名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロシア大公家系の末路/ミハイロヴィチ家

2016-08-13 20:50:34 | 人物
低い帝位継承順位
自由奔放、リベラルなミハイロヴィチ
革命後もっとも多くのこされた家系





まずはニコライ1世子女をおさらい。


❶アレクサンドル2世 1818〜1881
②マリア 1819〜1876
③オルガ 1822〜1892
④アレクサンドラ 1825〜1844
❺コンスタンチン 1827〜1892
❻ニコライ 1831〜1891
❼ミハイル 1832〜1909

ミハイロヴィチは男子子孫が多く、革命後では、大公5名と公6名がのこされた。
大公のうち3名が処刑された。
公6名は、11歳〜20歳の兄弟たち。


〈第1世代〉
ミハイル・ニコラエヴィチ
1832〜1909



ロマノフ皇族のならいとして、軍人となる。
兄皇帝によってカフカス副王に任ぜられ、露土戦争後は砲兵総監、元帥。
バーデン大公女オリガ・フョードロヴナと結婚し、六男一女が生まれた。
愛人と奔放に暮らし、家庭を顧みない兄達と異なり、ミハイルは愛人を持たなかったが、軍務に熱心で、家庭はほとんど顧みなかったという。
愛人で家庭が壊れることはなかったものの、子供達に対して父母ともに非常に厳格だったためか、子の多くは屈折した家庭生活を送った。
20年ほど、カフカスで暮らしたが、アレクサンドル3世の代になってからサンクトペテルブルクに落ち着き、広大なミハイロフスキー宮殿で暮らした。
アレクサンドル3世は、愛人を囲う叔父達を嫌ったが、ミハイルにだけは年長者に対する敬意を払った。
1903年より、病気で車椅子の生活になった。療養のためカンヌで暮らすとそこには、ドイツに嫁ぎ、カンヌに定住していた娘アナスタシアや、国外追放されていた息子ミハイルとも顔をあわせるようになり、ようやく家族らしい関係に浴することができた。
76歳で死去。
革命以前のロマノフ家男子でもっとも長生きだった。

父ニコライ1世ー兄アレクサンドル2世ー甥アレクサンドル3世ーニコライ2世の、皇帝4代のもとに生きた最高齢の皇族
写真は晩年、ニコライ2世と



ミハイル・ニコラエヴィチの子女。

❶ニコライ 1859〜1919
②アナスタシア 1860〜1922
❸ミハイル 1861〜1929
❹ゲオルギ 1863〜1919
❺アレクサンドル 1866〜1933
❻セルゲイ 1869〜1918
❼アレクセイ 1875〜1895

早逝したアレクセイを除き、兄弟5人中の3人が処刑されたのは、コンスタンチノヴィチ家のプリンスたちの運命と重なる。



娘アナスタシアはメクレンベルク=シュベリーン大公フリードリヒ・フランツ3世に嫁ぎ、その長女アレクサンドリーネはデンマーク王クリスチャン10世妃、次女ツェツィーリアはドイツ皇太子ヴィルヘルム妃となった
アナスタシアは病弱な夫を顧みず、国を離れて派手な社交やギャンブルに明け暮れた。夫は謎の転落死、あるいは自殺。アナスタシアはまもなく愛人と再婚し一児をもうけた。
写真は曾孫ヴィルヘルムと



〈第2世代〉
ニコライ・ミハイロヴィチ
1859〜1919







ロマノフ家きっての歴史学者。
ミハイロヴィチ家の第1子長男として生まれた。
例外なく皇族のならいにより、軍人となるべく道を敷かれた。特に、父は軍事に関心が高かったが、ニコライは学問を好み軍務を嫌い、大学に行きたかったが父は許さなかった。軍では、マリア・フョードロヴナの近衛騎兵隊に所属。ここには、のちにフィンランドの英雄となるカール・マンネルヘイムも所属していた。マンネルヘイムは長身で187センチだったため抜擢されたとされ、ニコライも長身そろいのロマノフらしく、188センチと高かった。

父母は子供達に大変厳しかったが、母は優秀なニコライだけを溺愛した。
昆虫学、植物学の研究から、次第に歴史学を究めるようになる。皇帝の許しを得て、さまざまな図書や資料の閲覧ができた。革命で散逸したロマノフ家の宮殿や人物画、美術館の所蔵品が彼によって記録されていたことで、現在でも確認することができている。

母方のいとこ、バーデン大公フリードリヒ1世の娘ヴィクトリアとの結婚を望んだが、従姉妹との結婚に皇帝の許しが得られず断念。(ヴィクトリアはのちのスウェーデン王グスタフ5世妃、次男ヴィルヘルムはマリア・パヴロヴナの最初の結婚相手)
次に、オルレアン家アメリーとの結婚を希望したが、これも反対にあい断念。(アメリーはのちのポルトガル王カルロス1世妃)
その後は、結婚を希望せず、生涯独身。ただし、愛人や隠し子は複数いたらしい。

ニコライと母

ユーモア、イタズラ、冗談、気分屋、変人、軽率、ギャンブル好き。ただし、寛容で飾り気がなく、配下の者とも友人付き合いする、天真爛漫さが皇族皆から愛された。
しかし、先見性を持つゆえに、ロマノフ家が傾いていくのを人一倍憂えており、自らの自由主義を公言し憚らなかった。皇帝ニコライ2世には、度々、皇后の保守傾向の危険を訴え、謹慎にされた。
第一次大戦中は、久々に従軍。ただし、野戦病院訪問が主な任務で、日々送り込まれる負傷兵の多さに、ロシアの敗退を確信。もともと嫌っていたニコライ・ニコラエヴィチ最高司令官の、訓練未熟な兵を構わず戦場に送り出す無謀を批判した。

革命後は、弟ゲオルギとともに、前出のドミトリ・コンスタンチノヴィチ大公と同じ運命となった。
ニコライの釈放のために、フランス政府、ブルメル、ゴーリキーらが奔走したが叶わなかった。
処刑前に、抱いていた猫を近くにいた兵士に世話を頼み、3人は一斉射撃で射殺され、足下の穴に倒れこんでいった。

左からパーヴェル・アレクサンドロヴィチ、ニコライ・ミハイロヴィチ、皇后、セルゲイ・ミハイロヴィチ、皇帝、ゲオルギ・ミハイロヴィチ?、女性3人、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ?、ピョートル・ニコラエヴィチ?
ニコライ大公の笑顔は魅力的



ミハイル・ミハイロヴィチ
1861〜1929



兄ニコライとミハイル


第3子次男ミハイルは、母に、優秀な兄と比較されながら、父母に厳しく育てられた。その幼少期の反動か、長じて、社交界ではギャンブル、女、派手に遊ぶ。
テック公女メアリー、ヘッセン大公女イレーネ、イギリス王女ルイーズに次々と求婚を断られ、メーレンブルク伯ゾフィー嬢と、許可なくイタリアで結婚。激怒した皇帝によって、地位を奪われ、入国不可にされた。アレクサンドル3世は彼を『馬鹿者』と呼んだ。母はショックで、程なくして療養先で亡くなったが、母の葬儀にも出席させてもらえなかった。
イギリス、フランス、ドイツを転々とし、カンヌに落ち着いた時、姉や父と和解。父の葬儀には、一時帰国を認められ、出席できた。
ロシア革命では、国外追放されていたことが幸いした。
晩年は経済的に立ち行かず、ジョージ5世や娘婿の援助で暮らした。次女ナデジダはバッテンバーグ家嫡男のジョージと結婚。

ミハイル・ミハイロヴィチと妻子

ミハイル・ミハイロヴィチの子女。

①アナスタシア 1892〜1937
②ナデジダ 1896〜1963
❸ミハイル 1898〜1959

息子ミハイルに子はいない。



ゲオルギ・ミハイロヴィチ
1863〜1919





第4子三男。自身も軍で活躍することを望んでいたが、幼少期に脚を悪くしたため、積極的な参加はできなかった。
物静かで引っ込み思案だが、優しい。大食い。
コインやメダルの膨大なコレクションは、革命を越えて後代に残された。

グルジア王家末裔の公女ニーナ・チャフチヴァーゼと恋愛、ただし、貴賎結婚にあたるために反対にあい、断念した。そのため、37歳まで未婚でいたが、一念発起して、エディンバラ公の娘マリーとの結婚を望んだが、マリーの母マリア・アレクサンドロヴナは娘をルーマニア王太子と結婚させるため、断った。
次に、ギリシャ王ゲオルギオス1世の娘マリアとの結婚を望む。マリアは平民と恋愛していたが、結婚できるわけもなく、無関心なままゲオルギとの結婚を受け入れた。ゲオルギは、この結婚に愛情はないが、時が経てば幸せになれるだろうと考えた。
しかし、マリアのロシア嫌いはひどく、夫とも離れたがった。1914年に、子供の健康にかこつけて、静養と称してイギリスへ。そのうち大戦が始まり、ロシアには戻らず、娘たちも優しい父とはその後もう会えなかった。娘たちは後年、母のこうした態度を冷酷だったと非難している。
大戦中、ゲオルギは日本にも派遣されていた。

