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玄文講

日記

近況

2006-03-23 14:03:57 | 個人的記録
どうも、どうも。お久しぶりです。

長い間、更新していないのは、借金苦に疲れているからでも、事故のケガで虫の息だからでもなく、
単に今月の頭に電話回線の契約を解除してネットが使えなくなったからであります。
来月には更新を再開できる予定です。

前回や今は他人様のパソコンから更新しているわけです。

それで近況を簡単に報告申し上げますと、こちらは特に変わったこともなく日々を過ごしております。

引越しのときに本棚を足の上に落として肉がえぐれたり、
仕事中に車でトラックにつっこんだり、
強風で電車が止まって乗り換え列車を待ちながら、寒空の中で2時間ほど立ちつくしていたせいでカゼをひいたり、
事務の方が連絡ミスで大学院の学位授与式に12時集合のところを13時集合と伝えた為、誰もいない講堂で待ちぼうけをくわされたり、
注文したはずの本が手違いで届かなかったり、、、

このように私はいつもと何一つ変わらない毎日を平和に過ごしています。

酒は偉大なり

2006-02-18 23:18:51 | 個人的記録
こんばんはー。

どうも、どうも。
いえね、さっき研究室の冷蔵庫をあけたらバドワイザーと日本酒が入っていましてね、
それを今ありがたくいただいているところなわけです。

いえいえ、私は酔っていませんよ。

酔っていませんけれども、「酔っている」か「酔っていないか」のどちらかを二者択一で選べと言われれば、前者を選ばないといけない状態であることは認めざるをえないことも事実であります。

でも酔ってませんよ、今の私はh

ところで、父の実家は造り酒屋でしてね。

もっとも、正確に言えば実家ではなくて居候(いそうろう)なのですけど、

ああ、違うか。正確に言えば居候なのですけど、父の実家は造り酒屋なのです。
そういう細かい事情はさておきまして、父の縁で私も酒とは関わりが深いはずだったのですが、昔の私はまるでアルコールが飲めませんでした。

特に町内会で行ったキャンプ場でウイスキーを一口飲まされて、笑いながら夜の森の中に消えていった「軽井沢失踪事件」以来、うちの家族が私にお酒を飲ませてくれなくなりまして、友達のいない私は酒の席に出る機会もなく、長い間完全に酒との縁が切れることになったわけです。

それで22年間私は自分が下戸だとばかり思っていました。
ですが大学院に入ってから酒盛りに何度も参加しているうちに、意外と自分が酒を飲めることに気がつきまして、今ではすっかり昼間から酒を飲むクズ野郎に成り下がっているわけであります。


そうそう、その造り酒屋は、最近新しく職人を招いて吟醸酒を作り始めています。
たまに彼らが池袋とか新宿のデパートでやる物産展に出店するときには、私も売り子として手伝いをして、そのお礼にそのお酒がもらえるわけです。
「松竹梅」大安売りセールばかり飲んでいる身には吟醸酒はアリガタイことです。


ところで、今の私は一人で飲んでいます。
酒は一人で飲むに限ります。
単に友人がいないだけというのもありますが。

そう言えば中国の漢の時代には「群飲」が禁止されていたそうです。
つまり3人以上でお酒を飲むと罪になって罰金刑が下されたわけです。
だから宴は国家の慶事における民爵賜与のときや祭りや婚姻などの「礼」の席でのみ行うことが許されていたわけです。

この禁止令の裏には興味深い理由があります。

まず今から約2220年前、始皇帝を生んだ秦は戦国時代を勝ち上がり、各地を支配していた諸王に代わり官僚を派遣して各村々を直接統治するという群県制をしき、中央集権国家「秦帝国」を築いたわけです。

ですがその統治は各地の官僚による農民の圧迫をもたらし、ついには大規模な農民反乱を連鎖的に起こすはめになり、秦帝国はわずか2代目にして滅亡したのでした。

次の支那の支配者となった漢王朝は同じ轍をふまないように様々な工夫をしました。
特に農民の生活を安定させつつ、彼らを支配下に確実に組み込む必要がありました。

そんな漢王朝が農民たちを社会秩序に組み込むために実行したのが、国家の慶事の際に皇帝だけが人民男子に爵位を与えることができるという「民爵制度」でした。
これは農民にも貴族のように爵位が与えられるという世界でも、中国においてでも珍しい身分制度でした。

そしてこの「爵位」は貯蓄することが可能で、既に1度民爵賜与を受けていれば、次の民爵賜与のときには更に一つ上の階級に登ることができ、農民は8番目の階級まで昇ることが許されたのです。

