名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

(追記4)イパチェフの館で ロマノフ皇帝一家殺害

2015-07-17 00:44:04 | 出来事

追記 2015/9/13
アレクセイとマリアの、ロシア政府による正式な埋葬が計画されており、そのために正教会は更なる詳しい検査を政府に求めています/the gurdian

Russia agrees to further testing over 'remains of Romanov children'


追記2015/9/24
上記記事に関連し、ニコライとアレクサンドラの骨やアレクサンドル2世の暗殺時の服などの検体を提供するというニュース。アレクセイとマリアの正式な埋葬は2018年(暗殺後100年)の予定?/BBC


Russia exhumes bones of murdered Tsar Nicholas and wife


2015/10/27
Read This: Tsar Nicholas II's son and daughter will finally be buried with the rest of the family in Saint Petersburg eight years after their bodies were discovered




追記2015/11/4
上記の計画が実行される報告。/BBC


Russia inspects Tsar Alexander III remains in murder case


発見された2遺体のうちの1人はアレクセイ皇太子であることが過去のDNA鑑定で確認されている


同じく鑑定によりもう1人は三女マリア皇女(写真)あるいは四女アナスタシア皇女であると推定されている



2015/12/28
遺伝子鑑定の結果はまだですが、アレクセイとマリアの遺体はモスクワのロマノフ朝ゆかりの寺院に移送され保管されました


Remains of Tsesarevich Alexey, Grand Duchess Maria transferred to Novospassky Monastery





ロマノフ皇帝一家殺害
イパチェフの館の悲劇



0.ニコライ退位以降の、軟禁中の家族の生活を写真で振り返ります。


ニコライ、アレクサンドラ、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイ


アレクサンドル宮殿自宅軟禁中、自ら雪掻きをするニコライとアレクセイ


宮殿の庭の一角に畑を作る皇帝、家族、従者
そのうち監視の兵たちも加わった


1917年8月 一家はシベリアのトボリスクに移された ここで春まで過ごした 冬はマイナス40度


屋根の上で日向ぼっこ

ニコライは薪割りを好んでした 健康なアレクセイとともに家族の素朴な生活を満喫する


七面鳥にエサをやるニコライとアレクセイ


簡易ベッドのアレクセイと3人の姉でなごやかなティータイム? 父母姉マリアは先にエカテリンブルグへ、アレクセイの病気が良くなるのを待ってのちにエカテリンブルグへ向かう


無茶なソリ遊びで怪我をし血友病に再び苦しんだアレクセイは歩けなくなり姉たちが世話をした


エカテリンブルグへ向かう船中のアレクセイとオリガ 最後の写真と言われている




1.エカテリンブルグ、1917年7月16日
ニコライは少年の頃から日記を欠かさず書き続けていた。しかし、エカテリンブルグでの絶望の日々のなかで途切れがちになり、死の3日前の7月13日を最後に白紙となっていた。


エカテリンブルグのイパチェフ館 外部を見ることができないように高い塀を施した

ニコライの日記

「7月13日。土曜日。アレクセイはトボリスク以来はじめて入浴した。膝はよくなっているが、まったく曲げることはできない。天気はあたたかく、快い。外部からの知らせはまったくない」

このとき、ニコライが待っていたのは救出であって、秘密裏にやりとりがあった。しかしそれは赤軍のヤラセであって、ニコライもそれを見破っていた。自分が逃亡計画の嫌疑で処刑されることで家族が解放されることに一縷の望みを抱いていたようである。皇妃アレクサンドラは、ニコライの本心は知らなかったが、同じように救出のときを待っていた。

同じ日のアレクサンドラの日記

「7月13日。6時30分、ベビーがトボリスク以来はじめて入浴した。彼は自分でバスに入ることもできたし、バスから出ることもできた、またベッドに這い上がることも、這い下りることもできた。だが立っているのはまだ片脚でだけ。夜中に雨が降っていた。深夜に3発の銃声が聞こえた」

父母はともにベビーが入浴できたことを喜んでいる。ベビーといってもヨチヨチ歩きのベビーの話ではなく、14歳の誕生日を間近にした皇太子だ。血友病を悪くし、病臥していた息子がようやく自力で入浴できたことが悲しいほどささやかな喜びとして記されている。