革命後、妻子のいるイギリスへ亡命を希望したが受け入れられず、のちにフィンランド経由での国外脱出を許された。しかし、旅券に不備があったため、捕らえられた。これ以降、2度と国外脱出の機会がなくなってしまったために、運命が決まってしまった。
逮捕されてからは、兄ニコライと運命をともにした。

ゲオルギ・ミハイロヴィチの子女。

①ニーナ 1901〜1974
②クセニア 1903〜1965

ニーナはかつて父が恋して結婚を断念したチャフチャヴァーゼ家に嫁いだ。
クセニアはアメリカの富豪と結婚し、のちに一時アンナ・アンダーソンを保護していた。
妻マリア・ゲオルギエヴナは再婚し、ギリシャに帰国した。

クセニア(左)とニーナ



アレクサンドル・ミハイロヴィチ
1866〜1933



皇帝の娘クセニア大公女と結婚

第5子四男。ロマノフ家では数少ない海軍のキャリアを持つ。ちなみに、他に海軍に従事した皇族は、
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ
キリル・ウラディミロヴィチ
アレクセイ・ミハイロヴィチ

このうち、ゲオルギとアレクセイ・ミハイロヴィチは早逝。キリルは搭乗艦の事故後から恐怖で海軍を離れたため、実質は3人と考えられる。

父がコーカサスからサンクトペテルブルクに異動になると、アレクサンドロヴィチ家の年長の子供達、ニコライやゲオルギ、クセニアらの遊び相手になった。そういうなかで、アレクサンドルと弟セルゲイは2人ともクセニアに恋して、結果、アレクサンドルとクセニアが結婚することとなった。
海軍の改革に取り組み、空軍の創設にも尽力した。

クセニアとの間には、六男一女。
ミハイロヴィチの兄弟は多かったにもかかわらず、正式な結婚の子孫を残せたのはアレクサンドルだけだった。

①イリナ 1895〜1970
❷アンドレイ 1897〜1981
❸フョードル 1898〜1968
❹ニキータ 1900〜1974
❺ドミトリ 1901〜1980
❻ロスチスラフ 1902〜1978
❼ヴァシーリー 1907〜1989

クセニアとニコライ2世はそれぞれ、同じ年の1894年に結婚し、子供達もそれぞれに生まれている。肝心の皇帝には、なかなか男子が生まれないのに、クセニアの家庭には次々に男子が生まれる。皇后は辛かったことだろう。
年令も血縁も近いため、皇帝の子供達とは一緒に遊ぶことが多かった。

末子ヴァシーリーはまだいない頃
すぐ上と5歳離れている




革命時はキエフで空軍の指揮をしていた。
首都にいなかったことが、アレクサンドルには幸いし、クリミアに逃亡していた家族に合流できた。
イギリス軍艦によって、妻子、皇太后、オルガ・アレクサンドロヴナ、ニコラエヴィチ家、イリナの嫁ぎ先のユスーポフ家とともに国外脱出。すでに関係が破綻していたクセニアとは、国外脱出後は別居した。
息子達は皆、貴賎結婚。フョードルは、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の後妻の娘イリナと結婚している。その子に至っては、4人の祖父母のうち3人がロマノフ皇族(しかも大公)という、血の濃さからすれば正統性が高いように思ってしまうが、パーヴェルがそもそも貴賎結婚だったので全く考慮されない。
現在、アンドレイ、フョードル、ロスチスラフの男系子孫が残されている。

クリミアに軟禁中のロマノフ皇族と縁戚



セルゲイ・ミハイロヴィチ
1869〜1918





第6子五男。
軍では父の後を継いで砲兵総監、砲兵大将。
身長190センチ。数学や物理学に関心。
親しかったニコライ皇太子が結婚するにあたり、それまでの愛人だったバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤのことを、友人としてセルゲイに頼んだ。セルゲイは新しく、クシェシンスカヤの愛人兼パトロンとなり、立派なダーチャを買って与えた。
1900年頃から、クシェシンスカヤはセルゲイの甥アンドレイ・ウラディミロヴィチとも関係し始め、1902年には、どちらの子がわからない息子が生まれた。母子はセルゲイが養っていた。この三角関係はまだ続く。

第一次大戦時、セルゲイが療養から軍に復帰すると、砲兵部は汚職問題で荒れていた。汚職はクシェシンスカヤの利権に絡んでいたものだったため、セルゲイは処罰され、砲兵総監の地位を失う。こうしたスキャンダルにもかかわらず、クシェシンスカヤとの関係を維持しようとした。
革命時は、皇帝とモギリョフで一緒だった。ニコライ2世の退位署名に立ち会った。
クシェシンスカヤのいるサンクトペテルブルクに帰ったものの、一緒になるのを断られ、彼女は息子を連れてアンドレイのところへ行ってしまった。首都に残されたセルゲイは兄と共に、ボリシェビキに処刑された。

クシェシンスカヤの息子の名はウラディーミル。アンドレイの父名が付けられている。セルゲイからアンドレイに乗換えたのは、アンドレイのほうが皇位継承順位が格段に高いというのもあるのだろうか。
クシェシンスカヤはロマノフに食いついて離れず、いつか自分もロマノフの人間になる、と虎視眈々と狙い続け、とうとうなったのである。
アンドレイとの結婚は、アンドレイの母が決して許さなかったのだが、母亡き後すぐに結婚、自称皇帝の義兄キリルによって、ロマーノフスカヤ=クラーシンスカヤ公妃の称号を授かった。

マチルダ・クシェシンスカヤと息子ウラディミル


アレクセイ・ミハイロヴィチ
1875〜1895



両親と兄弟たち アレクサンドルを除く


第7子六男。ただし、1番早くに亡くなった。19歳。
兄アレクサンドルのように、海軍に進む。
海軍士官学校の訓練中に肺炎を起こしたが、父が療養を許さず、悪化。
結局、イタリアで療養したが、改善することなく亡くなった。



以上、ニコライ1世以降のロマノフの大公たちを一人一人調べた。
もう一度、ひととおり並べて総覧したい。
次の記事で考察します。




ところで。
今日はたまたま、アレクセイ・ニコラエヴィチの112回目の誕生日!
ここ数日、ずっと調べたり書いたりしていた世界というのは、112年前あたりのことなのか、
と、しみじみ‥
遠い時代のことだったのだとあらためて感じました。



帝政期、最後に生まれた大公。
彼の血友病がロシア帝国を崩壊させたと言われることもありますが、結局はロマノフたちの驕りや、民衆の粗暴な革命の犠牲にならねばならなかったのは、まだ子供に過ぎない彼でした。
この運命を生きたアレクセイを、とてもいとおしく思います。


ロシア大公家系の末路/ニコラエヴィチ

2016-08-11 21:31:18 | 人物
『黒い家族』とささやかれ
ロマノフの皇族たちから疎まれた
ニコラエヴィチ家


アレクサンドル3世とロマノフの血縁者たち

ニコライ1世の男系子孫である4分家を、引き続き紹介します。
ニコライ1世の子女
❶アレクサンドル2世 1818〜1881
②マリア 1819〜1876
③オルガ 1822〜1892
④アレクサンドラ 1825〜1844
❺コンスタンチン 1827〜1892
❻ニコライ 1831〜1891
❽ミハイル 1832〜1909


ニコラエヴィチは帝政崩壊までに大公は3人。
革命時に存命中の2人は亡命して生き延びた。
処刑された者はいない。



〈第1世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1831〜1891





同じ名前と父名を持つ息子と区別する目的で、年長を意味するстарший(スタールシー)を付けて呼ばれることもある。
ニコライ1世の第6子、三男。

陸軍でキャリアを積む。兄の後ろ盾で高いポストに付けられていたが、軍を指揮する能力に乏しく、失敗が多かったため、露土戦争後には非難された。
軍隊生活を好む一方、身辺はだらしなく、女好き、狩猟好き、公金横領で信用を落としていった。

オルデンブルク公の娘アレクサンドラ・ペトロヴナと結婚し、新築したニコラエフスキー宮殿に住んだ。アレクサンドラとの間に二男が生まれる。

❶ニコライ 1856〜1929
❷ピョートル 1864〜1931

長子ニコライを抱くアレクサンドラ・ペトロヴナ


地味な容貌のアレクサンドラとは不仲になり、バレリーナのエカチェリーナ・チスロヴァを愛人にし、家族と同じ宮殿に住まわせた。
チスロヴァとの間に三男二女が生まれる。

①オリガ 1868〜1950
❷ウラジーミル 1873〜1942
③エカチェリーナ 1874〜1940
❹ニコライ 1875〜1902
❺ガリーナ 1877〜1878

