GEN事務局会田の大同活動日記

中国黄土高原でのGENの活動や、現地の人々の生活をお伝えします。

お父さんの何気ない一言から・・・

2008年04月25日 | ホームステイ
 大泉山村の農家で昼食をいただきました。私は大泉山村に来ると、偶然にもなぜかいつもこのお父さんの家にお邪魔しています。今日はこれで4回目かなあ。元気に再会できてよかったです。ここの家のお父さんはとても朴訥な方で、いつも穏やかな表情でもてなしてくださいます。今日もたくさんの料理が食卓に並びました。
いつものようにみんなでワイワイ雑談しているときに、お父さんが自治労大阪府本部の一人の名札を見て、「日中戦争の日本軍の総司令官と同じ名字だね」と何気なくおっしゃいました。そして一緒に食事をしていた大同事務所の小李(シャオリー)は、それを聞いてなんともいえない複雑そうな、そして申し訳なさそうな顔で私を見ました。私はそのまま4人の自治労の方に訳して伝えました。そうしたら今まで和気藹々と食事を楽しんでいたみなさんがとても神妙な面持ちになって、「やっぱりそういうことをこちらの人はちゃんと知っているのですね」、「やっぱり日本人もちゃんと知らなくてはだめですよね」と言ってくれました。それから過去の歴史をちゃんと認識することの大切さについて、5人で語りました。私より年下のみなさんがそう言ってくれて、私は本当に心強かったです。そしてうれしかった。

 過去にツアーに来た学生さんなどでも、「過去の戦争のことを言われても、なんかぴんとこないというか、自分と結びついて考えられない」という人もいました。そして「いつまで謝り続けなければならないのか」という論調も高まっています。それも仕方のないことです。でも私はやっぱりどうしても自分とは関係ないこと、もう過去のこととは思えないのです。なぜだろう。とっても胸が痛むのです。
 ご存知の通り、大同は日中戦争の激戦地です。三光作戦、中国語で「光」は「~し尽くす」という意味で、つまり「奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽す」作戦が行われたとも言われています。私はGENに参加するまで、中国のいろんな場所で「山西省の人間は本当に日本人を憎んでいる」と中国の人から聞いていました。なので、旅行で気軽に山西省を訪れるのもちょっと躊躇していたくらいです。だからGENの活動に参加して、ここ山西省大同市で地元の人と日本人とでこのような関係が築かれていることに、心底驚きました。これもGENの先輩や会員の皆さん、過去にそして今もツアーに参加してくださっている皆さんがこつこつと積み上げてきてくださった結果だと思います。
 私も大学4年間、北京に留学している時に日中の過去の歴史についていろんなことを目の当たりにしました。中国にはまだ「過去のこと」になっていない傷ついた人がたくさんいます。それと同時に私はたくさんの中国の方に本当に親切にしてもらいました。そして大学を卒業したときから、それを踏まえた上で中国語を使って何が自分にできるのかを会社で働きながらずっと考え続けてきました。そして今、このGENの仕事にたどり着いています。そしてこれからも日本人として自分に何ができるのかをずっと考え続けます。
 正直言って、こういうことをブログに書くことはとても勇気がいります。やっぱりとても怖いです。誤解も受けやすいし。でも違う意見の人たちの声が、どんどん大きくそして強くなってきている今、やっぱりこういう気持ちをたまには表に出していく必要があると思っています。
 先輩方が積み上げてきてくれたものを大切にしながら、これからも大同でこつこつと積み上げていきます。私にとって、今日は本当に意義のある昼食のひと時でした。力をくれたみなさんに心から感謝。本当にありがとう。唯一の心残りは、みなさんの気持ちをこの家のお父さんと小李(シャオリー)に訳して伝えなかったこと。とっても大切なことだったのに。でもみなさんの真剣な表情から、その気持ちはきっと伝わったと思います。

 大泉山村を後にして、陽高県の最北端、守口堡村に向かいました。その途中、自治労の皆さんからのリクエストがあり、日中戦争について遠田先生から詳しい話がありました。そして陽高県の県城にある日中戦争の犠牲者の慰霊碑に立ち寄りました。1937年7月7日の盧溝橋事件以後、日本軍は重要な燃料、石炭産地である大同を落とすために、いわゆる山西作戦を展開し、大同各地で虐殺事件を起こしました。陽高県の中心地だけでも数百人が犠牲になったそうです。

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2 コメント

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お父さんの何気ない一言から・・・へ (CAMBIEW48)
2008-05-10 21:14:47
昨年4月に企業参加でGENのツアーに参加した者です。その後9月に87歳で亡くなった父はその時にはもう足腰が立たずボケ気味でしたが、山西省に行くと伝えると即座に「日本人は危ないから気をつけなさい」とはっきり言いました。戦前に青春を過ごした父が山西省での出来事をいつ知ったのか、戦時中だったのか或いは戦後だったのかはとうとう聞きそびれました。宿泊した賓館の名称は共産党軍が日本軍を破った戦場の名前でしたし、行きかうトラックに満載の石炭は今でも日本の重要なエネルギー源だと聞きましたので、日中戦争への思いを新たにしたのですが、「大丈夫気をつけます」と答えた私には事実問題はありませんでした。中国には行ったこともない父が放った突然の山西省を特定した言葉は何だったのか、今また思いだしました。
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Unknown ()
2008-05-12 17:17:03
CAMBIEW48さま:

そうでしたか。そんな経緯があったのですね。昨年GEN春ツアーということは、私もご一緒していますね。私は日中戦争についていろいろと勉強をしたつもりだったのですが、平型関の戦いのことはGENの活動に参加するまで知りませんでした。山西省という場所は、戦争を体験している世代にとっては、知る人ぞ知る場所なのかもしれません。今、大同で活動していても、普段は歴史問題はほとんど顔を出さないのですが、でもふとした時に意識させられます。日本人としていつも忘れずに頭の片隅に置いておかなければならないと思っています。貴重なお話をありがとうございました。
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