忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

忘憂之物 13

2013年08月13日 | 過去記事




仕事で2日間だけ兵庫県に。そこの現場責任者、40代半ば(?)の女性と話す。

話題は「人材」について。女性は「経営感覚をもってもらう」とか「自分で考えさせる」などと、巷に溢れる「人材教育本」そのままを語っていた。とりあえずは勉強しているようだったが、ちょくちょくスマホが鳴る。私が不思議そうに覗き込むと、少し笑って「部下の社員から」だと教えてくれた。「LINE」だそうだ。

私がメモ用のノートに「ライン」と書くと馬鹿にしたように笑う。完全にアナログ人間だと思われたようだが、その「LINE」とやらを連絡ノートの代わりに使っているのだと言う。とても便利で若い部下からも頻繁に相談や報告が来るとか。

誤解される前に「良いことだと思う」は言っておいた。コミュニケーションに関するツールはなんでもいいと思う。要は機能しているかどうか、一方通行になっていないかどうかだと言うと、女性は自慢げに中身も見せてくれた。そこには業務連絡から冗談の類までが連なっており、合間には「りょうかい~」とか「わぁりましたぁ!」などの文言が並んでいた。上司に対する言葉としてはどうかと思ったが、それも最近の風潮なのだろうと理解した。私は馴染めなくて結構だ。

私も妻も未だに「ガラケー」である。もちろん、妻には「スマホを買ってよろしい」と許可はしてある。しかし、いらないんだそうだ。いまの機種が潰れてしまい、買い替える際になって店頭にスマホしかない、となれば「あきらめて買う」とのことだった。我が妻は相変わらずエライのであった。つまり、もう「追いかける」ことをやめていた。

新しいモノに興味を持つ、ということは悪くない。というか、積極的に取り入れていくことは大事なことですらある。しかし、私的に使用するモノであれば、そこには「好き嫌い」が介入する。すなわち、私はスマホが嫌い、というか警戒心が解けないのであった。まあ、サルと同じようなもんだ。知らないモノ、新しいモノが怖いのである。

理由を書いておくと、先ずはあの「操作中のしぐさ」である。まだ携帯電話はマシだった。見た目は「電話番号を押している」と大差ない。しかし、スマホになると、その姿は電車で「3DS」をやっている子供と同じようなもんだ。電車の中、イイ大人が並んでパズルゲームをしている姿はどうしたものか。「そういう時代なのだ」と言われたら、そうですか、としか言えないが、決して欲しいとか、自分もやってみたいという衝動に駆られなかったことに安心した。

また先日、大阪ローカル駅前のスナックビルで飲んでいると、50代の男性会社員を紹介されたが、この男性が所持していたスマホが2画面タイプだった。つなげれば大画面でゲームができる、という御自慢の機種だ。画面を覗き込むと、本人とはまったく似ていない美少年キャラが「全国にいる仲間」と共に「敵」と戦っていた。カウンターレディの女性は商売柄、馬鹿にするわけにもいかず「すごい」とか囃したが、隣にいたママは明らかに呆れていた。そのママもガラケーで客からの電話を受けていた。仲間だと思った。


「(部下の)本音がわかるんですよ」と、その現場責任者の女性は続ける。直接、口頭で伝えるよりも中身が濃くなり、忌憚ない意見が書き込まれるのだと言う。それから「全員に公開している」「全員が共有している」という部分も優れている、ということだった。

私はそこで本当にそうだろうか、と疑問を生じた。それはあくまでも「公開している場」があるだけのことであり、共有もできる、といっただけのことではなかろうか。その気になれば個別的に「公開せず」「共有せず」は可能なのではないか、と問うと女性はそれも認めて、あっさりと「掲示板みたいなモノ」だと結論した。私はやはり危険を感じる。

先ず、矛盾している。掲示板なら「本音」はわからないはずだ。それから中身は薄くなり、忌憚ない意見からは遠ざかるはずなのだ。つまり、それは「新しい社会的な一面」に過ぎないものであり、その場で語られることは社交辞令の域を出ないわけだ。そして往々にして人は社会で傷つく。社会生活の中でこそショックを受けたり、腹を立てたり、気分を害したりする。自室で勝手にひとり、傷つくのは小説家とか哲学者なアレな感じの人間だけで、普通、一般的な人間なら「社会的関係性」の中で自己に影響を受けるからだ。

だから中身は「いま風呂から出ました」とか「飲みに行ってきます」とか、それがどうした、みたいなものになる。中には「明日も頑張りましょう」みたいなアレもあろうが、見ればほとんどが「アツい~暑くて死ぬかもしれない」という感じだった。仕事中、いや、少なくとも他者との対話中、本当に死ぬならともかく、ぴこぴこ鳴らせて知らせるべき内容ではない。つまるところ、いつも自分の存在を忘れないでほしい、いつも自分が何をしているか知ってほしい、という不気味さを感じた次第であった。

最近、コンビニのアイスクリーム用の冷凍庫に入ったり、外食チェーン店のアルバイトが冷蔵庫に寝そべったりして、それをスマホでLINEよろしく、全世界に発信して阿呆を晒すことが話題になっている。やられた企業は大変だ。雇ったアルバイトが勤務中、阿呆なことをやるだけではなく、それを嬉しそうに広めてクレームの山を築く。

とあるハンバーグ店は閉店したそうだ。やったアルバイトも叱られるだけではなく、解雇で済むわけでもなく、なんとも損害賠償請求されるとか。本人は騒ぎが始まってからも「なに騒いでるの?ww」みたいに余裕だったらしいが、いまはもう、冷蔵庫から出たくないほどの衝撃を受けていることだろう。