たまりかねたアレクサンドラ妃は、義兄の皇帝アレクサンドル2世に夫の不貞を訴えたが、同じように愛人を抱えているアレクサンドル2世は、逆にアレクサンドラを「静養」というかたちの国外追放にした。しかし、アレクサンドラはキエフにとどまり、離婚要請には断じて応じなかった。
一方で、チスロヴァからは自分を正式な妃にするようしつこく迫られた。
ニコライは妻が先に死んで、チスロヴァと結婚することを願ったが、結局、妻がもっとも長く生きたため、叶わなかった。
軍事費の不正請求によって役職剥奪され、破産。
チスロヴァが急死してからは精神的に不安定になり、アレクサンドル3世の命令によりクリミアで監禁された。



〈第2世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1856〜1929





父と区別するために、若いという意味のмладший(ムラートシー)を付けることもある。
同時代の皇帝ニコライ・アレクサンドロヴィチと区別するときは、それぞれの愛称「ニッキー(ニコライ2世)」、「ニコラーシャ」あるいは「ニキ・ニキ」で呼ばれた。
父とは違い、陸軍では尊敬された。

ニコライは193センチの長身、騎兵大将として大音声の号令、一糸乱れぬ騎兵を操る様は、威厳あり、迫力あり、圧巻だったといわれている。
20センチ以上も小さい皇帝の横に立つと、皇帝が気の毒にも見えたようだ。
身分による分け隔てを一切しないニコライは、兵士の信頼も厚く、陸軍は彼の下によく統制されていた。

ニコライ2世とニコライ・ニコラエヴィチ大公

1905年のロシア第一革命で、ニコライ2世は、立憲君主政を受け入れるか、軍事独裁体制によって専制を守るかの二択を迫られ、親衛隊サンクトペテルブルク軍管区長であるニコライ(ニコラーシャ)に、軍事独裁にむけての連携を打診したが、ニコラーシャはピストルを自身に向け、皇帝に、立憲制を受け入れるよう懇願した。
皇帝は、ニコラーシャを頼らずして軍を動員することは叶わなかったため、仕方なく立憲制を受け入れ、革命は小康状態になった。
しかし、専制を望んでいたアレクサンドラ皇后は、このことによりニコラーシャをひどく憎むようになった。

ニコライは長く、平民女性や女優と不倫を続けていたが、弟の妃の妹と出会い、結婚を望む。
弟ピョートルの妃は、モンテネグロ王ニコラ1世の娘ミリツァ・ニコラエヴナ。その妹、アナスタシア(スタナ)・ニコラエヴナと出会ったのは、ロイヒテンブルク公との離婚直後だった。離婚歴ある相手と結婚する場合、死別による離婚以外の再婚は皇族には認められていなかったが、皇帝はこの結婚を許可した。
子供は生まれていない。

第一次世界大戦開戦。
ニコライは帝国軍最高司令官。ロシア軍は多大な犠牲者を出しながらも、当初は緊迫感がなかった。1915年、戦況悪化に乗じて、ニコライの力を削ぎたいアレクサンドラ皇后とラスプーチンは、最高司令官を解任し、カフカス方面軍に送る。
その後は皇帝が最高司令官を兼ねて本営に詰めることになるが、それは内政を皇后に委ねる結果となり、帝国は内部からも壊れていくことになった。皇帝は、二月革命で退位させられると、後任の最高司令官をニコライに任命したが、本営に到着したニコライは臨時政府によって即座に解任された。

ニコライは他のロマノフの親族達と同様、クリミアに避難。最終的に、皇太后はじめアレクサンドロヴィチの家族らとともにイギリスの軍艦で国外脱出した。

ニコライの義弟にあたるイタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世の招きでニコラエヴィチ家はイタリアに身を寄せ、その後パリへ移る。

1922年に、白軍が開催したゼムスキー・ソボル(全国会議)において、ニコライを皇帝に据えての帝政復活を企てた。ニコライは、皇位継承順位は低いにもかかわらず、亡命ロシア人、特に元軍関係者から尊敬を集めており、もっとも皇帝に相応しいとみなされた。他方、皇位継承順位筆頭のキリル・ウラジミロヴィチは人気がなかった。
過去に、ロマノフを皇帝に選んだ、権威あるゼムスキー・ソボルによって選ばれたことは重く受け止められるべきではあったが、ニコライは、皇太后への配慮と、離婚歴のある女性と結婚したことを理由に、自分より弟が選出されるにふさわしいとして辞退した。もっとも、弟は兄を皇帝に推していた。




ピョートル・ニコラエヴィチ
1864〜1931





兄ニコライより9歳下。ロマノフ家の慣いとして軍人になったが、病弱で、軍務には性格的にもあまり向いていなかった。芸術、特に建築に優れていた。物静かで似た性格の、ドミトリ・コンスタンチノヴィチとは親しかった。ただし、切れ者で正反対の性格の兄の、影のような存在ではあったが、生涯にわたって親しかった。

ピョートルは軍では兄ニコライの参謀であった。
妃同士が姉妹でもあるため、亡命先でも兄弟で行動を共にした。

モンテネグロ王女ミリツァ・ニコラエヴィチと結婚。一男三女が生まれる。

ミリツァ(右)とアナスタシア


〈第3世代〉
この代では、遡ってニコライ1世は曽祖父となるため、大公ではなく公(プリンス)である。

ピョートルの子女。

①マリナ 1892〜1931
❷ロマン 1896〜1978
③ナジェジダ 1898〜1988
④ソフィア 1898(ナジェジダと双子)


マリナとロマン

ミリツァの3人の子供達

ロマン・ペトロヴィチ

ロマン・ペトロヴィチ 再建されたイタリア傀儡国家のモンテネグロ王国の王位に就くよう要請されたが辞退した
母はモンテネグロ王女、母方の叔母が元イタリア王妃という縁による




『黒い家族』と呼ばれて


ピョートル、妃のミリツァ、その妹アナスタシアの3人を指して『黒い家族』とささやかれていたのはなぜか。
黒い家族、あるいは、邪悪な権力の中心とまで言われたのには、皇后アレクサンドラとの関係においてだった。

アレクサンドラ皇后が結婚してロシアにやってきた時、そもそもが内向的な性格の上、ロシア語が苦手、華やかすぎる宮廷や皇太后とそりが合わず、たちまち孤立。そんな皇后に優しかったのが、同じように外国から嫁いで来ていたミリツァだった。
モンテネグロ王家出身ではあるが、ロシアと比べるなら辺境の小国にすぎない。モンテネグロのネグロとは黒を意味するのと、ミリツァやアナスタシアは黒髪に黒い瞳であったので、それにも因んで黒いイメージが植えつけられていた。
色だけでなく、暗いイメージと結びつけられたのは、彼女達の神秘主義傾向やオカルト趣味に起因した。ただし、この時代、そうした傾向は、ロシアだけでなくヨーロッパの王家ではめずらしいものではなかった。おそらく非難されたのは、皇后を神秘主義に巻き込み、最終的にラスプーチンをもたらしたという点においてだった。
しかし、これについても、皇后は結婚前からそういう性向を持っていたためだと言われている。
黒い家族と言われた彼女達にどんな思惑があったかはわからないが、周囲の宮廷人たちから見て、彼女達が、皇后に取り入ろうとしているかのように感じられて、半分は嫉妬からあだ名されたと考えてよいだろう。
アレクサンドラは、自分の抱えるさまざまな問題を克服しようとして、神以外にもさまざまなものにすがった。特に、男子がなかなか生まれず、ノイローゼ状態。想像妊娠するほどだった。
ミリツァがフランスから連れてきたフィリップ・バショによって祈祷を受け、妊娠したが、生まれたのはアナスタシア皇女だった。
再び、さまざまな呪詛に頼り、待望の皇太子が生まれてからは、その血友病の不安に苦しみ、ラスプーチンが連れてこられた。
相互依存関係にお互い満足したラスプーチンもアレクサンドラも、次第にミリツァたちを遠ざけるようになった。さらに、妹アナスタシアがニコライ・ニコラエヴィチと結婚したことについては、皇后は良しとせず、皇后自らミリツァらを黒い家族と呼んで、以降、疎遠になった。
皇后は、威厳と風格があって、皆に慕われているニコライ・ニコラエヴィチ大公の存在を、皇帝の威信を脅かす者として、常々不愉快に思っていた。ラスプーチンは、皇后に媚びるため、ニコライの失脚を狙っていた。


ミリツァとアナスタシアの長姉ゾルカ(兄弟姉妹は三男九女)はセルビア王ペータル1世との間に五子を産み、産褥死した。生き残った二男一女のうちの一女、イェレナを、ミリツァとアナスタシアで引き取って育てた。
イェレナは、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの長男イオアン公とのちに結婚した。因みに、同じ時期にイオアンの妹タチアナ・コンスタンチノヴナも結婚したが、貴賎結婚になるかどうか波紋を呼んだ一方で、イオアンの相手はセルビア王の娘であり、十分な相手だった。
なお、ミリツァとピョートルの娘ナジェジダは、コンスタンチノヴィチのオレグと婚約していたのだが、オレグは第一次世界大戦で戦死した。

