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玄文講

日記

無駄

2005-10-16 11:46:06 | 個人的記録
習作4点。

この程度のイラストならいくらでも描けるのだが、問題は需要がないことである。
値段を高めに設定してイラスト一つにつき3000円を取るとして、生計をたてるには月40点を描かないといけない。
そんなに注文が来るわけがない。

結局、この能力も生きるには無駄なものでしかないわけである。

床屋にて

2005-10-14 13:07:12 | 個人的記録
床屋でひげをそられながら、うたた寝をしていたところ、濡れたタオルを顔にかぶせられて窒息死しそうになった。
そんな昼下がりのひと時。

犬とケンカ

2005-10-09 01:03:49 | 個人的記録
昨日、私は野良犬とケンカした。

日も暮れた頃に私が周囲を畑で囲まれた道を一人歩いていたところ、小走りに後ろから何かが近づいてくる気配を感じた。

振り返るとみすぼらしい汚れた白犬がいた。
首輪をしていないので生来の野良なのかもしれない。
間の抜けた顔をした、弱そうな犬だった。

それで犬は私の後ろ、横、前を行ったり来たりし始めた。
私は始めは特に気にもせず、横目でその犬の様子を見ていたのだが、やがて犬はやけに私に近づいてくるようになった。
後ろを振り返ると、足元にいた犬と目が合い、犬は急いで畑の中に入って私の横を走ったりするのだ。
何か妙だ。

そして、しばらくしてから犬は急に低くうなりながら私の周囲をゆっくりと旋回しはじめたのだ。
その顔から先ほどのマヌケさが消えていて、敵意を露わにしていた。
私は、この犬は狩りをするつもりだと理解した。


やがて犬は急に勢いよく走り出して私の後ろに回りこんだ。
来るつもりだ。
私は急いで振り返り、腰をかがめて、懐から寸鉄を取り出した。
それで私に向けて一直線に走り出そうとしていた犬が止まった。

牙をむいた犬の両目が夜道の中で光っているのが見えた。
嫌だ。嫌だ。
犬とケンカなんて御免だ。犬は強い。犬は加減を知らない。
あの犬はなんてことはない普通の中型犬だ。しかし、それでも犬に素手で勝てる人間は少ない。
しかもあれは首輪をしていないから(いまどき狂犬病なんてないだろうが)噛まれたときの病気が心配だ。だが無傷で勝つ自信はない。
やばい。やばい。やばい。

私が持っているのは護身用のちんけな寸鉄だけだ。
相手が人間ならばこんなので十分なのだ。腕や足や腹を少しつつくだけで戦意をなくして逃走してくれる。
しかし動物に中途半端な攻撃をしても逆効果だ。

私は昔何度か見た闘犬の犬を思い出した。目を潰され、耳が欠けて、顔や胸が血で赤黒く染まり、相手の首にしがみついたまま身体を回転させて、火を近づけても決して相手を離そうともせずに闘い続けるあの犬たちの姿を。

私は、あの犬たちの返り血と血の混じったよだれで服を汚しながら、その闘いに感心したものだった。
この野良犬があの闘犬と同じだとは思わない。もしそうならば私は確実に死ぬ。
しかしこいつがあれと同じ犬科の生き物であることは確かなことなのだ。

こんな寸鉄では接近戦に持ち込むしかない。だが犬との接近戦は自殺行為だ。せめて口の中に手を寸鉄ごと突っ込むか、噛まれながら腹や首や目を突きまくるしかない。
無謀だ。私はケンカが弱いのだ。私の古い知人たちならば、あんな野良犬の1匹ぐらい簡単にねじりふせるだろうに。
自分の無力が恨めしい。それに犬とケンカするなんて滑稽で頓馬でバカなことだ。大バカだ。

私と犬のにらみ合いはほんの少しの時間で終わり、犬は再び畑の中に駆け込むと、小刻みに動きながらうなり、そして吠え始めた。
だから私も吠え返した。
歯をむき出して、うなりながら、雄たけびを上げた。
犬の吠える声を掻き消すくらいの大声で「ウオオオオオオ」と叫び返した。
自分の叫び声が障害物のない畑を抜けて遠くまで響くのを感じた。

それで犬がひるんだ。
私は心の中で快哉をあげた。犬の中での私の扱いが「格下の獲物」から「不可解な奴」に変わったのを感じた。
今がチャンスである。
私はきびすを返して走って、逃げ出した。

