名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

平家物語 修羅の最期 〜妹尾・十六

2016-10-14 21:04:48 | 人物
三. 父子兄弟
話は戻り、木曾義仲が水島の戦いに敗れた頃。
音に聞こゆる剛の者、平家方の妹尾兼康は倉光次郎成澄に生け捕りにされ、斬られるところを木曾殿が、あたら男を失うべきではない、と成澄の弟・三郎成氏に預けた。気立ての良い妹尾は倉光にもねんごろにもてなされたものの、いつか必ず平家方に帰ろうと密かに時を待っていた。
かりそめに木曾殿に忠誠を誓い、故郷は良馬の飼育によいから案内したいと持ちかけた。
倉光や郎党を引き連れ、宿で酒に酔わせ、残らず刺し殺した。
周囲に声をかけ、手勢を集め、城郭をこしらえ、木曾の軍勢を待つ。

「にっくき妹尾め、斬って捨べきであったのに、ゆだんしてはかられたのは残念」
と義仲は、後悔した。
「きゃつの面魂はただ者とは思われませんでした。それゆえそれがしが、千たびも斬ろうとあれほど申せしに」
今井四郎(兼平)がそう言うと、義仲は、
「何ほどのことやあらん。追いかけて、討て」
と言った。


今井が三千騎を率いて、妹尾と向き合った。

籠城する妹尾と攻城する今井。
妹尾は城郭を破られ、落ちていく。
たばかられた倉光三郎の兄、倉光二郎と組んでその首も落とし、落ちて行こうとするが、妹尾の嫡子小太郎宗康、二十歳は太っていて走って来れない。妹尾は見捨ててしばらく行くが、馬を止めて言った。

「日ごろは千万の敵に会っていくさをしても、四方に一片の雲もなく、晴々とした気もちでおったが、今日は小太郎を捨てて行くためか、いっこうに先が暗くて、見えぬ。たとえこんどのいくさに命ながらえてふたたび平家の味方へまいったとしても、『兼康は、六十に余る齢をして、あといくつまで生きようと思って、一人しかない子を捨てて逃げてきたのか』などと同輩どもに言われるのが残念だ」
「さればこそ御一所でいかようにもならせたまえと、申し上げたではございませぬか。お引き返しなされませ」と郎党が言うので、兼康は引き返した。案のじょう、小太郎宗康は、歩けないほど足がはれて突っ伏していた。妹尾太郎は急いで馬から飛んでおり、小太郎の手をとって、
「お汝といっしょに討ち死にしようと思って、ここまで引き返してきた」
と言うと、小太郎は涙をはらはらと流して、
「たといわたくしこそ未熟のため、ここにて自害いたすとも、わたくしのために父上の御命まで失い参らすことは、五逆の罪にも当たりましょう。ただ疾う疾うお逃げのびくだされ」
と言ったが、
「いやいや、もはや思いきめた上は」


そこに、今井を先頭に五十騎が追いかけてきた。
妹尾は矢をさんざんに射、太刀を抜いて、まず小太郎の首を打ち落とすと、敵の中に入って多くを討ち取り、ついに討ち死にした。郎党も死力を尽くして戦い、果てた。
さらされた主従三人の首級を見た木曾殿は、
「げに、惜しかった剛の者よ」
と、妹尾の死を悼んだという。

忠と孝のはざまで、人の心はどう動くのか。
妹尾の場合は子に対しての情に動いたのだから、いわゆる孝とはちがうものかもしれないが、抽象的なモラルである忠と、側近くはっきりと形をなす孝とのはざまで、孝のほうへ下りてきた妹尾は、剛の者の兜を脱ぐかたちになった。
もしも忠を選び、剛の者として生きながらえたとしても、ここで物語として伝承されて残るほどにはならなかったかもしれない。多くの聞き手の心に響くのは、子を見捨てなかった父の姿だからだ。
わが子の首を自らの手で落とす。
その凄まじい覚悟には心をえぐられる。
鬼神の仕業ではない。立派な父の業と思う。

平家物語にはこのあとの戦いでも、梶原父子、河原兄弟、熊谷父子など、親子兄弟でかばい合う場面がいくつも描かれている。

ただし、悲しいことに美談となりえないことも起きた。
一ノ谷で敗れた平家は、舟に飛び乗り、沖に逃げていく。そんななかで悲劇はいくつも起きた。



四. "十六"
平知章/
平氏の重鎮たる平知盛。清盛の三男で、当時のナンバー2だ。一ノ谷の要衝・生田の森の大将軍だったが、子息の知章と侍の監物頼賢とともになぎさの方へ落ちて行った。
そこへ、源氏方の追っ手が迫ってきた。
追っ手の者が知盛に組みつこうと馬を寄せると、息子知章は父を討たすまいとして、中に割って入り組みつき、落ちて、取って押さえて、首をとった。そこへ、源氏方の童がきて、知章の首を取る。今度は監物が、馬から折り重なって童を討ち取った。監物はその場で矢を射、太刀をふり、一人さんざんに戦い、膝を射られて座ったままで討ち死にした。
知盛はこの間に逃げ果せ、兄宗盛の船にたどり着いた。

知盛は、宗盛の前に行って、

「武蔵守(知章)に先立たれ、監物太郎を討たれて、今は、心細くなりました。そもそも、子が親を討たすまいと敵に組むのを見ながら、子の討たれるのを助けもせずに、これまでのがれてまいる父が、どこにありましょう。あわれ、他人のことなら、いかばかり歯がゆいかしれませぬのに、さぞかし卑怯みれんな父と思われるであろうと、それがはずかしゅうござります」
た、鎧の袖を顔に押しあて、さめざめと泣く。大臣殿(宗盛)はこれを慰めて、
「武蔵守が、父の命に替わられたことはまことに殊勝ではないか。腕もきき心も剛気で、よい大将軍であったがこの清宗と同年で、たしか今年は十六歳のはず」
と言いながら、御子の衛門督清宗卿のいるほうを見て涙ぐんだ。その席に列していた平家の侍たちは、情けを解する者も解さぬ者も等しく鎧の袖をぬらした。





この日、波打ち際でもう一人、命を落とした十六歳がいた。平敦盛。若いが、宗盛、知盛の従弟にあたる。

平敦盛/
意気はずませ、齢十六の息子小次郎直家とこのたびの戦に挑んだ熊谷次郎直実。

「去年の冬鎌倉を立ちしよりこのかた、命をば兵衛佐殿にたてまつり、しかばねを一ノ谷の汀にさらさんと覚悟をきめた直実、去んぬる室山、水島両度の合戦に打ち勝って、功名した覚えのものども、直実親子に、出合えや、組めや」


しかし、小次郎が肘を射られ負傷、直実は一人、渚の方へ落ちて行く平家の公達を見つけて組み、手柄を立てたいと馬を走らせていた。
そこに、沖の船に向かって浅瀬を進んでいく一騎が目に入った。
「返させたまえ、返させたまえ」
武者は引き返し、たちまち熊谷はそれを波打ち際で組み落とし、首を搔こうと兜を押し上げてみると、それは、わが子小次郎と同年配の、十六、七の美少年だった。

そも、いかなるお人にてわたらせたもうぞ。名のらせたまえ。助けまいらせん」
と言えば、
「まず、そういう和殿はだれぞ」
と問い返した。
「物の数にてはそうらわねども、武蔵の国の住人熊谷次郎直実ともうしそうろう」
「さては、なんじのためにはよき敵ぞや。名のらずとも、首をとって人に問えかし。人も見知らん」
「さてこそ、よき公達。この人ひとり討てばとて、負けるいくさに勝つべきはずもなし、また助けたとて、勝ついくさに負けることはよもあるまじ。けさ一ノ谷にてわが子の小次郎が、薄傷を負うてさえ心を痛めるのに、この若殿の父は、子が討たれたと聞いたら、どのように嘆き悲しむか。よしよし助けまいらせん」

しかし、振り返るとうしろに近づいてくるのは源氏方のライバル、土肥、梶原の五十騎ほどだった。

「あれをごろうじそうらえ。いかにしても助け参らせんとはぞんずれど、雲霞のごとき、味方の軍兵、よもお逃し申すまじ。あわれ、同じことなら、直実が手にかけて後世の供養をつかまつらん」と言うと、
「何を申すにもおよばぬ。とく首を刎ねよ」
熊谷はあまりのいとおしさに、どこへ刀のあてようもなく、目はくらみ気は遠くなって、しばし茫然としていたが、いつまでもためらっていられる場合ではないので、泣く泣く首をかき斬った。
「さてさて、弓矢取る身ほど、なさけないものはない。武芸の家に生まれなかったら、こんなつらい思いをしないですむのに。無情にも討ちまいらせたものよ」と、袖を顔におしあててさめざめと泣いていた。やがて、首を包もうとして、鎧直垂を解いて見ると、錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。
「さては、この夜明けに、城の中で管弦の音がしていたのは、この人たちであったのか。東国勢何万騎のうち、軍陣に笛を持ってきている風雅者はあるまい。公達のあわれさよ」


熊谷はあとで敦盛と知り、のちに出家して終生敦盛を供養したという。

血気はやる武将、熊谷は、手に入れた獲物に思いがけずわが子を見てしまった。そして、たった一瞬で、父の情にすり替わってしまった。そうとなれば、どうやってその首に刃をあてられよう。弓矢取る身の修羅道を思い知るのである。
そして、遺品の小さな笛が更に、失われたものの尊さ、美しさ、かけがえのなさをいやというほど知らしむるのである。その笛をとる、我が手の罪の重さ。
修羅の道には、敵とのこんな出会い方もあった。
運命が裏返る瞬間。