イェレナ・ペトロヴナとイオアン・コンスタンチノヴィチ



ニコラエヴィチ家はそもそもが少なく、革命で処刑された者もいない。もちろんチェカは逮捕の機会を狙っていたが、イギリスへ亡命する機会を得られたことが命を救った。
亡命先では特に政治的に動くこともなく、静かに生活をしていたが、キリルとその息子ウラディミルの皇位継承は承認しなかった。
ピョートルの一人息子ロマンを介して、現代にロマノフの子孫を残している。

ロシア大公家系の末路/コンスタンチノヴィチ家

2016-08-02 22:25:30 | 人物
そのほとんどが革命で殺された
コンスタンチノヴィチ家の不幸
芸術を愛した高貴な家系
付記;タチアナ・コンスタンチノヴナ



ニコライ1世と4人の息子達



ここでもう一度、ニコライ1世の子女を記すと、

❶アレクサンドル2世
②マリア
③オリガ
④アレクサンドラ
❺コンスタンチン
❻ニコライ
❼ミハイル

今回は第五子二男のコンスタンチン・ニコラエヴィチ(1827〜1892)とその子孫の大公、今回は公についても書く。

アレクサンドロヴィチ家は3代続けて皇帝を輩出したので大公は多かったが、1886年の帝室家内法によってコンスタンチノヴィチ家、ニコラエヴィチ家、ミハイロヴィチ家は第三世代以降の子孫は大公にはなれなくなった。発令当時には既に生まれていたコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ家の長男イオアンは、例外なく自動的に大公の位を失い、公になってしまった。
そのため、コンスタンチノヴィチ家は大公は5名までで終わり、次世代の公(愛人や貴賎結婚を除く、ロマノフの正式な公)は5名。革命が起こり、当時存命していた6名のうち4名が処刑された。
アレクサンドロヴィチ家でも、パーリイ公を含めて4名が処刑されたわけだが、かなりの人数が助かっていたことを考えると皮肉である。
尚、今回は人数が少ないので、コンスタンチノヴィチ家の美しい娘タチアナについて、付記したい。ロマノフ家のなかで、最も美しいと思う公女である。

コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の娘 タチアナ公女




〈第Ⅰ世代〉
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
1827〜1892











海軍軍人、のちに兄皇帝の時代になってから海軍元帥に。知性的で人望厚かった叔母エレナ(叔父ミハイル・パヴロヴィチ妃)の薫陶を受け、芸術の才能に恵まれた。ピアノと、特にチェロには優れていた。スマートではないが知的であった。
政治的には改革を兄アレクサンドル2世とともに進めようとし、農奴解放に尽くす。しかし、改革は機が熟さぬまま進められたため、1864年、ポーランドで一月蜂起が起きた。この一件から、兄皇帝は保守に戻り、弾圧を強めていった。
さらに、兄が亡くなり、アレクサンドル3世が即位すると、鬱陶しいと思われていた叔父達は重職を解任された。新皇帝アレクサンドルは強度に保守的でもあり、リベラルは叔父とは合わなかった。アレクサンドルにとって、父を始め、愛人を平気で作り家庭をないがしろにする叔父達は、軽蔑すべき存在でもあった。
コンスタンチン・ニコラエヴィチも、愛人問題で家庭間に亀裂を入れた。それはすぐに、息子の愛人問題となってしっぺ返しがくる。

妻はザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフの娘アレクサンドラ・イオシフォヴナ。コンスタンチンの姉オリガ(ヴュルテンベルク王妃)の結婚式で初対面だったらしい。明るく、上品で、誰からも好感を持たれるエレガントな彼女は、音楽にも優れており、コンスタンチンとも趣味が合った。


アレクサンドラに生まれた子女は以下。

❶ニコライ 1850〜1918
②オリガ 1851〜1926
③ヴェラ 1854〜1912
❹コンスタンチン 1858〜1915
❺ドミトリー 1860〜1919
❻ヴャチェスラフ 1862〜1879


アレクサンドラと子供達(ヴャチェスラフの生まれる前)


60年代後半あたりから、アンナ・クズネツォーヴァというバレリーナを愛人にし、愛人と愛人の子の二男三女を家族と同じ宮殿に住まわせた。


父のこうした振る舞いで、子供達にどういう影響がでるのか。
宮殿内で、アレクサンドラ妃が先代皇帝に贈られた高価なイコンの装飾の宝石が盗まれた。それは、長男ニコライが愛人にそそのかされて盗んだのだった。息子は称号はそのままに、僻地に軟禁、階級剥奪。
母は、息子と夫の背信に苦しみ、神秘主義にのめり込んでいった。さらに追い討ちをかけるように、末子ヴャチェスラフが早逝。
引退後のコンスタンチンは脳卒中で不自由な身体となり、晩年、世話をしたのはアレクサンドラ妃だった。

アレクサンドラ・イオシフォヴナ、娘オルガ・コンスタンチノヴナ(ギリシャ王ゲオルギー1世妃)、孫娘アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ(写真立ての中、生前パーヴェル大公妃)、曾孫娘マリア・パヴロヴナ(デンマーク王子ヴィルヘルム妃)、曾曾孫レンナルト王子



〈第二世代〉
大公はこの世代まで。

ニコライ・.コンスタンチノヴィチ
1850〜1918





父とニコライ

陸軍軍人。陸軍学校では優秀な生徒だった。
しかし、アメリカ女性で高級娼婦?のファニー・リアと関係し、欧州旅行を共にしていた。
その後、ファニーにそそのかされて母のイコンの宝石を盗み、《狂人》とみなされ、国内追放、軟禁される。ファニーは国外追放された。
次には、愛人アレクサンドラ・アバサとの間に一男一女、その後、ナデージュダ・アレクサンドロヴナと貴賎結婚で二男、ダーリヤ・エリセーエヴナ重婚?で二男一女、さらに愛人ヴァレーリヤ・フメリニツカヤと関係。のちに、アレクサンドル3世によって、ナデージュダの二人の子には貴族の位と公の称号が与えられたが、トゥルケスタンに配流された。
軍人としては活躍していたニコライ。トゥルケスタンにおいては、灌漑、運河、工場、美術館など、私財を使って繁栄させた。
愛人の問題さえ除けば、有能だったようだ。
思想は、ロマノフ家でありながら革命に傾倒した。
没年は1918年、1月に肺炎で亡くなっている。ボリシェビキがロマノフ達の処刑に動き出す以前に亡くなったのは幸いだった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ
1858〜1915





コンスタンチン・ニコラエヴィチの二男。
父の愛人問題、8つ上の兄の廃嫡、若いときにそれらを見てきたコンスタンチンは、ロマノフ家に対しての責任を自らに課そうとした。
皇族の一員として海軍に、のちに陸軍に従軍したが、軍人としては有能ではなかった。
むしろ教養高く、優雅で穏やかで、信仰心も厚く、優れた芸術家として皇族の尊敬を集めていた。
К.Р(K.R)のペンネームでの詩作、戯曲、翻訳、演劇、ピアノ、作曲など。ロマノフ家の美貌の傑作ともいえる容姿から奏でられる芸術は、ロマノフ家の最後の栄華を見るようだったろう。

コンスタンチンは、ザクセン=アルテンブルク公女エリザベータ・マヴリキエヴナと結婚。妃は正教に改宗せず、終生、ルター派で通したが、皇位継承順位は低いゆえにそれほど問題にされなかった。エリザベータには芸術的な素養はなかったものの、コンスタンチンとはよい関係だった。
コンスタンチンは日記の中で、自分の同性愛傾向を告白していたが、それは公にはされていなかった。彼のロマノフ家への責任意識により、愛人を作らずよい家庭を作り(もっとも男色なので愛人には手を出さないと思うが)、多くの子女を残した。先述の通り、子の世代は大公ではない。


❶イオアン 1886〜1918
❷ガヴリール 1887〜1955
③タチアナ 1890〜1970
❹コンスタンチン 1890〜1918
❺オレーグ 1892〜1914
❻イーゴリ 1894〜1918
❼ゲオルギー 1903〜1938
⑧ナターリア 1905
⑨ヴェラ 1906〜2001


イーゴリとゲオルギーの間がやや離れている。タチアナの待望の妹はひと月で亡くなり彼女はひどく悲しんだが、小さな妹ヴェラが翌年に誕生した。
兄弟達は皆、長身だが体が弱かった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの子供達全員

家族全員

1892年に父が亡くなった後、兄が廃嫡されていたため、コンスタンチンがコンスタンチノヴィチ家の家長となった。晩年に向かって悲劇は始まりつつあった。第一次大戦が始まると、息子達は従軍していったが、娘婿ムフランスキイと最愛の息子オレーグが戦死した。当時、コンスタンチン自身も長く病の床にあり、悲しみにくれながら1915年に亡くなった。コンスタンチンの葬儀は、革命前のロマノフ皇族最後の葬儀だった。
妻のエリザベータはその後のさらに過酷な運命を生きねばならなかった。病弱なガヴリールだけは釈放されたが、未成年のゲオルギーを除き、他の3人の息子は逮捕され、廃坑で処刑された。
まだ幼いゲオルギーとヴェラを連れて、スウェーデン王太子グスタフ・アドルフやベルギー王アルベール1世の庇護を受け、最後は自分の故郷アルテンブルクに落ち着いた。

