くなったのだ。その頃、皇帝一家と従者は起こされ、「白軍が迫っており、2階では撃ち合いが始まると危険なので着替えて階下へ来るように」と。40分~1時間ほどで支度が済み、移動する。



皇帝、皇后、アレクセイの使用した部屋

食堂


二階廊下


銃殺へ向かうときの移動






殺害の部屋のドア


ユロフスキーを先頭に、ニクーリン、次に皇太子を抱えた皇帝、皇后、皇女、従者、他の警備の者たちが階段を降り、一度中庭に出て別の扉から入り直し、整えられた部屋へ。このとき、隣接する部屋には銃殺を行うラトヴィア兵らが待機していた。
通された部屋は30~35平方メートル(20畳位)、敷地は坂道と隣接しているため半地下になっている。ラスプーチンが暗殺されたあの部屋と様子がそっくりだった。






何もない部屋に通されて、脚の悪いアレクサンドラは椅子を頼んだ。ニクーリンは椅子を2つ運んで来た。
「皇太子のために椅子がいるってさ。きっと椅子に座って死にたいんだろう。まあしょうがない、持ってってやるさ」と小声で吐き捨てた。

皇太子と皇后が椅子にかけた。ユロフスキーは「モスクワに安否を問われているため」写真を撮るとうそぶいて、皆を整然と並べた。
並べ終えるとコマンドが呼ばれ、外でトラックのエンジンがふかされた。
ユロフスキーがポケットから小さな紙を取り出し、宣告する。
「あなたの親戚たちがソヴィエトロシアに攻撃を続行していることに鑑み、ウラル執行委員会はあなたがたの銃殺を決定した」


「何?何と言いました?」

ニコライはアレクセイの方を振り返り、それから気がついたようにユロフスキーの方へ顔を向け、こう言った。
「彼らを許し給え、その為すところを知らざればなり」
直後に銃撃が襲った、全員に。







ニコライのこの最後の言葉、これは以前モスクワで暗殺されたセルゲイ・アレクサンドロヴィチの墓に刻まれている。そしてセルゲイの妻であったエラはこの翌晩に、この言葉を唱えながら廃坑に落ち、数ヶ月後にペテロハヴァロフスク要塞の刑場に向かうドミトリー・コンスタンチノヴィチも銃殺前にこの言葉を唱えた。

20畳ほどの部屋に11人の執行人と11人の被害者。ひとしきり銃声が止んだ後、小さな電灯の下、硝煙ではっきり見えないなかで、少年を弾丸から守ろうとしてのばされた手(誰の?アレクセイの手が隣に横たわる父の上着を掴もうとしたとの証言もある)に、気が動転したニクーリン(アレクセイを銃殺する担当)は夢中で少年を撃ち続け、弾丸(7~10発)を撃ち尽くした。それでもなお床の上でうめき続ける少年に、ユロフスキーが耳に2発を撃ち込み静かにさせた。
このときまだ、コルセットの仕掛けを知らない同志たちはなかなか死なない皇女たちに神の恐れを感じながら必死に銃剣でとどめを刺した。



3.遺体の隠蔽
3時。
コプチャキ村方面へトラックが向かう。予め埋葬すると決めていた廃坑に向かうがぬかるみにはまり、トラックが動けなくなった。埋葬を手伝う労働者たちと合流し、馬車に積みかえ、めざす廃坑を探すがなかなか見つからない。労働者たちは略奪したくてうずうずしている。
太陽が昇ったころに廃坑が見つかり、空き地に死体を並べて服を脱がせ始めると皇女のコルセットからダイヤモンドのかけらがこぼれた。(のちのユロフスキーの手記によれば、3人の皇女タチアナ、アナスタシア、オリガのコルセットから、とのこと)
略奪に熱中する労働者らを銃殺で脅して従事させ、約16キロのダイヤモンドが回収された。これらの宝石はアラパエフスクに送られ、アラパエフスクで翌日に処刑される他のロマノフ達の宝飾品と合わせて、ある家の床下に埋められる予定であった。

遺体は深さ8メートル、底から2メートルが雨水で埋まっている廃坑に投げ込まれた。その後ユロフスキーの思いつきで手榴弾をいくつか投げ込んだ。ユロフスキーは一息ついて、ここであの卵を食べた。
町に報告に戻ると、町内ではすでに皇帝殺害が噂になっており、その埋葬場所も話題になっていた。労働者たちが漏らしたのだろう。死体を今一度別の場所に埋め直さねばならなくなった。
新たな深い廃坑を見つけた。そこに移すか、うまくいかなければ硫酸をかけて穴に埋めることにした。

