忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

国会で枝野氏の「蓮舫氏を勝たせよう」演説を問題視「事前運動の要素そろっている」

2024年06月07日 | 随感随筆



現在でも「サラリーマン川柳」とか毎年やっているが、日本人は昔からこういう文化が大好きで、江戸時代中期から毎年刊行されていた「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」という川柳の句集もあった。いま読んでも風刺の効いたユーモアのセンスを感じる。

「本降りになって出ていく雨宿り」
「寝ていても団扇のうごく親心」
「役人の子はにぎにぎをよく覚え」

などとある。意味もすっと分かるし、最後のなども役人の収賄をおちょくっていて楽しい。田沼意次も「記憶も記録もありません」という他ないが、他にも例えば、こんなのもある。

「入髪で いけしゃあしゃあと 中の町」

入髪は今で言うところのカツラ、というか「ウィッグ」か。中の町は「東京都港区赤坂」になる。「いけしゃあしゃあ」の「いけ」は「厳めしい」。「しゃあしゃあ」は水が流れる音、つまり、平静としている様、みたいな意味になる。この川柳はたぶん「ウィッグをつけてるのがバレバレなのに、当たり前な顔して平然と港区赤坂を威張って歩く「ふてぶてしさ」をおちょくっているとわかる。

個人的に思い出すのは2013年の参院予算委員会。蓮舫が安倍さんに難癖付けようとしてブーメランが突き刺さる、といういつものパターンだったが、この日のそれは「いけしゃあしゃあ」が際立ち、あまりの厚顔に言葉失うレベルだった。

あの「悪夢の民主党政権」が始まる少し前の2009年7月、大盤振る舞いにもほどがある、というか、そんなのできないだろうと、さすがの民主党議員も何人かは財源はどうするんだ、と疑問を持ち、当時の幹事長だった岡田も「税収などはもっと厳しく見積もったほうが・・」と常任幹事会で意見するも、藤井裕久最高顧問が「財源にはそこまで触れなくていいんだ。どうにかなるし、どうにもならなかったら、ごめんなさいと言えばいいじゃないか」という常軌を逸したと思しき認識で行った「バラマキ」の件だった。

要すれば、自民党はあれだけ「バラマキだ」と批判していた。それなのに政権奪還しても継続している。批判していたならすぐ止めるべきじゃないか、人気取りのために続けているのか、総理をはじめ、大臣や幹部の地元を優遇しているんじゃないだろうな、という蓮舫のイチャモンだったわけだ。これも改めて酷いもんだ。

安倍さんは当惑しながらも、政権交代は年末。景気は底割れしているし、急激にいろいろ止めれば市場も混乱するし、農家の個別保証制度などもいきなり止めてしまうとみんな困るだろうから、次の予算については考慮して調整していく。蓮舫に言われなくても無駄なバラマキだと理解しているが、止めたくても、物事には順序があって・・みたいに説いてたが、その蓮舫のあまりの「いけしゃあしゃあ」に対して、何度か「みなさんが組んだ予算ですよね?それでできなくて基金にしたんですよね?仕組みを作ったのはみなさんが政権を担っているときですよね?反省はしているんですよね?と何度か確認しなくてはならなかった。

すると蓮舫は驚くべき「いけしゃあしゃあ」で「反省しているのは前提です」と真顔で堂々と歯切れよく言ったのである。個人的には「2位じゃダメなんでしょうか」とか「時代はクラウドです」よりも推したい「蓮舫語録」である。正直、ぞっとした。

巷ではまだ末端の民主党議員が「ピコピコハンマー」を持って支持者のとこに行き、大言した公約は嘘でした、どうぞ頭をピコっと殴ってください、と周って有権者を震え上がらせていた頃だ。日本の有権者は松下幸之助の「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しかもちえない」の言葉を噛みしめて血が滲んでいた。そして「国民が政治を嘲笑しているあいだは嘲笑い値する政治しか行なわれない」という言葉を思い出して、真面目に選挙にも行かねば、政治家をもっと吟味するべきだった、と反省していた頃である。

都知事選の投開票は7月7日。告示日は6月20日ながら、今月の2日に有楽町で蓮舫は「七夕の都知事選に挑戦します」「ご支援よろしくお願いします」と叫んでいた。応援の枝野も「蓮舫を勝たせてください」と絶叫して、その中継はテレビ朝日系26局からなるANNが地上波で報じている。生中継での放送事故ではなく、ちゃんと編集作業されたVTRだった。つまり、日本人を舐めきっている。なにをしても自分らは許される、と「いけしゃあしゃあ」だ。

また、茨城県守谷市には「岡田克也来る!」と書いた立て看板が110枚、無許可で設置されていて、市の職員が10人がかりで撤去したとか。立憲民主党に撤去も要請していたが無視していたようだ。ただただ迷惑なだけの「自分らは許される」。「自分らは間違っていない」だ。腐臭がする。

看板と言えば以前、片山さつきが著書の宣伝看板を名古屋市、浜松市などに設置して叱られていた。もちろん、国会では立憲会派の議員が声高に批判もしていたが、現立憲民主党の今井雅人は岐阜県郡上市の事務所に巨大な看板を設置していて笑われていた。著書の宣伝でもなく、ふつうに「衆議院議員・今井まさと」とか書いてある。今井や周辺の仲間らは、片山さつきが謝罪して撤去していたとき、何も思わなかったのだろうか。それなら自分もそうなんじゃ、と不安にならなかったのだろうか、と心配になる。

「ブーメラン芸」などと茶化している場合ではない。何かが壊れているのかもしれない。もう、面白くもないし、日本の首都における知事が共産党の全面支援を受けている、など冗談では済まない。国際社会からどう思われるのか、と不安にならないのだろうか。

ヨハネによる福音書第8章。「姦通の女」でキリストが律法学者らに向かって「あなたたちの中で、罪を犯していない者から、石を投げなさい」と言う有名なセリフがある。律法学者らは誰も石を投げられず、年長者からその場を去っていく。日本の政治家、とくに特定野党の左巻きのアホンダラは嬉々として石を投げることだろう。

左旋回のブーメランに枚挙は遑ないが、日本人はもう笑って済ませている時期はとっくに過ぎている。こんな連中に血税から多額の報酬取られて知らん顔も限界だ。もう一度、思い出しておきたい。松下幸之助だ。


「国民が政治を嘲笑しているあいだは嘲笑い値する政治しか行なわれない」





コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。