亡命中のエリザベータ、タチアナ、ゲオルギー、ヴェラ、タチアナの子



ドミトリ・コンスタンチノヴィチ1860〜1919






コンスタンチン・ニコラエヴィチの三男。
兄コンスタンチン同様、責任感が強く、穏やかだった。音楽にも秀でていた。ピアノが上手だった。
海軍からのちに陸軍に移る。
軍人としても有能であった。配下の軍人達の信望厚く、慕われていた。
思想はリベラルだったが、節度ある人格で、政治に口出ししなかった。皇族の内で、誰からも最も親しまれる大公だった。
結婚せず、子供はいない。そのため、兄コンスタンチンの家のたくさんの子供達をかわいがった。
馬が趣味だった。
しかし視力をほとんど失っており、寡婦となっていたコンスタンチンの娘、タチアナが世話をしていた。

革命後は姪の世話を受けながら暮らしていたが、やがて逮捕され、1918年春からは国内流刑。
1919年1月、ペトログラードに戻され、共に監禁されていたニコライ・ミハイロヴィチ、ゲオルギ・ミハイロヴィチ、別で送られてきた病臥のパーヴェル・アレクサンドロヴィチとともに処刑された。


ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ
1862〜1879





後方に立っているヴャチェスラフ、左ドミトリ、中央コンスタンチン、母

コンスタンチン・ニコラエヴィチの四男。
16歳で脳出血で死去。





付記
タチアナ・コンスタンチノヴナ
1890〜1970

父のプロデュースする劇では家族や親族が演じる
タチアナは妖精のスタイル


コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の第三子長女。男子の多い兄弟の中で、16歳年下の妹ができるまでの長い間、一人娘だった。
父の才能を継いで、ピアノが上手だった。














タチアナが宮廷にデビューしたのは14歳のとき。
1904年秋の、アレクセイ皇太子の洗礼式のときであった。
写真のようなコートドレスに白い手袋。
年齢の近い皇族では、ドミトリー・パヴロヴィチやアンドレイ・ヴラディミロヴィチがいる。





21歳のタチアナが結婚相手に選んだのは、2歳上のコンスタンチン・バグラティオニ=ムフランスキイ公。
グルジア王家バグラティオニ家の末裔ではあるが、王族とは見なせず、貴賎結婚にあたる。当然、両親の反対にあったが、タチアナは諦められなかった。ところが、皇帝(ニコライ2世)は、結婚相手はグルジアの王族であると、あっさり承認。貴賎結婚ではない、とお墨付きをもらえた。正教徒であるという点では問題なかった。
これは、キリル大公の貴賎結婚問題と比較するなら、特例とも考えられるような皇帝の判断だった。問題が、皇位継承順位が比較的高い大公の場合と、皇位とはほぼ無関係の公女の場合とで、判断を変えている可能性もあるが、革命後のキリル大公の皇位請求の正統性に大きく影響する前例になり得る。
ともかく、タチアナの結婚は祝福され、皇帝も翌年1911年の結婚式に参列した。しかし、二人の幸せのピリオドは、あっという間に打たれてしまう。





1914年、第一次大戦。
この年、弟オレーグが戦死。
その翌年、ムフランスキイ公が戦死。
タチアナたちは、1912年に長男と1914年に長女が誕生しており、幸せな家庭が築かれ始めた矢先の不幸となった。そして同じ年、父が亡くなる。
タチアナは幼子二人を連れて、叔父ドミトリの住むストレーリナのコンスタンチン宮殿に身を寄せ、目の悪い叔父「第二の父」の世話もしていた。
革命後、ロマノフの大公たちは軟禁され、逮捕され、投獄されるようになったが、タチアナはドミトリ叔父が投獄されるまでずっと、幼子二人とともに連れ添った。母や弟妹は、スウェーデン王室の招きで国外避難していたが、タチアナは叔父のために同行しなかった。
ドミトリ叔父は収監される前に、タチアナ家族を国外脱出させるよう、それまで自分に側近く仕えてくれた直属士官アレクサンドル・コロチェンツォフに同行を頼んだ。
ルーマニアを経由してスイスに落ち着いたのは1921年。その地で、タチアナはコロチェンツォフと結婚。タチアナより13歳年上である。
ところが、結婚の数カ月後に、コロチェンツォフは急病で亡くなってしまった。

タチアナの子供達 ティムラスとナタリア

タチアナ(中央)と子供達

子供達が独立した後、1946年にタチアナはスイスで修道尼となった。
その後、イスラエルのエルサレムの修道院に移り、その地で亡くなり、埋葬された。
尼としての名はタマラ。最初の夫の故郷グルジアのバグラティオニ王家の12世紀の女王の名をいただいている。
タチアナは1979年まで生きた。
革命後の流転の生涯を、シングルマザーとして生きねばならなかった。
亡命先で、比較的優雅に過ごせた元皇族は多い一方、その元の位に頼って他者にぶら下がることもなく、タチアナはつらい運命を、孤高に、立派に生きた。




壁面にはアレクセイ・ニコラエヴィチ、マリア・フョードロヴナ?、ニコライ2世?
おそらくロマノフの肖像画が飾られているようだ


タチアナの生涯についてはこちらに詳しいです

The destiny of the princess of the blood royal/Igor Obolensky



タチアナの息子ティムラス1912〜1992は、ニューヨークでトルストイの娘が設立したトルストイ・ファウンデーションに従事した。それ以前は、ユーゴスラビアで従軍していた。
2度の結婚でいずれも子供はいない。
タチアナの結婚に際して、その子孫の皇位継承権放棄にタチアナが署名している。
上は、トルストイ・ファウンデーションHPでの紹介ページ。




タチアナの娘ナタリア1914〜1984はイギリス貴族と結婚した

ロシア大公家系の末路/アレクサンドロヴィチ家

2016-07-27 18:57:21 | 人物
アレクサンドル2世からニコライ2世へ
アレクサンドロヴィチ家系の4代17名の大公


アレクサンドル2世治世当時の大公たち

前記事にて取り上げたニコライ1世の子女は以下の大公4名である。

❶アレクサンドル2世 1818-1881
②マリア 1819-1876
③オルガ 1822-1892
④アレクサンドラ 1825-1844
❺コンスタンチン 1827-1892
❻ニコライ 1831-1891
❼ミハイル 1832-1909

今回からは、この4名の大公の分家ごとに、ロシア革命でのロマノフ王朝消滅までの大公について、今回は長男アレクサンドルに連なるアレクサンドロヴィチ家系を書く。

このアレクサンドロヴィチ家系から、帝政の最後まで三代(ミハイルを数えると四代)の皇帝が輩出された。



《アレクサンドロヴィチ家系》

第Ⅰ世代
アレクサンドル・ニコラエヴィチ

第Ⅱ世代
ニコライ・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
ボリス・アレクサンドロヴィチ


第Ⅲ世代
ニコライ・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
ミハイル・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・ウラジミロヴィチ
キリル・ウラジミロヴィチ
ボリス・ウラジミロヴィチ
アンドレイ・ウラジミロヴィチ
アレクセイ・アレクシエーヴィチ
ドミトリー・パヴロヴィチ
ウラジーミル・パヴロヴィチ

第Ⅳ世代
アレクセイ・ニコラエヴィチ
ゲオルギー・ミハイロヴィチ

⬆︎グレーは貴賎結婚などにより大公の称号を与えられなかった皇族




〜第Ⅰ世代〜
アレクサンドル2世
1818〜1881



ニコライ1世の第一子長男として生まれたアレクサンドルは、父が1925年に即位して以来、次期皇帝として帝王教育を授けられ、様々な分野の学問やドイツ語、フランス語、英語、ポーランド語などを習得した。





1841年、ヘッセン大公家マリーと結婚。
1855年、アレクサンドル2世として即位。前皇帝のときから窮状にあったクリミア戦争は敗北。前近代的なロシアを上からの改革によって西欧化し、改造をすすめる一方、専制君主制は強化した。
改革として、農奴解放令、司法権の行政権からの独立、無償の基礎教育、女子教育、全身分の男子からの徴兵があり、工業の発展には効果があったが、反面、農業は後退した。
ポーランド、ウクライナ、ベラルーシでの民族運動を弾圧し、多くをシベリア流刑に送った。
また、庶民は教育を受けたことで啓蒙に目覚め、それが抵抗運動、やがて革命を導くことにもなった。暗い革命の胎動とともにアレクサンドル自身も暗殺される。

アレクサンドルには皇后マリア・アレクサンドロヴナとの間に6男2女。1880年、長く患っていた皇后の死後すぐに、29歳年下の愛妾エカテリーナ・ドルゴルーコヴァと結婚。既に、皇帝の子である2男2女がいた。


①アレクサンドラ 1842〜1849
❷ニコライ 1843〜1865
❸アレクサンドル3世 1845〜1894
❹ウラジーミル 1847〜1909
❺アレクセイ 1850〜1908
⑥マリア 1853〜1920
❼セルゲイ 1857〜1905
❽パーヴェル 1860〜1919