7月17日20時、灯油、硫酸を調達、周囲の村を封鎖

7月18日0時30分(この頃にウラディミルたちは処刑された)、松明のもと死体を綱で引き上げた。近くに穴を掘って一部を埋めることにしたが、見つかる可能性が高いことがわかり、例の深い廃坑へ運ぶことに。
荷車が故障したためもう一度町へ車を調達しに行き、21時にようやく出発した。

7月19日4時30分、道でまたはまり込んだ。そこで、近くに埋めるか焼くかということに。
そこで、名前も知らない者に頼んで、アレクセイとアレクサンドラを焼くことにした。しかしユロフスキーの手記には、あわてていて皇后ではなく女官を焼いてしまったとあるが、実は女官でもなく皇女マリアだった)
焼いている間におよそ70メートルほど離れた別の場所に深さ1.8メートル、縦横2.5メートルの穴を掘り、硫酸をかけて埋め戻し、枕木を載せてトラックで往復してならした。
全て終わったのは19日朝7時。
ユロフスキーはエカテリンブルグに急いで戻り、館に残された遺品、文書などをまとめて、モスクワへ急ぎ向かわねばならなかった。白軍によるエカテリンブルグ陥落は間近だったのだ。
(しかし白軍があと数日早ければ、皇帝たちは助けられたのか)

7月19日、公式に皇帝銃殺が報じられた。その一方で、家族は皆安全な場所へ送られたと虚偽報告されている。もちろん、レーニンは全てを知っている。トロツキーは知らなかった。
アラパエフスクの皇室殺害も、処刑ではなく、白軍に収容施設を襲撃され逃亡したと報じられた。
あのセドネフは?
料理係の少年、時々アレクセイと遊んだセドネフは17日に彼の故郷に帰された。




殺害直後に略奪され尽くした皇帝皇后の部屋


白軍捜査官ソコロフ? 路上手前の枕木の下に埋められていたのに捜索されなかった

ユロフスキーの手記はおそらくそれほど事実から離れていないと思われる。彼が埋設の場所として示した位置で後年、遺体は発見されているし、埋設の状況も記されていた通りだった。それでも不可解なのは、別に焼いて埋めたのがなぜアレクセイとアレクサンドラ(実際はマリア)の2体なのかということだ。灰になるまで焼くのは非常に時間がかかるし、煙で見つかりやすいのでリスクが高い。そして11体中2体しか焼いていない。どうせ火をおこすならもう何体か一緒に焼いてしまえばとも思うし、逆にあと2体なら穴に一緒に入れてしまえばいい。
もっとも疑問に思うのは、なぜその2体に皇帝を入れなかったのか、ということだ。皇帝と皇太子、あるいは皇帝と皇后ならばわかるのだが。
また、遺体の衣服を剥がしてコルセットを調べたときの記述として、ユロフスキー は「皇女3人の」と書いている。名前も、「アナスタシア、タチアナ、オルガ」とある。銃殺のときの持ちこたえようを照らしてみれば(オルガのみ頭を撃たれて即死)、宝石の防弾チョッキは、マリアはもちろん、アレクセイも身につけていたと思われるし、何しろ母がそうさせないわけがない。ここにアレクセイとマリアの名前がないということは、衣服を剥がす前の段階で別にされていたのではないかということだ。しかし、近年見つかった2人の遺体発掘場所が他9人とさして離れていないことを考えると、やはりユロフスキーの手記の通りなのかとも思える。当初騒がれたように、若いアレクセイとアナスタシアは殺されないで逃亡させたという説を援護するかのような事実であり、数々の偽皇太子、偽皇女らが遺産相続を要求するのを封じ込めるため、この問題を早く終わらせたい政府が仕組んで、全く別の遺体を彼らのものだとして報告させたかとも考え得る。遺伝子鑑定の段階でも、遺伝子が偽物だと非難する人たちもいた。
もう一つの疑問は、18日の21時に出発してからぬかるみにはまって動けなくなる翌4時30分までの7時間半、かなり長い時間が経っているが何をしていたのだろう。
真意も事実もわからない。
なかなか信じることができない。
ロシアの痛いところだ。



4.祈り、そして生贄

「主よ、わたしたちに、忍耐をあたえよ
荒れ狂う、暗い日々の、この時期に、
民衆な迫害と、わたしたちの刑吏たちの、
拷問に耐えぬくために。
わたしたちに強さをあたえよ、正義の神よ、
隣人の悪行を許し、そして
重い、血塗られた十字架を、
あなたの柔和さで迎えるために。
そしてはげしい騒乱の日々に、
敵どもがわたしたちを略奪する時、
屈辱と侮蔑に堪えることを
救世主キリストよ、助けたまえ。
世界の主、宇宙の神よ、
祈りでわたしたちに祝福をあたえよ、
そして、恭順な心に安らぎをあたえよ、
堪えがたい恐ろしい時に。
そした、墓の入口で、
そなたのしもべたちの口に
吹き込んでほしい、人間を超えた力を
やさしく敵どものために祈るために。」

