忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」

2008年07月23日 | 過去記事

■2008/07/23 (水) ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」1

だから、あとからあとから出てくるとあれほど・・・

http://www.asahi.com/national/update/0723/TKY200807230287.html
<八王子無差別殺傷 孤独・仕事の悩み「秋葉原」と似る?>

被害者は女性。22歳の書店の店員さんが亡くなった。お客さんの女性も怪我をしたそうだ。どこが「無差別」なのか。暴力団事務所には行かないではないか。屈強な兄ちゃんに襲い掛かるわけでもない。確実に「選んで」いるわけだ。阿呆臭い。

もう、ますます「私の妻の行動」は抑制されることになる。おちおち「ひとりで買い物」もさせられん。物騒な世の中になった。ったく、どうしてくれるんだ?

理由がまた、わけがわからない。

「仕事で悩んでいた、孤独だった」
「親に相談したが、相手にされなかった」

で、いうわけだ。

「だれでもよかった」

更にマスコミが相変わらず、深刻な顔してダラダラとやる。もっと叩きまくればいいものを、「なぜ?なんで?どうして?」とやる。ほとほと呆れ果てる。

「2」へ

■2008/07/23 (水) ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」2

みよ。このずらりと並ぶ朝日新聞の御用聞き学者どもを。

<社会評論家の芹沢俊介氏は今回の事件の発生を聞き、秋葉原事件の被告がインターネットに書き込んだ「孤独だと、無差別に殺す」という言葉を思い起こした。芹沢氏は菅野容疑者についても「仕事での孤立感と、『この人に支えられて、自分が立っている』と思える相手を見つけられない孤独感が重なり、一気に崩壊してしまったのではないか」と指摘。「危うい時に自分を支えてくれる人がいることは大切だが、現代人は家族の中ですら、それが見つけにくくなっている。こうした事件を防ぐためには、乳幼児期の親子の関係作りなどを支援していくことくらいしかないのではないか」と話す。>

<長谷川博一・東海学院大教授(臨床心理学)は、秋葉原事件などが刺激になり、連鎖的に無差別事件が起きている、とみる。「無差別事件の容疑者たちは『屈従を強いられてきた人生に憂さ晴らしをしたかった』という意味のことを話す。のびのびと自己肯定感を抱いて生きてくることができなかった人の多さを感じる」と話す。>

<作田明・聖学院大客員教授(犯罪心理学)も比較的若く、仕事で悩みを抱えていたという点など、秋葉原事件との共通性に注目し、「相当のストレスをため込み、自分で処理できない一方、相談したり、甘えたりする相手もいなかったのではないのか」と分析する。 「家族や親類との関係が希薄だと孤独がさらに深まってしまう。すべてに絶望し、暴力的な行動に出たのではないのか」とみている。>

ふむふむ・・・「3」へ

■2008/07/23 (水) ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」3

ところで――――

「せんせい」さんたちよ?

「人生の達人ども」が集う「商店街の立ち飲み屋」とかで飲んだことがあるか?こういう事件があった際、日々の仕事を終えた「達人」が、湯豆腐とヒヤ酒を呷って疲れを癒しながら、どんな意見が飛び交うのか知っているか?たまには、冷房の効いたオフィスで偉そうにしてないで、世間様の意見に耳を傾けたらどうか。高級クラブでホステスに鼻の下を伸ばすのも結構だが、たまには「大衆酒場」でのリサーチなんかもしたほうがいい。

教えてやろう。「町の達人」の意見は、大体、こんな感じだ。

「ンなもん、射殺したらええねん。」

である。コレが正解。さすが「達人」。実に的確な対応策である。
確実に抑制できる。なぜ、しないのか?全く理解できない。

-

話が逸れるかもしれんが―――――

私も仕事柄、若い人と話すことがある。従業員はもちろんだが、出入り業者さんでも若い人はいる。ところで、私は37歳なのでもう若くない(笑)。やっと「お兄ちゃん」ではなく「おっちゃん」と呼ばれる年になったことを喜んでいる。若いと無条件に舐められることがあるから、いい加減ウンザリしていたのだ。これからもっと老けるように努力する。

