名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロシア大公家系の末路/ニコラエヴィチ

2016-08-11 21:31:18 | 人物
『黒い家族』とささやかれ
ロマノフの皇族たちから疎まれた
ニコラエヴィチ家


アレクサンドル3世とロマノフの血縁者たち

ニコライ1世の男系子孫である4分家を、引き続き紹介します。
ニコライ1世の子女
❶アレクサンドル2世 1818〜1881
②マリア 1819〜1876
③オルガ 1822〜1892
④アレクサンドラ 1825〜1844
❺コンスタンチン 1827〜1892
❻ニコライ 1831〜1891
❽ミハイル 1832〜1909


ニコラエヴィチは帝政崩壊までに大公は3人。
革命時に存命中の2人は亡命して生き延びた。
処刑された者はいない。



〈第1世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1831〜1891





同じ名前と父名を持つ息子と区別する目的で、年長を意味するстарший(スタールシー)を付けて呼ばれることもある。
ニコライ1世の第6子、三男。

陸軍でキャリアを積む。兄の後ろ盾で高いポストに付けられていたが、軍を指揮する能力に乏しく、失敗が多かったため、露土戦争後には非難された。
軍隊生活を好む一方、身辺はだらしなく、女好き、狩猟好き、公金横領で信用を落としていった。

オルデンブルク公の娘アレクサンドラ・ペトロヴナと結婚し、新築したニコラエフスキー宮殿に住んだ。アレクサンドラとの間に二男が生まれる。

❶ニコライ 1856〜1929
❷ピョートル 1864〜1931

長子ニコライを抱くアレクサンドラ・ペトロヴナ


地味な容貌のアレクサンドラとは不仲になり、バレリーナのエカチェリーナ・チスロヴァを愛人にし、家族と同じ宮殿に住まわせた。
チスロヴァとの間に三男二女が生まれる。

①オリガ 1868〜1950
❷ウラジーミル 1873〜1942
③エカチェリーナ 1874〜1940
❹ニコライ 1875〜1902
❺ガリーナ 1877〜1878

たまりかねたアレクサンドラ妃は、義兄の皇帝アレクサンドル2世に夫の不貞を訴えたが、同じように愛人を抱えているアレクサンドル2世は、逆にアレクサンドラを「静養」というかたちの国外追放にした。しかし、アレクサンドラはキエフにとどまり、離婚要請には断じて応じなかった。
一方で、チスロヴァからは自分を正式な妃にするようしつこく迫られた。
ニコライは妻が先に死んで、チスロヴァと結婚することを願ったが、結局、妻がもっとも長く生きたため、叶わなかった。
軍事費の不正請求によって役職剥奪され、破産。
チスロヴァが急死してからは精神的に不安定になり、アレクサンドル3世の命令によりクリミアで監禁された。



〈第2世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1856〜1929





父と区別するために、若いという意味のмладший(ムラートシー)を付けることもある。
同時代の皇帝ニコライ・アレクサンドロヴィチと区別するときは、それぞれの愛称「ニッキー(ニコライ2世)」、「ニコラーシャ」あるいは「ニキ・ニキ」で呼ばれた。
父とは違い、陸軍では尊敬された。

ニコライは193センチの長身、騎兵大将として大音声の号令、一糸乱れぬ騎兵を操る様は、威厳あり、迫力あり、圧巻だったといわれている。
20センチ以上も小さい皇帝の横に立つと、皇帝が気の毒にも見えたようだ。
身分による分け隔てを一切しないニコライは、兵士の信頼も厚く、陸軍は彼の下によく統制されていた。

ニコライ2世とニコライ・ニコラエヴィチ大公

1905年のロシア第一革命で、ニコライ2世は、立憲君主政を受け入れるか、軍事独裁体制によって専制を守るかの二択を迫られ、親衛隊サンクトペテルブルク軍管区長であるニコライ(ニコラーシャ)に、軍事独裁にむけての連携を打診したが、ニコラーシャはピストルを自身に向け、皇帝に、立憲制を受け入れるよう懇願した。
皇帝は、ニコラーシャを頼らずして軍を動員することは叶わなかったため、仕方なく立憲制を受け入れ、革命は小康状態になった。
しかし、専制を望んでいたアレクサンドラ皇后は、このことによりニコラーシャをひどく憎むようになった。

ニコライは長く、平民女性や女優と不倫を続けていたが、弟の妃の妹と出会い、結婚を望む。
弟ピョートルの妃は、モンテネグロ王ニコラ1世の娘ミリツァ・ニコラエヴナ。その妹、アナスタシア(スタナ)・ニコラエヴナと出会ったのは、ロイヒテンブルク公との離婚直後だった。離婚歴ある相手と結婚する場合、死別による離婚以外の再婚は皇族には認められていなかったが、皇帝はこの結婚を許可した。
子供は生まれていない。

第一次世界大戦開戦。
ニコライは帝国軍最高司令官。ロシア軍は多大な犠牲者を出しながらも、当初は緊迫感がなかった。1915年、戦況悪化に乗じて、ニコライの力を削ぎたいアレクサンドラ皇后とラスプーチンは、最高司令官を解任し、カフカス方面軍に送る。
その後は皇帝が最高司令官を兼ねて本営に詰めることになるが、それは内政を皇后に委ねる結果となり、帝国は内部からも壊れていくことになった。皇帝は、二月革命で退位させられると、後任の最高司令官をニコライに任命したが、本営に到着したニコライは臨時政府によって即座に解任された。

ニコライは他のロマノフの親族達と同様、クリミアに避難。最終的に、皇太后はじめアレクサンドロヴィチの家族らとともにイギリスの軍艦で国外脱出した。

ニコライの義弟にあたるイタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世の招きでニコラエヴィチ家はイタリアに身を寄せ、その後パリへ移る。

1922年に、白軍が開催したゼムスキー・ソボル(全国会議)において、ニコライを皇帝に据えての帝政復活を企てた。ニコライは、皇位継承順位は低いにもかかわらず、亡命ロシア人、特に元軍関係者から尊敬を集めており、もっとも皇帝に相応しいとみなされた。他方、皇位継承順位筆頭のキリル・ウラジミロヴィチは人気がなかった。
過去に、ロマノフを皇帝に選んだ、権威あるゼムスキー・ソボルによって選ばれたことは重く受け止められるべきではあったが、ニコライは、皇太后への配慮と、離婚歴のある女性と結婚したことを理由に、自分より弟が選出されるにふさわしいとして辞退した。もっとも、弟は兄を皇帝に推していた。




ピョートル・ニコラエヴィチ
1864〜1931





兄ニコライより9歳下。ロマノフ家の慣いとして軍人になったが、病弱で、軍務には性格的にもあまり向いていなかった。芸術、特に建築に優れていた。物静かで似た性格の、ドミトリ・コンスタンチノヴィチとは親しかった。ただし、切れ者で正反対の性格の兄の、影のような存在ではあったが、生涯にわたって親しかった。

ピョートルは軍では兄ニコライの参謀であった。
妃同士が姉妹でもあるため、亡命先でも兄弟で行動を共にした。

モンテネグロ王女ミリツァ・ニコラエヴィチと結婚。一男三女が生まれる。

ミリツァ(右)とアナスタシア


〈第3世代〉
この代では、遡ってニコライ1世は曽祖父となるため、大公ではなく公(プリンス)である。

ピョートルの子女。

①マリナ 1892〜1931
❷ロマン 1896〜1978
③ナジェジダ 1898〜1988
④ソフィア 1898(ナジェジダと双子)


マリナとロマン

ミリツァの3人の子供達

ロマン・ペトロヴィチ

ロマン・ペトロヴィチ 再建されたイタリア傀儡国家のモンテネグロ王国の王位に就くよう要請されたが辞退した
母はモンテネグロ王女、母方の叔母が元イタリア王妃という縁による




『黒い家族』と呼ばれて


ピョートル、妃のミリツァ、その妹アナスタシアの3人を指して『黒い家族』とささやかれていたのはなぜか。
黒い家族、あるいは、邪悪な権力の中心とまで言われたのには、皇后アレクサンドラとの関係においてだった。

アレクサンドラ皇后が結婚してロシアにやってきた時、そもそもが内向的な性格の上、ロシア語が苦手、華やかすぎる宮廷や皇太后とそりが合わず、たちまち孤立。そんな皇后に優しかったのが、同じように外国から嫁いで来ていたミリツァだった。
モンテネグロ王家出身ではあるが、ロシアと比べるなら辺境の小国にすぎない。モンテネグロのネグロとは黒を意味するのと、ミリツァやアナスタシアは黒髪に黒い瞳であったので、それにも因んで黒いイメージが植えつけられていた。
色だけでなく、暗いイメージと結びつけられたのは、彼女達の神秘主義傾向やオカルト趣味に起因した。ただし、この時代、そうした傾向は、ロシアだけでなくヨーロッパの王家ではめずらしいものではなかった。おそらく非難されたのは、皇后を神秘主義に巻き込み、最終的にラスプーチンをもたらしたという点においてだった。
しかし、これについても、皇后は結婚前からそういう性向を持っていたためだと言われている。
黒い家族と言われた彼女達にどんな思惑があったかはわからないが、周囲の宮廷人たちから見て、彼女達が、皇后に取り入ろうとしているかのように感じられて、半分は嫉妬からあだ名されたと考えてよいだろう。
アレクサンドラは、自分の抱えるさまざまな問題を克服しようとして、神以外にもさまざまなものにすがった。特に、男子がなかなか生まれず、ノイローゼ状態。想像妊娠するほどだった。
ミリツァがフランスから連れてきたフィリップ・バショによって祈祷を受け、妊娠したが、生まれたのはアナスタシア皇女だった。
再び、さまざまな呪詛に頼り、待望の皇太子が生まれてからは、その血友病の不安に苦しみ、ラスプーチンが連れてこられた。
相互依存関係にお互い満足したラスプーチンもアレクサンドラも、次第にミリツァたちを遠ざけるようになった。さらに、妹アナスタシアがニコライ・ニコラエヴィチと結婚したことについては、皇后は良しとせず、皇后自らミリツァらを黒い家族と呼んで、以降、疎遠になった。
皇后は、威厳と風格があって、皆に慕われているニコライ・ニコラエヴィチ大公の存在を、皇帝の威信を脅かす者として、常々不愉快に思っていた。ラスプーチンは、皇后に媚びるため、ニコライの失脚を狙っていた。


