蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

粘華(下)

2005年12月27日 05時53分09秒 | 不知道正法眼蔵
「おほよそこの山かわ天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々粘来せる、すなはちこれ粘優曇花なり。生死去来も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく参学する、粘華来なり」(注1)。すべての自然現象、いろいろな生物はそれぞれにそのものとして在るこいう状態、それは取りも直さず粘優曇花つまり正法眼蔵涅槃妙心である。生死去来も正法眼蔵涅槃妙心の現れ方の一つに過ぎない。いまわたしたちがこのように学んでいること、それも正法眼蔵涅槃妙心の現れ方の一つに過ぎないのだ。と道元禅師はいっているのだろうか。
と、ここまで書いてきてわたしはとても空しい気分になってきてしまう。一々文字で理解することはできるとしても、だからそれでなんだというのだろう。思うに道元禅師は本来言語表現が不可能な事態を敢えて言語表現しようとしているのだと思う。これはなにも道元禅師だけではなくてすべての祖師の試みて成就しなかったことなのだ。「道得」とかいて禅宗では「どうて」と読むが、これは「完璧に語ることのできたこと」というほどの意味らしい。しかしこれが実現することはまずないといってよい。結局言語表現とは言語の限界内でしか成立しない。そして言語の限界は思考の限界を意味する。これは人間存在の限界であるということもできるが、つまるところわたしたちはこの限界を超越することはできない。ではそれでも言語表現をしようとするとどうなるか。
「粘花の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の加葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手を伸べて、おなじく粘花すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡蔵身三昧あるがゆへに、四大五陰といふなり」(注2)。正直なところわたしにはもうついてはいけない。そしてここで素朴な疑問がわいてくる。無上正等覚があるとして、そもそもなぜそれが一部の人々にしか明かにされなのだろう。しかもたとえ厳しい修行をしたとて無上正等覚を得る保証はまったくないのだ。無上正等覚がそれほど大切なものであるのならば、逆になぜこれほどまでに秘匿されているのかということのほうが疑問なのだ。なにもこれは仏教に限らない。すべての宗教について秘教の部分がりそこに辿り着くためには同じような厳しい修行が要求される。
話はかわるのだが、むかしむかし学校に通っていた頃、わたしが受けていた講義で先生が「価値というのは、価値という実体があるのではなくて、まさに価値付ける行為そのものなのだ」といっていたことを思い出す。非常に魅力的な考え方なのだが、わたしには今ひとつ納得できなかった。別にプラトン的なイデアの世界があるなどとも思ってはいなかったのだが、かといってもし価値がわたしたち自身にその起源を持つとしたならば、当然のことながらそのような価値とはわたしたち自身の限界内のものでしかなく、とすればそのような価値のオーソリティーはいったい何が担保するというのだろう。自分でいくら良いといっても他人がそれを良いというとは限らない。こんな状況を一昔前に流行った「価値の多様性」ということになるのだろうが、そんなものは価値でもなんでもない。

(注1)『日本思想体系13 道元(下)』216頁 岩波書店 1972年2月25日第1刷
(注2)『日本思想体系13 道元(下)』217頁 岩波書店 1972年2月25日第1刷


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