追いかけてきたら闘う。このまま逃げ切れれば幸運。そう思いながら走った。
そして私は幸運であった。
犬は追ってこなかった。




吠えられて、叫んで、逃げて、私は本当に滑稽だったことだろう。
それから私は念のために犬対策をすることにした。
催涙スプレーがあれば一番良いのだが、
私は昔所有していたほとんどの武器を「いい大人がこんなものを持って喜んでいてはいけない」と思い、処分してしまっている。
催涙スプレーもその時に処分済みだ。
犬相手には最適な道具であったのに惜しいことをした。
とりあえず私は近くのコンビニでコショウと虫除けのスプレーや刺激の強い薬品を買い、犬対策の道具を幾つか作った。
これで次に襲われたときは余裕をもって逃げることができる。(闘うことは始めから考えていない。)



それにしても、いたずらしたわけでもないのに、なぜ私が襲われそうになったのかは分からない。
昔から犬は私を嫌うのだ。
知人の飼うおとなしい小型犬も、私を見ると吠え始め、飼い主が「いつもは、こんなのではないのですが」と当惑することも度々(たびたび)だ。

犬に襲われそうになったのだから、本当は今すぐに保健所に電話すべきなのだろう。しかし、だ。

あの犬は、もしかしたら昔大学で誰かに飼われていた、よく眉毛を書かれたり、体に落書きをされていた有名な「バカ犬」かもしれない。
あの犬も白くてマヌケな顔をした弱そうな犬だった。
もっとも白い犬なんてどこにでもいるし、あれは人間に対してほとんど無抵抗な犬だった。
しかし、どんな犬も何故か私の前では凶暴になるのだ。

あれがもしあの犬ならば、あまり殺したくない。
とりあえずもしもう一度襲われたら、保健所に電話して駆除を依頼しよう。

陰鬱日記5

2005-10-08 05:58:10 | 個人的記録
当たり前のことなのかもしれないが、世の中は思い通りにならないことが多く、いろいろなことがうまくいかないでいる。

願えば、かなわず。
求めれば、失い。
努力は、無駄骨になり。
挑めば、挫折し。
約束は、守られず。
成功は、遠のき。
希望は、ない。

人生で成功したことのない人間、何かをやり遂げたことのない人間には負け癖のようなものがつきまとっている。
自信がないせいか、顔色はいつも沈んでいて、行動はどこか投げやりだ。
何かをしようとするたびに、なぜかいつも悪い道、冴えない手段、見込みのない計画の方を選んでしまう。運が悪いと言うより、自らすすんで不運を呼び寄せているようにさえ見える。

私も今はそういう感じだ。

過ぎた時を思えば全てが無駄だったような気になって情けなくなる。
来るべき時を思えば、その困難さと不確かさに恐れを抱く。
今を思えば自分が何をしているのか分からなくなる。

どうせ人生はなるようにしかならないのだから、過去を後悔したり、未来に悩んだりするだけマヌケである。
だから今の私はマヌケだ。悩む必要のないことで悩んでいるマヌケな暇人だ。

具体的に今の私が陰気なのは、実家の経営状況がかんばしくないからだ。
それは仕方がないことなのだが、不安だ。

印刷屋に戻れば、今の研究はやめないといけない。
残念なことに、この研究は私がいなくても代わりにやる人間は五万といる。しかも私より優秀な人たちばかりだ。
仕事のために止めると言えば聞こえはいいが、実際は無能ゆえにあきらめ、挫折しただけなのだ。
そもそも去年には既に私はやめることに決めていたのだ。秀才と天才しかいない世界で生きていくのは無理だと考えたからだ。
結局、私はまた失敗したのだ。これで人生何度目の失敗だろうか。

「貴様は今まで食べたパンの数を覚えているのか?」

そんな感じだ。

生きるための道は先行きが不安で、夢は破れて、人生は壁に突き当たってばかりだ。

「後姿が立派な野郎なんてものは間違った野郎なのかもしれない」と言ったのは徳川夢声であった。
それは確か、誰しも自分の人生を振りかえればその成したことの少なさ、数々の失敗に落胆し、胸などはれず、必然的に後姿も寂しいものになるという意味で語られたセリフだった。