最近、私がいる営業部に転属させた社員『工作員K(女)』が、「若い人」との面談を終え「ため息交じり」に言う。

「ほんっと、自分のことばっかりww」

己のことは棚に上げて「若い人」を非難するなど何事か。貴様は決して「若くない」が、かなり重度な「自分のことばっかり」であることを私は知っている。なにを他人事みたいに・・・と思ったが、報告を受けていると「最近の若い人」は、どうやら「工作員K」よりも重度であることがわかった。聞けば聞くほど、接すれば接するほど、もう、末期症状が出ている。果物ナイフは遠ざけたほうがいい。

「4」へ

■2008/07/23 (水) ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」4

「人の批判&会社批判」
「親の文句&家族の文句」

自分は悪くない。自分は関係ない。
自分は迷惑を被っている。被害者である。

そら、文化包丁持って刺しまくるはずだ。つまり、もう、狂ってるのだ。こんなんが「核ミサイル」のボタン持ってたら、「ああぁあ!!もう!!」とか言って押すんだろうww

そして、ある法則があることに気付く。

手前勝手で餓鬼っぽい批判をする奴は、とってもマトモな批判に弱い

ここ、テストに出ます。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080723/crm0807230943009-n1.htm
<逮捕男「殺すために包丁を買った」 計画的犯行で追及>
<菅野容疑者は5月に働き始めたばかりで試用期間だった。正社員になる過程で悩んでいたとみられ、調べに対し「仕事関係でむしゃくしゃしていた。両親にも相談したが、乗ってくれなかった」などと動機を供述している。>

当たり前だが、

世の中、思うようにならないことのほうが多い。

コレだけの理屈が受け入れられない。すなわち、もう、社会で通用しない。

「正論」を吐いて胸を張る。「間違ったことは正さねばならん」と正義の味方が登場する。言った本人がするならまだマシであるが、「そうなっていない現実」を責める。だから「やらない」という理由に転換させる。つまり、

“自分がちゃんとしないのは、その他がちゃんとしていないから”

というトンデモナイ理論を展開させる。そして、その矛先は上司から会社へと移行する。そんな素敵で完全な会社組織があるなら、どうぞ「そこ」に行ってくださいというほかないのだが、どうやらそれは違うらしい(笑)。

-

「カーリング社員」という呼称があるそうな。なんでも、カーリングの如く、進行方向に向かって投げてやり、そのコースをホウキでさっさと掃除して、摩擦を減らす必要があるというのだ。実に上手いこという。その通りではないか。

「5」へ

■2008/07/23 (水) ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」5

「かまってやらないと止まる」のである。無論、その要求レベルは我々世代の常識の範疇にない。もう、子供である。嫌がる「仕事」というものをさせるとき、おだてて、見ててあげて、褒めてあげて、手伝ってあげる。これを少しでも放置すると、知らぬ間に止まっている。「もう、やらない!」と拗ねてみせる。まさに、

“やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、ほめてやっておだててやって、見ててやって手伝ってやらねば・・・あぁ!もういい!!自分でする!!”

山本五十六閣下も呆れ果てると思う。

この「菅野昭一」というキチガイ無職は33歳だという。仕事でむしゃくしゃしたのに親が相談に乗ってくれなかったそうだ。だから文化包丁で人殺しをしたということだ。そして、はっきり言うが、今の日本、こんなのはウヨウヨしていると思う。

それに、だ。

この「狂い包丁があらわれた!(無職)」も33歳ということだから、決して「若い人」ということでもない。私とそう違わない年齢ではないか。しかしながら、そう、餓鬼なのだ。