ミリツァとアナスタシアの長姉ゾルカ(兄弟姉妹は三男九女)はセルビア王ペータル1世との間に五子を産み、産褥死した。生き残った二男一女のうちの一女、イェレナを、ミリツァとアナスタシアで引き取って育てた。
イェレナは、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの長男イオアン公とのちに結婚した。因みに、同じ時期にイオアンの妹タチアナ・コンスタンチノヴナも結婚したが、貴賎結婚になるかどうか波紋を呼んだ一方で、イオアンの相手はセルビア王の娘であり、十分な相手だった。
なお、ミリツァとピョートルの娘ナジェジダは、コンスタンチノヴィチのオレグと婚約していたのだが、オレグは第一次世界大戦で戦死した。

イェレナ・ペトロヴナとイオアン・コンスタンチノヴィチ



ニコラエヴィチ家はそもそもが少なく、革命で処刑された者もいない。もちろんチェカは逮捕の機会を狙っていたが、イギリスへ亡命する機会を得られたことが命を救った。
亡命先では特に政治的に動くこともなく、静かに生活をしていたが、キリルとその息子ウラディミルの皇位継承は承認しなかった。
ピョートルの一人息子ロマンを介して、現代にロマノフの子孫を残している。

ロシア大公家系の末路/コンスタンチノヴィチ家

2016-08-02 22:25:30 | 人物
そのほとんどが革命で殺された
コンスタンチノヴィチ家の不幸
芸術を愛した高貴な家系
付記;タチアナ・コンスタンチノヴナ



ニコライ1世と4人の息子達



ここでもう一度、ニコライ1世の子女を記すと、

❶アレクサンドル2世
②マリア
③オリガ
④アレクサンドラ
❺コンスタンチン
❻ニコライ
❼ミハイル

今回は第五子二男のコンスタンチン・ニコラエヴィチ(1827〜1892)とその子孫の大公、今回は公についても書く。

アレクサンドロヴィチ家は3代続けて皇帝を輩出したので大公は多かったが、1886年の帝室家内法によってコンスタンチノヴィチ家、ニコラエヴィチ家、ミハイロヴィチ家は第三世代以降の子孫は大公にはなれなくなった。発令当時には既に生まれていたコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ家の長男イオアンは、例外なく自動的に大公の位を失い、公になってしまった。
そのため、コンスタンチノヴィチ家は大公は5名までで終わり、次世代の公(愛人や貴賎結婚を除く、ロマノフの正式な公)は5名。革命が起こり、当時存命していた6名のうち4名が処刑された。
アレクサンドロヴィチ家でも、パーリイ公を含めて4名が処刑されたわけだが、かなりの人数が助かっていたことを考えると皮肉である。
尚、今回は人数が少ないので、コンスタンチノヴィチ家の美しい娘タチアナについて、付記したい。ロマノフ家のなかで、最も美しいと思う公女である。

コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の娘 タチアナ公女




〈第Ⅰ世代〉
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
1827〜1892











海軍軍人、のちに兄皇帝の時代になってから海軍元帥に。知性的で人望厚かった叔母エレナ(叔父ミハイル・パヴロヴィチ妃)の薫陶を受け、芸術の才能に恵まれた。ピアノと、特にチェロには優れていた。スマートではないが知的であった。
政治的には改革を兄アレクサンドル2世とともに進めようとし、農奴解放に尽くす。しかし、改革は機が熟さぬまま進められたため、1864年、ポーランドで一月蜂起が起きた。この一件から、兄皇帝は保守に戻り、弾圧を強めていった。
さらに、兄が亡くなり、アレクサンドル3世が即位すると、鬱陶しいと思われていた叔父達は重職を解任された。新皇帝アレクサンドルは強度に保守的でもあり、リベラルは叔父とは合わなかった。アレクサンドルにとって、父を始め、愛人を平気で作り家庭をないがしろにする叔父達は、軽蔑すべき存在でもあった。
コンスタンチン・ニコラエヴィチも、愛人問題で家庭間に亀裂を入れた。それはすぐに、息子の愛人問題となってしっぺ返しがくる。

妻はザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフの娘アレクサンドラ・イオシフォヴナ。コンスタンチンの姉オリガ(ヴュルテンベルク王妃)の結婚式で初対面だったらしい。明るく、上品で、誰からも好感を持たれるエレガントな彼女は、音楽にも優れており、コンスタンチンとも趣味が合った。


アレクサンドラに生まれた子女は以下。

❶ニコライ 1850〜1918
②オリガ 1851〜1926
③ヴェラ 1854〜1912
❹コンスタンチン 1858〜1915
❺ドミトリー 1860〜1919
❻ヴャチェスラフ 1862〜1879


アレクサンドラと子供達(ヴャチェスラフの生まれる前)


60年代後半あたりから、アンナ・クズネツォーヴァというバレリーナを愛人にし、愛人と愛人の子の二男三女を家族と同じ宮殿に住まわせた。


父のこうした振る舞いで、子供達にどういう影響がでるのか。
宮殿内で、アレクサンドラ妃が先代皇帝に贈られた高価なイコンの装飾の宝石が盗まれた。それは、長男ニコライが愛人にそそのかされて盗んだのだった。息子は称号はそのままに、僻地に軟禁、階級剥奪。
母は、息子と夫の背信に苦しみ、神秘主義にのめり込んでいった。さらに追い討ちをかけるように、末子ヴャチェスラフが早逝。
引退後のコンスタンチンは脳卒中で不自由な身体となり、晩年、世話をしたのはアレクサンドラ妃だった。

アレクサンドラ・イオシフォヴナ、娘オルガ・コンスタンチノヴナ(ギリシャ王ゲオルギー1世妃)、孫娘アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ(写真立ての中、生前パーヴェル大公妃)、曾孫娘マリア・パヴロヴナ(デンマーク王子ヴィルヘルム妃)、曾曾孫レンナルト王子



〈第二世代〉
大公はこの世代まで。

ニコライ・.コンスタンチノヴィチ
1850〜1918





父とニコライ

陸軍軍人。陸軍学校では優秀な生徒だった。
しかし、アメリカ女性で高級娼婦?のファニー・リアと関係し、欧州旅行を共にしていた。
その後、ファニーにそそのかされて母のイコンの宝石を盗み、《狂人》とみなされ、国内追放、軟禁される。ファニーは国外追放された。
次には、愛人アレクサンドラ・アバサとの間に一男一女、その後、ナデージュダ・アレクサンドロヴナと貴賎結婚で二男、ダーリヤ・エリセーエヴナ重婚?で二男一女、さらに愛人ヴァレーリヤ・フメリニツカヤと関係。のちに、アレクサンドル3世によって、ナデージュダの二人の子には貴族の位と公の称号が与えられたが、トゥルケスタンに配流された。
軍人としては活躍していたニコライ。トゥルケスタンにおいては、灌漑、運河、工場、美術館など、私財を使って繁栄させた。
愛人の問題さえ除けば、有能だったようだ。
思想は、ロマノフ家でありながら革命に傾倒した。
没年は1918年、1月に肺炎で亡くなっている。ボリシェビキがロマノフ達の処刑に動き出す以前に亡くなったのは幸いだった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ
1858〜1915





コンスタンチン・ニコラエヴィチの二男。
父の愛人問題、8つ上の兄の廃嫡、若いときにそれらを見てきたコンスタンチンは、ロマノフ家に対しての責任を自らに課そうとした。
皇族の一員として海軍に、のちに陸軍に従軍したが、軍人としては有能ではなかった。
むしろ教養高く、優雅で穏やかで、信仰心も厚く、優れた芸術家として皇族の尊敬を集めていた。
К.Р(K.R)のペンネームでの詩作、戯曲、翻訳、演劇、ピアノ、作曲など。ロマノフ家の美貌の傑作ともいえる容姿から奏でられる芸術は、ロマノフ家の最後の栄華を見るようだったろう。