イパチェフの館に残されていたオリガの本の間に、清書されて挟まれていた詩である。
これは彼女の、そして彼女が敬愛し語り合った父の遺言でもあり、略奪しに館に来た者たちへのメッセージなのだろう。

「彼らを許し給え、その為すところを知らざればなり」

信仰心のまったくない、この言葉を知らないであろう赤軍の銃殺のメンバー、エルマコフがあの部屋で聞き、不思議に覚えていた皇帝の最後のことばである。エルマコフには言葉の意味も理解できず、ただ皇帝の発した最後の言葉として証言した。

この、すべてを受け容れ、許そうとする心ではロシアを治めるには優しすぎたかもしれない。
この心と両極の革命政府は、粛清、迫害、密告など、どんな些細なことも許さず、虐殺した。そしていま、そのソ連を転覆したロシア政府も?

今回主に情報を得たのはエドワード・ラジンスキーの『皇帝ニコライ処刑』であるが、その中に奇妙な客として登場する著者への情報提供者が、最後にこんな謎かけをする。

以下、本文から引用

「この顛末は全体が、ドストエフスキーとの論争のようなものですよ。
アリョーシャ(アレクセイの愛称)・カラマーゾフへの問いかけに始まってね。
『もし幸福な人類の家の再建のために、子供だけを苦しめることが必要なら、子供の涙のうえにその家の土台を築くことに同意しますか?』
ひとりのアリョーシャが問われた。そしてもうひとりの殺されたアリョーシャ(皇太子アレクセイ)の助けをかりて答えが出された。、、」
彼はしばらく黙っていた。
「だが、やはりこれだけは明白ですな。彼はわれわれのところに戻って来ますよ。私は皇帝のことを言ってるんですよ、、」

Alyosha Karamazov“
Illustration for F. Dostoevsky’s novel “The Brothers Karamazov” by Ilya Glazunov




『わたしの終りにわたしの始まりがある』
(皇帝と血縁のある、首を刎られたメアリー・スチュアートのことば)

生贄。
果たして彼、最後の皇帝はわかっていたのか?」

私にもこの謎かけがよくわからない。白状すると、ロシア文学はひとつも読んだことがない。

しかし、皇帝の死をもって捧げた犠牲がわれわれに語るものがある。それは時代の流れで避けられないものであったが、繰り返される歴史に対する覚悟を、彼らの死が、さらに彼らの写真を通して知る穏やかな彼らの眼差しが、その覚悟を静かにわれわれに示しているのを感じる。

それが、「彼らの終わりが、
私に、始まりを、もたらしている」
ということなのかもしれない。






もうひとつ、館に残されたメッセージを拾い上げた者がいた。アレクセイが友に宛てて書いた手紙は、その友の手に拾われたのだった。略奪されたあとのイパチェフ館に足を踏み入れた友人コーリャが見つけたもの。
以下、その手紙と、友コーリャの後年のインタビューである。


コーリャ(ニコライの愛称);
ニコライ・ヴラジーミロヴィチ・デレヴェンコはアレクセイの遊び相手として定期的に宮殿に招かれていた少数の友人のうちの1人。父ヴラジーミル・ニコラーエヴィチは外科医、宮廷侍医であり、1912年からアレクセイを治療。デレヴェンコ医師はイパチェフ館への出入りも許されていた唯一の人物。コーリャもイパチェフ館の近くの建物に住んでいたが面会は許されなかった





Alexei’s last letter to Kolya Derevenko
Ekaterinburg
Dear Kolya,
All of my sisters send greetings to you, your mother and
grandmother. I feel well myself. My head was aching
all day, but now the pain has gone completely. I
embrace you warmly. Greetings to the Botkins from all of
us.
Always yours
Alexei
The end.