そして自分の周りを見てみれば、誰もの背中が寂しげだ。

だがそれでも私は、これからも何かを願い、求め、努力し、挑み続けるつもりである。
それはあまり格好のいいことではないだろう。
神田森莉氏が言うように、「死ととなりあわせの狂気とゆうべきものが、夢とゆうものなのである
夢を追うのは醜く無様なことなのだ。

それでも私には夢がある。
夢の一つは個人的なものだ。この世界は実に興味深い。
私はこの世界のことを全て知りたい。

もちろんそれは不可能なことだ。しかも私は残念なことに記憶力が人一倍弱く、バカだった。
下手の横好きというやつだ。

しかしこの失敗した5年間は私に些細な数理能力を残してくれた。おかげで私は物理学の膨大な分野の一部だけは理解できるようになった。

失敗し、挫折はしても、自分の中に残るものはある。それは私を次の段階に押し上げてくれる。
私にとって失敗しない人生なんて、成長しない人生と同意義語だ。

私には知りたいことがたくさんある。
理論物理学はスタンダード・モデルを超えて、より深い世界を私たちに教えてくれるだろう。
物性は技術の進歩により、高エネルギー物理学の理論を応用すべき段階に迫りつつある。
分子生物学の発展は進化論が持つ自然淘汰と遺伝の溝を埋めてくれるだろう。
大脳生理学は今や哲学と心理学の役割も果たし始め、人間とは何かについて教えてくれる。
認知心理学は最近では人文系の学問にも応用されている。
歴史は人間同士の相互作用の仕組みを実験した膨大な量の観測記録だ。
経済学は人類が幸福になるためには必要不可欠な学問だ。
私は工学を何も知らない。せめてマニュピレータくらいは自力で作れるようになりたいものだ。
他にもいくらでも知りたいことを並べ立てることができる。
それらを私はまだ何も知らない。

こんなうまそうな餌を目の前にぶら下げられて、諦めるなんてできるものではない。
知るためならば、私は何回でも失敗を重ねよう。


そして、もう一つの夢は、もはや個人的なものではない。
私たちが自分の道を自分で切り開けない弱者だったとき、弱者は死ぬまで弱者のままではないのかと怯えていた時、私たちは私たちの夢を決めたのである。

その実現のためには、成功しなくてはいけないのだ。
成功に至る道は一つではない。だから多くのやり方を試す必要がある。
そのためには何度でも失敗をしよう。

既に成功している何人かの仲間に追いつき、欠落した必要な部品を補い、私たちの醜い夢を実現させるために。

幕間5

2005-10-06 07:12:16 | 個人的記録
学位論文の提出が明日にまでせまってきた。
しかしそんなことは別にどうでもいいことではある。

どうでもいいことと言えば、昨日、私は運がないと書いた。
しかしだからと言って私は自分が不幸であるとは思っていない。
運がないのと不幸は別のことである。

私はバスにはねられたことがあるが軽い打撲ですんだ。だから不幸ではない。
切符をなくし、道に迷い、ぼったくられて、犬に追われたことがあるが、目的地には着けた。だから不幸ではない。
ケンカ騒ぎに参加するはめになったことがあるが無傷ですんだ。だから不幸ではない。
くだらないトラブルに巻き込まれたことがあるが私に被害はなかった。だから不幸ではない。

月給は9万円で、器量は悪く、体力はなく、知恵もないが、生きていられる。だから不幸ではない。

犬の糞はふむし、急な雨に降られるし、チンピラにはからまれるし、プリンタは壊れるし、バスは目の前で走り去り、1時間待ってからさっきのバスが最終便であることに気がつくし、味噌汁の中にふやけた虫が入っているし、茶を布団にこぼしてベランダに干しておいたら地面に落ちていたし、風呂の湯沸かし器は調子が悪いし、バクチには負けた。
しかし不満はないのである。

なにも私はパレアナのように「良かった探し」をするつもりはない。
不運は不運。ダメはダメ。バカはバカ。無能は無能。クソはクソである。
解釈や視点を変えて前向きに考えるだなんて現実逃避であり、「貧しきものは幸い」なわけはないのである。
ただ私は不運や自分の無能が致命的な損害を呼んだことがないので「不幸ではない」と思っているだけなのである。

(ちなみにパレアナは日本ではアニメ版のタイトル「愛少女ポリアンナ物語」と言った方が通じやすいであろう。
それにしても酷いタイトルである。)