一方で、敦盛にとっては、この最期の刹那はどんなものであったのだろう。動揺し、ためらいながらわが命を奪う者。ただ死を待つ数秒、心は何を見ようとしたか。波打ち際には波の音、そしてさまざまな修羅の声が近く遠くに聞こえていた、それだけだったろうか。



十六という能面がある。
『敦盛』のために主に用いられるもので、女性の面、小面のように妖艶で、死の世界にはまるで無縁と思えるような輝く若さとあどけなさの面である。
喪われたのが若く美しい少年であったことが、修羅道の悲劇を深めた。二度と耳にすることのできない笛の音に思いはせても、悲しい。


一ノ谷の戦いでは、十六の敦盛、知章とともに、わずか十四の師盛も命を落とした。
師盛は重盛の七男のうちの五男。維盛、清経の弟。すでに船に逃れていたところ、他に逃れてきた武者が馬から船にドスンと飛び乗ったために船が転覆、海上に放り出された師盛は、源氏方の船に搔きよせられ、斬られた。年の若さからすれば、敵のなかに、熊谷のようにためらう者はいなかったのか。不幸な最期であった。

アツモリソウ、クマガイソウという草木もある。
花弁が赤いものと白いもの。いくさのときに付ける母衣(ほろ)に似たラン科の花。
あの苦しみの出会いと死別の時は昇華して、静かに今も存在している。








あともう一回、平家物語を書きます

平家物語 修羅の最期 〜木曽・忠度

2016-10-14 00:09:42 | 人物
「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」
浅い夢のあと、
弓取る者たちの壮絶な終焉



『平家物語』は軍記物語であり、必ずしも史実を正確に写したものではない。それでも、平家の栄華から破滅への道筋がドラマティックに語られ、肌で感じるほどに描かれている。それには、美しい風景描写と、人物の心の気色が、随所に描かれていることが奏功している。
いわゆる歴史小説は、細かく描かれすぎて空想が独走していることも多々あり、時に読者に消化不良や拒絶を起こさせることがある。しかし『平家物語』の展開には、虚飾する間もないほどの急転のためか、一本の映画のように身を通貫してゆく。

諸行無常、盛者必衰。
それはわずか5年足らずで散った、平家20年の栄華の終焉。
そこには、平家一門の苦悩だけではなく、物語に終わりを付ける役目の源氏の苦悩も読みとることができる。
ここでは、物語の焼き直しではなく、治承・寿永の乱(1180〜1185)の戦地で繰り広げられた修羅達の、それぞれの生き様、死に様からの感慨をお伝えしたい。

まずはいきなりだが、源氏方の木曽義仲から始めたい。


1.「ただただそなたと一ところで死なんがため」
木曽義仲(源義仲)は、平氏を都から追い落とす手柄をあげたものの、田舎育ちの武骨な振舞いのために、後白河法皇や都の庶民からも信用を得られず、頼朝の命により義経と範頼に討伐されるに至った。敗れてわずかに残った者達と、北国に逃れる途中、粟津の戦いで滅ぼされる。

義仲は、麾下の今井兼平が気にかかり、敗走の途中で引き返した。今井の方も主君を気にかけ引き返す途中、大津の打出の浜で行き会った。

『平家物語』(現代語訳 中山義秀著)より引用する。(緑字)

‥主従は駒を早めて近寄った。木曾殿は今井の手をとって、
「いかに兼平、義仲は、六条河原で危うく討ち死にするところであったが、そなたの行くえのおぼつかなさに、あまたの敵にうしろを見せて、これまでのがれて参ったぞ」
今井四郎も、
「かたじけなき御言葉、兼平も勢田で討ち死につかまつるべきところを、御行くえのおぼつかなさに、これまでのがれて参りました」


義仲は、ここで周囲の残兵を集め、甲斐源氏の軍勢に最後のひといくさを挑む。
六千騎に対し三百騎。いよいよ主従5騎となり、巴御前を解放、
あとは、義仲と今井の二騎ばかりとなった


「日ごろはなんとも思わぬ鎧が、今日はいたく重いように感じられる」
木曾殿の述懐を聞いて、今井が、
「いや、おからだもまだお疲れになってはおられませぬし、御馬も弱ってはおりませぬ。一領の鎧が、なんでにわかに、重くなるわけがござりましょう。それは、味方に続く勢がなきがゆえの臆病心。兼平一人をば、余の武者千騎とおぼしめして、私がしばらく防ぎ矢つかまつっておる間に、かなたに見ゆる粟津の松原の中で、静かに御自害なされませや」
そうして馬を進めてゆくうちに、またもや新手の武者50騎ほどがあらわれた。
「兼平はこの敵をしばらく防ぎまいらそう。君はあの松原へ入らせたまえ」
今井が重ねてそう言うと、木曾殿は、
「六条河原で死ぬところを、多くの敵に後ろを見せて、これまで逃げてまいったは、ただただそなたと一ところで死なんがためであった。とてものことに、離れ離れに討たれるよりは、一つ所で討ち死にしようではないか」と、馬の鼻をならべて敵中へ駆け入ろうとすると、四郎は馬から飛びおり、主君の馬の口にとりつき、涙をはらはらと流して、
「武士たるものは、日ごろ、いかに功名をなすとも、最期に不覚をいたさば、後世まで名にきずがのこります。やつばらに言いがいもなく討たれては、さしも日本国に御名をとどろかせた、木曾どののお身が惜しまれる。ただ曲げて、あの松の中へおはいりください」
木曾どのも、もっともとうなづき、「さらば」とばかりただ一騎粟津の松原へ駆けて行った。
今井四郎は取って返すと、五十騎ほどの敵中に駆け入り、
「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にもみたまえ、木曾どのの乳母子の、今井の四郎兼平とて、生年三十三歳にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉どのもごぞんじならん。兼平を討って、兵衛佐殿の御見参に入れよや」


今井が一騎で死闘する頃、義仲は松原を目指したが、深田に馬がはまり、動けなくなった。ふと、今井が気になり後ろを振り向いたところを敵の矢が顔を射て、屈んだところ首をかき切られた。
首を大刀に高々と差し上げ、木曾を討ち取った、との大音声を耳にした今井。

「今は、たれをかばって戦おうぞ。これ見たまえ、東国の殿原、日本一の剛の者が自害の手本よ」
と叫んで、太刀の切っ先を口にふくみ、馬からまっさかさまに飛び落ちて死んだ。


長い引用をしたが、この巻の9「木曾の最期」は私にとって壇ノ浦よりも深く感動する場面だ。
策士の源行家に出し抜かれ、都を追われるばかりか追討された義仲は、今井始め、今井の兄・樋口、根井、楯ら木曾四天王を従え、支えられながら、武士としての最期を全うできたのは、人物として愛される側面を持ち合わせていたからだろう。
乳母子の今井は三つ歳上、「鎧が重く感じる」と率直に弱音を口にした主君義仲を、叱咤激励あるいは宥めて、自分の身一つを盾に、そして自分の名をも盾にして、最期の時をかせぐのに命をかけた。そこには、主従という関係ばかりでなく、兄弟のような信情もある。「一つところで」、という願いにかなっているか、背中合わせで隔たってはいたが、ほぼ時を同じくして死んだのであった。
1184年1月21日。

今井の兄・樋口兼光はこの日、別のところで戦っていたが、主君と弟の死を聞き、見知った敵に降人として迎えられたものの、法皇が許さず、義経や範頼の必死の助命も叶わぬまま、24日に木曾方の首の引き回しのあと、25日に首を斬られた。

このあたりを題材にした能の演目には、『木曽』『兼平』『巴』がある。


2. 弓と芸
さて、義仲によって都を追われた平家の公達は、弓矢取る者でもあったが、成り上がりとはいえ、都の行政を司ってきた人々である。風雅な振舞いは、北国の木曾殿にも、関東の九郎判官義経にも、取って代わられるものではなかった。
芸に秀でる者も多かった。平家繁栄の道をつけた忠盛は清盛の父だが、歌人としても知られていた。清盛の弟・忠度は歌人、清盛の弟・経盛の子、経正は琵琶、同じく敦盛は笛、清盛の嫡男・重盛の子、清経も笛の名手であった。
また、重盛の嫡男・維盛などは、「今昔見る中にためしなき」「容顔美麗」な美貌の貴公子で、維盛の舞う青海波は、見る人を「ただならず、心にくくなつかし」くさせたといわれている。

都を西に落ちて行くなかで、経正は愛用の名器・青山を、かつて自分が稚児として仕えていた仁和寺に預けることとした。もしや自分の命も、というなかで、名器を西国の塵のなかに埋めてしまうことのないようにと考えたのだった。
一族の中では俊才として知られる経正は歌人でもあり、僧と歌を交わしたあと、都落ちの群れに消えていく。
経正はおよそ半年後、一ノ谷の戦いで亡くなった。


忠度もまた、都落ちに先立って藤原俊成を訪ねる。勅撰集の編集が動乱で滞っていたが、世が落ち着いて再び編まれることになるならば、忠度自作の歌を一首でも選んでいただけるならば、と、百首を巻物にしたため、俊成に差し出した。
巻物を俊成が大切に預かると、
「西海の浪の底に沈まば沈め、山野に屍をさらすならばさらせ、この上をもう浮世に思い残すことはありません」

前途ほど遠し、
思いを雁山の夕べの雲に馳す

姿を遠く見送る者たちに、忠度の高らかな声が響いた。
のちに、その巻物の中から一首、『故郷の花』が読み人知らずとして勅撰集にのる。朝敵のため、名前をのせることは叶わなかった。