エカテリンブルグにて
いとしいコーリャへ
姉たち皆が、きみと君のお母様、お祖母様によろしくと言っています。
ぼくは元気です。
ずっと頭が痛かったけど今はすっかり良くなりました。君を心から抱きしめよう。僕たち皆からボトキンさん達によろしく。
君とともに。
アレクセイより。
おしまい。





1990s interview with Kolya Derevenko

“I was a little boy, just 12 years old…I didn’t know anything about people’s evil…..We lived in Popov house, very close to Ipatiev house. In the middle of summer 1918, I was afraid, and I was preoccupied about Aleksei.I wanted to see him. And, I am sure, he wanted to see me. Until that sad 17th july 1918. My father, Gilliard, Gibbes and other…they knew everything, but I NOTHING….Something terrible was going to happen, but I didn’t know what….In the last week of july 1918, I , my father, Gilliard, Gibbes,etc. entered at Ipatiev house.Terrible scene….House was in completelly chaos. Diaries, letters, albums, and others items was all around in house. ‘But where is Leskela?’-I asked my father, but I he didn’t answe me. Leskela’s diary…was taken by one guard,I think his name was Nemetkin,I don’t know. But Leonid Sednev….I saw him. He cried. His cried so aloud, so aloud!!!!!
‘Papa, where is my Leskela?’-I cried.
‘They killed him’-he cried
‘Ho…how?’
'they killed tsar, tsarina, and GDs also.All are dead.“-said my father.
“I don’t understand’,'where…where are bones’
'We don’t know, maybe we’ll never discover them’
My world was destroyed.They destroyed Russia, no more illusions…I found Leskela’s last letter written to me.Especially one sentence in that letter-'I hug you warmly’-made me cry..I thought 'And I hug you warmly, too, my dear friend, and my tsar…’
I was in shock.In later years, I think just about him. 'Why did they killed you? In USSR wassn’t a little space for my Leskela……We'l be forever friends, my dear tsesarevich….I want to see you just ONE more time, and I can die in peace……”

ぼくはまだ12歳の、ほんの子供だった。人々の悪業について何も知らなかった。僕たちはイパチェフ館のすぐそばのポポフの家に住んでいた。
1918年の真夏、アレクセイのことが心配で、頭がいっぱいだった。彼に会いたかった。そしておそらく、彼も僕に会いたかったはずだ。1918年、あの悲劇の7月17日には、ぼくの父も、ジリャールも、ギッブスも他の人も皆知っていたのだ。だけどぼくは何も知らなかった!ぼくの知らない、恐ろしい何かが起こっていることを。1918年7月の最後の週のある日、ぼく、父、ジリャール、ギッブス、他にもいろいろな人がイパチェフ館に入った。館はまさにカオス、酷い有り様だった。日記、アルバム、手紙、他のものも家の中に散らばっていた。
「ねえ、で、レスケラ(逆さま読みアレクセイ)はどこなの?」
父は何も答えなかった。レスケラの日記は誰か警備兵が持ち去った。たしかネメキンとかいう、、知らない人。
レオニード・セドネフ(皇帝の従者)、彼に僕は会った。セドネフは泣いていた。大きな声で、ものすごく大きな声で。
「パパ、レスケラはどこ?」ぼくは泣いた。「彼は殺された。皇帝も皇后も、大公女たちもだ。皆殺されたんだ」父が泣いて言った。
「わからない。骨はどこ?どこなの?」
「知らない。おそらく見つけることはできないだろう」

ぼくの世界は壊れた。奴らがロシアを壊した、幻想ではなく。ぼくはレスケラの、ぼくへの最後の手紙を見つけた。特にその手紙の中の、"I hug you warmly"の一文に泣いた。

「そしてぼくも君を抱きしめよう、
ぼくのいとしい友、ぼくの皇帝」


僕はショックだった。のちに彼のことを考えて思った。なぜ彼は殺されたのか?ソ連にはぼくのレスケラのためのほんのわずかな場所すらもないのか?

「ぼくたちは永遠に友達だよね。
ぼくのいとしい皇太子。
ただ一度でいい、君に会いたい。そしたらぼくは平和に死んでいくことができる」



アレクセイは自分がいずれ殺されるか、もしくはそうでなくても病気で死ぬか、心の底に悲しい宿命を抱えていたはずだ。その不安をコーリャにも明かさず、孤独のなかで向き合っていたのだ。授かってしまった運命の前に自分を差し出す、犠牲。最期のときも、その前の日々も、怖かっただろうに。
もう引き継ぐ帝位もない皇太子。何も言わずに、静かに、コーリャに日々別れを告げていたのだろう。
泣かず、唯々諾々と、13歳の命が投げ出された。
それは「革命」の美名のもとに。