コンスタンチンは、ザクセン=アルテンブルク公女エリザベータ・マヴリキエヴナと結婚。妃は正教に改宗せず、終生、ルター派で通したが、皇位継承順位は低いゆえにそれほど問題にされなかった。エリザベータには芸術的な素養はなかったものの、コンスタンチンとはよい関係だった。
コンスタンチンは日記の中で、自分の同性愛傾向を告白していたが、それは公にはされていなかった。彼のロマノフ家への責任意識により、愛人を作らずよい家庭を作り(もっとも男色なので愛人には手を出さないと思うが)、多くの子女を残した。先述の通り、子の世代は大公ではない。


❶イオアン 1886〜1918
❷ガヴリール 1887〜1955
③タチアナ 1890〜1970
❹コンスタンチン 1890〜1918
❺オレーグ 1892〜1914
❻イーゴリ 1894〜1918
❼ゲオルギー 1903〜1938
⑧ナターリア 1905
⑨ヴェラ 1906〜2001


イーゴリとゲオルギーの間がやや離れている。タチアナの待望の妹はひと月で亡くなり彼女はひどく悲しんだが、小さな妹ヴェラが翌年に誕生した。
兄弟達は皆、長身だが体が弱かった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの子供達全員

家族全員

1892年に父が亡くなった後、兄が廃嫡されていたため、コンスタンチンがコンスタンチノヴィチ家の家長となった。晩年に向かって悲劇は始まりつつあった。第一次大戦が始まると、息子達は従軍していったが、娘婿ムフランスキイと最愛の息子オレーグが戦死した。当時、コンスタンチン自身も長く病の床にあり、悲しみにくれながら1915年に亡くなった。コンスタンチンの葬儀は、革命前のロマノフ皇族最後の葬儀だった。
妻のエリザベータはその後のさらに過酷な運命を生きねばならなかった。病弱なガヴリールだけは釈放されたが、未成年のゲオルギーを除き、他の3人の息子は逮捕され、廃坑で処刑された。
まだ幼いゲオルギーとヴェラを連れて、スウェーデン王太子グスタフ・アドルフやベルギー王アルベール1世の庇護を受け、最後は自分の故郷アルテンブルクに落ち着いた。

亡命中のエリザベータ、タチアナ、ゲオルギー、ヴェラ、タチアナの子



ドミトリ・コンスタンチノヴィチ1860〜1919






コンスタンチン・ニコラエヴィチの三男。
兄コンスタンチン同様、責任感が強く、穏やかだった。音楽にも秀でていた。ピアノが上手だった。
海軍からのちに陸軍に移る。
軍人としても有能であった。配下の軍人達の信望厚く、慕われていた。
思想はリベラルだったが、節度ある人格で、政治に口出ししなかった。皇族の内で、誰からも最も親しまれる大公だった。
結婚せず、子供はいない。そのため、兄コンスタンチンの家のたくさんの子供達をかわいがった。
馬が趣味だった。
しかし視力をほとんど失っており、寡婦となっていたコンスタンチンの娘、タチアナが世話をしていた。

革命後は姪の世話を受けながら暮らしていたが、やがて逮捕され、1918年春からは国内流刑。
1919年1月、ペトログラードに戻され、共に監禁されていたニコライ・ミハイロヴィチ、ゲオルギ・ミハイロヴィチ、別で送られてきた病臥のパーヴェル・アレクサンドロヴィチとともに処刑された。


ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ
1862〜1879





後方に立っているヴャチェスラフ、左ドミトリ、中央コンスタンチン、母

コンスタンチン・ニコラエヴィチの四男。
16歳で脳出血で死去。





付記
タチアナ・コンスタンチノヴナ
1890〜1970

父のプロデュースする劇では家族や親族が演じる
タチアナは妖精のスタイル


コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の第三子長女。男子の多い兄弟の中で、16歳年下の妹ができるまでの長い間、一人娘だった。
父の才能を継いで、ピアノが上手だった。














タチアナが宮廷にデビューしたのは14歳のとき。
1904年秋の、アレクセイ皇太子の洗礼式のときであった。
写真のようなコートドレスに白い手袋。
年齢の近い皇族では、ドミトリー・パヴロヴィチやアンドレイ・ヴラディミロヴィチがいる。





21歳のタチアナが結婚相手に選んだのは、2歳上のコンスタンチン・バグラティオニ=ムフランスキイ公。
グルジア王家バグラティオニ家の末裔ではあるが、王族とは見なせず、貴賎結婚にあたる。当然、両親の反対にあったが、タチアナは諦められなかった。ところが、皇帝(ニコライ2世)は、結婚相手はグルジアの王族であると、あっさり承認。貴賎結婚ではない、とお墨付きをもらえた。正教徒であるという点では問題なかった。
これは、キリル大公の貴賎結婚問題と比較するなら、特例とも考えられるような皇帝の判断だった。問題が、皇位継承順位が比較的高い大公の場合と、皇位とはほぼ無関係の公女の場合とで、判断を変えている可能性もあるが、革命後のキリル大公の皇位請求の正統性に大きく影響する前例になり得る。
ともかく、タチアナの結婚は祝福され、皇帝も翌年1911年の結婚式に参列した。しかし、二人の幸せのピリオドは、あっという間に打たれてしまう。





1914年、第一次大戦。
この年、弟オレーグが戦死。
その翌年、ムフランスキイ公が戦死。
タチアナたちは、1912年に長男と1914年に長女が誕生しており、幸せな家庭が築かれ始めた矢先の不幸となった。そして同じ年、父が亡くなる。
タチアナは幼子二人を連れて、叔父ドミトリの住むストレーリナのコンスタンチン宮殿に身を寄せ、目の悪い叔父「第二の父」の世話もしていた。
革命後、ロマノフの大公たちは軟禁され、逮捕され、投獄されるようになったが、タチアナはドミトリ叔父が投獄されるまでずっと、幼子二人とともに連れ添った。母や弟妹は、スウェーデン王室の招きで国外避難していたが、タチアナは叔父のために同行しなかった。
ドミトリ叔父は収監される前に、タチアナ家族を国外脱出させるよう、それまで自分に側近く仕えてくれた直属士官アレクサンドル・コロチェンツォフに同行を頼んだ。
ルーマニアを経由してスイスに落ち着いたのは1921年。その地で、タチアナはコロチェンツォフと結婚。タチアナより13歳年上である。
ところが、結婚の数カ月後に、コロチェンツォフは急病で亡くなってしまった。

タチアナの子供達 ティムラスとナタリア

タチアナ(中央)と子供達

子供達が独立した後、1946年にタチアナはスイスで修道尼となった。
その後、イスラエルのエルサレムの修道院に移り、その地で亡くなり、埋葬された。
尼としての名はタマラ。最初の夫の故郷グルジアのバグラティオニ王家の12世紀の女王の名をいただいている。
タチアナは1979年まで生きた。
革命後の流転の生涯を、シングルマザーとして生きねばならなかった。
亡命先で、比較的優雅に過ごせた元皇族は多い一方、その元の位に頼って他者にぶら下がることもなく、タチアナはつらい運命を、孤高に、立派に生きた。




壁面にはアレクセイ・ニコラエヴィチ、マリア・フョードロヴナ?、ニコライ2世?
おそらくロマノフの肖像画が飾られているようだ


タチアナの生涯についてはこちらに詳しいです

The destiny of the princess of the blood royal/Igor Obolensky



タチアナの息子ティムラス1912〜1992は、ニューヨークでトルストイの娘が設立したトルストイ・ファウンデーションに従事した。それ以前は、ユーゴスラビアで従軍していた。
2度の結婚でいずれも子供はいない。
タチアナの結婚に際して、その子孫の皇位継承権放棄にタチアナが署名している。
上は、トルストイ・ファウンデーションHPでの紹介ページ。




タチアナの娘ナタリア1914〜1984はイギリス貴族と結婚した

ロシア大公家系の末路/アレクサンドロヴィチ家

2016-07-27 18:57:21 | 人物
アレクサンドル2世からニコライ2世へ
アレクサンドロヴィチ家系の4代17名の大公


アレクサンドル2世治世当時の大公たち

前記事にて取り上げたニコライ1世の子女は以下の大公4名である。

❶アレクサンドル2世 1818-1881
②マリア 1819-1876
③オルガ 1822-1892
④アレクサンドラ 1825-1844
❺コンスタンチン 1827-1892
❻ニコライ 1831-1891
❼ミハイル 1832-1909

今回からは、この4名の大公の分家ごとに、ロシア革命でのロマノフ王朝消滅までの大公について、今回は長男アレクサンドルに連なるアレクサンドロヴィチ家系を書く。

このアレクサンドロヴィチ家系から、帝政の最後まで三代(ミハイルを数えると四代)の皇帝が輩出された。



《アレクサンドロヴィチ家系》

第Ⅰ世代
アレクサンドル・ニコラエヴィチ

第Ⅱ世代
ニコライ・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
ボリス・アレクサンドロヴィチ


第Ⅲ世代
ニコライ・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
ミハイル・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・ウラジミロヴィチ
キリル・ウラジミロヴィチ
ボリス・ウラジミロヴィチ
アンドレイ・ウラジミロヴィチ
アレクセイ・アレクシエーヴィチ
ドミトリー・パヴロヴィチ
ウラジーミル・パヴロヴィチ