さざなみや志賀の都はあれにしを
昔ながらの山桜かな

忠度も一ノ谷で討たれた。


清経は討ち死ではない。
都落ちした上、太宰府の緒方氏にまでも背かれ、次第に悲観的になっていった。「もともと何ごとによらず深く考えつめる性質の人」とある。

「ある月の夜、舷に出て、横笛の音取りをしたり、朗詠したりして、遊び過ごしたあとで、静かに経をよみ念仏して、海に身を投げた」

弓矢取る者の行く末の悲惨を予見し、「網にかかった魚も同然、ながらえ果つべき身でもない」と悟り、運命を待たずに消え去るのを選んだ。

これらは、能では『経正』『俊成忠度』『忠度』『敦盛』『清経』に描き出されている。
かの有名な「人間五十年‥」は、幸若舞『敦盛』である。






平家物語についてはこのあと2回、続けます。

オスカー・ワイルド 芸術と禁断の愛

2016-09-14 16:50:49 | 人物

最高の芸術を語り、頽廃を生き、
ロウソクを吹き消すように消えた、
オスカー・ワイルドの貫いた美意識



Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde
1854〜1900


「芸術的な人生というのは、美しくも緩慢なる自殺であると、ぼくは時々考える。それを悲しいとは思わない」


世紀末、イギリスのヴィクトリア王朝の中流家庭に育った才人オスカー・ワイルド。自殺ではないが、死へ向かう道を自ら選び、死すべき時に静かに去った。
人生そのものを芸術に高めるため、自分と社会に挑む。
何を賭けたのか。

「見たこともない花々と精妙な香気に充ちた、いまだ知られざる世界がある。完璧にして有毒なものだけからなる世界が、この世にはあるのだ」


未踏の楽園に踏み入れたあとは、言葉はもういらなくなるようである。
彼は、そうして46歳の生涯を閉じた。



1. 学生時代まで

1854年、ダブリン生まれ。
父ウィリアムは眼科耳科の外科医で、王族の診療も行うことがあった。
母はアイルランドナショナリズムの詩人ジェイン・スペランザ・フランセスカ。
母親は語学力は高いが表現に誇張が多く、大層目立ちたがりで奇抜な格好を好んだ。
その性質は、次男オスカーが引き継いでいる。
オスカーには兄ウィリアムと妹アイソラの他に、父の前妻の子である、兄ヘンリー・ウィルソンとその下に双子の姉妹の姉達がいた。

9歳から16歳までポートラ王立学校で学ぶが、素晴らしい記憶力と速読で読書を極め、とくにラテン語やギリシャ語に優れた。

優秀な成績で、給費生としてダブリン大学トリニティカレッジに進学。古典学での目覚ましい成績によりゴールドメダルが贈られ、5年間の給費付きでオックスフォード大学モードリンカレッジに進学した。
唯美主義に染まり、派手な服装、さらに部屋には、「この世で最も美しく役に立たないもの」として百合をいつでも飾っていたそうだ。
成績は頗る優れていたが、努力している姿を見られるのを嫌い、真夜中に起きだして勉強していたらしい。

オックスフォード大モードリンカレッジ
エドワード8世(別記事あり)もこちらの卒業生

この頃から、ギリシャ文化に見られる、成人男性と少年の、戦闘に備える鍛錬の中での純粋な愛情の醸成に深く魅了されるとともに、ルネサンス期の人間解放から発展して生じる個人主義、利己残虐性、悪徳の解放にも啓発されていった。
こうした指向のベースには、恩師ウォルター・ペイターが著書『ルネサンス』で指摘する通り、
「経験の結果を求めるのではなく、経験そのものを求める」ところがあるのだが、堅実を良しとするイギリス社会では受け容れられない捉え方であった。

彼は、ギリシャ文学への傾倒のなかで、女性美より男性美(特に肉体美)を崇拝、軍人教育において育まれる同性愛と少年愛の世界にひきこまれていったが、一方で、現実生活では、フローレンス・バルコムという17歳の女性に恋し、失恋。
また、この頃父が亡くなったが、オスカーには不当に僅かな遺産しか遺されなかった。派手好きで金遣いの荒いオスカーには痛手であった。

学業においては、破格に優秀な生徒だった。
優秀な卒業生の王道である、フェローとして大学に残る道を志したが、不運にもポストがなく、諦めることとなった。
意に反して学校を去らねばならなくなったわけだが、
「とにかく有名になる、
たとえ悪名でも名を売る」

と豪語して、新しい世界の扉を開けたのだった。
彼はロンドンへ向かった。



2.ロンドン社交界からアメリカ、パリへ

ロンドンには詩人である母のサロンがあり、オスカーは奇抜な服装で注目を集め、巧みな会話術で魅了し、有名になっていった。
やがて、フランク・マイルズという画家と同居するが、肖像画を依頼してくる著名人らを端に交遊も広まり、“唯美主義者ワイルド”としてカリカチュアも描かれるほどに、ロンドン社交界の有名人になった。

しかし、有名なだけでは収入はなく、稼ぐために戯曲を書こうと思い立つ。
ロシアの女性革命家ヴェラ・ザスーリチをモデルに、空想のストーリーで描かれた戯曲『虚無主義者ヴェラ』は、上演に向けて準備が進められていたにもかかわらず、ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺事件への配慮のため、公演は中止を余儀なくされた。
続いて、詩集を出したが不評であった。
そこへ、アメリカ講演旅行の依頼がきた。

唯美主義者としてアメリカの地で、美についての講演をして廻るというもの。派手な格好でアメリカに降り立ち、早速耳目を集めた。
この講演旅行は評判が良く、オスカーの知名度を高めた。ニューヨークでは『ヴェラ』の戯曲の上演契約を結ぶこともできた。旅の途中で日本へも寄りたがったが、資金不足で果たせなかった。

アメリカ滞在中に撮影された写真



その後、パリに出て、またしても今度はバルザック風の衣装に身を包み、芸術家と交流しようと試みたが、反応は冷ややかだった。
パリは世紀末芸術が爛熟を迎えていた。
退廃的な空気が漂い、同性愛が文学にも描かれる土壌は、オスカーには刺激的であったが、ヴェルレーヌと会うと、その文学には感動しても、その実在の醜さに失望を感じた。
3ヶ月ののち、ロンドンに戻った。


3. 結婚、幻滅、同性愛

浪費家で、常に金欠であることから、持参金付きの嫁をもらい、社会的信用も得るべきだと勧められ、中流階級で3歳下、祖父が著名な王撰弁護士であるコンスタンス・ロイド嬢と結婚した。裕福な祖父からの仕送りもあった。
おとなしく、知的で、スタイルも美しく、その美しさは審美性を求めるオスカーにも気に入っていた。静かに夫を支え、のちにどんなことがあっても夫を理解し、苦しみながらも支え続けようとした良妻である。

結婚後、立て続けに二人の息子に恵まれたのだが、出産後の妻は、ほっそりしていた体つきを失う。妻の体型の変化に幻滅したオスカーは、女性の肉体に嫌悪感を持つこととなった。
少年の華奢な肉体への渇望から、オスカーは若者の世界へと出かけていく。

ワイルド夫妻



あるとき、ハリー・マリリアという、幼い頃から見知っていた青年が、ケンブリッジ大に進学したのを機に再会したオスカーは、大学を訪ね、学生達に即興で物語を聞かせた。元々、オスカーの家系はケルトの口承詩人であったせいもあるからか、オスカーの物語はいつでも聴く人を魅了する大変素晴らしいものだった。このとき語って好評だったものが、のちに「幸福な王子」などの童話作品となっている。

さて、マリリアとはその後文通を続けつつ、次第にただならぬ関係になっていった。ほんのわずかな時間での濃密な逢瀬は、激しい思いが絡み合っていた。
当時のイギリスでは、1885年に刑法改正があり、それまでは口にするのもタブーだとして、同性愛は忌み嫌われるだけでなく、見て見ぬ振りもされていた。同性愛という名前すらなく、うやむやにされていた。つまり、そのような不謹慎なものは存在すらしないのだ、という拒絶的態度なのである。
ただし、法改正まえでも、ソドミーと呼ばれる男性間の肛門性交は、物理的証拠が認められれば死刑になった。罪は、肛門を侵された側がより重かった。ところが、法改正によって、ソドミーだけでなく、精神的な同性同士の恋愛的交わりも処罰の対象となる。手紙の往復すらも、内容によっては対象となった。
オスカーとマリリアの間に、ソドミーがあったとしても、なかったとしても、彼らの交遊は有罪であった。
オスカーには、ルネサンスへの傾倒が根底にあり、禁断を犯すことで、精神と芸術性を研ぎ澄ますことに身震いする陶酔感があったようだ。
それでも、芸術を高めるための原動力として、この頃のオスカーの同性愛は純愛で、コントロールもできていたかと思われる。
冒頭の「芸術的な人生‥」「見たこともない花々と精妙な‥」の言はこの頃の感情である。
秘密の花園に足を踏み入れ、誰にとっても未知の、自分にとっても新しい経験に、鼓動が高鳴る。



4. ロス、グレイ

自分を初めて押し倒したのはロスだ、とオスカーは周囲に言っていた。
ロバート・ロスは出会いの当時は17歳、1986年のこと。ケンブリッジ大学受験のための予備校に通う童顔の青年だが、すでにかなりの“経験者”だった。ロスはケンブリッジ大学キングズカレッジに合格したものの、言動をからかわれ、池に投げ込まれ肺炎を起こし、自分の性癖を暴露し、退学して記者の仕事をするようになった。
じきにロスとの関係は友情に変わり、オスカーを生涯、そしてその死後にも管財人となって支え続けた、かけがえのない親友になった。
その後、オスカーの性的嗜好は大胆になっていき、美青年を複数連れ歩くのが常となった。

ロバート・ロス青年

この頃から、派手な生活で抱え込んでいた借金を返すために、減りつつあった講演の仕事から、小説・戯曲書きを始めた。オスカーの筆は、芸術によらず、常に金欠が動かしていた。
才能はこの頃、絶頂を迎えた。

『ドリアン・グレイの肖像』はこの時期の最高傑作だ。ジョン・グレイという美貌の青年が、創造のきっかけだった。
また、『嘘の衰退』では自然主義批判がなされている。
「どんなものでもその美しさを認めるまでは本当に見たことにはならない。そのものの美を認めたとき、初めてものは実在しはじめる」
経験することを通して実在させる、
「自然は芸術を模倣する」
これはオスカー・ワイルドの名言、
「人生は芸術を模倣する」
と同義である。
芸術は、内部に込められた意味を解釈するものでなく、
「この世の真の神秘は目に見えるものであって、目に見えないものではない」
ことを示した。これがオスカー・ワイルドの美学である。


5. 名付けられていない愛、ダグラス

秘密の花園のその先は、どうなっていたか。
暗澹たる沼、
その先は?