コーリャとアレクセイ




皇帝の死 カルペンコ作


イパチェフ館が取り壊されその上に建てられた地の上の教会



Ты не пой соловей/Romanovs. Цесаревич Алексей





写真などは感謝してお借りしました

スレブレニツァ 20年が経ち

2015-07-12 14:10:53 | 出来事

Srebreniča/Foča/Genocide/ICTY

20年前の1995年7月11日、
スレブレニツァ陥落。







1991年から2000年まで続いたユーゴスラビア紛争中、1992年から1995年に起きたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。
戦争というよりも民族浄化という集団殺戮が、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の間で応酬が繰り返された。そのなかでも6~8千人が数日のうちに殺害されたスレブレニツァの虐殺事件は凄惨を極め、一般的にはジェノサイドとみなされている。
その経過と、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(以下ICTY)においての、主に性的虐待に関する裁判について、さらに同様な虐殺のあったフォチャでの性奴隷被害者の証言についてを調べた。



⑴ボスニア・ヘルツェゴビナ



スレブレニツァ

様々な民族が混在し、列強の揺さぶりにも遭いやすいこの地域は、1918年のハプスブルグ帝国崩壊以降、不安定であった。第二次大戦後に、独裁者チトーがユーゴスラビア連邦人民共和国として束ねていたが、その死後、分離解体が始まった。
そのほぼ中央にあるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、民族構成比ムスリム44%、セルビア人31%、クロアチア人17%、それぞれ宗教は、イスラム教、正教、カトリック、と異なる。当時のボスニアでは、相対的にムスリム人が知識が高く要職を占めていた。
隣国のセルビアやクロアチア独立の影響から、国内はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国(スルプスカ共和国)に分かれた。


スレブレニツァは、かつて銀採掘で栄えた東部セルビア国境近くの町であり、人口3万7千人のうちムスリム75.2%、セルビア人22.7%が共存していた。
1992年4~5月、ムスリム武装勢力ARBiHによるセルビア人1200人に対する民族浄化があり、今度は1993年1月、セルビア人武装勢力VRSが反撃。近郊からムスリム人がスレブレニツァに避難し、過剰人口密集した上、VRSがインフラ破壊し包囲、ムスリムの飛び地となってしまったスレブレニツァでは、政府軍の拠点トゥズラへの移動もかなわなくなった。
1993年4月16日、安保理決議により、スレブレニツァほかを「安全地帯」に指定。UNPROFOR(UN Protection Force:国連保護軍)を駐留させ、スレブレニツァ在住のARBiHは武装解除され、武器は押収された。
ここでのUNPROFORの任務は、人道支援および安全地帯での停戦監視、拠点確保、撤退促進であり、空軍力を含む武力行使も認められていた。ただしここでいう空軍力とは、「空爆」ではなく「近接航空支援」であり、非常に限定されたものであった。
アナン国連事務総長はUNPROFORへ3万4千人の兵員増強を求めたが、安保理には7600人のみしか認められなかった。
1995年6月9日、1万2500人兵員増強、スレブレニツァにはオランダ第3次隊780名が駐留、7月は司令官含め夏休みで帰国、飛び地内は400名で守っていた。
この状況下、1995年7月6日、「Krivaja '98」作戦が襲う。

クリバヤ作戦は当初、2000人のVRS軍により、スレブレニツァ市街地の孤立化を狙うものであった。

7月6日午前3時、安全地帯にロケット弾が撃ち込まれた。ARBiHは反撃に出るためにUNPROFORに武器返還を要求、UNPROFORは応じない。オランダ軍監視所が次々に攻撃され、大隊は近接航空支援を要求するが却下。

7月7日18時、爆撃再開。

7月8日、VRS侵攻、午後、再び近接航空支援するも却下。オランダ軍の監視所は次々に撤退を迫られ、過程で兵員1名死亡。近隣のVRS拠点プラトゥナッツへ移動させられる。実質上、人質に。

7月9日も次々に監視所が占拠される。
一方で、国連側による交渉も持たれた。UNPROFORニコライ将軍とVRSトリミル将軍、国連より明石SRSG特別代表の間で行われた。
この日、VRSのムラディチ将軍が帰還、攻撃の目標がスレブレニツァの孤立化から安全地帯奪取へと変更された。

7月10日、スレブレニツァへの攻撃が激化する。オランダ軍は近接航空支援を要請したがまたしても却下?(連絡系統のどの段階で却下されたのか不明)夕方に再び近接航空支援要請、却下?
却下はオランダ政府によるものかとも考えられたが、オランダ政府は「近接航空支援の実施がたとえオランダ兵に対するVRSの報復攻撃を誘発するとしても司令官の決定を支持する」と表明。
この夜、仏軍ジャンビエ将軍より、オランダ大隊とARBiHによる共同軍事力行使の可能性をVRSへ伝達。深夜にVRSから停戦の申し入れあり。