第Ⅳ世代
アレクセイ・ニコラエヴィチ
ゲオルギー・ミハイロヴィチ

⬆︎グレーは貴賎結婚などにより大公の称号を与えられなかった皇族




〜第Ⅰ世代〜
アレクサンドル2世
1818〜1881



ニコライ1世の第一子長男として生まれたアレクサンドルは、父が1925年に即位して以来、次期皇帝として帝王教育を授けられ、様々な分野の学問やドイツ語、フランス語、英語、ポーランド語などを習得した。





1841年、ヘッセン大公家マリーと結婚。
1855年、アレクサンドル2世として即位。前皇帝のときから窮状にあったクリミア戦争は敗北。前近代的なロシアを上からの改革によって西欧化し、改造をすすめる一方、専制君主制は強化した。
改革として、農奴解放令、司法権の行政権からの独立、無償の基礎教育、女子教育、全身分の男子からの徴兵があり、工業の発展には効果があったが、反面、農業は後退した。
ポーランド、ウクライナ、ベラルーシでの民族運動を弾圧し、多くをシベリア流刑に送った。
また、庶民は教育を受けたことで啓蒙に目覚め、それが抵抗運動、やがて革命を導くことにもなった。暗い革命の胎動とともにアレクサンドル自身も暗殺される。

アレクサンドルには皇后マリア・アレクサンドロヴナとの間に6男2女。1880年、長く患っていた皇后の死後すぐに、29歳年下の愛妾エカテリーナ・ドルゴルーコヴァと結婚。既に、皇帝の子である2男2女がいた。


①アレクサンドラ 1842〜1849
❷ニコライ 1843〜1865
❸アレクサンドル3世 1845〜1894
❹ウラジーミル 1847〜1909
❺アレクセイ 1850〜1908
⑥マリア 1853〜1920
❼セルゲイ 1857〜1905
❽パーヴェル 1860〜1919

❶ゲオルギー 1872〜1913
②オリガ 1873〜1925
❸ボリス 1876
④エカテリーナ 1878〜1959


第一子アレクサンドラと末子エカテリーナとの歳の差は36。エカテリーナはアレクサンドルが60歳のときに生まれている。この時点までに孫は外孫も入れると12名が生まれていた。
当然、ドルゴルーコヴァとの結婚は皇族から苦々しく思われ、私生児たちの皇位継承権獲得を阻む動きもあり、結局、継承権も大公の称号も愛妾の子には与えられず、愛妾も皇后にはなれなかった。ドルゴルーコヴァが皇帝を「サーシャ」と愛称で呼び、皇帝もまるで10代の青年のようだったというから、家族はそうとう見るに耐えなかっただろう。
皇帝崩御後、即位したアレクサンドル3世によってドルゴルーコヴァと子供達は、持参金をあてがわれて、宮殿どころかロシアからも出された。


マリア・アレクサンドロヴナの子供達
夭折したアレクサンドラと末子パーヴェルを除く


ドルゴルーコヴァ(ユーリエフスカヤ公女)と子供達 夭折したボリスと末子エカテリーナを除く)

アレクサンドル2世、皇后マリア、ウラジーミル、アレクセイ、アレクサンドル皇太子、マリア皇太子妃、マリア、パーヴェル、セルゲイ


〜第Ⅱ世代〜
6名の大公がいる。


ニコライ・アレクサンドロヴィチ
1843〜1865





1855年、父の即位により11歳でツェサレーヴィチ(皇太子 Цесаревич)になる。
父母は特別に心を注いでニコライを育てた。デンマーク王女ダウマーと婚約後、南仏旅行中に髄膜炎になったが、誤診により病状を軽く見て旅を継続して悪化、途上で急死した。ダウマーと弟アレクサンドルとの結婚を望むと遺言した。


アレクサンドル3世
1845〜1894





軍人としての経歴を積んでいこうとしていたところで、兄の急死によりツェサレーヴィチとなった。内気で社交性に欠けるところは妃が補った。
父アレクサンドル2世暗殺により即位したあとは、内政を厳しくし、容赦ない弾圧も行った。
ストレスによる過度の飲酒喫煙で腎臓を悪くして病没。


ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
1847〜1909

左 アレクサンドル 右 ウラジーミル



メクレンベルク=シュベリーンから迎えたマリーを妃に迎えたが、マリーは結婚に際して正教への改宗を拒否したため、生まれた子供に皇位継承権はなかった。のちに、甥ニコライ2世の子に病弱な男子1人しかいなかったことと、ミハイルが貴賎結婚で皇位継承権を剥奪されたことにより、我が子に皇位継承の可能性が見えてきたため、晩年になってから正教へ改宗した。
ニコライ2世妃アレクサンドラに対抗するかのごとく、ロマノフ家の社交界を我が物としていた。


ウラジーミルと妹マリア
ウラジーミルの息子キリルとマリア(ザクソン=コーブルク=ゴータ公アルフレート妃)の娘ヴィクトリア・メリタ(再婚)が結婚してできた子孫が現在まで代々、皇帝を自称し続けているが、正統性に問題がある



アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
1850〜1908





左上から アレクサンドル3世 セルゲイ マリア皇后 アレクセイ エリザベータ
左下から ニコライ ゲオルギー パーヴェル


海軍で経歴を積む。
兄の即位後、叔父コンスタンチン・ニコラエヴィチに代わって海軍最高責任者となる。その後、日本海海戦での敗北の責任を取らされ、解任された。
詩人の娘で年上の平民女性との貴賎結婚(正式に確認されていない)により、皇位継承権を失う。
アレクセイの息子アレクセイ・アレクシエーヴィチ(1871〜1931)は皇帝の孫だが、貴賎結婚のため大公の称号は授けられない。
兄ウラジーミル同様、外遊が派手で評判が悪かったが、アレクセイは甥ニコライには慕われていた。


セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
1857〜1905






姉マリアを挟んで、上の兄たちとは7〜14歳離れている。3歳下の弟パーヴェルとはとても親しく過ごした。
語学、芸術に精通し、信仰心も篤かった。
非常に厳格な人格であり、モスクワ総督を務めた間も、市民活動に対し厳しく弾圧を加えた。
1905年、爆弾テロにより暗殺された。
エリザベータ妃との間に子はなかった。
同性愛者だったと言われているが確証はないもよう。


パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
1860〜1919



母マリア・アレクサンドロヴナは肺を患い、療養先には下の2人の息子を連れて行くことが多かった
母の実家のヘッセン大公家で、遠戚のエリザベータと面識があり、のちに兄セルゲイが結婚した




アレクサンドル2世とマリア・アレクサンドロヴナとの末子。騎兵隊長。
ギリシャ王女アレクサンドラ・ゲオルギエヴナと結婚したが、アレクサンドラは2人目を妊娠中に川で事故に遭い、早産して他界。兄セルゲイの宮殿に滞在中のことであった。未熟児はセルゲイによって育てられた。
一方、パーヴェルは平民の既婚女性の離婚を待って結婚を希望したが、この貴賎結婚が波紋を呼び、ニコライ2世は叔父パーヴェルに様々な権利放棄と国外追放を迫った。パーヴェルは新しく生まれた幼児を連れて、新家族でパリに暮らす。アレクサンドラの遺児マリアとドミトリはセルゲイが養父となった。
第一次大戦開戦時に帰国と権利を認められ、再び従軍。
温厚なジェントルマンであるパーヴェルは、他のロマノフ皇族のように皇后アレクサンドラに冷たく当たる事なく、最後まで親和的な態度だった。
しかしパーヴェルの息子ドミトリ大公によって皇后が心酔するラスプーチンが殺害されたことは、ささやかな亀裂を生じさせただろうか。
革命が迫ると、皇帝に議会に対し譲歩するよう説いたが受け容れられなかった。
革命後は、病の床についていたパーヴェルは当初は自宅療養を許されていたが、1919年1月28日、既に捕らえられて監獄から連れてこられた他のロマノフ皇族3人とともにペトロハバロフスク要塞で銃殺された。重病であったパーヴェルは、厳寒の中、担架で運ばれてきてそのまま撃たれた。
パーヴェルには再婚相手とのあいだに1男2女があったが、貴賎結婚のため、子供は大公ではなかった。
その長男ウラジーミル・パヴロヴィチ・パーリイ公(1897〜1918)は、すでに前年7月に、他の皇族とともに処刑されていた。

21歳で処刑されたウラジーミル・パヴロヴィチ・パーレイ公(別記事あり)


〜第Ⅲ世代〜
9名の大公がいる。

アレクサンドル3世の子女《アレクサンドロヴィチ》は以下。

❶ニコライ2世 1868〜1918
❷アレクサンドル 1869〜1870
❸ゲオルギー 1871〜1899
④クセニア 1875〜1960
❺ミハイル 1878〜1918
⑥オリガ 1882〜1960

ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ《ウラディミロヴィチ》の子女は以下。

❶アレクサンドル 1875〜1877
❷キリル 1876〜1938
❸ボリス 1877〜1943
❹アンドレイ 1879〜1956
⑤エレナ 1882〜1957

パーヴェル・アレクサンドロヴィチ《パヴロヴィチ》の子女は以下。

①マリア 1890〜1958
❷ドミトリ 1891〜1941


《アレクサンドロヴィチ》

《ウラディミロヴィチ》

《パヴロヴィチ》ロシアに残ることを許された子供達

大公の称号を剥奪され国外追放となっているため、この時点では大公ではないが、参考のため↓
《パヴロヴィチ》パーヴェルの新家族
後妻の連れ子3人(後方)と、パーヴェル、妻、妻の母、娘イリナ、息子ウラジーミル
大公はパーヴェルのみ