オスカーの取り巻きのある青年が、彼の知人で『ドリアン・グレイの肖像』に深く感動し、是非会いたいという貴族の青年がいると言い、伴って現れた。それがアルフレッド・ダグラス卿、当時21歳。スコットランド貴族クィーズベリー侯爵の三男でオックスフォードモードリンカレッジの学生、詩人、つまりオスカーの後輩にあたる。16歳歳下。


アルフレッド・ダグラス



アルフレッド・ダグラスの幼少期
母親譲りで美しい子だったので、母は「坊や」という意味のboysieからbodie(ボジー)と呼び、その呼び名は周囲の人からも生涯使用された




オスカーとアルフレッド・ダグラス卿


その青年は天使のよう、この世のものとは思えぬほど美しかった。金髪、スミレ色の瞳、小柄、貴族の出自。ダグラスは学生時代から、大胆な同性愛に耽り、ある時そのことで脅迫を受け、オスカーが救ってから、2人は深く関係するようになった。ダグラスは10代半ばほどの少年を好むため、オスカーと関係しつつ、美少年らを手元に置き、時折オスカーと相手を交換もし、男娼だろうと構わず肉体の享楽に耽ったのである。
オスカーはもはや家庭には帰らず、ホテルでダグラスや男娼らと、大っぴらに禁断の行為を楽しんだ。ダグラスはギャンブルも派手だった。当然、ホテル代などで金は底をつく。ダグラスは、自分の遊び代はオスカーの在不在にかかわらず全てオスカーが払うべきだ、と要請した。
我儘で、悪態をつき、どこででもわめき散らすダグラスにオスカーも手を焼き、何度も喧嘩別れと、ダグラスの泣き落としによる再燃を繰り返していた。






この頃のオスカーの代表作『サロメ』は、原版はフランス語で書かれたが、英訳版をダグラスに翻訳させたところ、オスカーの納得できるものではなかった。修正を依頼したところ、ダグラスは逆上。オスカーはこれを機に別れるつもりだったが、泣き落としに折れた。この英訳版はビアズレーの挿絵でも有名になったが、裏事情にそういう苦労もあったのだ。
私生活は波乱に流され続けたが、この間もお金のために、オスカーは作品を生み続ける。


6. 二つの裁判

快楽のあとにはどんな事態がくるか。
数々の物語の語り部であるオスカーならば、心中では理解していただろう。

放蕩息子ダグラスは、学業は放置、成績は酷いものだった。結局、最後のチャンスの試験も棒に振り、卒業できなかった。
ダグラスの父は激怒する。
ダグラスの父、クィーンズベリー侯爵は、大変な癇癪持ちで、些細なことで激昂しては誰彼となく鞭で打ちのめす性癖があった。4人の息子と、末に一人娘がいた。
長男のフランシス・ドラムランリグ卿はローズベリー首相の秘書を務めていたが、ローズベリーとの間に同性愛を疑われており、クイーンズベリー侯爵はローズベリーを打ちのめしてやろうと画策、鞭を持って、避暑中の二人の前に現れ、襲いかかったが、同席していた皇太子(エドワード7世)が仲裁し、事なきを得た。

ジョン・ダグラス
第9代クィーンズベリー侯爵



フランシスはその後、狩猟中の銃の事故で亡くなる。銃は顎を下から撃ち抜いており、明らかに自殺が疑われた。
この侯爵家には変死が多く、いずれも自殺と推測され得るものだった。
オスカーはこの頃、ダグラスに腹を立て、真剣に別れようとしていたが、フランシスの死を思うと、ダグラスも自殺するかもしれないと思い至り、やむなく復縁した。
オスカーがダグラスと別れようとした理由は2つ、すでにダグラスの父侯爵から、息子と交際するなと脅されていた事と、その頃、ダグラスがインフルエンザに罹った際、オスカーが丁重に看病したにもかかわらず、オスカーが今度インフルエンザに罹ると、ダグラスは看病どころか罵声を浴びせ、姿をくらましたという屈辱があったからだ。

長男を失ったクイーンズベリー侯爵の失意は、同じ同性愛に溺れるもう一人の息子アルフレッドに、復讐のように向けられた。息子を貶める同性愛の相手オスカー・ワイルドとともに、スキャンダルとして公にぶちまけよう、という計画だった。
探偵や男娼らの協力を取り付け、相当際どい証拠まで握った上、敢えてオスカーに侮辱を与え、名誉毀損で訴えさせ、裁判の中で赤裸々な証言を繰り広げることを目的とした。
そのきっかけ作りのカードには、
「男色家を気取るオスカー・ワイルドへ」
とだけ、書かれていた。
sodomiteは当時、口にするのもためらわれるほど、いかがわしい言葉であった。
父を憎むダグラスは、すぐに訴訟にかけようと言いだした。しかし、オスカーの友達も弁護士も、事態を無視することを勧めた。これは罠であると。オスカー自身も危険を感じていた。けれども、結局は、裁判費用は自分が持つからと言うダグラスに押し切られ、クイーンズベリー侯爵を名誉毀損で訴えることになった。
しかし、裁判では‥
数々の証言が正鵠に事実を暴いていき、オスカーは震撼した。その中で、ダグラスの不注意からゆすり屋に握られた手紙はセンセーショナルで、オスカーの最も痛いところを突いてきた。

「君のソネットはとてもすてきだ。
君のバラの花びらのように赤い唇が歌を奏でるためだけでなく狂おしいほど情熱的な接吻のためにあるとはなんとすばらしいことか」


これは芸術であって、個人への感情を述べる手紙なのではない、とオスカーは苦しい説明をしたが、場内は事実に騒然とした。圧倒的に不利になったオスカーは、弁護士と協議して名誉毀損の訴えを取り下げた。
しかし、これだけの証拠が明らかになった事で、ワイルドは猥褻罪で逮捕されるに至った。ダグラスの方は逮捕されなかったのは、彼が貴族階級だからだろう。オスカーは国外逃亡の機会を失った。
裁判では有罪になり、重労働と懲役2年の罰となった。さらに、多額の裁判費用(結局、ダグラスは支払わなかった)が支払えず、破産した。


7. 獄中記〜最期

オスカーには、天啓のように物語が降りてくるのかもしれない。残念ながら現代では、誰をもうっとりさせる彼の至上の語りを聞く事はできないが、語りよりはるかに質が落ちると当時は言われた小説や童話には、彼の辿る人生を予言で示すような展開がある。
自分の最期までの道のりを理解している、という点に限れば彼はイエスに似ているし、実際、自分で自分をイエスと重ねていた。キリストにしてはいかんせん不道徳である。

オスカーは、スキャンダルに巻き込まれる直前に、作家アンドレ・ジッドに語っている。

「ぼくは行ける限り遠いところへ行き着いてしまった。
今は何事か起きるよりほかに仕方ないのだ」




天使の容姿を持つダグラスは、破壊をもたらす天使だったようだ。あるいは、天上の花の姿をした毒。
それを知りながら、その魅力から離れられなくなったオスカー。ダグラスはそもそもコントロールできないし、オスカー自身、理性をどこかで置き捨ててきたようである。
実直なジッドに堕落を吹き込み、高笑するオスカー。

「私は人生の中にこそ精魂をつぎ込んだが、作品には才能しか注がなかった」

彼の作品は、天啓であり、才能である。
それを生むために、人生に破壊的なものを呼び込んだのか。
芸術の最終段階に必要なのは、悲哀だと、初期の作品から既に語られていた。
しかし、芸術の延長としてイメージしていた悲哀と異なり、実際の監獄で体験する悲哀は、過酷で惨めなばかりのものだった。オスカーのこころは枯れていく。
「小さな独房にいる私は、人の形をした影と番号にすぎなかった」

監獄では、ダグラスへの怒りがひたすらこみ上げるばかりだった。しかし、イエスがユダを許したように、自分もダグラスを許さねばならない。人生の物語の筋書き上、どうしてもそうしなければかたちをつけられないからである。
次第に、再びダグラスを心底から求める、そして生きがいになった。その過程は、ダグラスへの手紙の形で、のちに獄中記にまとめられる。
監獄よりも、世界に再び戻らなければならないことのほうが、次第に恐怖になっていった。
自分が存在しなくなった世界を見つめなければならないのだ。
「私を欲しない世界へ、歓迎されざる客として戻らなければならない」