つまり長生きすればするほど「民爵賜与」される機会が増えて年長者が年少者より偉くなり、「父老」が「子弟」を指導するという旧来の郷土的社会秩序が自然な形で皇帝の権威による「民爵制度」にすり替わっていったのです。

そして「民爵賜与」のときは、必ず同時に里ごとに牛肉と酒がふるまわれ、5日間の宴会を行うことが許されたのです。

群飲が禁止されていた当時、酒が飲める席は「礼」、つまり宗教祭礼的な意味を持った場でした。
実際、この宴会は里の神社などで行われました。
そして酒の席では爵位の序列によって座席が決められていました。
これにより「神聖な共同飲食儀礼において、新しい爵位の序列によって定められた席に着座するということは、爵位による里内の新しい身分秩序が相互に確認される機会になるのみならず、その身分が秩序が神前で確定したという誓約的性格をもつものとなり、それによって、その後の里内の生活秩序が規律されたことに」なったのです。
(西嶋定生「秦漢帝国」(講談社学術文庫)より引用)

つまりこれは酒と権威を通じて行われた人民統治であったのです。
漢の時代、酒とは人を結びつけ、支配するための道具でした。面白い話であります。

酒は素晴らしい。発酵万歳!微生物は偉大なり!

ちなみに冷蔵庫の中には他にもワインが入っていたのですけども、あの野郎は酢になっていやがりました。

愚痴

2006-02-06 15:11:56 | 個人的記録
とても残念なことがあった。

これで私たちの計画は3年は遅れるであろう。

簡単に言えば、ようやく手に入れかけた某政府機関とのつながりが切れてしまったのである。

労働省、各種産業界ともつながりが深く、今後の計画の遂行に重大な役割を果たしてくれるはずだったのだが、痛恨事である。

計画は一部修正を余儀なくされる。
しかし、これで計画が中断されることはない。私たちの手札はまだ何枚も残っている。

今回は唯一の適任者が、仕事よりも家庭を優先させたことが失敗の原因である。
しかし誰も彼を責めることはできない。

何故なら自分の身近な人間さえも守れないような人間、自分の日常生活を大事にできない人間を私たちは求めていないのだから。

遠くばかりを見てそのために身近な人間を犠牲にし、尊大な目標ばかりをたて目の前の小さな仕事を放り出す人間などに何事かを成すことなどできないのだから。

だから仕方がないのだ。

それにしても私に彼の代わりができればいいのだが、それは無理なのだ。
何故なら私はバカだからだ。

どうして私はバカなのだろうか。
答えは、簡単。バカだから学歴も地位も財産も名声も能力も資格も、人から尊ばれるあらゆる肩書きを持たず、そしてバカになったのだ。
だから私ではダメなのである。
だれも私を認めはしないし、必要ともしないし、気にかけたりもしない。

だから他人が必要なのであり、私では彼の代わりにはなりえないのだ。
幸い次の他人はもう見つけてある。

それにしても今回は残念であった。
よって最後の未練として、ここに愚痴を書くことにした次第である。

多忙なときほど、どうでもいいことを考える

2006-01-27 20:42:44 | 個人的記録
私は博打に負けて約30万円を損した。残念ではあるが予定外の出来事ではない。

それで損失を取り戻すためバイトをすることになった。
しかし、バイトとは言っても祖父からの依頼を受けるだけである。
だが、祖父とは言っても私と血の繋がりはない。
そういうわけで今年、私は中華人民共和国へ行くことになった。中国語を覚えなくてはいけない。
ウォウシィリィベンレェン

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自動車学校を卒業した。
もちろんオートマ限定だ。それでも規定時間を10時間くらいはオーバーした。
私の運転技術はまだまだ未熟である。
だから私は今後も経験を積み状況判断能力を養い、油断せずに安全運転を心がけ、死亡事故に伴う責任と遺族の悲しみの重さを忘れずに、人を殺さないように気をつけなくてはいけない。

ところで話は変わるが、車は暗殺には最適の武器であると私は思う。
それは殺傷能力という意味においてだけではなく、不自然さがないという意味においても最適なのである。

つまりそれはこういうことだ。
まず暗殺者は依頼を受けて、対象をひき殺す。殺意を疑われないように、相手が死亡したのを確認してから救急車を呼んでもいい。
これは見かけ上は年間8000件ほど発生している普通の死亡事故である。
誰も「普通の事故」を暗殺だとは思いはしないであろう。