7月14日日曜日、祈祷式の許可が出て神父が来た。この神父がここへ来て皇帝一家に会うのは2度目だった。数カ月の間にアレクセイは「ひどく背が伸びて」「長く病臥していたために青白かった」。皇女たちは髪が肩まで伸びていた(前年2月にはしかに罹って5人の子供全員、頭を丸坊主にした)。
神父は祈祷の間の家族の様子に、静かな異変を感じ取った。
帰途、輔祭は神父に言った。
「彼らに何かがありましたね。どことなく以前と違っていました」

翌日15日から、警備司令ユロフスキーは上部の命令に従い着々と準備した。
館内の電気の修理、床の掃除、窓の点検、そして殺害実行の打ち合わせ。出血を少なくするため心臓を狙うこと、誰が誰を射つかの分担、死体を埋める作業など。

最後の日、7月16日。朝は曇っていたが、日中はさわやかに晴れ渡った。彼らは9時に起きて父母の部屋に集まりお祈りをする。しばらく差し止められていたアレクセイのための卵と牛乳が、ユロフスキーの配慮により修道院から届けられた。(しかしこの卵を食べるのは翌日のユロフスキーだ)
皇帝と皇女は午前と午後に30分ずつの散歩。風邪気味のアレクセイと皇后は部屋で過ごした。
エカテリンブルグのこの日の夕日はとても美しかったらしい。

夜7時、家族は最後のお茶を飲んだ。この日朝に、料理係の13歳のセドネフは連れ去られていた。おじさんが面会に来たから、ということで。これは子供を、銃殺から遠ざけるためにかくまったのだが、皇帝の家族たちはこのことで非常に不安になっていた。今までどの従者も、連れ去られて戻ってきた試しがないからだ。セドネフは同年齢のアレクセイの遊び相手でもあった。
冷酷なユロフスキーはセドネフも従者として抹殺するつもりであったが、周囲に反対されたため対象から除外した。セドネフは後年、手記を出版している。

アレクサンドラのこの日の日記の最後。
「ニコライとページク(トランプゲーム)をした。10時30分、ベッドに入った。15度」

イパチェフの館での幽閉は、窓を開けることも滅多に許されず、夏のこの時期の日中は毎日耐え難かった。しかも窓は視界を遮るために白く塗られて、精神的にも耐え難い。日記には「室内温度24度!」と、意外に低そうな温度で音を上げていて、日本に住む者からすれば驚きだが、いかに暑くても軍服にブーツやロングドレス姿。暑かろうと元皇族がランニング一枚ではいられない。また、監視の警備兵らと同じトイレを使わねばならず、その使い方のひどさに辟易し、「使用後は元の通りに戻すよう切に願う」と触書きをせねばならなかったり、卑猥な落書きがされたり、トイレに行く皇女がからかわれたり。イパチェフでは皇帝には耐え難い生活だった。家族の生活環境のために警備兵にたびたび交渉を重ねるが、望みを聞いてくれることはほとんどなかった。

話が随分それてしまった。
7月16日、深夜。


皇女たちはもう眠っていた。
この日、アレクセイは父母の部屋で寝た。
皇帝と皇后はおやすみのお祈りをして、11時ころに眠った。



2.銃殺
皇帝たちが眠りにつく頃、準備は着々と進められた。深夜12時に着くはずのトラックが遅れて1時半に着いた。モスクワからの最終的な指令を待っていたため遅くなったのだ。その頃、皇帝一家と従者は起こされ、「白軍が迫っており、2階では撃ち合いが始まると危険なので着替えて階下へ来るように」と。40分~1時間ほどで支度が済み、移動する。



皇帝、皇后、アレクセイの使用した部屋

食堂


二階廊下


銃殺へ向かうときの移動






殺害の部屋のドア


ユロフスキーを先頭に、ニクーリン、次に皇太子を抱えた皇帝、皇后、皇女、従者、他の警備の者たちが階段を降り、一度中庭に出て別の扉から入り直し、整えられた部屋へ。このとき、隣接する部屋には銃殺を行うラトヴィア兵らが待機していた。
通された部屋は30~35平方メートル(20畳位)、敷地は坂道と隣接しているため半地下になっている。ラスプーチンが暗殺されたあの部屋と様子がそっくりだった。






何もない部屋に通されて、脚の悪いアレクサンドラは椅子を頼んだ。ニクーリンは椅子を2つ運んで来た。
「皇太子のために椅子がいるってさ。きっと椅子に座って死にたいんだろう。まあしょうがない、持ってってやるさ」と小声で吐き捨てた。