案の定、芸術家たちはビアズレー始め、彼を無視した。現実を受け止めねばならなかったが、お金の心配もあった。ロスや友人達が苦労して集めてきたお金も、オスカーはたちまち浪費した。
そして、周囲の反対を押し切って、オスカーはダグラスと暮らし始めた。オスカーは芸術家として罪人であること、つまり、法には禁じられても、芸術家として罪人(同性愛者)であり続けることは変えられない、と考えてもいた。相変わらずダグラスとの諍いは絶えなかったが、ダグラスは母親から、オスカーは妻から、同棲するなら仕送りを打ち切ると告げられ、背に腹は変えられず二人は別れた。
ロスはときに八つ当たりもされながら、オスカーを距離を持って、支え続けた。
妻コンスタンスは重大な病で苦しいところ、金の無心ばかりしてくる夫に、怒りと憐れみの相反する感情に揺れ動きながら、かつ、二人の子供の将来の備えに腐心しながら、最期まで夫に心を砕いていた。最期、というのは、オスカーのでなく、彼女のである。不幸にも、軽微な手術後に容体がおかしくなり、亡くなってしまった。

オスカーは、自分の死すべき時を悟っていた。
パリで、落ちぶれた日々を過ごしていたオスカー。かつて母の知り合いであった夫人は、オスカーが近づいてきたのに気付きながら、周囲の手前、知らぬ顔をしてしまい、後悔していたが、翌朝、再びオスカーに会った。
(以下斜体字、『オスカー・ワイルド』宮崎かすみ著より引用)

‥夫人が、なぜもう書かないのかと尋ねると、こう答えた。
「書くべきものはすべて書いてしまったからです。
私は人生のなんたるかを知らないときに書きました。
人生の意味を知る今、私にはもう書くべきことがないのです。
それに私にはもう時間がありません。
私は仕事を終えました。
私の生が終わった時、私の作品は生きはじめるのです。
私は幸いにも、監獄で魂を見つけました。
魂について知らずに書いたものも、魂の導きによって書いたものも、いつか世の人々の目に触れるでしょう。
そのとき、私の魂から人類のすべての魂に向けて発したメッセージに人々は気づくのです」

船が河岸に着くと、目に涙をためた夫人に言った。
「私のために悲しまないでください。
どうか祈り、見守ってください。
そう長いことはかかりません」


これほどの覚悟ができているかと思いきや、患っていた耳の病気(この病が死因になる)の手術費用のことで友人に執拗に金の催促をした、というから、芸術家を標榜する人間にしては、相変わらず実生活と精神がかけ離れていると感じる。

天啓とも言える並外れた能力が備わりながら、肉体は欲望のままにさせる二重の影を持つ人物としては、オスカーはラスプーチンに似ていると、私は思う。ただ、オスカーの場合、ダグラスの存在がなければ、事はここに至らなかっただろうか。ダグラスと出会い、破滅し、早世することが、必要な運命だったのだろうか。
もし、オスカーがあと30年生きたとして、世紀末芸術家の旗手が、刻々と変わる時代に合わせて混乱なく作品を残せただろうか。


オスカーは、元から患っていた耳の病が悪化し、脳髄膜炎を引き起こして亡くなった。
1900年11月30日、46歳。
その年の1月、あのクィーンズベリー侯爵も既に亡くなっていた。
新しい20世紀が明けて、1901年1月22日ヴィクトリア女王薨去。ヴィクトリア時代は終わった。


8. 再び、脚光




オスカーを最後に看取ったのは、ロスだった。
ダグラスは死の二日後に駆けつけた。
オスカーの葬儀は友人数人しか参列しなかったが、たくさんの花輪が届けられていた。息子達の名前のものもあった。喪主はダグラスが務めた。

存命中、あれほど本人に冷たかった世間は、オスカー作品の再生には、国内外から次々に手が上がった。
戯曲は上演され、著作はロスによって全集にまとめられ、獲得した印税で、オスカーの負債は返済された。ロスは、出来る限り調べ上げ、生前オスカーにお金を貸した人に利子も添えて返した。また、その後の印税を遺児達が受け取れるように法的手続きをしたのもロスだった。オスカーの次男ヴィヴィアンは、長じてロスを信頼し、慕っていたそうだ。父の代わりのように思っていたのだろう。

ダグラスはどうしていたか。
すでに男性に関心をなくし、同性愛を嫌悪するようになったダグラスは、オスカーの死から2年後、女性詩人と結婚し、息子が1人。放蕩生活から足を洗い、ごく普通の貴族の家庭生活を送るようになった。
また、生涯で何度も、あらゆる名誉毀損裁判で訴えたり訴えられたりを繰り返した。チャーチルに訴えられたこともあり、敗訴している。

ダグラスはロスへの嫉妬から、雪辱に燃えていた。もっとも、オスカーの生前はおそらくロスがダグラスに苛立ちを感じていただろうとは思うが。
ダグラスは父侯爵がオスカーにしたのと同様の手法で、ロスを裁判に引っ張り込んだ。
ロスはオスカーと同様に、取り下げ、敗訴になってしまったが、世論はロスに同情した。ロスはその心労がたたったせいか49歳でなくなった。

ダグラスは、名誉毀損裁判の中で、オスカーについて、「過去350年間にヨーロッパに出現した中で最も邪悪な魔力」と言い、『サロメ』を「最も有害で嫌悪すべき作品」と述べている。
また、ダグラスが一時獄中にあったとき、そこで著した本のタイトルは『高みにて』。
オスカーの獄中記『深き淵より』との対比だけならよいのだが、上段から見下す高慢さが感じられ、不快な印象を与える。
しかしダグラスは、獄中であるときふと、父やオスカーが、かつてあの裁判で賭けたものは何であったか、
自分への愛ではなかったかと考える。
自分は愛されていないと思っていたのか。
破壊するほどかつて愛を渇望したダグラスの気づきには、父もオスカーも失い、尚しばらくの時間を要した。
ダグラスは72歳で亡くなった。

アルフレッド・ダグラス

ロバート・ロス


今、ロスは遺言によりオスカーの隣に、ダグラスは母の隣に埋葬されているという。


9. 名言

目から鱗、言い得て妙な、オスカーの珠玉名言を、私個人の好みでいくつか。


ほとんどの人々は他の人々である。
彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、
そして彼らの情熱は引用である。



生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。
たいていの人は、ただ存在しているだけである。



善人はこの世で多くの害をなす。
彼らがなす最大の害は、人々を善人と悪人に分けてしまうことだ。



戦争が邪悪だと認められている限り、戦争は常にその魅力を持つだろう。これが卑俗なものだと考えられるときは、戦争は一時的なものに終わるだろう。



戦争では強者が弱者という奴隷を、平和では富者が貧者という奴隷をつくる。



文学とジャーナリズムの違いは何だろうか。
ジャーナリズムは読むに耐えない。文学は読む人がいない。



他人に何を読むべきかを教えることは、たいてい無用であるか有害かのどちらかだ。
なぜなら、文学の理解は気質の問題であって、教える問題ではないのである。


付記
10. Stephen Tennant
1906〜1987
19世紀末、保守的なイギリスの同性愛問題は、オスカー・ワイルドが波紋を拡げ、その後はどうなっただろうか。
ダグラスの従姉妹(社交界で話題のウィンダム美人三姉妹の一人パメラ)の子息にあたる、同じスコットランド貴族のステファン・テナントは、男性との恋愛を謳歌し、奔放な人生を送った。20歳年上の詩人ジークフリート・サスーンとの同棲。サスーンはのちに女性と家庭を持ち、テナントはひとり、城館を散らかし放題に、いよいよ晩年の17年間はずっとベッド上で過ごす。奇矯で謎めいた生涯。
愛人?の写真家セシル・ビートンが彼をモデルにたくさんの写真を残している。


















彼の日記には、迸る愛の感情がストレートな表現で綴られている。これほど露骨な描写は、裁判にかけられたオスカーのダグラスへの手紙の、秘められた表現と比較するなら、やはり隔世を感じる。
裁判から34年が経っている。


“He put his mouth over mine
crushing it–some kisses seem to
draw the very soul
out of one’s body–his do mine.
I feel all my heart swooning
at the touch of his mouth–
my soul dies a hundred million deaths
when his breath is on my face and neck.”


Stephen Tennant’s diary, 8 September 1929, Sassoon’s 43rd birthday







king's collage of Cambridge choir
the shepherd carol

革命後のロマノフ大公たち 皇位継承

2016-08-15 09:52:23 | 人物
ロマノフ家 皇位継承の迷走
ウラディミロヴィチ家の動き


1913年 ロマノフ300年記念祭

1912年


1917年
ニコライ2世退位時の皇位継承順位 生年


1.大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 1904
2.大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 1878
3.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
4.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
5.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879

6.大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 1860
7.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891
8.大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850

9.公イオアン・コンスタンチノヴィチ 1886
10.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
11.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887

12.公コンスタンチン・コンスタンチノ 1891
13.公イゴール・コンスタンチノヴィチ 1894
14.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903
15.大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 1860
16.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
17.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864

18.公ロマン・ペトロヴィチ 1896
19.大公ニコライ・ミハイロヴィチ 1859
20.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
21.大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 1863
22.大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1866
23.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
24.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
25.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
26.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
27.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
28.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907

29.大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 1869

ロマノフ皇族のうちで、ニコライ2世退位時に皇位継承権を持つ者が上記29名。赤字は処刑された者。
ただし、8位のニコライ・コンスタンチノヴィチは廃嫡されて皇位継承権は剥奪されている。



処刑された者
1918.6.12-13 ペルミ近郊
大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 39歳
移動中処刑の通告ないまま銃殺

1918.7.16-17 エカテリンブルク
大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 13歳
処刑通告後その室内で直ちに銃殺

1918.7.18 アラパエフスク近郊
公イオアン・コンスタンチノヴィチ 32歳
公コンスタンチン・コンスタンチノ 27歳
公イゴール・コンスタンチノヴィチ 23歳
大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 48歳

処刑通告なし、森の廃坑に落とされる

1919.1.29-30 ペトロパブロフスク要塞
大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 58歳
大公ニコライ・ミハイロヴィチ 59歳
大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 55歳
大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 58歳