更に当たり前のことを書いておく。

大人と餓鬼の差異をひとことで表すとすれば、だ。

「自分以外のことを考えられる」のが大人である。

そして、誤解なきように受け止めてもらえれば、「常に大人」である必要もないのだ。気を許せる仲間や愛する人の前では「子供」であってもいい場合もある。自分が帰属する共同体、自分が心を許す相手にまで「大人を演じる」必要はない。しかし、それでも「相手のこと(自分以外の人)」のことを考え、行動し、発言するはずだ。例えば、私の妻は「私の前では7歳くらい(笑)」であるが、それ以外では年相応に振舞うことができる。そして私は、それが「どちらも妻の本性」であると知っている。

といえば、先の「朝日新聞の御用聞き学者せんせい」はこう言うだろう。

「その帰属する共同体がない。子供のように接する相手がいない。だから・・・」

「6」へ

■2008/07/23 (水) ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」6

だから―――――道行く女性などを刺し殺してしまう場合もあるということか。まったく、トンデモナイ飛躍であるが、つまり、この「せんせいたち」はこう言っているに過ぎないのだ。せんせい、しっかりしてください。

すなわち、「ずっと餓鬼」なのである。30になろうが40になろうが、だ。実年齢が影響するのは「見た目」だけのようだ。ならば、餓鬼に職場で大人を振舞えというのは無理があろう。ましてや実年齢は33歳である。職場で「どのような浮き方」をしていたか想像に足るというものだ。「餓鬼の精神レベル」で「おっさんの年」だ。溜まるストレスは想像を絶する。

餓鬼だと思って叱りつけたり、命令口調で支持すると、そこは33歳という実年齢が邪魔をする。それを、こいつらは「プライド」というだろうが、本質はただの「虚勢」である。そこに、左派が植えつけた「入れ知恵」が発揮される。そう、人権だの権利だの、だ。

ここに、戦後の骨抜き教育の成果として、完全なる「ダメ人間」の完成を見ることになった。左派の工作によって失われたこと・・・・それは言うまでもなく、途轍もなく大切なことであったのだ。

先ほど、私は「大人と子供を峻別する条件」として「自分以外のことを考える(他者への関心、気遣い)」をあげた。個人主義の弊害による手前勝手な思考経路の先は「そういうこと」であるという結論に至った。「むしゃくしゃしたから殺した」と言わしめるほど、他者性を感じさせない「自分勝手」とは「戦後なんちゃって個人主義」による堂々たる成果だったわけだ。すなわち―――――

「自分だけのことを考える」=「公共心の欠如」

という図式である。やはり、だ。

やはり、戦後「へいわ」教育(洗脳)は、人間を骨から腐らせる。

「7」へ

■2008/07/23 (水) ガチコメ的「あなたの後ろにも・・・」7

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「帰属する共同体が無い」のではなく、あまりにも自分勝手な思考ゆえ、共同体に属することが不可能なのである。その共同体におけるルールやモラルを遵守することに理由を要するのだ。もちろん、その「理由」とは自分勝手なものである。だから、当然に受け入れられないわけだ。そして、それは「対人関係」においても同義であり、だからこの手の「キチガイ包丁」には彼女がいないのであろう。濃密な人間関係である「恋愛関係」など、到底不可能であるのだ。対応するコミュニケーションスキルが全く無いともいえる。

そして、いずれは「通常のコミュニケーション」も難しくなり、その「ダメ人間スパイラル」に陥る速度は増す。当然ながら、さらに周囲(一般社会)との乖離は絶望的となろう。また、時間が経過するほど、「社会に対する敵意」は増幅し、あまつさえ「衝動的に殺意を抱く」までに至るわけだ。もう、こちらが「よほどの覚悟」でないと救えない。

今からでもすぐに公共心(パブリックマインド)の教育を施さねばならない。学校はもちろん、職場や社会でも必要だ。絶対的に「大人の数」が足らない。左派工作の攻撃は、それほど熾烈であった。それはもう認めよう。そして止めよう。それでも十数年は連鎖的にキチガイが発生するだろうが、その後に続けないことも考えねばなるまい。

周囲に「他者性が無く」て「キレやすくて」自分中心な者はいないか?

・・・・。

・・・・・・・・・・・・ん?

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