皇太子と皇后が椅子にかけた。ユロフスキーは「モスクワに安否を問われているため」写真を撮るとうそぶいて、皆を整然と並べた。
並べ終えるとコマンドが呼ばれ、外でトラックのエンジンがふかされた。
ユロフスキーがポケットから小さな紙を取り出し、宣告する。
「あなたの親戚たちがソヴィエトロシアに攻撃を続行していることに鑑み、ウラル執行委員会はあなたがたの銃殺を決定した」


「何?何と言いました?」

ニコライはアレクセイの方を振り返り、それから気がついたようにユロフスキーの方へ顔を向け、こう言った。
「彼らを許し給え、その為すところを知らざればなり」
直後に銃撃が襲った、全員に。







ニコライのこの最後の言葉、これは以前モスクワで暗殺されたセルゲイ・アレクサンドロヴィチの墓に刻まれている。そしてセルゲイの妻であったエラはこの翌晩に、この言葉を唱えながら廃坑に落ち、数ヶ月後にペテロハヴァロフスク要塞の刑場に向かうドミトリー・コンスタンチノヴィチも銃殺前にこの言葉を唱えた。

20畳ほどの部屋に11人の執行人と11人の被害者。ひとしきり銃声が止んだ後、小さな電灯の下、硝煙ではっきり見えないなかで、少年を弾丸から守ろうとしてのばされた手(誰の?アレクセイの手が隣に横たわる父の上着を掴もうとしたとの証言もある)に、気が動転したニクーリン(アレクセイを銃殺する担当)は夢中で少年を撃ち続け、弾丸(7~10発)を撃ち尽くした。それでもなお床の上でうめき続ける少年に、ユロフスキーが耳に2発を撃ち込み静かにさせた。
このときまだ、コルセットの仕掛けを知らない同志たちはなかなか死なない皇女たちに神の恐れを感じながら必死に銃剣でとどめを刺した。



3.遺体の隠蔽
3時。
コプチャキ村方面へトラックが向かう。予め埋葬すると決めていた廃坑に向かうがぬかるみにはまり、トラックが動けなくなった。埋葬を手伝う労働者たちと合流し、馬車に積みかえ、めざす廃坑を探すがなかなか見つからない。労働者たちは略奪したくてうずうずしている。
太陽が昇ったころに廃坑が見つかり、空き地に死体を並べて服を脱がせ始めると皇女のコルセットからダイヤモンドのかけらがこぼれた。(のちのユロフスキーの手記によれば、3人の皇女タチアナ、アナスタシア、オリガのコルセットから、とのこと)
略奪に熱中する労働者らを銃殺で脅して従事させ、約16キロのダイヤモンドが回収された。これらの宝石はアラパエフスクに送られ、アラパエフスクで翌日に処刑される他のロマノフ達の宝飾品と合わせて、ある家の床下に埋められる予定であった。

遺体は深さ8メートル、底から2メートルが雨水で埋まっている廃坑に投げ込まれた。その後ユロフスキーの思いつきで手榴弾をいくつか投げ込んだ。ユロフスキーは一息ついて、ここであの卵を食べた。
町に報告に戻ると、町内ではすでに皇帝殺害が噂になっており、その埋葬場所も話題になっていた。労働者たちが漏らしたのだろう。死体を今一度別の場所に埋め直さねばならなくなった。
新たな深い廃坑を見つけた。そこに移すか、うまくいかなければ硫酸をかけて穴に埋めることにした。

7月17日20時、灯油、硫酸を調達、周囲の村を封鎖

7月18日0時30分(この頃にウラディミルたちは処刑された)、松明のもと死体を綱で引き上げた。近くに穴を掘って一部を埋めることにしたが、見つかる可能性が高いことがわかり、例の深い廃坑へ運ぶことに。
荷車が故障したためもう一度町へ車を調達しに行き、21時にようやく出発した。

7月19日4時30分、道でまたはまり込んだ。そこで、近くに埋めるか焼くかということに。
そこで、名前も知らない者に頼んで、アレクセイとアレクサンドラを焼くことにした。しかしユロフスキーの手記には、あわてていて皇后ではなく女官を焼いてしまったとあるが、実は女官でもなく皇女マリアだった)
焼いている間におよそ70メートルほど離れた別の場所に深さ1.8メートル、縦横2.5メートルの穴を掘り、硫酸をかけて埋め戻し、枕木を載せてトラックで往復してならした。
全て終わったのは19日朝7時。
ユロフスキーはエカテリンブルグに急いで戻り、館に残された遺品、文書などをまとめて、モスクワへ急ぎ向かわねばならなかった。白軍によるエカテリンブルグ陥落は間近だったのだ。
(しかし白軍があと数日早ければ、皇帝たちは助けられたのか)

