蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

不能充飢(中)

2005年07月31日 07時04分36秒 | 不知道正法眼蔵
前回『景徳傳燈録』第十一巻、香嚴章が「画餅」本文理解の助けとなる、と書いてしまった。別に間違いではないのだが、これは道元禅師のいう「画餅」を理解する直接的な助けとなるということではない。そうではなくて禅師が否定しようとするもが何であるかを理解するたすけとなる、としたほうがより正確かもしれない。
正法眼蔵は「古仏言「画餅不充飢」」という文章の後に「この道を参学する雲衲霞袂、この十方よりきたれる菩薩・声聞の各位をひとつにせず。かの十方よりきたれる神頭鬼面の皮肉、あつくうすし。これ古仏今仏の学道なりといえども、樹下草庵の活計なり」」(注1)と続く。つまり「この「画餅不充飢」という道(言葉)を学ぼうとあちらこちらからやって来る僧たちには声聞(小乗仏教に帰依したもの)や菩薩(大乗仏教に帰依したもの)がいて各位(それぞれの能力)は同じではない。彼らは神頭鬼面、つまり顔形が異なっているし、その皮や肉が厚いのもいれば薄いのもいる。「画餅不充飢」は昔の坊さんも今の坊さんも学ぶ言葉とはいえ、これは禅寺の日常つまり基本的な言葉なのだ」というわけだ。雲衲霞袂、菩薩・声聞だの、神頭鬼面だのと難しいことをいわずに初めっからそう言ってくれればわたしにだって理解できるのに。もちろんこの部分は話の核心ではなく、ほんの序の口に過ぎない。だから比較的簡単に理解できるのだが、普通はだいたいこの辺りでもうギブアップしてしまう。しかし本題はこの後。
今この「画餅不充飢」を学ぶ連中は、経や論(経義を解釈して法門の差を弁じた書)では真智つまり無差別平等の真理を観照する知恵を修得することができないから、経・論(画餅)は真智を修得することができない(不充飢)、といった解釈をしたり、大乗や小乗の教学(画餅)では仏の位の悟りには至れない(不充飢)といった解釈をしたり、あるいは文字や言語による教えは用を成さないという意味に「画餅不充飢」を解釈しているとして道元禅師は強く批判する。しかし、とここでわたしは思ってしまう。不立文字、教外別伝といっていたのは他ならぬ禅宗(禅師の嫌がる言葉)だったのではないか。『正法眼蔵思想体系』には「故に高祖は不立文字、教外別傳を否定し、文字を見直して、体験の深みを与へるところに、独創的な立場が存するのである」(注2)と書かれているが、原文を見る限り、不立文字、教外別傳を否定するというよりは、上記のような「画餅不充飢」の単純解釈(判りやすい解釈)は本来この言葉が持っている意味ではないといって批判し、禅師独自の分析を展開していると見たほうがよい。
まず「画餅不充飢」とは端的にどのようなものか。禅師はつぎのように書いてる。「「画餅不能充飢」と道取するは、たとへば、「諸悪莫作、衆善奉行」と道取するがごとし、「是什麼物恁麼来」と道取するがごとし、「吾常於是切」といふがごとし。しばらくかくのごとく参学すべし」(注3)。文法的には簡単なのだが言っている言葉が素人には難しい。いや知らないと判らないといった方が適切か。「諸悪莫作、衆善奉行」「是什麼物恁麼来」「吾常於是切」(注4)これらはまさに禅林の活計といってもよい言葉で、「画餅不充飢」はそれらに等しく重要なのだと禅師は強調し、本格的な分析へと入っていく。

(注1)『日本思想体系12 道元(上)』283頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷
(注2)『正法眼蔵思想体系』五巻200頁 岡田宜法 法政大學出版局 昭和29年9月1日
(注3)『日本思想体系12 道元(上)』284頁
(注4)「諸悪莫作、衆善奉行」「是什麼物恁麼来」「吾常於是切」を今の言葉にすると「悪いことをするな、善をおこなえ」「何が何処から来たのだ」「私は常にこれに切実なのだ」となってしまうが、もちろん事はそれほど単純ではない。

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