《アレクサンドロヴィチ家》

ニコライ2世
1868〜1918





皇太子アレクサンドルの第一子として生まれ、13歳からツェサレーヴィチとなる。ニコライの名は、亡くなった伯父から取ったと言われる。
アレクサンドル2世によって近代化と改革へ針路を切ったロシアは、ニコライの時代には民の衝動に火が着き、暴走。大戦時の厭戦の空気が暴走を加速させ、皇帝は権威を取り上げられ、やがて家族諸共に処刑された。(別記事あり)


アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1869〜1870 夭折

ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
1871〜1899





兄ニコライと共に育てられた。性格は対照的で、兄より活発でユーモアがあり魅力があった。
海軍に入隊する直前に結核にかかり、以後、カフカスの地で1人、療養していた。
自転車で1人で外出中にひどい喀血をし、皇太子とは知らない通りがかりの農婦の介抱を受けながら亡くなった。ゲオルギーは母マリア・フョードロヴナのお気に入りだった。


ミハイル・アレクサンドロヴィチ
1878〜1918





別記事あり

兄達とは歳が離れているため、妹オリガと過ごすことが多かった。大らかで権力に欲が無く、リベラルであった。
当初、従妹のベアトリス(マリア・パヴロヴナの娘でヴィクトリア・メリタの妹)との結婚を望んだが、正教の規定に違反する従妹どうしの結婚をニコライ2世は許可しなかった。すると次は、妹オリガの女官の平民との結婚を希望するが、許される訳はなく、その次はとうとう平民の、離婚歴まである女性と極秘結婚をした。
革命時、ミハイルは臨時政府との調整に叔父パーヴェルと共に尽力したにもかかわらず、帝政を守ることはできなかった上、ロマノフ家のなかで一番最初にただ1人で処刑された。


《ウラディミロヴィチ家》

アレクサンドル・ウラディミロヴィチ
1875〜1877 夭折

キリル・ウラディミロヴィチ
1876〜1938





海軍で経歴を積む。
キリルの結婚には様々な問題があった。相手は従妹で幼なじみだったヴィクトリア・メリタであるが、まず、ロシア正教ではいとこどうしの結婚は原則として認められず、皇帝の許可が必要ということ、ヴィクトリア・メリタは再婚であるが、再婚が認められるのは元の配偶者と死別した場合に限るということ。さらに、彼女の元配偶者はアレクサンドラ皇后の兄のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒであったため、皇帝や皇后が許すはずはなかったし、父母も結婚には反対したが、結婚を押し通し、称号、年金、役職を失い、国外追放となった。
しかし、父ウラジーミル死去後に許されて、アレクセイ皇太子、ミハイルに次いで皇位継承権第3位となった。
革命後、ニコライ、アレクセイ、ミハイルの処刑が確認されると、キリルは亡命先で皇位請求者として名乗りを上げ、やがて皇帝を自称した。
ただし、キリルが生まれた段階では母マリア・パヴロヴナは正教に改宗していなかったため皇位継承権を持たないということ、2月革命が起きるとすぐに赤いリボンを着けて臨時政府支持を表明したこと、これらにより、生き残ったロマノフの他の人々によって、その帝位請求は拒否された。
キリルはそれでも皇帝を自称、子らにも大公の称号を使わせた。
キリルの死後は、息子ウラジーミルが筆頭皇位請求者を自称した。ウラジーミルは革命後にロシア国外で生まれており、これもまた正統性がない。ウラジーミルの結婚相手は、ロシア皇族でも他国の王族でもなかったため、家内法によれば貴賎結婚にあたり、そうなればその子に皇位継承権はない上、男子がなかったため、ウラジーミル自身が勝手に、次代皇位請求者を自分の娘マリアに指定。
ウラジーミルの死後はマリアの即位と同時に、この勝手な規定を無視してニコラエヴィチ家からも皇位請求者が立った。
これがさらに、ロマノフ家の禍根を深くした。


ボリス・ウラディミロヴィチ
1877〜1943





母に溺愛され、放蕩暮らしの借金の肩代わりを母にさせ、プレイボーイで、愛人は数知れず。ルーマニア王妃マリーとも関係していた。貴賎結婚でできた男子ボリス(1902〜1984)あり。
革命後はカフカスで、母、アンドレイとそれぞれの愛人とともに逃避暮らしをしていたが、1918年夏、アンドレイとボリスは処刑されようとしていた。しかし、顔見知りの処刑者に釈放され、国外に逃げて命拾いした。


アンドレイ・ウラディミロヴィチ
1879〜1956





叔父にあたるセルゲイ・ミハイロヴィチとマチルダ・クシェシンスカヤとの三角関係で有名。マチルダは若い頃のニコライ2世の愛人でもあり、ロマノフ家の一員になりたいという願望があった。
マチルダの一人息子ウラジーミルは、セルゲイの子かアンドレイの子か判然としないが、セルゲイが母子を養育し、後にセルゲイが処刑され、母マリア・パヴロヴナも亡くなると、マチルダはアンドレイと結婚した。後になってマチルダは、ウラジーミルはアンドレイの子だったと言っている。
晩年、アンナ・アンダーソンをアナスタシア皇女であると信じて、熱心に支援していた一人である。マチルダも、アンナに会い、眼の色が元恋人ニコライを彷彿とさせると言っていた。
別記事あり


《パヴロヴィチ家》

ドミトリ・パヴロヴィチ
1891〜1941



別記事あり

ドミトリは革命時には他国の戦線に派遣されていたため、逮捕を免れた。
裕福なアメリカ女性と結婚し、男子パーヴェル(1924〜2004)が生まれる。離婚後は姉を頼った。
ドミトリもパーヴェルも、ロマノフの遺産相続や皇位継承には関心がなく、権利を放棄している。



〜第Ⅳ世代〜
大公は1名のみ。
家内法により、ウラディミロヴィチ家やパヴロヴィチ家は、この世代では大公とはならない。
アレクサンドロヴィチ家においては、ゲオルギーは未婚で早逝、ミハイルは貴賎結婚のため、子は大公の称号を得られない。

ニコライ2世の子女は以下。

①オリガ 1895〜1918
②タチアナ 1897〜1918
③マリア 1899〜1918
④アナスタシア 1901〜1918
❺アレクセイ 1904〜1918

《ニコラエヴィチ》


アレクセイ・ニコラエヴィチ
1904〜1918





誕生した時からツェサレーヴィチ。
待望の皇位継承者として生まれたにもかかわらず、母系から遺伝する血友病によって、何度も生死の境に立った。病により、成人するまで生きるのは困難とみなされていたが、結局、元皇帝の家族あるいは元皇位継承者として13歳で銃殺された。
家族とは別の場所に埋められたため、長らく遺体の所在が不明だったが、数年前にようやくDNA鑑定で決着した。





ロシア大公家系の末路 序/ニコライ1世

2016-07-16 19:45:47 | 人物
大公という称号

英語でいうgrand Duke、あるいはgrand Prince、ロシア語のВеликий князь(ベリーキークニャージ)、日本語の大公



皇帝の男系子孫に名乗ることが許される称号であったが、19世紀末期のロシアでは、ニコライ1世の男子子孫が多く、大公の人数が20を超えたことにより、大公の持つ権威弱体化と皇室経費膨大化を回避するために、1886年7月14日、アレクサンドル3世は家内法を定め、大公の称号は皇帝の息子および男系孫のみに許すものとした。
なるほど、ピョートル3世以降に連なる、ロマノフ=ホルシュタイン=ゴットルプ家で、1728年のピョートル3世誕生からの100年間では新たに生まれた大公はたった8人であったのが、その後、革命までのおよそ90年の間に30人が生まれている。
年代で見ると、1830年代2人、1840年代3人、1850年代6人、1860年代10人、1870年代7人、1880年代1人、1890年代なし、1900年代1人である。
1880年代以降の激減は、家内法による他、大公らの貴賎結婚が思いの外多かったことにもよる。
ロシア革命当時、存命していた大公16人中、処刑された者は8人、亡命した者も8人だった。


一覧
革命後存命
革命後処刑

1728 ピョートル・フョードロヴィチ (ピョートル3世)
1754 パーヴェル・ペトロヴィチ (パーヴェル1世)
1777 アレクサンドル・パヴロヴィチ (アレクサンドル1世)
1779 コンスタンチン・パヴロヴィチ
1796 ニコライ・パヴロヴィチ(ニコライ1世)
1798 ミハイル・パヴロヴィチ
1818 アレクサンドル・ニコラエヴィチ (アレクサンドル2世)
1827 コンスタンチン・ニコラエヴィチ
1831 ニコライ・ニコラエヴィチ
1832 ミハイル・ニコラエヴィチ
1843 ニコライ・アレクサンドロヴィチ
1845 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(アレクサンドル3世)
1847 ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
1850アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
1856 ニコライ・コンスタンチノヴィチ
1856 ニコライ・ニコラエヴィチ
1857 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
1858 コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ
1859 ニコライ・ミハイロヴィチ
1860 ドミトリ・コンスタンチノヴィチ
1860 パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
1861 ミハイル・ミハイロヴィチ
1862 ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ
1863 ゲオルギ・ミハイロヴィチ
1864 ピョートル・ニコラエヴィチ
1866 アレクサンドル・ミハイロヴィチ
1868 ニコライ・アレクサンドロヴィチ(ニコライ2世)
1869 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1869 セルゲイ・ミハイロヴィチ
1871 ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ
1875 アレクサンドル・ウラジミロヴィチ
1875 アレクセイ・ミハイロヴィチ
1876 キリル・ウラジミロヴィチ
1877 ボリス・ウラジミロヴィチ
1878 ミハイル・アレクサンドロヴィチ
1879 アンドレイ・ウラジミロヴィチ
1891 ドミトリ・パヴロヴィチ
1904 アレクセイ・ニコラエヴィチ