処刑通告なし、独房から移動させられ、一般の受刑者とともに銃殺

大公7名、公3名が処刑された。
もちろん、ボリシェビキは全員を殺害する計画だったが、国外脱出した者には手が及ばなかった。
唯一、釈放されたのはガヴリール。
彼は、ニコライ・ミハイロヴィチ大公らとともに拘束され、同じ運命になるはずだったが、ゴーリキーのとりなしと、もともと病気だったためすぐ死ぬだろうという判断で、フィンランドから亡命することを許された。
最年少はアレクセイ・ニコラエヴィチの13歳、最年長はニコライ・ミハイロヴィチの59歳。



1903年 ロマノフ王朝の歴代の衣装で仮装晩餐会





生き残った者 皇位継承順

〈アレクサンドロヴィチ家〉
1.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
2.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
3.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879
4.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891


〈コンスタンチノヴィチ家〉
大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850
5.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
6.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887
7.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903


〈ニコラエヴィチ家〉
8.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
9.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864
10.公ロマン・ペトロヴィチ 1896


〈ミハイロヴィチ家〉
11.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
12.大公アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1897
13.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
14.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
15.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
16.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
17.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
18.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907


19名。大公9名、公10名。
革命勃発時の年齢で、最高齢はニコライ・コンスタンチノヴィチ67歳、最年少はフセヴォロド3歳。


結婚年順 没年ピンクは貴賎結婚

1889 大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1931
1891 大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1929
1894 大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1933
1905 大公キリル・ウラディミロヴィチ(貴賎?) 1938
1907 大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1929

1917 公ガブリール・コンスタンチノヴィチ 1955
1918 公アンドレイ・ミハイロヴィチ 1981
1919 大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1943
1921 大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1956
1921 公ロマン・ペトロヴィチ 1978
1922 公ニキータ・ミハイロヴィチ 1974
1926 大公ドミトリ・パヴロヴィチ 1942
1928 公ロスチスラフ・ミハイロヴィチ 1978
1931 公ドミトリ・ミハイロヴィチ 1969
1931 公ヴァシーリー・ミハイロヴィチ 1989
1939 公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1973


上の通り、革命後に結婚した者は皆、貴賎結婚だった。

ロシアでの皇位継承に関する基本国家法によれば、
⑴君主はロシア正教徒
⑵帝室に男子の有資格者がいる限り、男子でなければならない
⑶男子の君主の母と妻は、結婚時においてロシア正教徒でなければならない
⑷別の有力な王家出身の女性と平等の結婚をしなければならない(貴族は該当しない)
⑸将来の君主は、現在の皇帝の許可を得た場合に限り結婚することができる


貴賎結婚をした場合、当人の皇位継承は維持されるが、その子には継承されない。
1989年にヴァシーリー・ミハイロヴィチが亡くなったあとは、皇位継承者は絶えたことになる。
もっとも、帝位そのものが今は存在しないので、誰も何も継承するものはないのだが。

これが、自然の成り行きであり、ロマノフの時代は静かに昇華していくのがよい、と勝手ながら私は思う。
しかし、懐古主義的な亡命ロシア人を取り込んで、皇帝のかたちを真似てそのつもりになったキリル大公の、常軌を逸した行動が、ロマノフ皇統の終わりに泥を塗ることになった。

亡命後、執務中のキリル大公


キリル大公の動き

1922 皇位を保護する者であることを公言
1924 皇帝を自称
その後、本来称号を得られないような貴賎結婚相手に皇帝の権限で称号授与を乱発、人気取りも兼ねて、皇帝の立場をアピール。
本来、国を統治するのが皇帝なのであって、政ごとを一切せず、そもそも統治するものもないのに、称号をプレゼントしたり、亡命宮廷をつくったりしても、ただの戯れでしかない。
特に、彼がそれをするということに反感を抱かれる理由は、革命が起きたときの、彼の皇帝に対する裏切り行為に由来する。

キリルは海軍にてキャリアを積んできたが、沈没を経験して以来、軍艦への乗艦を拒み、皇帝専用ヨットに乗船する水兵の隊の隊長を務めていた。革命直後、アレクサンドル宮殿に軟禁された皇后や皇太子や皇女らを警護していたのはこの水兵たちだった。水兵たちは多くがヨットで同行して、皇帝一家とは顔なじみでもあった。皇后は寒い夜空の下この水兵達一人一人に感謝を伝え、スープや紅茶を自ら振舞った。宮殿の周りに暴徒が増え、彼らしか頼りになるものがなかったからだった。ところが、ある朝、水兵たちは消えてしまったのである。キリルが命令を発して引き揚げさせたのだった。

皇帝専用ヨット シュタンダルト号

艦上でお味見する皇太子




そのうえ、自分の宮殿のうえに赤旗を立て、革命支持を示す赤い帽子を手に、国会のロジャンコに会いに行く。皇帝が正式に退位する前であり、皇帝への忠誠を破るごとき発言をしてロジャンコにさえたしなめられた。
新聞のインタビューでは、皇后を、カイザーヴィルヘルムの共犯者であるかのように語る。
こうした行動が他の皇族にはのちのちにも許せず、その行動から、キリルは皇位請求者にふさわしくないといわれた。

また、そもそもキリルとその弟達は、上の⑶の条件が適っていないので、皇位継承権そのものを持たないとする意見、そのうえ、帝政崩壊以前に結婚したキリルは⑸についても適っていない。結婚を皇帝に認められず、ドイツで秘密結婚し、国外追放処分されている。いとこ同士の結婚は正教では禁じられているので、この点に関しても皇帝の許可なしでは済まないものである。
しかし、父ウラディミルが亡くなったときに皇帝に赦され、キリルは復権した。その際に、結婚問題も皇帝に承認されたということなのだろうか。
キリルと同じような問題を起こした、ミハイル・アレクサンドロヴィチの場合と比較するならば、ミハイルは離婚経験ある平民と秘密結婚し、同じように帰国を赦されたのだが、身分違いのため、ミハイルの子には皇位継承権はなく、妻子はミハイルの居住する宮殿に入ることは許されなかった。パーヴェル・アレクサンドロヴィチの場合は、同じく離婚歴ありの平民女性だが、同居は許された。キリルの妻は離婚歴はあるけれど、王女であるため、さすがに別居にはさせないだろう。ただし、うえの2人の女性と違い、キリルの妻ヴィクトリア・メリタは、結婚した時点では正教に改宗していなかった。それは不問にされたのだろうか。あるいは、ニコライ・ニコラエヴィチの結婚をニコライ2世が承認したとき、まだ存命だったウラディミル・アレクサンドロヴィチが、キリルの結婚も認めるよう圧力をかけたらしい。そのタイミングで、皇帝は承認したのだろうか。
キリルの結婚相手ヴィクトリア・フョードロヴナは、アレクサンドラ皇后の兄ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒと不仲で離婚したヴィクトリア・メリタであり、皇后は非常に嫌っていた。
キリルとヴィクトリア・メリタは幼なじみで結婚を望んでいたが、ヴィクトリア女王の勧めでヘッセン大公と結婚した。ヴィクトリア・メリタは、離婚理由にエルンストが男色だったからとも言っているが、ヴィクトリア・メリタはヘッセン大公妃であるうちから、月の半分をロシアのキリルのところで過ごす生活をしていたとのこと、こちらも非難されてしかるべきかと思われる。ただし、この時代、妃でありながらこのように振る舞う者はめずらしくはなかったかもしれない。

革命直後、フィンランドに亡命し、白軍がボリシェビキに勝利するタイミングでロシアに入り皇帝に担ぎ出される、その時をキリルは待っていたが、白軍は敗れ、キリルは家族とスイスに亡命した。

その過程で、1917年、キリルには男子ウラディミルが誕生していた。自称皇帝は息子に希望を託して1929年に亡くなった。


キリルの息子ウラディミルの動き

キリル大公と子供達 マリー、キーラ、ウラディミル

ウラディミルは父のように皇帝を自称はしなかったが、皇位請求者として周囲に認知させようとしていた。ソ連が崩れていく中で、ロシアから尊敬を集める契機も訪れた。
ウラディミルの心配事は、男子が生まれなかったことだった。
男子の元皇族はまだ数人生き残っているが、自分が彼らより長生きできなかった場合、皇位はそちらへまわってしまう。まさか暗殺でもしない限り、彼らの誰よりも長生きできるかどうかは不確定である。確実に自分の子孫に皇位を引き継いでいくためには、奥の手を。皇帝(皇位継承筆頭者?)として、娘マリアに継承する、と宣言をしたのである。
これが、他のロマノフ達を憤慨させた。これまで、キリルやウラディミルを支持してきたフセヴォロドもこれには怒り、ロマン・ニコラエヴィチらの側につくようになった。

マリアは1953年生まれ。宣言は1969年。1978年にマリアは、ホーエンツォレルン王子と結婚。1981年、長男ゲオルギ誕生。

1992年、ウラディミル亡くなる。

上の没年と比べれば、結局、ウラディミルがもっとも後まで生き残ったので、あの宣言は必要なかったばかりでなく、かえって波紋を広げただけだった。しかも、キリルの結婚ももちろんだが、ウラディミルの結婚についても非正統性を指摘されることになる。ウラディミルの結婚相手は、元グルジア王家由来の単なる貴族であるから、ウラディミルやマリアが他のロマノフの結婚を貴賎結婚だと言うなら、ウラディミルの結婚も同じ、つまりその子孫に皇位継承権がないというのも同じだ、と口撃されるに至った。
元グルジア王家というのは、バグラティオニ家。タチアナ・コンスタンチノヴナの結婚の時には認められたが、そのときそれが多くの人に意外だったように、一般的な認識として王家とは認識されてなかったのだろう。(タチアナは大公女ではなく公女であり、貴賎結婚をうるさく言うほどでもなかったからかもしれない。しかしながら、この結婚で生まれた子への皇位継承権は放棄するよう、署名させられた上での結婚承認だった。女性でも、男系が絶えた場合はその子(男子)に皇位が巡ってくる可能性があるためである。)
ただし、時の皇帝が認めればよい、という伝家の宝刀で、父が皇帝の役になるのだから、ウラディミルの結婚の正統性は全く気にすることはないようだ。