7月11日、6時50分に近接航空支援が到達する旨の連絡があったにも関わらず到達せず、再び要請。この要請がサラエボで確認されたのが10時。
11時、VRSがオランダ大隊に対して直接攻撃。12時にジャンビエから明石に近接航空支援要請、明石が許可。14時半まで3~5回の要請、全て却下?
14時40分、NATO近接航空支援によりVRSの車列に2発。ここでオランダ本国から明石へ近接航空支援中止要請が入った。VRSから政府へ、オランダ兵捕虜殺害の脅迫があったためだ。
この日、スレブレニツァは陥落、セルビア勢力下に入る。


戦犯 左ムラディチ、右カラディチ つい最近まで潜伏していたが逮捕され裁判にかけられている


アメリカが二人の身柄に対し500万ドルの賞金をかけた







ここから虐殺が始まる。
7月12日、ムラディチは1992年のセルビア人虐殺事件犯人尋問のため、16歳~65歳の全ての男性を拘束。ムラディチは「女性と子供、老人を優先する」としてバスに乗せてクラダニへ移送。バスの前に集められたムスリム人の前にムラディチ自ら笑顔で現れ、安心するようにと諭す。男性は別にするが、尋問を済ませてすぐに解放するので心配はいらない、と。
男性は連行される。あるいはムラディチが去って間もなく、銃殺されている。
この選別に関してVRSに対し抗議したが、危害は加えない、ジュネーブ条約に則るとのこと。
この夜、バスでは護衛および監視で同行していたオランダ軍は排除された。途中、若い女性の一部は連れ去られて戻らなかった。(おそらく強姦、殺害)
連行された男性は、納屋や倉庫、学校あるいはトラックに積まれたまま立錐の余地のないほど過密な状態で監禁され、一部は拷問、殺害された。

7月13日、国連敷地内に避難していた239名のムスリム男性引き渡しにオランダ軍は応じてしまう。この239名全員が未だ行方不明。
この日到着したUNHCR職員は、スレブレニツァにムスリム男性が一人もいないことに驚く。この時点で4000~5000人のムスリム男性が監禁されていた。
この日午後、国連軍事監視団報告書に数百のムスリム兵士遺体を確認した旨。すると、ムラディチから監視団へ、「これ以上、兵士を殺害するのは自分の意図するところではなく、降伏して武器を引き渡すように」と述べる一方、現地立ち入りは許可せず。明石は不明者へのアクセス確保を最優先に、と。

7月14日早朝、プラトゥナッツ拘束中のムスリム1000~1200人の組織的殺害。移送したバスの運転手らをも脅迫して処刑に加わらせる。告発や証言をふせぐために。ペトコビッチの学校では鞭打ち、拷問の上、ダムで処刑。

7月15日、450人がコズルックへ。ツェルスカ渓谷で血だまり。集団墓地に両手をしばられた150遺体。穴を掘らされ、穴の中に立たされ銃殺。
国連は、ミロシェヴィッチ、ムラディチに行方不明の男性の即時解放とICRC(国際赤十字)による面会許可を強く求める。ボスニア政府は、行方不明のスレブレニツァの男性6800名について説明がない限り降伏できないと声明。国連、安保理はセルビア人を非難。
現地ではUNPROFOR(ウクライナ軍)兵士に対してセルビア、ボスニア両軍から暴力、脅迫。

7月20日、オランダ兵→UN職員→明石SRSGへスレブレニツァ虐殺に関する初の公式報告。

7月21日、ロンドン会議にて、行軍力行使検討。米国が安保理に提示した機密扱いの衛星写真からプラトゥナッツ付近に新しく大地が掘り返された跡が見て取れることと生存者の証言を確認。
一方、現地ではVRSは次にジェパの攻略を目指す。サラエボへの攻撃も激化。

ここで転機が起きた。
クライナ・セルビア人共和国がクロアチア政府軍により占領される。ムラディチ、トリミルはジェパを放棄してクロアチアに向かうが、これはムラディチが安全地帯奪取に固執しすぎたためとしてムラディチは解任。ここが和平実現の好機と見て、米国和平交渉団が進み出る。NATOがVRSに対して大規模航空攻撃、この掩護を受けてクロアチア、ボスニア両軍による猛攻が展開する。
9月8日、影響力を増した米国主導でジュネーブで和平会議、11月1日、デイトン和平合意により収束した。