依頼人との接点を洗われない限り、この暗殺は「業務上過失致死」で終わる。
「業務上過失致死」の刑期は比較的短い。
酒酔いや無免許や2人以上の人を殺しでもしない限り、懲役5年くらいが相場であろう。
暗殺でつかまるリスクを考えれば、さっさと事故として捕まり短い刑期を過ごしたほうが得である。
警察は未解決の事件にはすさまじい執念を燃やすが、一度解決した事件にはとても無関心になる。
だから暗殺として捜査されるよりは、単なる事故としてさっさと解決してもらった方が安心だ。

遺族への保障はあらかじめ多めに保険に入っておいてまかなうことにする。足りなくても表向きの収入を納めればいい。
そして褒賞は裏で依頼人から貰うのである。もちろん懲役5年がチャラになるくらいの多額の褒賞を貰えるように依頼の段階で交渉しておかなくてはいけない。
あとは失踪して他人の戸籍を買って外国で暮らせばいい。
依頼主としても失踪してくれた方が安心であろう。

もっとも不自然さが出ないようにひき殺すには、それなりの運転技術が必要だろうから私にはできない話である。
私の運転技術はまだまだ未熟である。
だから私は今後も経験を積み状況判断能力を養い、油断せずに安全運転を心がけ、死亡事故に伴う責任と遺族の悲しみの重さを忘れずに、人を殺さないように気をつけなくてはいけない。

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しかし、よく考えると、どうしても上の暗殺は成功しがたいものであることに気がついた。

何故なら、そこには需要と供給の溝があるからだ。
まず依頼主と暗殺者を結びつけるには、どうしても多くの仲介を必要とする。
何故なら依頼主は誰が自分の依頼を受けてくれるか分からず、暗殺者は誰が誰を殺してほしいのか知らないからである。
この需要と供給の不均衡を解消するには、どうしても彼らを結びつける仲介役の人間が必要になる。
しかしそれは仲介者への謝礼というコストを増大させ、接点も大幅に増やしてしまう。つまりばれる可能性が大きくなる。
そもそも普通の人は仲介役を探すのだけで一苦労である。(もっとも普通の人は暗殺者を雇ったりはしないと思うが。)

だから、この暗殺が成功するためには次の条件を満たす必要がある。

「依頼主は暗殺者と面識はない。それ以前に依頼主は暗殺者に暗殺を依頼さえしていない。だからもちろん何の見返りも暗殺者は受け取ることができない」

つまりこれはボランティアとしての暗殺である。
しかし依頼なき依頼主などというものは、はたして存在しうるであろうか?
依頼もないのに、誰が誰を殺したいのか分かるものだろうか?

それが分かる場合があるのである。
それは犯罪被害者である。

たとえば強姦目的の18歳の青年に妻と赤ん坊を殺された男性がいる。
この青年は未成年であるがゆえに死刑をまぬがれた。
そして生き残った男性は、はっきりと「殺してやりたい」と明言していた。
愛する者を下らない欲望のために殺された男性としては、この青年の死を願うのは当然であろう。

これで依頼は成立である。

復讐とは死んだ者のためにするのではなく、生きている者の心を慰めるために行うのである。
しかし復讐は、実行者の精神も肉体も社会生活もボロボロにしてしまう。
だが復讐をしなくては心が安らぐことはないのである。特に残された家族のない人間にとっては復讐を忘れさせてくれるものはない。
復讐とは、するも地獄、しないも地獄なのである。

そこでボランティアの出番である。
復讐はなされる。しかし被害者の負担はない。
それが「依頼なき暗殺代行」である。
第三者が勝手に被害者の心情を汲み取り、勝手に事故に見せかけて殺すのである。
被害者は後日、加害者が単なる不幸な事故で死んだことを知るだけである。誰かが自分のために暗殺を代行したことを知ることは永遠にない。

だがボランティアとは常に相手の気持ちを考えて行うべきであり、独りよがりの自己満足な行為で終わってはいけない。
だから暗殺者は、まず本当に被害者が加害者の死を望んでいるか確認しないといけない。これは慎重に確かめるべき事柄である。
また被害者が、どのような復讐を望んでいるかも知らなくてはいけない。
たとえば被害者が加害者を生け捕りにして、あらゆる拷問を行い、じわじわなぶり殺すつもりならば、こちらが勝手に殺してしまうのは余計なお世話であろう。
暗殺は、被害者が単に「加害者が生きているのが我慢できない。なんでもいいから、とにかく死んでほしい」と思っている場合に行われるべきである。

もっとも私にはボランティア精神はないので、このような暗殺を実行することは絶対にないのである。

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現在の私は博士号を取るために公聴会の準備をしている。

だから、忙しい。

だけど忙しいときほど上記のような、どうでもいいことばかりを考えてしまうのである。