❶ゲオルギー 1872〜1913
②オリガ 1873〜1925
❸ボリス 1876
④エカテリーナ 1878〜1959


第一子アレクサンドラと末子エカテリーナとの歳の差は36。エカテリーナはアレクサンドルが60歳のときに生まれている。この時点までに孫は外孫も入れると12名が生まれていた。
当然、ドルゴルーコヴァとの結婚は皇族から苦々しく思われ、私生児たちの皇位継承権獲得を阻む動きもあり、結局、継承権も大公の称号も愛妾の子には与えられず、愛妾も皇后にはなれなかった。ドルゴルーコヴァが皇帝を「サーシャ」と愛称で呼び、皇帝もまるで10代の青年のようだったというから、家族はそうとう見るに耐えなかっただろう。
皇帝崩御後、即位したアレクサンドル3世によってドルゴルーコヴァと子供達は、持参金をあてがわれて、宮殿どころかロシアからも出された。


マリア・アレクサンドロヴナの子供達
夭折したアレクサンドラと末子パーヴェルを除く


ドルゴルーコヴァ(ユーリエフスカヤ公女)と子供達 夭折したボリスと末子エカテリーナを除く)

アレクサンドル2世、皇后マリア、ウラジーミル、アレクセイ、アレクサンドル皇太子、マリア皇太子妃、マリア、パーヴェル、セルゲイ


〜第Ⅱ世代〜
6名の大公がいる。


ニコライ・アレクサンドロヴィチ
1843〜1865





1855年、父の即位により11歳でツェサレーヴィチ(皇太子 Цесаревич)になる。
父母は特別に心を注いでニコライを育てた。デンマーク王女ダウマーと婚約後、南仏旅行中に髄膜炎になったが、誤診により病状を軽く見て旅を継続して悪化、途上で急死した。ダウマーと弟アレクサンドルとの結婚を望むと遺言した。


アレクサンドル3世
1845〜1894





軍人としての経歴を積んでいこうとしていたところで、兄の急死によりツェサレーヴィチとなった。内気で社交性に欠けるところは妃が補った。
父アレクサンドル2世暗殺により即位したあとは、内政を厳しくし、容赦ない弾圧も行った。
ストレスによる過度の飲酒喫煙で腎臓を悪くして病没。


ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
1847〜1909

左 アレクサンドル 右 ウラジーミル



メクレンベルク=シュベリーンから迎えたマリーを妃に迎えたが、マリーは結婚に際して正教への改宗を拒否したため、生まれた子供に皇位継承権はなかった。のちに、甥ニコライ2世の子に病弱な男子1人しかいなかったことと、ミハイルが貴賎結婚で皇位継承権を剥奪されたことにより、我が子に皇位継承の可能性が見えてきたため、晩年になってから正教へ改宗した。
ニコライ2世妃アレクサンドラに対抗するかのごとく、ロマノフ家の社交界を我が物としていた。


ウラジーミルと妹マリア
ウラジーミルの息子キリルとマリア(ザクソン=コーブルク=ゴータ公アルフレート妃)の娘ヴィクトリア・メリタ(再婚)が結婚してできた子孫が現在まで代々、皇帝を自称し続けているが、正統性に問題がある



アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
1850〜1908





左上から アレクサンドル3世 セルゲイ マリア皇后 アレクセイ エリザベータ
左下から ニコライ ゲオルギー パーヴェル


海軍で経歴を積む。
兄の即位後、叔父コンスタンチン・ニコラエヴィチに代わって海軍最高責任者となる。その後、日本海海戦での敗北の責任を取らされ、解任された。
詩人の娘で年上の平民女性との貴賎結婚(正式に確認されていない)により、皇位継承権を失う。
アレクセイの息子アレクセイ・アレクシエーヴィチ(1871〜1931)は皇帝の孫だが、貴賎結婚のため大公の称号は授けられない。
兄ウラジーミル同様、外遊が派手で評判が悪かったが、アレクセイは甥ニコライには慕われていた。


セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
1857〜1905






姉マリアを挟んで、上の兄たちとは7〜14歳離れている。3歳下の弟パーヴェルとはとても親しく過ごした。
語学、芸術に精通し、信仰心も篤かった。
非常に厳格な人格であり、モスクワ総督を務めた間も、市民活動に対し厳しく弾圧を加えた。
1905年、爆弾テロにより暗殺された。
エリザベータ妃との間に子はなかった。
同性愛者だったと言われているが確証はないもよう。


パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
1860〜1919



母マリア・アレクサンドロヴナは肺を患い、療養先には下の2人の息子を連れて行くことが多かった
母の実家のヘッセン大公家で、遠戚のエリザベータと面識があり、のちに兄セルゲイが結婚した




アレクサンドル2世とマリア・アレクサンドロヴナとの末子。騎兵隊長。
ギリシャ王女アレクサンドラ・ゲオルギエヴナと結婚したが、アレクサンドラは2人目を妊娠中に川で事故に遭い、早産して他界。兄セルゲイの宮殿に滞在中のことであった。未熟児はセルゲイによって育てられた。
一方、パーヴェルは平民の既婚女性の離婚を待って結婚を希望したが、この貴賎結婚が波紋を呼び、ニコライ2世は叔父パーヴェルに様々な権利放棄と国外追放を迫った。パーヴェルは新しく生まれた幼児を連れて、新家族でパリに暮らす。アレクサンドラの遺児マリアとドミトリはセルゲイが養父となった。
第一次大戦開戦時に帰国と権利を認められ、再び従軍。
温厚なジェントルマンであるパーヴェルは、他のロマノフ皇族のように皇后アレクサンドラに冷たく当たる事なく、最後まで親和的な態度だった。
しかしパーヴェルの息子ドミトリ大公によって皇后が心酔するラスプーチンが殺害されたことは、ささやかな亀裂を生じさせただろうか。
革命が迫ると、皇帝に議会に対し譲歩するよう説いたが受け容れられなかった。
革命後は、病の床についていたパーヴェルは当初は自宅療養を許されていたが、1919年1月28日、既に捕らえられて監獄から連れてこられた他のロマノフ皇族3人とともにペトロハバロフスク要塞で銃殺された。重病であったパーヴェルは、厳寒の中、担架で運ばれてきてそのまま撃たれた。
パーヴェルには再婚相手とのあいだに1男2女があったが、貴賎結婚のため、子供は大公ではなかった。
その長男ウラジーミル・パヴロヴィチ・パーリイ公(1897〜1918)は、すでに前年7月に、他の皇族とともに処刑されていた。

21歳で処刑されたウラジーミル・パヴロヴィチ・パーレイ公(別記事あり)


〜第Ⅲ世代〜
9名の大公がいる。

アレクサンドル3世の子女《アレクサンドロヴィチ》は以下。

❶ニコライ2世 1868〜1918
❷アレクサンドル 1869〜1870
❸ゲオルギー 1871〜1899
④クセニア 1875〜1960
❺ミハイル 1878〜1918
⑥オリガ 1882〜1960

ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ《ウラディミロヴィチ》の子女は以下。

❶アレクサンドル 1875〜1877
❷キリル 1876〜1938
❸ボリス 1877〜1943
❹アンドレイ 1879〜1956
⑤エレナ 1882〜1957

パーヴェル・アレクサンドロヴィチ《パヴロヴィチ》の子女は以下。

①マリア 1890〜1958
❷ドミトリ 1891〜1941


《アレクサンドロヴィチ》

《ウラディミロヴィチ》

《パヴロヴィチ》ロシアに残ることを許された子供達

大公の称号を剥奪され国外追放となっているため、この時点では大公ではないが、参考のため↓
《パヴロヴィチ》パーヴェルの新家族
後妻の連れ子3人(後方)と、パーヴェル、妻、妻の母、娘イリナ、息子ウラジーミル
大公はパーヴェルのみ



《アレクサンドロヴィチ家》

ニコライ2世
1868〜1918





皇太子アレクサンドルの第一子として生まれ、13歳からツェサレーヴィチとなる。ニコライの名は、亡くなった伯父から取ったと言われる。
アレクサンドル2世によって近代化と改革へ針路を切ったロシアは、ニコライの時代には民の衝動に火が着き、暴走。大戦時の厭戦の空気が暴走を加速させ、皇帝は権威を取り上げられ、やがて家族諸共に処刑された。(別記事あり)


アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1869〜1870 夭折

ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
1871〜1899





兄ニコライと共に育てられた。性格は対照的で、兄より活発でユーモアがあり魅力があった。
海軍に入隊する直前に結核にかかり、以後、カフカスの地で1人、療養していた。
自転車で1人で外出中にひどい喀血をし、皇太子とは知らない通りがかりの農婦の介抱を受けながら亡くなった。ゲオルギーは母マリア・フョードロヴナのお気に入りだった。