男子が複数生まれて分家が広がったのは、ニコライ1世の子の代以降である。
ニコライ1世の男子は、

アレクサンドル・ニコラエヴィチ
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
ニコライ・ニコラエヴィチ
ミハイル・ニコラエヴィチ

ニコライ1世の没後のおよそ60年間の、ロマノフ4分家(アレクサンドロヴィチ、コンスタンチノヴィチ、ニコラエヴィチ、ミハイロヴィチ)について、回を分けて見ていく。
今回は起点として、ニコライ1世についてのみを書く。




ニコライ1世

ニコライ1世
1796-1855 在位1825-1855

父は先先代のロシア皇帝パーヴェル1世、前皇帝は兄のアレクサンドル1世である。
母はマリア・フョードロヴナ(1759-1828)

先先代皇帝パーヴェル1世 ニコライ1世の父

ニコライの母マリア・フョードロヴナ
パーヴェル1世の二人目の妃
最初の妃ナタリア・アレクセーエヴナは第一子を死産後に身体を悪くして亡くなった




パーヴェル1世の子女は以下の通り。

❶アレクサンドル1世 1777-1825 在1801-1825
❷コンスタンチン 1779-1831
③アレクサンドラ 1783-1801
④エレナ 1784-1803
⑤マリア 1786-1859
⑥エカチェリーナ 1788-1819
⑦オリガ 1792-1795
⑧アンナ 1795-1865 オランダ王ウィレム1世妃
❾ニコライ1世 1796-1855 在1825-1855
➓ミハイル 1798-1849

アレクサンドル1世とニコライ1世との年齢差は19である。父パーヴェル1世が暗殺された時には、ニコライはまだ4歳。パーヴェル1世の暗殺には、長男アレクサンドルが関与していたとも言われている。アレクサンドルは、パーヴェルを嫌うエカテリーナ2世に大変可愛がられていた。パーヴェルは即位するとすぐに帝位継承法を制定して、以後、帝位継承は男子のみにしか認めないものとし、それ以外でも母の政治方針を全て覆した。
のちに、この帝位継承法の存在がニコライ2世と皇后に過大なストレスを加えることになったことは、ロシア帝政崩壊を加速させたと言える。

先代皇帝で兄のアレクサンドル1世 幼少時

アレクサンドル1世 青年期

アレクサンドル1世

アレクサンドル1世妃エリザベータ・アレクセーエヴナ 女子二人を生んだがいずれも愛人の子で早逝した アレクサンドル1世の庶子(女子)を育てる


パーヴェル1世の兄弟姉妹は、男子4人女子6人。
男子はそれ相応に生きたが、女子は3人が若くして亡くなっている。アンナはオランダ王ウィレム2世妃となり、次王ウィレム3世を生んだ。のちにウィレム3世には三男一女が生まれたが、王位継承前に男子は皆亡くなり、ウィルヘルミナが女王となった。

アレクサンドラとエレナ 二人とも10代で同じ頃に結婚し、アレクサンドラは第一子出産後、エレナは第二子出産後に亡くなった

アンナ のちにオランダ王妃


二男コンスタンチンは、最初の結婚は相手が故郷に帰ってしまって戻ることを拒否、のちに離婚が成立したが、次の結婚では貴賎結婚だったため、帝位継承権を放棄した。アレクサンドル1世には男子の継承者はおろか、正式な子はなかった。そのため、アレクサンドル1世亡き後は弟で三男のニコライが次の継承者となった。

アレクサンドル1世崩御

アレクサンドル1世のデスマスク

1825年即位後、ニコライ1世は汎スラヴ主義を掲げ、厳格な専制政治を貫いた。ポーランドやハンガリーの独立運動を鎮圧。アルメニア併合。日露和親条約を結び、東アジアへ進出。南部ではオスマン帝国とクリミア戦争にもつれ込む。
様々な苦境にさらされたまま、あっけなくインフルエンザに罹って崩御した。
妻はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世元王女シャルロッテ・フォン・プロイセン、ロシア名アレクサンドラ・フョードロヴナである。
自分付きの女官が夫の愛妾になっても、夫の死後もその愛妾と親しくし、宮殿(アレクサンドル宮殿:エカテリーナ2世が息子アレクサンドルの結婚を記念して建設した宮殿で、代々の皇帝が夏の宮殿として利用。最後のニコライ2世は常住した)でともに暮らした。

ニコライ1世

ニコライ1世

ニコライ1世妃 アレクサンドラ・フョードロヴナ


ニコライ1世の子女。

❶アレクサンドル2世 1818-1881
②マリア 1819-1876
③オルガ 1822-1892
④アレクサンドラ 1825-1844
❺コンスタンチン 1827-1892
❻ニコライ 1831-1891
❼ミハイル 1832-1909

三姉妹について。

②マリア・ニコラエヴナ
長女マリアはロイヒテンブルク公マクシミリアンと恋愛の末結婚し、7人の子を授かり、マクシミリアンの死後に再婚、2人を授かるが、貴賎結婚のため父皇帝存命中は極秘であった。美術に関心が高く、イタリアで数多くの作品を蒐集した。

マリア・ニコラエヴナ ロイヒテンブルク公マクシミリアン妃


③オルガ・ニコラエヴナ
二女オルガはヴュルテンベルク国王カール1世妃となる。子女は授からなかった。

オルガ・ニコラエヴナ ヴュルテンベルク国王カール1世妃


④アレクサンドラ・ニコラエヴナ
三女アレクサンドラはヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒと結婚したが、ロシアを離れる前に肺病になり、出産もしたが母子とも生きられず、子を抱いた姿で埋葬された。
このころ、ロシアではアレクサンドラという名を付けられた子は不幸な若死が多かったため、避ける傾向にあったにもかかわらず、やはりこういう結果になってしまった。
他には、
アレクサンドラ・パヴロヴナ 1783-1801
アレクサンドラ・ミハイロヴナ 1831-1832
アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ 1842-1849
アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ 1870-1891

パヴロヴナ、ゲオルギエヴナも、出産後すぐに亡くなった。ゲオルギエヴナの嬰児は助かり、革命後も生き残った大公ドミトリ・パヴロヴィチである。

アレクサンドラ・ニコラエヴナ ヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ妃

オルガとアレクサンドラ


それでは、のちに4分家を築く男兄弟についてを見る。

兄弟姉妹の構成を見ると、二男以下は、嫡男アレクサンドルとの間に三姉妹がはさまっているので歳の差が開いており、二男コンスタンチンで9つ、四男ミハイルは14歳の差がある。
アレクサンドル2世は即位時は37歳、弟達は23〜28歳であった。アレクサンドルは若い弟達に権威を授けるべく、軍人として活躍して名を上げられるよう重要なポストに就かせたが、どの弟もあまり実績を上げることはできなかった。

1855年、兄皇帝が暗殺され、甥のアレクサンドルがアレクサンドル3世として即位すると、新皇帝の叔父である3人はことごとく影響力を取り払われた。ミハイルは、1894年のアレクサンドル3世の没後も存命であったが、新しく即位したニコライ2世は大叔父ミハイルに対し敬意をもって接した。

ロシア帝国の最後まで、アレクサンドルの男系子孫が絶えなかったため、コンスタンチン、ニコライ、ミハイルの系統から皇帝が出ることはなく、そのため彼らの2代下からは家内法により、大公の位を失う。


アレクサンドロヴィチ、コンスタンチノヴィチ、ニコラエヴィチ、ミハイロヴィチの各系の子孫については、次回から順次、記事に上げていきます。

ニコライ2世戴冠式式次第(?)より
ニコライ2世

アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后

左から右下 マリア・フョードロヴナ皇太后、ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ皇太子、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公、オルガ・アレクサンドロヴィチ大公女

ウラディミル・アレクサンドロヴィチ大公、マリア・パヴロヴナ大公女、キリル・アレクサンドロヴィチ大公、ボリス・アレクサンドロヴィチ大公、エレナ・アレクサンドロヴィチ大公女、アンドレイ・アレクサンドロヴィチ大公

リュクセンブルク大公アドルフ、モナコ大公ルイ、オルデンブルク大公フリードリヒ・アウグスト、プロイセン大公ハインリヒ、プロイセン大公女イレーネ、ルーマニア大公フェルディナント、ルーマニア大公女マリア

ザクソン=コーブルク=ゴータ公アルフレート、マリア・アレクサンドロヴナ大公女、アルフレート、ベアトリス

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公、エリザベータ・フョードロヴナ大公女、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公、ドミトリ・パヴロヴィチ大公、マリア・パヴロヴナ大公女