規模にもよるが請求される金額は800円くらいの時間給では賄えない。親の心情を思うと笑えないが、まあ、それも文字通り「自分が蒔いた種」だ。ちゃんと子供には「バイト先で冷蔵庫に入ってはいけません」「食器洗浄機で自分を洗ってはいけません」「商品のウィンナーを口に入れて写真を撮ってはなりません」と言わなかったからだ。私も倅に「バイト先の後輩をフライヤーに放り込んで殺し、これがホントのからあげくん、とかやるなよ」と注意したが笑われた。せっかく注意したのに。


この最近、御蔭様でいろんな人と話をしたが、驚くほど「自分の人生はすごい。小説にしたらヒットする」とか言う人が多い。年齢も様々、性別も関係なく「自分は特別」を真面目に語る。中には「書いてもいいですよ」と真上から来るのもいる。私もそんなにヒマではないが一応、どんなものかと聞いてみると「水商売から福祉介護の世界へ」とか。それなら私が知っているだけでも数人いる。大阪の京橋だけでも二人知っている。それから「離婚した」とか「借金があった」。「不良だったけど真面目に仕事して出世した」。

みんな「自分だけ」だと思っている。つまり、その他大勢の人間は詰まらない人生を退屈に過ごしていると信じている。そんな誰にでも起こり得る程度の出来事をして、こんな困難を乗り越えられるのは特別な自分だけだろう、という自己評価を下している。なんというか、客観性が死んでいる。だから幼稚にも「コレをやったら面白いだろう」と、餓鬼でもやれることをして世間に晒す。世間がそれで腹を抱えて悶絶し、面白い奴がいるぞと話題になり、数百人のLINEの「ともだち」からの人気も沸騰、スマホの画面を見れば「www」が連続する、と信じ切っている。

自分自身に確固たる信頼がない。自分が「その他大勢」に含まれることを卑下し、嫌悪し、決して認められない。就職して結婚して、子供が出来て育てて死ぬ、という真っ当な人生に魅力を感じない。また、それは逆説的にも語られることにもなり、徐々に「すごいことなのだ」と浸透し始めている気がしてならない。

馬鹿でもチョンでも否が応にも生きていく。そしてそこには至極当然、誰でも経験する「困難」が派生する。具体的に言えば、自分の権利や自由が侵害される。だって休みたくても仕事に行かねばならない。仕事が残ったらやるだけのことを「サービス残業」と呼んでたいそうにするから、これも特別なことになる。自分の子供を育てるのは犬猫でも知っている「普通のこと」だが、これも「国がなにもしてくれない」と嘆くことで「大変なこと」に化ける。結婚して子供ができれば経済的負担も増える。すなわち、旦那も嫁も小遣いが減る。これを痛烈な「労苦」だと判断する。「自分の金が使えないなんて理不尽だ」とトンデモナイ理不尽を言う。それから「それでも、やったのだ」という苦労自慢になる。


30歳になったばかりの雇われ店長は「自分くらい苦労した人間は日本に数人いるかどうか」と真面目に言った。親が離婚した、彼女に浮気された、交通事故もあった、借金もあったと。金額を問えば真顔で300万円。膝から力が抜けた。

離婚もしたと。そのとき向こうの親と揉めた、転職も数回やった、上司から厳しくやられた、それを自分は超人的な精神力で乗り越えた、だからいまの自分があるんですと。

「普通ですね」と言ったら顔色が変わった。怒気を含んだ声で「これが普通ですか?」と問い直してきた。私が改めて「とても普通です」と断言すると、軽いパニックになったのか、信じられないという素振りをみせて、それから「ああ、千代太郎さんなら仕方ないか」という結論を出して無理矢理に納得した。つまり、いろんな人の話を聞いてきたんでしょう、特別な話をたくさん知っているんでしょう、だから「あなたにとっては」「普通のこと」なんでしょう、ということだ。

どうしようもない、というのはこのことだ。ここのバイトが冷蔵庫に寝そべるまでもう少しだが、それなら普通とはどういう状態かを問うてみると、いろいろ言っていたが要すれば一事が万事、上手く行っている状態のことだった。それを普通は「奇跡」という。




直木賞を受賞した「月と蟹」(道尾秀介・著)に出てくる主人公の祖父が「子どもは小さい大人じゃねんだ」と語るシーンがある。危ないからダメとか、人に迷惑がかかるからダメ、という理屈で納得するモノじゃないという意味だ。いま、日教組から義務を回避することばかり教えられた「大きな子供」が、どうしようもなく現実社会に存在する「小さく低いハードル」を飛び越えて「どうだ、自分は特別だ」と威張っている。これまた周囲の「飛び越えられない連中」を現実にみて、それが確信に変わり始めている。これはこれで危険じゃないか。




2 コメント

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Unknown (オヤジの一人)
2013-08-17 00:52:43
あ~。なんと言うか…
「普通じゃない」と確信できる人がうらやましいです。
自分なんぞ、普通以下。話にもならないと確信しているんで。離婚して精神を病んで、気がつけばギャンブル他で借金まみれ…(しかも現在進行形…)
それでも、こんな人生、とるに足りないというか「ばかばかしいほどありがちな人生」以上に思えない。
千代太郎様のブログは正直素晴らしいと思います。以前も、「この人は、実は凄い作家で、こんなブログで何やら実験しておるんだ」と勝手に妄想してしまうぐらいに。
だから、「自分の人生こそ凄い」と売り込みにくる連中もそんな下心があるのかなぁ…とかさらに妄想を深くしてしまったり。
ほぼ50に近いどうしようもない人間の戯言でした。失礼しました。
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Unknown (久代千代太郎)
2013-08-18 12:09:14
>オヤジの一人さま

いらっしゃいませ。

なかなかの「人生の達人」とお見受けしました。私も「ばかばかしいほどありがちな人生」を極めたいと思います。


でわでわ。

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