ミハイル・アレクサンドロヴィチ
1878〜1918





別記事あり

兄達とは歳が離れているため、妹オリガと過ごすことが多かった。大らかで権力に欲が無く、リベラルであった。
当初、従妹のベアトリス(マリア・パヴロヴナの娘でヴィクトリア・メリタの妹)との結婚を望んだが、正教の規定に違反する従妹どうしの結婚をニコライ2世は許可しなかった。すると次は、妹オリガの女官の平民との結婚を希望するが、許される訳はなく、その次はとうとう平民の、離婚歴まである女性と極秘結婚をした。
革命時、ミハイルは臨時政府との調整に叔父パーヴェルと共に尽力したにもかかわらず、帝政を守ることはできなかった上、ロマノフ家のなかで一番最初にただ1人で処刑された。


《ウラディミロヴィチ家》

アレクサンドル・ウラディミロヴィチ
1875〜1877 夭折

キリル・ウラディミロヴィチ
1876〜1938





海軍で経歴を積む。
キリルの結婚には様々な問題があった。相手は従妹で幼なじみだったヴィクトリア・メリタであるが、まず、ロシア正教ではいとこどうしの結婚は原則として認められず、皇帝の許可が必要ということ、ヴィクトリア・メリタは再婚であるが、再婚が認められるのは元の配偶者と死別した場合に限るということ。さらに、彼女の元配偶者はアレクサンドラ皇后の兄のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒであったため、皇帝や皇后が許すはずはなかったし、父母も結婚には反対したが、結婚を押し通し、称号、年金、役職を失い、国外追放となった。
しかし、父ウラジーミル死去後に許されて、アレクセイ皇太子、ミハイルに次いで皇位継承権第3位となった。
革命後、ニコライ、アレクセイ、ミハイルの処刑が確認されると、キリルは亡命先で皇位請求者として名乗りを上げ、やがて皇帝を自称した。
ただし、キリルが生まれた段階では母マリア・パヴロヴナは正教に改宗していなかったため皇位継承権を持たないということ、2月革命が起きるとすぐに赤いリボンを着けて臨時政府支持を表明したこと、これらにより、生き残ったロマノフの他の人々によって、その帝位請求は拒否された。
キリルはそれでも皇帝を自称、子らにも大公の称号を使わせた。
キリルの死後は、息子ウラジーミルが筆頭皇位請求者を自称した。ウラジーミルは革命後にロシア国外で生まれており、これもまた正統性がない。ウラジーミルの結婚相手は、ロシア皇族でも他国の王族でもなかったため、家内法によれば貴賎結婚にあたり、そうなればその子に皇位継承権はない上、男子がなかったため、ウラジーミル自身が勝手に、次代皇位請求者を自分の娘マリアに指定。
ウラジーミルの死後はマリアの即位と同時に、この勝手な規定を無視してニコラエヴィチ家からも皇位請求者が立った。
これがさらに、ロマノフ家の禍根を深くした。


ボリス・ウラディミロヴィチ
1877〜1943





母に溺愛され、放蕩暮らしの借金の肩代わりを母にさせ、プレイボーイで、愛人は数知れず。ルーマニア王妃マリーとも関係していた。貴賎結婚でできた男子ボリス(1902〜1984)あり。
革命後はカフカスで、母、アンドレイとそれぞれの愛人とともに逃避暮らしをしていたが、1918年夏、アンドレイとボリスは処刑されようとしていた。しかし、顔見知りの処刑者に釈放され、国外に逃げて命拾いした。


アンドレイ・ウラディミロヴィチ
1879〜1956





叔父にあたるセルゲイ・ミハイロヴィチとマチルダ・クシェシンスカヤとの三角関係で有名。マチルダは若い頃のニコライ2世の愛人でもあり、ロマノフ家の一員になりたいという願望があった。
マチルダの一人息子ウラジーミルは、セルゲイの子かアンドレイの子か判然としないが、セルゲイが母子を養育し、後にセルゲイが処刑され、母マリア・パヴロヴナも亡くなると、マチルダはアンドレイと結婚した。後になってマチルダは、ウラジーミルはアンドレイの子だったと言っている。
晩年、アンナ・アンダーソンをアナスタシア皇女であると信じて、熱心に支援していた一人である。マチルダも、アンナに会い、眼の色が元恋人ニコライを彷彿とさせると言っていた。
別記事あり


《パヴロヴィチ家》

ドミトリ・パヴロヴィチ
1891〜1941



別記事あり

ドミトリは革命時には他国の戦線に派遣されていたため、逮捕を免れた。
裕福なアメリカ女性と結婚し、男子パーヴェル(1924〜2004)が生まれる。離婚後は姉を頼った。
ドミトリもパーヴェルも、ロマノフの遺産相続や皇位継承には関心がなく、権利を放棄している。



〜第Ⅳ世代〜
大公は1名のみ。
家内法により、ウラディミロヴィチ家やパヴロヴィチ家は、この世代では大公とはならない。
アレクサンドロヴィチ家においては、ゲオルギーは未婚で早逝、ミハイルは貴賎結婚のため、子は大公の称号を得られない。

ニコライ2世の子女は以下。

①オリガ 1895〜1918
②タチアナ 1897〜1918
③マリア 1899〜1918
④アナスタシア 1901〜1918
❺アレクセイ 1904〜1918

《ニコラエヴィチ》


アレクセイ・ニコラエヴィチ
1904〜1918





誕生した時からツェサレーヴィチ。
待望の皇位継承者として生まれたにもかかわらず、母系から遺伝する血友病によって、何度も生死の境に立った。病により、成人するまで生きるのは困難とみなされていたが、結局、元皇帝の家族あるいは元皇位継承者として13歳で銃殺された。
家族とは別の場所に埋められたため、長らく遺体の所在が不明だったが、数年前にようやくDNA鑑定で決着した。





ロシア大公家系の末路 序/ニコライ1世

2016-07-16 19:45:47 | 人物
大公という称号

英語でいうgrand Duke、あるいはgrand Prince、ロシア語のВеликий князь(ベリーキークニャージ)、日本語の大公



皇帝の男系子孫に名乗ることが許される称号であったが、19世紀末期のロシアでは、ニコライ1世の男子子孫が多く、大公の人数が20を超えたことにより、大公の持つ権威弱体化と皇室経費膨大化を回避するために、1886年7月14日、アレクサンドル3世は家内法を定め、大公の称号は皇帝の息子および男系孫のみに許すものとした。
なるほど、ピョートル3世以降に連なる、ロマノフ=ホルシュタイン=ゴットルプ家で、1728年のピョートル3世誕生からの100年間では新たに生まれた大公はたった8人であったのが、その後、革命までのおよそ90年の間に30人が生まれている。
年代で見ると、1830年代2人、1840年代3人、1850年代6人、1860年代10人、1870年代7人、1880年代1人、1890年代なし、1900年代1人である。
1880年代以降の激減は、家内法による他、大公らの貴賎結婚が思いの外多かったことにもよる。
ロシア革命当時、存命していた大公16人中、処刑された者は8人、亡命した者も8人だった。


一覧
革命後存命
革命後処刑

1728 ピョートル・フョードロヴィチ (ピョートル3世)
1754 パーヴェル・ペトロヴィチ (パーヴェル1世)
1777 アレクサンドル・パヴロヴィチ (アレクサンドル1世)
1779 コンスタンチン・パヴロヴィチ
1796 ニコライ・パヴロヴィチ(ニコライ1世)
1798 ミハイル・パヴロヴィチ
1818 アレクサンドル・ニコラエヴィチ (アレクサンドル2世)
1827 コンスタンチン・ニコラエヴィチ
1831 ニコライ・ニコラエヴィチ
1832 ミハイル・ニコラエヴィチ
1843 ニコライ・アレクサンドロヴィチ
1845 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(アレクサンドル3世)
1847 ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
1850アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
1856 ニコライ・コンスタンチノヴィチ
1856 ニコライ・ニコラエヴィチ
1857 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
1858 コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ
1859 ニコライ・ミハイロヴィチ
1860 ドミトリ・コンスタンチノヴィチ
1860 パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
1861 ミハイル・ミハイロヴィチ
1862 ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ
1863 ゲオルギ・ミハイロヴィチ
1864 ピョートル・ニコラエヴィチ
1866 アレクサンドル・ミハイロヴィチ
1868 ニコライ・アレクサンドロヴィチ(ニコライ2世)
1869 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1869 セルゲイ・ミハイロヴィチ
1871 ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ
1875 アレクサンドル・ウラジミロヴィチ
1875 アレクセイ・ミハイロヴィチ
1876 キリル・ウラジミロヴィチ
1877 ボリス・ウラジミロヴィチ
1878 ミハイル・アレクサンドロヴィチ
1879 アンドレイ・ウラジミロヴィチ
1891 ドミトリ・パヴロヴィチ
1904 アレクセイ・ニコラエヴィチ

男子が複数生まれて分家が広がったのは、ニコライ1世の子の代以降である。
ニコライ1世の男子は、

アレクサンドル・ニコラエヴィチ
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
ニコライ・ニコラエヴィチ
ミハイル・ニコラエヴィチ