ミハイル・ニコラエヴィチ大公、ニコライ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギ・ミハイロヴィチ大公、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公、クセニア・アレクサンドロヴナ大公女、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公

ヴュルテンベルク大公女エルザ、ヴュルテンベルク大公女ヴェラ、ヴュルテンベルク大公女オルガ、ヴュルテンベルク大公アルブレヒト、ヘッセン大公女、ヘッセン大公、ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルク、ヴィクトリア・フォン・バッテンベルク

オルガ・コンスタンチノヴナ大公女、ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ大公、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公、ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公、デンマーク大公フレゼリク?、アナスタシア・ミハイロヴナ・メクレンベルク=シュベリーン大公女、イタリア大公ヴィットール・エマヌエーレ

英雄或いは反逆王 レオポルド3世

2016-06-29 19:50:04 | 人物
大戦中、国を離れず国民を支えた王が
「反逆者」と呼ばれた不運
ベルギー国王 レオポルド3世



Léopold Philippe Charles Albert Meinrad
Hubertus Marie Miguel
1901〜1983


ドイツとソ連が戦争になれば、必ず巻き込まれるのがポーランドの運命ならば、ドイツとフランスの間では、ベルギーが巻き込まれるのはもう一つの運命だ。
果敢に戦った18日間、そして降伏、占領。
国民とともに在り続けた王は、ベルギー亡命政府や周辺国政府に非難され、反逆罪を問われた。
最愛の王妃を事故死させた悲しみと孤独の中で、孤軍奮闘し続けた国王の不運を嘆く。


出生、幼少期
1901年、当時のベルギー王太子アルベール(アルベール1世)の第1子長男として誕生。
母はエリザベート・ド・バヴィエール、父方の伯母はオーストリア皇后エリーザベト。
弟シャルルと、妹マリー=ジョゼがいる。


アルベールとエリザベート 婚約の頃

1909年にアルベール1世即位 レオポルドは王太子に

王妃は元バイエルン公女。芸術の才能に秀でており、特にバイオリンは大変な腕前だったといわれている

レオポルド

レオポルド

レオポルド

笑顔の子供達
マリー=ジョゼ(中央)は、のちにイタリア最後の国王ウンベルト2世王妃となる。マリー=ジョゼは第二次大戦中は、枢軸国イタリアにあって、連合国とのつながりを保ち、パルチザンに援助する重要なポストを担っていたという。


西洋の物語に描かれる美しい王子そのものと言える、本物の美しい王子、レオポルド。
宝石のような瞳。
往時のエピソードなどは私は知らないが、写真からは物静かで繊細な、おとなしい少年という印象を受ける。


学校、第一次大戦時
1913年9月からはイギリスのイートンカレッジに通う。そこではイギリスのヘンリー王子と学寮も一緒だった。
ヘンリー王子はレオポルドの一つ年上であり、英王ジョージ5世の5人の王子の中では3番目、兄の、のちのジョージ6世と同様に病弱で、兄以上に強い吃音もあり、非常に内向的であった。

イギリス王子ヘンリーとベルギー王太子レオポルド イートンカレッジにて

しかし、第一次大戦勃発後、1915年には、ベルギー軍を指揮する父国王アルベール1世に倣い、レオポルドはわずか14歳でありながら、第12ベルギー連隊兵士、すなわち全くの一兵卒の身分で従軍した。
自ら戦場で指揮し、兵士に勇気を授ける勇敢な国王アルベールは、たとえ王太子である自分の息子をさえも戦場から遠ざけず、送り出した。その覚悟は恐れ多い。例えば、英王室では、平時は王子らに主に海軍で訓練を積ませても、戦時には王太子だけは軍から下がらせていた。レオポルドの学友ヘンリー王子は、第一次大戦中は学生生活を続けており、従軍はしなかった。
レオポルドのこの経験は、国王となって迎えた第二次大戦での戦いに、父のように勇敢に立ち向かう土台となったと思われる。

ベルギー軍の兵士として従軍
顔にはあどけなさが残る


妹マリー=ジョゼと


結婚、即位
第一次大戦ではドイツ軍の猛攻を浴び、ベルギーは軍も国土も大損害を受けるものの、国王の毅然たる指揮により、度重なる連合国からの参加要請もはね退け、武装中立国として存分に戦った。
戦後は、もともと持ち合わせていた高い技術力と産業基盤を回復させ、復興も早かった。

アルベール1世国王、レオポルド王太子、シャルル王子

この時期、成人したレオポルドは王太子としての経験を積む一方、結婚して幸せな家庭を築く。
王太子妃となるのはスウェーデン王女アストリッド・ド・スェード。1905年生まれ。
スウェーデン王オスカル2世の第3王子カールの三女である。かつてマリア・パヴロヴナが嫁いだ相手、ヴィルヘルム王子は従兄。
アストリッドはベルギー王妃に、アストリッドのすぐ上の姉マッタはオラヴ5世に嫁ぎ、ノルウェー王妃となった。



20歳で結婚したアストリッド王女

王族どうしの政略結婚ではありながら、お互いに強く惹きつけられての幸せな結婚。
アストリッドは美しく、明るく、分け隔てない優しさにより、国民にも深く愛された。

1926年に結婚、1927年、のちにルクセンブルグ大公妃となる長女ジョゼフィーヌ=シャルロットが生まれ、1930年には待望の王子ボードゥアンが誕生した。
家庭的なアストリッドは、王宮近くに小さな居を構え、自ら料理したり、普通の市民のように子供を連れて街を歩いたりし、上流階級の一部には「儀礼が身についていない」と批判するものもいたが、総じて国民には慕われていた。

アストリッド 少女のころ

姉マッタ(右)は のちにノルウェー王妃に









ところが、1934年、国王アルベール1世は趣味の登山に一人で出かけて遭難死した。登山のエキスパートであった王が遭難したことで、その死は不自然視され、様々な憶測と仮説が流れた。しかし、山ではどんな事故が起こるかは予測はできず、エキスパートであろうと対処しえない場合もあるだろう。むしろ国王がたった一人で出かけたことに驚く。1934年2月17日の死、58歳だった。

アルベール1世は当時においても最も人気の高かった国王であり、現在でもなお、ベルギーで最も尊敬されている国王である。
国民の深い悲しみのなかで、レオポルドはレオポルド3世として即位した。程なくして生まれた第二王子は、先代王にあやかってアルベールと名付けられた。

レオポルドとアルベール1世
ドイツがフランス攻撃のために、中立国ベルギーを通過したとき、「ベルギーは道ではない。国だ」と言い、通過を許さなかった。また、フランスが国境を侵すことも許さなかった。こうした国王の強さは国民の誇りとなった



王妃の死
国王の死から1年半ののちに、アストリッド王妃が不慮の事故で亡くなる。
新国王一家は、1歳に満たない幼いアルベール王子を除いてスイスの別荘を訪れていた。先に子供達を養育係とともに帰し、翌日のこの日、国王夫妻も帰国することになっており、その前に山を見てから帰ろうと、ルツェルン湖岸の道を車で走っていた。このとき、運転していたのはレオポルド、後部座席にお抱え運転手、王妃は地図を見ていた。風が強かった。
王妃が地図上の何かを王に示したとき、車は道を外し、制御を失って急な斜面を降り出した。
木に当たって衝撃を受け、王妃はドアを開けて脱出しようとした際、別の木の幹に体を激しく打ちつけたため、程なくして亡くなった。
暴走した車は湖に落ちて停止した。
レオポルドは車外に脱出して軽傷だった。





1935年8月29日、午前9時30分。
一瞬の出来事だ。運命はこんなふうに一瞬でコインを裏返すことがある。
この日、大雨だったら、濃霧だったら、山を見に行かずに帰ったことだろう。子どもが熱を出したりすれば、行かずに帰っていただろう。
王妃は29歳。結婚して9年、その間に3人の王女王子をなし、王太子妃の公務をなし、王妃となってまだ1年半だった。
国民に愛されていたアストリッドの死は、大きな悲しみとなった。
葬列のレオポルドはどのような心境だっただろうか。国王として、夫として、事故を引き起こした者として、どうやって立っていたのだろう。
自分を支えてくれるはずの、その王妃がいない。
先を歩いて導いてくれるはずの父の姿もない。

国王(中央)は包帯が生々しい




ベルギーの戦い
この頃、ドイツのヒトラーの動きを警戒していたヨーロッパ全土。とうとう独裁者は動き出した。予想以上に性急な攻撃だった。ヒトラーの猛烈な電撃戦を、レオポルドはベルギー国王として、またベルギー軍最高司令官として迎え撃つ。

二人の息子ボードゥアンとアルベール

1940年5月10日、オランダとベルギーが同時に侵攻された。両国とも中立国でありながら侵攻される。オランダはほとんど備えをしていなかったが、ベルギーは1930年代からレオポルドの下に防衛の準備を固めていた。当時、ヨーロッパで最も万全な備えができていたのはベルギーだった。
しかし、ドイツの攻撃はそれを凌いだ。そもそもの航空兵力の差から、制空権をあっという間にドイツに押さえられたこと、そうなれば国土が低地であるのが弱点となり、空爆を避けることも困難なことが大きな災いになった。また、ベルギーを盾にしたいフランスとイギリスは、連合への参加をベルギー軍に迫り、ベルギーの国土を戦場にしておいて退却していった。

