蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

粘華(上)

2005年09月10日 07時27分47秒 | 不知道正法眼蔵
「霊山百万衆前、世尊粘優曇華瞬目。干時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、「我有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉」(注1)。
お釈迦様が霊鷲山で弟子たちに説法していたとき、優曇華の花を手でぐじゃぐじゃにして一瞬眼を閉じた。それを見て弟子の摩訶迦葉がにっこりすると、お釈迦様は「わたしの会得している正法眼蔵涅槃妙心をお前に付託しよう」とおっしゃった。
花をぐじゃぐじゃにしたのを見ただけで、お釈迦様の伝えようとしていたことをすべて悟ってしまった摩訶迦葉という弟子は、その仏教理解においておそらくお釈迦様とほとんど同じレベルにまで達していたに違いない。だからお釈迦様は彼を自分の後継者に選んだわけだ。一般にはこれを指して「以心伝心」といっている。美しい優曇華の花もちょっと手で捻っただけでバラバラになってしまう。しかも優曇華にしてみれば、そのような形で自分が消滅することなど思ってもいなかった。「無常」という概念を直接的に示す、なんとも遣り切れない気分になってくる話だ。この有名な粘華微笑のエピソードはなんでも「大梵天王問仏決疑経」というお経が元ネタなのだそうだが(注2)、道元禅師はこれにたいして「正法眼蔵第六十四 優曇華」で独特の詳細な解釈を行っている。
「七仏諸仏はおなじく粘華来なり、これを向上の粘華と修証現成せるなり。直下の粘花と裂破開明せり」(注3)。過去、現在、未来の諸仏はみな同じように粘華してきたのであり、これを過去の粘華であるとして修証を現成させたのだ。そして現在の粘花であると明らかにさせたのだ。ここでは粘華が単なる行為ではなくて仏教の根本概念として捉えらな直されている。粘華すなわち正法眼蔵涅槃妙心。わたしの感じた感傷的「無常」などもはや入り込む隙間もない。
「しかあればすなはち、粘華裏の向上向下、自他表裡等、ともに渾華粘なり。華量仏量、心量身量なり。いく粘華も面々の嫡々なり、附属有在なり。世尊粘華来、なほ放下着いまだし。粘華世尊来、ときに嗣世尊なり。粘花時すなはち尽時のゆへに同参世尊なり、同粘華なり」(注4)。そうであるからには、すなわち粘華における上に向かうとか下に向かうといったこと、自分と他人、表と裏など、すべてまったく区別のないもの、つまり粘華という概念にそのような区別は一切ない。花の力、仏の力、心の力、身の力があるだけなのだ。いくつもの正法眼蔵涅槃妙心としての粘華の継承者はそれぞれ正しい跡継ぎなのであり、正しい教えの附属が行われているのである。この伝統は世尊が粘華して以来、いまだ捨てられてしまったことはない。粘華つまり正法眼蔵涅槃妙心そのものである世尊が到来して、次の世尊が粘華を継いでいく。粘華するのはあらゆる時にわたるのであるから、同じように世尊が参じ、同じように粘華するというわけだ。

(注1)『日本思想体系13 道元(下)』215頁 岩波書店 1972年2月25日第1刷
(注2)『『正法眼蔵』読解8』70頁 森本和夫 筑摩書房 ちくま学芸文庫 2005年1月10日第1刷
(注3)『日本思想体系13 道元(下)』同
(注4)『日本思想体系13 道元(下)』同

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