事がここに至るまでにも、過去、残酷な応酬はセルビア人、ムスリム人双方で繰り広げられていた。その一方で、一般市民は古来から民族、宗教の区別なく隣人として暮らしていた。
双方の軍では、残虐な民兵集団を配下に置き、強姦、拷問、殺害などは野放しにされた。
火種が大きくなったのは、隣国のクロアチア紛争からだった。カラジッチはこれを利用、ボスニアのクロアチア人、ムスリム人を徴兵、応じなければ当人と配偶者の社会的利益を奪うとした。仕事、住居、教育を奪い、自発的に国外脱出させる策である。
憎しみが増幅し、扇動やデマが横行する。
セルビア人カリニッチは議会演説で、
「我々の敵は全く信用できない。それがわかっている以上、話し合いは不可能だ。戦争の道を選び、ムスリム人を軍事的、肉体的に破壊するしかない」と。
また、「ムスリム人やクロアチア人による集団殺害の恐れからセルビア人を守る」ためとして軍隊を4500人から10万人に増強。こうした強硬姿勢は一般のセルビア市民にはなかなか受け入れられなかったが強制された。




バスやトラックが用意され、女性老人子供は難民として遠くにやられ、男性は集団殺害に送られた




⑵旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)
1991年以後の旧ユーゴスラビア領域内で行われた、民族浄化や集団レイプなどの深刻な国際人道法違反について責任を有する者を訴追・処罰するために、1993年に設立された。
以前の戦犯法廷ニュルンベルク裁判、東京裁判は戦後に開廷したが、ICTYは戦時中から開かれている。
以下、⑴の流れからスケールダウンし、この惨劇の中で一人一人がどのようであったかを追う。(このスケールの視点が重要であると私は考えている)


このフィルム、『紛争下における性暴力 - 法と正義の勝利 (ICTYドキュメンタリ-)』は、戦時の性暴力が初めて裁判で取り上げられ、有罪判決を勝ち得た過程が記録されている。
戦時に強姦は付き物であるかのように軽視されてきたが、こうして犯罪として裁かれる事によって抑止力となるだろう。現在の傾向として、性暴力は男性に対するものが増えている。法廷ではそれも裁かれている。
ここで言われている組織的な性暴力というものは、民族浄化のために強姦による恥辱以外に、妊娠させしばらく拘束して堕胎できないようにする、または生殖能力を奪うものを指す。

このフィルムを初めて見たとき、ひどく衝撃を受けた証言がある。この部分である。



《兵士カビッチはこの少年に言いました
服を脱げ、裸になれ、皆に見せろ
少年は泣きました
被告は少年を殴り、シャツを脱がせました
シャツを脱がせると、想像を絶する言葉を口にしました
お前の死んだ母親をレイプしろ、と

学校の壁際に立っていた人達は建物の中に逃げようとしました
ところが別の兵士が冷酷にも、見ない奴は撃つと言いました
逃げられませんでした
突然、銃声が聞こえ、少年は母親の隣に倒れました》




あまりの無情さに驚愕したのである。
少年を死地に追いやる前に、屈辱を上乗せさせる。目の前で母を殺し、悲しみと恐怖の底に突き落としておきながら、更に裸になれ、死姦しろと!
これが民族浄化というものなのか。
少年は生かしておけば必ず報復にやってくるだろう。少年だろうと何だろうと、抹殺すべき民族には変わりない。平気で殺せる。そして敢えて恥辱的屈辱的命令をし、それに背いたとして銃殺に処す。
殺すならただ殺せばいい!
弄ぶようなこと、貶めるようなことは断じてあってはならない!
人間の残酷さがいたたまれない…

問う。生かされるべき民族がこれであり、消されるべき民族がそれである、という考えは真に正しいのか。
それを判断する者は正しい者なのか。
万人が許容しうる判断であるのか。
自分の奉ずる神に尋ねても良いだろう。自分の従うものが正しいかどうかを。
子供をこのように殺す世界が正しいのなら、明日は自分の子供が同じ運命に晒される、それも甘受できるはずだ。

私はこんな世界は勿論嫌だ。
民族なんて知らない、人間として尊重したい。
それは民族の輪の外にいる者としてはそう思う。
しかし、こうした言がある。ユダヤ人のヤコブ・フィレチ元スイス大使によるものである。
「この国では個人の人権ではなく、『民族の一員』の人権しかない」

民族の足枷の重みを私は知らない。
彼らの捩れたような苦しみを理解するにはどうすればいいのか。







⑶フォチャ

フォチャ

フォチャはセルビアとの国境に近く、1922年、スレブレニツァに先立ちジェノサイドがあった。2700人が行方不明、女性に組織的な強姦、性奴隷があったとしてICTYで取り上げられた。ここでもまたそのドキュメンタリーから考える。