「何が起ころうと、我が軍と同じ運命を共にしなければならない」

レオポルドは第一次大戦時の父のように、戦場に張り付き、激励の声明によっても兵を労った。
軍の存命が危なくなってきた頃、チャーチルが視察にやってきて、ベルギー軍の戦線崩壊の危機の状態に憤り、ベルギー軍にとって壊滅的になる戦略プランを押し付けて行った。ダンケルクでイギリス軍を退却させるために、フランス軍とベルギー軍を犠牲にするものだった。
翌日、レオポルドはイギリス国王ジョージ6世に電報を打つ。

「我が陸軍が包囲されれば、終わりになるだろう」
5月27日、国内の被害状況からさらなる抵抗は不可能と考え、レオポルドはドイツに休戦要請。
5月28日、無条件降伏する。


反逆罪を問う
5月16日には既にフランスに亡命していたベルギー政府、フランス政府、イギリス首相チャーチルは、この降伏を激しく非難した。
ベルギー亡命政府は、国王が政府の要請に従わずに亡命しないで残ったこと、その時点で既に政府に反逆した国王は国王として認められず、その者が交わした降伏は正当な政府の判断ではないと主張し、戦いの継続を求めた。
しかし、最高司令官はレオポルドであり、レオポルドは捕虜となったため軍は動かせず、既に状況はドイツが握っていた。亡命政府は、正当性を遠くで喚いているだけの無力な集まりでしかなかった。
フランスの首相レノーは、レオポルドの反逆罪を訴えたが、それはレオポルドをスケープゴートに仕立てる工作のようであった。反逆罪の理由は、ベルギー軍の崩壊が英仏の連合軍に対し及ぼす影響を事前に警告しなかったから、とのこと。
どうやらこちらがヤギの脳ミソをお持ちのよう。

「(歴史上)戦いながら没落した国家は甦ったが、従順に降伏した国家は二度と立ち直れない」
などと批判したチャーチルは、のちの自著のなかでもレオポルドをさんざんにこき下ろした。

彼らの非難は、レオポルドの降伏は、ドイツとの共同政府を構成するためだった、という疑いの上に立っていた。その時点でも、現在に至っても、レオポルドとドイツの間にそのような内通があったという証拠は一切ない。
戦況に怯え、頭に血が上った者たちの老害に聞こえる。

囚われの英雄か
降伏後、母エリザベートと共に戦争捕虜となったレオポルドは王宮に軟禁された。
この頃、イギリスからヘンリー王子がレオポルドを心配して訪ねてきた。レオポルドがひどく落胆していた様子を、帰国後、兄国王に話したという。
軟禁中、レオポルドはヒトラーとの会談をたびたび要請し、ようやく1940年11月に機会を得た。
ゆくゆくはベルギーの独立を認めるよう懇願したのだが、ヒトラーは承諾しなかった。
王宮の外では、囚われの国民達が同じく囚われの国王に心を寄せていた。王は英雄なのか、或いは政府を追い出したまま独裁者になろうとしているのか?
ところが、国王への信頼を失墜させる残念なことが発覚した。1941年、レオポルドは極秘再婚した。相手は平民で元農業大臣の娘リリアン・バエル。当時24歳で、レオポルドより15歳下だ。
国民がこの結婚を嫌悪したのはわかる。
国のこの状況下で、既に世継ぎもいる国王が、惜しまれて亡くなったアストリッド王妃を脇に追いやるかのように、若い平民女性と恋に落ちる。明らかに醜聞であり、祝福できないだろう。しかもこれを祝福してヒトラーが花を贈ったとなれば、国民の感情は最悪のものとなる。
のちに正式に結婚して、リリアンに爵位は授けられたが、王妃の地位は与えられなかったし、リリアンによって生まれた子供達に王位継承権は与えられなかった。
レオポルドはなぜ再婚したのか。
リリアンを推したのはレオポルドの母だったという。それは良いとして、わざわざこの時期に、中途半端に結婚したのは、リリアンが早く子どもを欲しがったから、だそうだ。結局、1942年に男子、1951年と1956年に女子が生まれた。1954年と1955年には娘のジョセフィーヌ=シャルロットに、レオポルドの孫にあたる子達が生まれていた。こういうややこしい話は封をしたくなる。相手にももう少し、良識と配慮があれば良かった。

リリアン・バエル

レオポルドは退位後、アマチュアの社会人類学者として世界をまわった


Royal Question
1942年、ドイツの敗色が濃くなってくると、亡命政府との対決にレオポルドも備え始めた。1944年からは、レオポルドはヒムラーに拉致され、ドイツに連行されたが、亡命政府が戻った時に発表する公式声明を用意して置いていった。

Military honor, the dignity of the Crown and
the good of country forbade me from
following the government out of Belgium.


レオポルドはザクセンの城砦にて幽閉ののち、ザルツブルグ近郊に移され、1945年5月、アメリカ陸軍によって解放されたが、先に帰国していた政府が帰国を認めず、政府は弟シャルルを摂政に立て、戦時下及び戦後のレオポルド反逆の罪に関する査問委員会を開いた。委員会では、レオポルドに反逆罪は問わないと結論したが、政府はさらに、レオポルドを国王として認めるかを国民投票にかけた。国民投票の結果、レオポルドの国王復帰支持は57%だった。旧来のカトリック教徒らは支持派、新しく台頭した社会主義者らは反支持派、また、かねてからベルギー国内の抱えていた使用言語による対立構造を掘り返し、フランデレンとワロンの対立がそのまま支持対反支持となり、国民を二分する契機となってしまった。
1951年、結果を受けてレオポルドは国王としてベルギーに帰れることになったものの、二分した国内は内戦の危機に陥っていた。レオポルドは再びの決意、これ以上国内を荒廃させないために、自ら退位し、20歳の息子ボードゥアンに譲位した。

ボードゥアン(左)とアルベール

ボードゥアン1世

第二次大戦期という、あまりにも困難な時代の国王として、レオポルドの振舞いは評価が分かれるようだ。もう少し要領よく政府をなだめる術を持っていたら、とも思うのだが、何如、若く理想が高かった。
長い引用になるが、歴史学者ヘールト・マックはレオポルドをこう見た。

‥(オランダ降伏の)二週間後、ベルギー国王レオポルド三世が降伏した。百五十万人のベルギー人がフランスに逃亡した。国王の決断によって北フランスの防衛に穴が開き、リール周辺のフランス第一軍は持ちこたえることができなくなった。
同時に、国王と大臣たちの間に戦後まで続く深い対立が生まれた。ベルギー政府にとって中立は政治的に自明なことであった。ヨーロッパの権力関係によって定められる賢明なる日和見主義だった。だが、いまや人々は死も厭わず戦おうとしていた。レオポルド国王にとっては中立は神聖な原理で、彼の頭には一つの考えしかなかった。これ以上、道一本破壊されたくなかったし、人一人殺されたくはなかった。イギリスに亡命した戦闘的なオランダの女王ヴィルヘルミナとは逆に、彼はこれ以上ヨーロッパ戦争を続けることに何の意味も見出していなかった。「フランスは戦いを放棄するだろう。数日中のことかもしれない。イギリスは植民地と海上で戦いを続行するだろう。わたしは最も困難な道を選ぶ」。五月二十八日以降、ベルギー国王は自分をヒトラーの戦争捕虜と見なしていた。


「ヨーロッパの100年」より


亡命政府と王
この状況下、ヨーロッパの他国の国王達はどう動いていたのか、ざっと見る。

デンマーク
オランダ、ベルギーよりひと月早く、4月9日にドイツ軍が侵攻したが、侵攻の2時間後には国王が降伏した。同じゲルマン人だとして、ナチスはデンマーク国王と政府が国内に留まることを認めた。
既に老齢だったクリスチャン10世は、護衛を一人もつけず毎日騎乗して市内を巡り、国民を励ましていた。

ノルウェー
対照的に、デンマーク王の弟ホーコン7世は、政府とともに即日首都を後にし、追ってロンドンへ亡命。国外から国内の抵抗運動を激励した。戦争終結後の帰国は、国民にたいへん歓迎された。

オランダ
引用文にある通り、女王も政府もロンドンへ亡命して、国民をとおくから叱咤激励した。

スウェーデン
中立国としての立場を維持し通した。表向きは、他国への援助を一切拒否。ただし、裏では反ナチスに動いており、外交官ワレンバーグがユダヤ人保護に貢献した。

イギリス
イギリスは地勢上、政府も国王も亡命する必要がない。ベルギーのように国王と政府が分裂する要素がない。チャーチル首相が、離れたところからヨーロッパ各国を操る様は、さながら亡命政府代表のようだ。


政府は機能しなければならないものであるから、百歩譲って、緊急時は国外から指揮する方法に頼る場合もあるだろう。
国王はどうするべきか。国民と国土を統べる者でありながら、国を離れるのはいかがなものか。
前線から遠い他国から、国民に、死ぬまで戦えなどと激励することは、どの立場から可能なのか。


レオポルドは自ら囚われ、敗れた国王として交渉に賭けた。「最も困難な道」を孤独に歩んで、人生の道が途絶えるところで、レオポルドはアストリッドの隣に、永久に休むことにした。