7月19日、公式に皇帝銃殺が報じられた。その一方で、家族は皆安全な場所へ送られたと虚偽報告されている。もちろん、レーニンは全てを知っている。トロツキーは知らなかった。
アラパエフスクの皇室殺害も、処刑ではなく、白軍に収容施設を襲撃され逃亡したと報じられた。
あのセドネフは?
料理係の少年、時々アレクセイと遊んだセドネフは17日に彼の故郷に帰された。




殺害直後に略奪され尽くした皇帝皇后の部屋


白軍捜査官ソコロフ? 路上手前の枕木の下に埋められていたのに捜索されなかった

ユロフスキーの手記はおそらくそれほど事実から離れていないと思われる。彼が埋設の場所として示した位置で後年、遺体は発見されているし、埋設の状況も記されていた通りだった。それでも不可解なのは、別に焼いて埋めたのがなぜアレクセイとアレクサンドラ(実際はマリア)の2体なのかということだ。灰になるまで焼くのは非常に時間がかかるし、煙で見つかりやすいのでリスクが高い。そして11体中2体しか焼いていない。どうせ火をおこすならもう何体か一緒に焼いてしまえばとも思うし、逆にあと2体なら穴に一緒に入れてしまえばいい。
もっとも疑問に思うのは、なぜその2体に皇帝を入れなかったのか、ということだ。皇帝と皇太子、あるいは皇帝と皇后ならばわかるのだが。
また、遺体の衣服を剥がしてコルセットを調べたときの記述として、ユロフスキー は「皇女3人の」と書いている。名前も、「アナスタシア、タチアナ、オルガ」とある。銃殺のときの持ちこたえようを照らしてみれば(オルガのみ頭を撃たれて即死)、宝石の防弾チョッキは、マリアはもちろん、アレクセイも身につけていたと思われるし、何しろ母がそうさせないわけがない。ここにアレクセイとマリアの名前がないということは、衣服を剥がす前の段階で別にされていたのではないかということだ。しかし、近年見つかった2人の遺体発掘場所が他9人とさして離れていないことを考えると、やはりユロフスキーの手記の通りなのかとも思える。当初騒がれたように、若いアレクセイとアナスタシアは殺されないで逃亡させたという説を援護するかのような事実であり、数々の偽皇太子、偽皇女らが遺産相続を要求するのを封じ込めるため、この問題を早く終わらせたい政府が仕組んで、全く別の遺体を彼らのものだとして報告させたかとも考え得る。遺伝子鑑定の段階でも、遺伝子が偽物だと非難する人たちもいた。
もう一つの疑問は、18日の21時に出発してからぬかるみにはまって動けなくなる翌4時30分までの7時間半、かなり長い時間が経っているが何をしていたのだろう。
真意も事実もわからない。
なかなか信じることができない。
ロシアの痛いところだ。



4.祈り、そして生贄

「主よ、わたしたちに、忍耐をあたえよ
荒れ狂う、暗い日々の、この時期に、
民衆な迫害と、わたしたちの刑吏たちの、
拷問に耐えぬくために。
わたしたちに強さをあたえよ、正義の神よ、
隣人の悪行を許し、そして
重い、血塗られた十字架を、
あなたの柔和さで迎えるために。
そしてはげしい騒乱の日々に、
敵どもがわたしたちを略奪する時、
屈辱と侮蔑に堪えることを
救世主キリストよ、助けたまえ。
世界の主、宇宙の神よ、
祈りでわたしたちに祝福をあたえよ、
そして、恭順な心に安らぎをあたえよ、
堪えがたい恐ろしい時に。
そした、墓の入口で、
そなたのしもべたちの口に
吹き込んでほしい、人間を超えた力を
やさしく敵どものために祈るために。」

イパチェフの館に残されていたオリガの本の間に、清書されて挟まれていた詩である。
これは彼女の、そして彼女が敬愛し語り合った父の遺言でもあり、略奪しに館に来た者たちへのメッセージなのだろう。

「彼らを許し給え、その為すところを知らざればなり」

信仰心のまったくない、この言葉を知らないであろう赤軍の銃殺のメンバー、エルマコフがあの部屋で聞き、不思議に覚えていた皇帝の最後のことばである。エルマコフには言葉の意味も理解できず、ただ皇帝の発した最後の言葉として証言した。

この、すべてを受け容れ、許そうとする心ではロシアを治めるには優しすぎたかもしれない。
この心と両極の革命政府は、粛清、迫害、密告など、どんな些細なことも許さず、虐殺した。そしていま、そのソ連を転覆したロシア政府も?