ニコライ1世の没後のおよそ60年間の、ロマノフ4分家(アレクサンドロヴィチ、コンスタンチノヴィチ、ニコラエヴィチ、ミハイロヴィチ)について、回を分けて見ていく。
今回は起点として、ニコライ1世についてのみを書く。




ニコライ1世

ニコライ1世
1796-1855 在位1825-1855

父は先先代のロシア皇帝パーヴェル1世、前皇帝は兄のアレクサンドル1世である。
母はマリア・フョードロヴナ(1759-1828)

先先代皇帝パーヴェル1世 ニコライ1世の父

ニコライの母マリア・フョードロヴナ
パーヴェル1世の二人目の妃
最初の妃ナタリア・アレクセーエヴナは第一子を死産後に身体を悪くして亡くなった




パーヴェル1世の子女は以下の通り。

❶アレクサンドル1世 1777-1825 在1801-1825
❷コンスタンチン 1779-1831
③アレクサンドラ 1783-1801
④エレナ 1784-1803
⑤マリア 1786-1859
⑥エカチェリーナ 1788-1819
⑦オリガ 1792-1795
⑧アンナ 1795-1865 オランダ王ウィレム1世妃
❾ニコライ1世 1796-1855 在1825-1855
➓ミハイル 1798-1849

アレクサンドル1世とニコライ1世との年齢差は19である。父パーヴェル1世が暗殺された時には、ニコライはまだ4歳。パーヴェル1世の暗殺には、長男アレクサンドルが関与していたとも言われている。アレクサンドルは、パーヴェルを嫌うエカテリーナ2世に大変可愛がられていた。パーヴェルは即位するとすぐに帝位継承法を制定して、以後、帝位継承は男子のみにしか認めないものとし、それ以外でも母の政治方針を全て覆した。
のちに、この帝位継承法の存在がニコライ2世と皇后に過大なストレスを加えることになったことは、ロシア帝政崩壊を加速させたと言える。

先代皇帝で兄のアレクサンドル1世 幼少時

アレクサンドル1世 青年期

アレクサンドル1世

アレクサンドル1世妃エリザベータ・アレクセーエヴナ 女子二人を生んだがいずれも愛人の子で早逝した アレクサンドル1世の庶子(女子)を育てる


パーヴェル1世の兄弟姉妹は、男子4人女子6人。
男子はそれ相応に生きたが、女子は3人が若くして亡くなっている。アンナはオランダ王ウィレム2世妃となり、次王ウィレム3世を生んだ。のちにウィレム3世には三男一女が生まれたが、王位継承前に男子は皆亡くなり、ウィルヘルミナが女王となった。

アレクサンドラとエレナ 二人とも10代で同じ頃に結婚し、アレクサンドラは第一子出産後、エレナは第二子出産後に亡くなった

アンナ のちにオランダ王妃


二男コンスタンチンは、最初の結婚は相手が故郷に帰ってしまって戻ることを拒否、のちに離婚が成立したが、次の結婚では貴賎結婚だったため、帝位継承権を放棄した。アレクサンドル1世には男子の継承者はおろか、正式な子はなかった。そのため、アレクサンドル1世亡き後は弟で三男のニコライが次の継承者となった。

アレクサンドル1世崩御

アレクサンドル1世のデスマスク

1825年即位後、ニコライ1世は汎スラヴ主義を掲げ、厳格な専制政治を貫いた。ポーランドやハンガリーの独立運動を鎮圧。アルメニア併合。日露和親条約を結び、東アジアへ進出。南部ではオスマン帝国とクリミア戦争にもつれ込む。
様々な苦境にさらされたまま、あっけなくインフルエンザに罹って崩御した。
妻はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世元王女シャルロッテ・フォン・プロイセン、ロシア名アレクサンドラ・フョードロヴナである。
自分付きの女官が夫の愛妾になっても、夫の死後もその愛妾と親しくし、宮殿(アレクサンドル宮殿:エカテリーナ2世が息子アレクサンドルの結婚を記念して建設した宮殿で、代々の皇帝が夏の宮殿として利用。最後のニコライ2世は常住した)でともに暮らした。

ニコライ1世

ニコライ1世

ニコライ1世妃 アレクサンドラ・フョードロヴナ


ニコライ1世の子女。

❶アレクサンドル2世 1818-1881
②マリア 1819-1876
③オルガ 1822-1892
④アレクサンドラ 1825-1844
❺コンスタンチン 1827-1892
❻ニコライ 1831-1891
❼ミハイル 1832-1909

三姉妹について。

②マリア・ニコラエヴナ
長女マリアはロイヒテンブルク公マクシミリアンと恋愛の末結婚し、7人の子を授かり、マクシミリアンの死後に再婚、2人を授かるが、貴賎結婚のため父皇帝存命中は極秘であった。美術に関心が高く、イタリアで数多くの作品を蒐集した。

マリア・ニコラエヴナ ロイヒテンブルク公マクシミリアン妃


③オルガ・ニコラエヴナ
二女オルガはヴュルテンベルク国王カール1世妃となる。子女は授からなかった。

オルガ・ニコラエヴナ ヴュルテンベルク国王カール1世妃


④アレクサンドラ・ニコラエヴナ
三女アレクサンドラはヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒと結婚したが、ロシアを離れる前に肺病になり、出産もしたが母子とも生きられず、子を抱いた姿で埋葬された。
このころ、ロシアではアレクサンドラという名を付けられた子は不幸な若死が多かったため、避ける傾向にあったにもかかわらず、やはりこういう結果になってしまった。
他には、
アレクサンドラ・パヴロヴナ 1783-1801
アレクサンドラ・ミハイロヴナ 1831-1832
アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ 1842-1849
アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ 1870-1891

パヴロヴナ、ゲオルギエヴナも、出産後すぐに亡くなった。ゲオルギエヴナの嬰児は助かり、革命後も生き残った大公ドミトリ・パヴロヴィチである。

アレクサンドラ・ニコラエヴナ ヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ妃

オルガとアレクサンドラ


それでは、のちに4分家を築く男兄弟についてを見る。

兄弟姉妹の構成を見ると、二男以下は、嫡男アレクサンドルとの間に三姉妹がはさまっているので歳の差が開いており、二男コンスタンチンで9つ、四男ミハイルは14歳の差がある。
アレクサンドル2世は即位時は37歳、弟達は23〜28歳であった。アレクサンドルは若い弟達に権威を授けるべく、軍人として活躍して名を上げられるよう重要なポストに就かせたが、どの弟もあまり実績を上げることはできなかった。

1855年、兄皇帝が暗殺され、甥のアレクサンドルがアレクサンドル3世として即位すると、新皇帝の叔父である3人はことごとく影響力を取り払われた。ミハイルは、1894年のアレクサンドル3世の没後も存命であったが、新しく即位したニコライ2世は大叔父ミハイルに対し敬意をもって接した。

ロシア帝国の最後まで、アレクサンドルの男系子孫が絶えなかったため、コンスタンチン、ニコライ、ミハイルの系統から皇帝が出ることはなく、そのため彼らの2代下からは家内法により、大公の位を失う。


アレクサンドロヴィチ、コンスタンチノヴィチ、ニコラエヴィチ、ミハイロヴィチの各系の子孫については、次回から順次、記事に上げていきます。

ニコライ2世戴冠式式次第(?)より
ニコライ2世

アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后

左から右下 マリア・フョードロヴナ皇太后、ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ皇太子、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公、オルガ・アレクサンドロヴィチ大公女

ウラディミル・アレクサンドロヴィチ大公、マリア・パヴロヴナ大公女、キリル・アレクサンドロヴィチ大公、ボリス・アレクサンドロヴィチ大公、エレナ・アレクサンドロヴィチ大公女、アンドレイ・アレクサンドロヴィチ大公

リュクセンブルク大公アドルフ、モナコ大公ルイ、オルデンブルク大公フリードリヒ・アウグスト、プロイセン大公ハインリヒ、プロイセン大公女イレーネ、ルーマニア大公フェルディナント、ルーマニア大公女マリア

ザクソン=コーブルク=ゴータ公アルフレート、マリア・アレクサンドロヴナ大公女、アルフレート、ベアトリス

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公、エリザベータ・フョードロヴナ大公女、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公、ドミトリ・パヴロヴィチ大公、マリア・パヴロヴナ大公女

ミハイル・ニコラエヴィチ大公、ニコライ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギ・ミハイロヴィチ大公、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公、クセニア・アレクサンドロヴナ大公女、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公

ヴュルテンベルク大公女エルザ、ヴュルテンベルク大公女ヴェラ、ヴュルテンベルク大公女オルガ、ヴュルテンベルク大公アルブレヒト、ヘッセン大公女、ヘッセン大公、ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルク、ヴィクトリア・フォン・バッテンベルク

オルガ・コンスタンチノヴナ大公女、ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ大公、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公、ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公、デンマーク大公フレゼリク?、アナスタシア・ミハイロヴナ・メクレンベルク=シュベリーン大公女、イタリア大公ヴィットール・エマヌエーレ