ドミトリ・パヴロヴィチ大公とウラディミル・キリロヴィチ
ドミトリはキリルの皇位を支持


キーラの結婚式
花嫁キーラの横、眼鏡の男性はフセヴォロド公
その他、元皇族多数




ロマノフ家協会


マリア・ウラディミロヴナ以外にも、ロマノフ家筆頭者を名乗る者がいる。
ウラディミロヴィチを除く3家で築くロマノフ家協会の代表者、現在はドミトリ・ロマノヴィチ公。
コンスタンチノヴィチは男子が絶え、ニコラエヴィチのロマンの2人の男子のうち、長男ニコライは最近亡くなり、次男のドミトリが筆頭である。
ただし、ドミトリにも男子がいないため、このあとはミハイロヴィチに受け継がれることになる。
ロマノフ家協会の主張は、基本国家法で定めるところの貴賎結婚の規定は、大公に求められるものであり、公にすぎない者には、結婚相手が貴族であっても貴賎結婚とみなされない、よって自分達の結婚は正式なものであり、子孫の皇位継承権は維持されうる、というものである。そのうえで、男系優先で継承していく場合、筆頭者がマリアであることはありえないと主張する。
曲解ともいえるが、法の規定の異常な厳しさを思えば、抜け道も必要かもしれない。時代も変わっていて、王室は身近で存在しなくなっている。
ロマノフ家協会の態度は、ロマノフ家の筆頭者として名乗りをあげるが、要請が無い限りは皇帝として名乗りをあげることはしない、というもののようだ。
現実的に、ロシアが皇帝をすえることは今後ありえないと誰もが今は思っている。ロマノフ家協会でもそう認識している。
もしも、なにかのきっかけで、ロシア国民の総意として、再び皇帝を望むのなら、そのときの国民がふさわしい人を選べばよい。ただ、そのときに万が一、ロマノフ家から選びたいということになればその意に応えられるようでありたい。
そういう姿勢なのだそうだ。
しかし、マリアのほうでもほぼ同じ考え方のようである。違うとすれば、今の立場においても尊敬を集めたいというところだろうか。ロマノフ家の他の者たちと自分とを、はっきり線引きするよう
周囲に求める。

こういう分裂すらおさめられないで、あの大きなロシアを治める皇帝に君臨するのはどうにも無理だろう。できれば、非現実的な皇位に固執することなく、和解して、革命の犠牲になった先祖のために祈りを捧げていただきたいと私は願う。


なお、ウラディミロヴィチ家の継承を支持しつつ、ロマノフ家協会とも良好な関係を持ち、皇位継承権は放棄し、ロマノフの名前も使わず、一アメリカ市民として暮らす、アウトローな末裔もいる。パーヴェル・ドミトリエヴィチ・ロマノフスキー=イリンスキーである。
キリルから与えられたロマノフスキーの名を捨て、ポール・イリンスキーと名乗る。
ドミトリ・パヴロヴィチの一人息子。
資産の相続も辞退。自分で築いたアメリカ市民としてのステイタスがあるので不要だと。
なんとも颯爽としている。
糸の切れた凧を思わせる自由さは、ドミトリ譲りなのかもしれない。

マリア大公と息子ゲオルギ


ロマノフ家協会代表 ドミトリ・ロマノヴィチ公 作家




ロシア大公家系の末路/ミハイロヴィチ家

2016-08-13 20:50:34 | 人物
低い帝位継承順位
自由奔放、リベラルなミハイロヴィチ
革命後もっとも多くのこされた家系





まずはニコライ1世子女をおさらい。


❶アレクサンドル2世 1818〜1881
②マリア 1819〜1876
③オルガ 1822〜1892
④アレクサンドラ 1825〜1844
❺コンスタンチン 1827〜1892
❻ニコライ 1831〜1891
❼ミハイル 1832〜1909

ミハイロヴィチは男子子孫が多く、革命後では、大公5名と公6名がのこされた。
大公のうち3名が処刑された。
公6名は、11歳〜20歳の兄弟たち。


〈第1世代〉
ミハイル・ニコラエヴィチ
1832〜1909



ロマノフ皇族のならいとして、軍人となる。
兄皇帝によってカフカス副王に任ぜられ、露土戦争後は砲兵総監、元帥。
バーデン大公女オリガ・フョードロヴナと結婚し、六男一女が生まれた。
愛人と奔放に暮らし、家庭を顧みない兄達と異なり、ミハイルは愛人を持たなかったが、軍務に熱心で、家庭はほとんど顧みなかったという。
愛人で家庭が壊れることはなかったものの、子供達に対して父母ともに非常に厳格だったためか、子の多くは屈折した家庭生活を送った。
20年ほど、カフカスで暮らしたが、アレクサンドル3世の代になってからサンクトペテルブルクに落ち着き、広大なミハイロフスキー宮殿で暮らした。
アレクサンドル3世は、愛人を囲う叔父達を嫌ったが、ミハイルにだけは年長者に対する敬意を払った。
1903年より、病気で車椅子の生活になった。療養のためカンヌで暮らすとそこには、ドイツに嫁ぎ、カンヌに定住していた娘アナスタシアや、国外追放されていた息子ミハイルとも顔をあわせるようになり、ようやく家族らしい関係に浴することができた。
76歳で死去。
革命以前のロマノフ家男子でもっとも長生きだった。

父ニコライ1世ー兄アレクサンドル2世ー甥アレクサンドル3世ーニコライ2世の、皇帝4代のもとに生きた最高齢の皇族
写真は晩年、ニコライ2世と



ミハイル・ニコラエヴィチの子女。

❶ニコライ 1859〜1919
②アナスタシア 1860〜1922
❸ミハイル 1861〜1929
❹ゲオルギ 1863〜1919
❺アレクサンドル 1866〜1933
❻セルゲイ 1869〜1918
❼アレクセイ 1875〜1895

早逝したアレクセイを除き、兄弟5人中の3人が処刑されたのは、コンスタンチノヴィチ家のプリンスたちの運命と重なる。



娘アナスタシアはメクレンベルク=シュベリーン大公フリードリヒ・フランツ3世に嫁ぎ、その長女アレクサンドリーネはデンマーク王クリスチャン10世妃、次女ツェツィーリアはドイツ皇太子ヴィルヘルム妃となった
アナスタシアは病弱な夫を顧みず、国を離れて派手な社交やギャンブルに明け暮れた。夫は謎の転落死、あるいは自殺。アナスタシアはまもなく愛人と再婚し一児をもうけた。
写真は曾孫ヴィルヘルムと



〈第2世代〉
ニコライ・ミハイロヴィチ
1859〜1919







ロマノフ家きっての歴史学者。
ミハイロヴィチ家の第1子長男として生まれた。
例外なく皇族のならいにより、軍人となるべく道を敷かれた。特に、父は軍事に関心が高かったが、ニコライは学問を好み軍務を嫌い、大学に行きたかったが父は許さなかった。軍では、マリア・フョードロヴナの近衛騎兵隊に所属。ここには、のちにフィンランドの英雄となるカール・マンネルヘイムも所属していた。マンネルヘイムは長身で187センチだったため抜擢されたとされ、ニコライも長身そろいのロマノフらしく、188センチと高かった。

父母は子供達に大変厳しかったが、母は優秀なニコライだけを溺愛した。
昆虫学、植物学の研究から、次第に歴史学を究めるようになる。皇帝の許しを得て、さまざまな図書や資料の閲覧ができた。革命で散逸したロマノフ家の宮殿や人物画、美術館の所蔵品が彼によって記録されていたことで、現在でも確認することができている。

母方のいとこ、バーデン大公フリードリヒ1世の娘ヴィクトリアとの結婚を望んだが、従姉妹との結婚に皇帝の許しが得られず断念。(ヴィクトリアはのちのスウェーデン王グスタフ5世妃、次男ヴィルヘルムはマリア・パヴロヴナの最初の結婚相手)
次に、オルレアン家アメリーとの結婚を希望したが、これも反対にあい断念。(アメリーはのちのポルトガル王カルロス1世妃)
その後は、結婚を希望せず、生涯独身。ただし、愛人や隠し子は複数いたらしい。

ニコライと母

ユーモア、イタズラ、冗談、気分屋、変人、軽率、ギャンブル好き。ただし、寛容で飾り気がなく、配下の者とも友人付き合いする、天真爛漫さが皇族皆から愛された。
しかし、先見性を持つゆえに、ロマノフ家が傾いていくのを人一倍憂えており、自らの自由主義を公言し憚らなかった。皇帝ニコライ2世には、度々、皇后の保守傾向の危険を訴え、謹慎にされた。
第一次大戦中は、久々に従軍。ただし、野戦病院訪問が主な任務で、日々送り込まれる負傷兵の多さに、ロシアの敗退を確信。もともと嫌っていたニコライ・ニコラエヴィチ最高司令官の、訓練未熟な兵を構わず戦場に送り出す無謀を批判した。

革命後は、弟ゲオルギとともに、前出のドミトリ・コンスタンチノヴィチ大公と同じ運命となった。
ニコライの釈放のために、フランス政府、ブルメル、ゴーリキーらが奔走したが叶わなかった。
処刑前に、抱いていた猫を近くにいた兵士に世話を頼み、3人は一斉射撃で射殺され、足下の穴に倒れこんでいった。