今回主に情報を得たのはエドワード・ラジンスキーの『皇帝ニコライ処刑』であるが、その中に奇妙な客として登場する著者への情報提供者が、最後にこんな謎かけをする。

以下、本文から引用

「この顛末は全体が、ドストエフスキーとの論争のようなものですよ。
アリョーシャ(アレクセイの愛称)・カラマーゾフへの問いかけに始まってね。
『もし幸福な人類の家の再建のために、子供だけを苦しめることが必要なら、子供の涙のうえにその家の土台を築くことに同意しますか?』
ひとりのアリョーシャが問われた。そしてもうひとりの殺されたアリョーシャ(皇太子アレクセイ)の助けをかりて答えが出された。、、」
彼はしばらく黙っていた。
「だが、やはりこれだけは明白ですな。彼はわれわれのところに戻って来ますよ。私は皇帝のことを言ってるんですよ、、」

Alyosha Karamazov“
Illustration for F. Dostoevsky’s novel “The Brothers Karamazov” by Ilya Glazunov




『わたしの終りにわたしの始まりがある』
(皇帝と血縁のある、首を刎られたメアリー・スチュアートのことば)

生贄。
果たして彼、最後の皇帝はわかっていたのか?」

私にもこの謎かけがよくわからない。白状すると、ロシア文学はひとつも読んだことがない。

しかし、皇帝の死をもって捧げた犠牲がわれわれに語るものがある。それは時代の流れで避けられないものであったが、繰り返される歴史に対する覚悟を、彼らの死が、さらに彼らの写真を通して知る穏やかな彼らの眼差しが、その覚悟を静かにわれわれに示しているのを感じる。

それが、「彼らの終わりが、
私に、始まりを、もたらしている」
ということなのかもしれない。






もうひとつ、館に残されたメッセージを拾い上げた者がいた。アレクセイが友に宛てて書いた手紙は、その友の手に拾われたのだった。略奪されたあとのイパチェフ館に足を踏み入れた友人コーリャが見つけたもの。
以下、その手紙と、友コーリャの後年のインタビューである。


コーリャ(ニコライの愛称);
ニコライ・ヴラジーミロヴィチ・デレヴェンコはアレクセイの遊び相手として定期的に宮殿に招かれていた少数の友人のうちの1人。父ヴラジーミル・ニコラーエヴィチは外科医、宮廷侍医であり、1912年からアレクセイを治療。デレヴェンコ医師はイパチェフ館への出入りも許されていた唯一の人物。コーリャもイパチェフ館の近くの建物に住んでいたが面会は許されなかった





Alexei’s last letter to Kolya Derevenko
Ekaterinburg
Dear Kolya,
All of my sisters send greetings to you, your mother and
grandmother. I feel well myself. My head was aching
all day, but now the pain has gone completely. I
embrace you warmly. Greetings to the Botkins from all of
us.
Always yours
Alexei
The end.

エカテリンブルグにて
いとしいコーリャへ
姉たち皆が、きみと君のお母様、お祖母様によろしくと言っています。
ぼくは元気です。
ずっと頭が痛かったけど今はすっかり良くなりました。君を心から抱きしめよう。僕たち皆からボトキンさん達によろしく。
君とともに。
アレクセイより。
おしまい。





1990s interview with Kolya Derevenko

“I was a little boy, just 12 years old…I didn’t know anything about people’s evil…..We lived in Popov house, very close to Ipatiev house. In the middle of summer 1918, I was afraid, and I was preoccupied about Aleksei.I wanted to see him. And, I am sure, he wanted to see me. Until that sad 17th july 1918. My father, Gilliard, Gibbes and other…they knew everything, but I NOTHING….Something terrible was going to happen, but I didn’t know what….In the last week of july 1918, I , my father, Gilliard, Gibbes,etc. entered at Ipatiev house.Terrible scene….House was in completelly chaos. Diaries, letters, albums, and others items was all around in house. ‘But where is Leskela?’-I asked my father, but I he didn’t answe me. Leskela’s diary…was taken by one guard,I think his name was Nemetkin,I don’t know. But Leonid Sednev….I saw him. He cried. His cried so aloud, so aloud!!!!!
‘Papa, where is my Leskela?’-I cried.
‘They killed him’-he cried
‘Ho…how?’
'they killed tsar, tsarina, and GDs also.All are dead.“-said my father.
“I don’t understand’,'where…where are bones’
'We don’t know, maybe we’ll never discover them’
My world was destroyed.They destroyed Russia, no more illusions…I found Leskela’s last letter written to me.Especially one sentence in that letter-'I hug you warmly’-made me cry..I thought 'And I hug you warmly, too, my dear friend, and my tsar…’
I was in shock.In later years, I think just about him. 'Why did they killed you? In USSR wassn’t a little space for my Leskela……We'l be forever friends, my dear tsesarevich….I want to see you just ONE more time, and I can die in peace……”