ドキュメンタリー 女たちの戦争と平和 勇気ある証言者 ボスニア 1/5

ドキュメンタリー 女たちの戦争と平和 勇気ある証言者 ボスニア 2/5

ドキュメンタリー 女たちの戦争と平和 勇気ある証言者 ボスニア 3/5

ドキュメンタリー 女たちの戦争と平和 勇気ある証言者 ボスニア 4/5

ドキュメンタリー 女たちの戦争と平和 勇気ある証言者 ボスニア 5/5


この中で印象的なのは、被害者らが監禁されていたスポーツセンターに事実を記録した看板をかけようとして現地の市民ともみ合いになった話だ。一方的に看板をかけようとするのはどうかとも思うが、阻止に駆けつけた市民のこんな言葉に凍りつく。



三本指はセルビアを表すサイン。


日本にも他人事でない。



もう一つ、そのスポーツセンターで監禁された当事者の女性が現地を訪れるドキュメンタリーである。

戦争の傷を癒す 国連広報

現在そこは元のとおり、スポーツセンターとして市民に使用されている。
「どうしてここで卓球なんかできるの?」と泣き崩れる。耐え難い心情が伝わってくる。

彼女へのインタビューより。彼女の夫は行方不明で、遺体は見つからない。撃たれて川に落とされたと伝え聞いている。

「埋葬してあげたいんです。あなたにわかってもらえるかどうか。
ほんの一欠片の骨でもいい、棺に納めて埋葬できたら。娘たちと一緒に花を手向けられる場所でね」

「歩ける限り、つまづきませんよ、くじけません。その力はきっと私の中にあるはずです」


強い言葉。しかし彼女はここまでにいっぱい挫けて泣いてきたはずだ。そこをわかっていてあげたい。



サラエボで殺害された6歳の男の子 ブルーヘルメットは国連


スレブレニツァ 後手に縛られ倒れているのはまだ子供のように見えるが殺害されたのか




⑷終わりに
紛争は終わり、いつ死ぬかという恐怖はなくなったかもしれないが、失われた人々は失われたままだ。生活も戻らない。「終わったこと」になることはない。

ICTYの証言に立ったビセビッチはムスリムの民族政党SDAの市の党首だった。初老の紳士はどっしりと落ち着いた様子で証言を終え、終わりに自ら発言を求めた。

「今、最も心を痛めているのは、いまだに行方の知れない息子のことだ」と言って、大粒の涙を流し、前かがみになって大きな肩を揺らせた。そして口にハンカチを押し当てながら、法廷をあとにして行った。

「『民族浄化』を裁く」多谷千香子より



党首として市民を守ろうとし、収容所での苦しみに耐え、その後も耐えて生きてきたこの男性が、被告人や法廷の人々を前にしつつ息子のことを口にした途端、悲しみがあふれてしまったのだろう。ずっと我慢していたはずの涙が。


現在においても世界でこの苦しみは繰り返されている。
少し古いニュースだがそのうちの一つ、ISに関するものを上げる。

毎日新聞 国際 2015.3.10
IS:元戦闘員、実態証言 処刑が「踏み絵」 忠誠心の証明、未成年者も標的 より抜粋

 ISでは外国人の処刑とは別に市民の処刑も日常的に行っている。戦闘員らに希望を募り、「犯罪者を処刑したい」と書いた紙にサインさせ、登録する。「志願しなければ忠誠心を疑われる。当日まで誰を殺すのかは分からない」。ISは、不信心者を殺せば天国に行けると説いている。

 男性も登録し、14年初め、親欧米の反体制派武装組織「自由シリア軍」の「スパイ」とされた32歳の男性を銃殺した。「後悔はしていない。自由シリア軍は武器を密輸するなど腐敗している」

 だが、処刑は未成年者にも及んだ。昨年初夏、戦闘員の友人が「神を汚す言葉を口にした」14歳の少年を処刑した。傍らで号泣する母親。外国人戦闘員らの子供は棒で遺体をたたいたり、つついたりした。友人はその後、精神的に不安定になった。

 同時期、北部アレッポ近郊のマンビジュへの遠征時にも15歳の少年の処刑に遭遇した。「70歳の女性から金品を奪い強姦(ごうかん)した」という。疑念を禁じえなかった。少年ははりつけにされ、のど元を浅くナイフで切られ、出血多量で死亡した。腹部には「強奪と強姦」という「罪名」を書いた布が巻かれ、3日間放置された。「母親が毎日、顔を水で洗い、水で唇をしめらせてやっていた。その姿が頭から離れない」



どうかせめて子供を処刑することだけはしないでほしい。ひとつだけ願えるならばそう願う。
子供を守れない社会は社会と呼ぶに値しない。

宗教に頼まず、独裁者に頼まず、子供を殺さない世界にすることは不可能なのだろうか。人の理性に問う。いや、もちろん宗教も為政者も子供を殺しているのは現実だが…
最後に安全装置を外すのは、人の理性だと私は思っている。


スレブレニツァの悲劇を象徴する花型