左からパーヴェル・アレクサンドロヴィチ、ニコライ・ミハイロヴィチ、皇后、セルゲイ・ミハイロヴィチ、皇帝、ゲオルギ・ミハイロヴィチ?、女性3人、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ?、ピョートル・ニコラエヴィチ?
ニコライ大公の笑顔は魅力的



ミハイル・ミハイロヴィチ
1861〜1929



兄ニコライとミハイル


第3子次男ミハイルは、母に、優秀な兄と比較されながら、父母に厳しく育てられた。その幼少期の反動か、長じて、社交界ではギャンブル、女、派手に遊ぶ。
テック公女メアリー、ヘッセン大公女イレーネ、イギリス王女ルイーズに次々と求婚を断られ、メーレンブルク伯ゾフィー嬢と、許可なくイタリアで結婚。激怒した皇帝によって、地位を奪われ、入国不可にされた。アレクサンドル3世は彼を『馬鹿者』と呼んだ。母はショックで、程なくして療養先で亡くなったが、母の葬儀にも出席させてもらえなかった。
イギリス、フランス、ドイツを転々とし、カンヌに落ち着いた時、姉や父と和解。父の葬儀には、一時帰国を認められ、出席できた。
ロシア革命では、国外追放されていたことが幸いした。
晩年は経済的に立ち行かず、ジョージ5世や娘婿の援助で暮らした。次女ナデジダはバッテンバーグ家嫡男のジョージと結婚。

ミハイル・ミハイロヴィチと妻子

ミハイル・ミハイロヴィチの子女。

①アナスタシア 1892〜1937
②ナデジダ 1896〜1963
❸ミハイル 1898〜1959

息子ミハイルに子はいない。



ゲオルギ・ミハイロヴィチ
1863〜1919





第4子三男。自身も軍で活躍することを望んでいたが、幼少期に脚を悪くしたため、積極的な参加はできなかった。
物静かで引っ込み思案だが、優しい。大食い。
コインやメダルの膨大なコレクションは、革命を越えて後代に残された。

グルジア王家末裔の公女ニーナ・チャフチヴァーゼと恋愛、ただし、貴賎結婚にあたるために反対にあい、断念した。そのため、37歳まで未婚でいたが、一念発起して、エディンバラ公の娘マリーとの結婚を望んだが、マリーの母マリア・アレクサンドロヴナは娘をルーマニア王太子と結婚させるため、断った。
次に、ギリシャ王ゲオルギオス1世の娘マリアとの結婚を望む。マリアは平民と恋愛していたが、結婚できるわけもなく、無関心なままゲオルギとの結婚を受け入れた。ゲオルギは、この結婚に愛情はないが、時が経てば幸せになれるだろうと考えた。
しかし、マリアのロシア嫌いはひどく、夫とも離れたがった。1914年に、子供の健康にかこつけて、静養と称してイギリスへ。そのうち大戦が始まり、ロシアには戻らず、娘たちも優しい父とはその後もう会えなかった。娘たちは後年、母のこうした態度を冷酷だったと非難している。
大戦中、ゲオルギは日本にも派遣されていた。

革命後、妻子のいるイギリスへ亡命を希望したが受け入れられず、のちにフィンランド経由での国外脱出を許された。しかし、旅券に不備があったため、捕らえられた。これ以降、2度と国外脱出の機会がなくなってしまったために、運命が決まってしまった。
逮捕されてからは、兄ニコライと運命をともにした。

ゲオルギ・ミハイロヴィチの子女。

①ニーナ 1901〜1974
②クセニア 1903〜1965

ニーナはかつて父が恋して結婚を断念したチャフチャヴァーゼ家に嫁いだ。
クセニアはアメリカの富豪と結婚し、のちに一時アンナ・アンダーソンを保護していた。
妻マリア・ゲオルギエヴナは再婚し、ギリシャに帰国した。

クセニア(左)とニーナ



アレクサンドル・ミハイロヴィチ
1866〜1933



皇帝の娘クセニア大公女と結婚

第5子四男。ロマノフ家では数少ない海軍のキャリアを持つ。ちなみに、他に海軍に従事した皇族は、
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ
キリル・ウラディミロヴィチ
アレクセイ・ミハイロヴィチ

このうち、ゲオルギとアレクセイ・ミハイロヴィチは早逝。キリルは搭乗艦の事故後から恐怖で海軍を離れたため、実質は3人と考えられる。

父がコーカサスからサンクトペテルブルクに異動になると、アレクサンドロヴィチ家の年長の子供達、ニコライやゲオルギ、クセニアらの遊び相手になった。そういうなかで、アレクサンドルと弟セルゲイは2人ともクセニアに恋して、結果、アレクサンドルとクセニアが結婚することとなった。
海軍の改革に取り組み、空軍の創設にも尽力した。

クセニアとの間には、六男一女。
ミハイロヴィチの兄弟は多かったにもかかわらず、正式な結婚の子孫を残せたのはアレクサンドルだけだった。

①イリナ 1895〜1970
❷アンドレイ 1897〜1981
❸フョードル 1898〜1968
❹ニキータ 1900〜1974
❺ドミトリ 1901〜1980
❻ロスチスラフ 1902〜1978
❼ヴァシーリー 1907〜1989

クセニアとニコライ2世はそれぞれ、同じ年の1894年に結婚し、子供達もそれぞれに生まれている。肝心の皇帝には、なかなか男子が生まれないのに、クセニアの家庭には次々に男子が生まれる。皇后は辛かったことだろう。
年令も血縁も近いため、皇帝の子供達とは一緒に遊ぶことが多かった。

末子ヴァシーリーはまだいない頃
すぐ上と5歳離れている




革命時はキエフで空軍の指揮をしていた。
首都にいなかったことが、アレクサンドルには幸いし、クリミアに逃亡していた家族に合流できた。
イギリス軍艦によって、妻子、皇太后、オルガ・アレクサンドロヴナ、ニコラエヴィチ家、イリナの嫁ぎ先のユスーポフ家とともに国外脱出。すでに関係が破綻していたクセニアとは、国外脱出後は別居した。
息子達は皆、貴賎結婚。フョードルは、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の後妻の娘イリナと結婚している。その子に至っては、4人の祖父母のうち3人がロマノフ皇族(しかも大公)という、血の濃さからすれば正統性が高いように思ってしまうが、パーヴェルがそもそも貴賎結婚だったので全く考慮されない。
現在、アンドレイ、フョードル、ロスチスラフの男系子孫が残されている。

クリミアに軟禁中のロマノフ皇族と縁戚



セルゲイ・ミハイロヴィチ
1869〜1918





第6子五男。
軍では父の後を継いで砲兵総監、砲兵大将。
身長190センチ。数学や物理学に関心。
親しかったニコライ皇太子が結婚するにあたり、それまでの愛人だったバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤのことを、友人としてセルゲイに頼んだ。セルゲイは新しく、クシェシンスカヤの愛人兼パトロンとなり、立派なダーチャを買って与えた。
1900年頃から、クシェシンスカヤはセルゲイの甥アンドレイ・ウラディミロヴィチとも関係し始め、1902年には、どちらの子がわからない息子が生まれた。母子はセルゲイが養っていた。この三角関係はまだ続く。

第一次大戦時、セルゲイが療養から軍に復帰すると、砲兵部は汚職問題で荒れていた。汚職はクシェシンスカヤの利権に絡んでいたものだったため、セルゲイは処罰され、砲兵総監の地位を失う。こうしたスキャンダルにもかかわらず、クシェシンスカヤとの関係を維持しようとした。
革命時は、皇帝とモギリョフで一緒だった。ニコライ2世の退位署名に立ち会った。
クシェシンスカヤのいるサンクトペテルブルクに帰ったものの、一緒になるのを断られ、彼女は息子を連れてアンドレイのところへ行ってしまった。首都に残されたセルゲイは兄と共に、ボリシェビキに処刑された。

クシェシンスカヤの息子の名はウラディーミル。アンドレイの父名が付けられている。セルゲイからアンドレイに乗換えたのは、アンドレイのほうが皇位継承順位が格段に高いというのもあるのだろうか。
クシェシンスカヤはロマノフに食いついて離れず、いつか自分もロマノフの人間になる、と虎視眈々と狙い続け、とうとうなったのである。
アンドレイとの結婚は、アンドレイの母が決して許さなかったのだが、母亡き後すぐに結婚、自称皇帝の義兄キリルによって、ロマーノフスカヤ=クラーシンスカヤ公妃の称号を授かった。

マチルダ・クシェシンスカヤと息子ウラディミル


アレクセイ・ミハイロヴィチ
1875〜1895



両親と兄弟たち アレクサンドルを除く


第7子六男。ただし、1番早くに亡くなった。19歳。
兄アレクサンドルのように、海軍に進む。
海軍士官学校の訓練中に肺炎を起こしたが、父が療養を許さず、悪化。
結局、イタリアで療養したが、改善することなく亡くなった。



以上、ニコライ1世以降のロマノフの大公たちを一人一人調べた。
もう一度、ひととおり並べて総覧したい。
次の記事で考察します。




ところで。
今日はたまたま、アレクセイ・ニコラエヴィチの112回目の誕生日!
ここ数日、ずっと調べたり書いたりしていた世界というのは、112年前あたりのことなのか、
と、しみじみ‥
遠い時代のことだったのだとあらためて感じました。



帝政期、最後に生まれた大公。
彼の血友病がロシア帝国を崩壊させたと言われることもありますが、結局はロマノフたちの驕りや、民衆の粗暴な革命の犠牲にならねばならなかったのは、まだ子供に過ぎない彼でした。
この運命を生きたアレクセイを、とてもいとおしく思います。