ぼくはまだ12歳の、ほんの子供だった。人々の悪業について何も知らなかった。僕たちはイパチェフ館のすぐそばのポポフの家に住んでいた。
1918年の真夏、アレクセイのことが心配で、頭がいっぱいだった。彼に会いたかった。そしておそらく、彼も僕に会いたかったはずだ。1918年、あの悲劇の7月17日には、ぼくの父も、ジリャールも、ギッブスも他の人も皆知っていたのだ。だけどぼくは何も知らなかった!ぼくの知らない、恐ろしい何かが起こっていることを。1918年7月の最後の週のある日、ぼく、父、ジリャール、ギッブス、他にもいろいろな人がイパチェフ館に入った。館はまさにカオス、酷い有り様だった。日記、アルバム、手紙、他のものも家の中に散らばっていた。
「ねえ、で、レスケラ(逆さま読みアレクセイ)はどこなの?」
父は何も答えなかった。レスケラの日記は誰か警備兵が持ち去った。たしかネメキンとかいう、、知らない人。
レオニード・セドネフ(皇帝の従者)、彼に僕は会った。セドネフは泣いていた。大きな声で、ものすごく大きな声で。
「パパ、レスケラはどこ?」ぼくは泣いた。「彼は殺された。皇帝も皇后も、大公女たちもだ。皆殺されたんだ」父が泣いて言った。
「わからない。骨はどこ?どこなの?」
「知らない。おそらく見つけることはできないだろう」

ぼくの世界は壊れた。奴らがロシアを壊した、幻想ではなく。ぼくはレスケラの、ぼくへの最後の手紙を見つけた。特にその手紙の中の、"I hug you warmly"の一文に泣いた。

「そしてぼくも君を抱きしめよう、
ぼくのいとしい友、ぼくの皇帝」


僕はショックだった。のちに彼のことを考えて思った。なぜ彼は殺されたのか?ソ連にはぼくのレスケラのためのほんのわずかな場所すらもないのか?

「ぼくたちは永遠に友達だよね。
ぼくのいとしい皇太子。
ただ一度でいい、君に会いたい。そしたらぼくは平和に死んでいくことができる」



アレクセイは自分がいずれ殺されるか、もしくはそうでなくても病気で死ぬか、心の底に悲しい宿命を抱えていたはずだ。その不安をコーリャにも明かさず、孤独のなかで向き合っていたのだ。授かってしまった運命の前に自分を差し出す、犠牲。最期のときも、その前の日々も、怖かっただろうに。
もう引き継ぐ帝位もない皇太子。何も言わずに、静かに、コーリャに日々別れを告げていたのだろう。
泣かず、唯々諾々と、13歳の命が投げ出された。
それは「革命」の美名のもとに。


コーリャとアレクセイ




皇帝の死 カルペンコ作


イパチェフ館が取り壊されその上に建てられた地の上の教会



Ты не пой соловей/Romanovs. Цесаревич Алексей





写真などは感謝してお借りしました

2 コメント

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感動しました (静香)
2015-08-21 13:12:53
昔からニコライ2世一家関連の書籍や記事を読むことに大変興味があったのですが、ここまで詳しく綺麗な写真付きで説明して下さっているブログを拝見するのは初めてで本当に感動しました。

素晴らしい記事を、ありがとうございました。これからも、こちらのブログをこまめにチェックしたいと思います。もし機会があれば、4姉妹の皇女のことも詳しく知りたいです。
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静香さまへ (geradeaus170718)
2015-08-21 14:03:46
コメントを寄せていただき大変嬉しいです。
ありがとうございます。
ロシア皇帝周辺に関して興味をお持ちとのこと、
考えが同じで、嬉しいです!
今後は同時代の英国王家に話を移す予定なのですが、もしご興味がございましたらご高覧の上、不具合をご指摘いただければ幸いです。皇女のこともそのなかで触れようと思います。
長たらしい、読みにくい記事にお目通し下さって、ほんとうにありがとうございました。
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