忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

衆院・東京15区補選、初の週末各党幹部ら駆けつけ支持求める

2024年04月22日 | 随感随筆



リビングにアビゲイル・シュライヤー著「トランスジェンダーになりたい少女たち」を置いていたら妻が反応していた。なんでも「この本、知ってるで!」とのことだった。

良い意味で我妻はノンポリだ。セ・リーグ、パ・リーグの区別をつかないが如く、おそらく衆院も参院も区別ができていない。「ヤクルトジョワーズ」とか「ロッテチョコポッキーズ」とか怪しげな球団名も口にする。せめて「グリコ」だろということだが、つまり、我妻はプロ野球球団として阪神タイガースしか認識できていないのと同じく、政党では「自民党」くらいしか認識していない可能性がある。

そこ、笑うなかれ。日本の平和呆けを舐めてはいけない。日本の一般的な主婦層というのはそんなもんだ。とくに地上波で流れていくどうでもよろしいニュースなど、我が家の新しい家族になった「まるお(シーズー)」がベランダで落ち葉を喰っただけで忘却の彼方だ。

また、不謹慎だから止めなさい、と言っても止めないゲームがあるのだが、これは「生きてるか死んでるかゲーム」だ。簡単に言うと著名人を挙げて生きてるか死んでるか、を当てるという悪魔と死神が合コンでやりそうな不謹慎、且つ、不道徳なゲームである。「しむらけん!」「死んでる!」「緒形拳!」「死んでる?!」「研ナオコ!」「死んで・・・いや、生きてる!」「ケンパテラ!」「だれそれ?!」みたいな感じだ。魂が汚れるのでお勧めはしない。

基本、我妻は大方を「死んでいる」と断ずるので、圧倒的に私が勝利するのであるが、小林稔侍は生きている、を証明せねばならなかったりもする。つまり、この場合は「生きている」ではなく「まだ死んでいない」と説明すると伝わりやすいということも分かった。

ともかく、そんな妻ですら「知っている」という同書だが、これがまた売れに売れているという。だから我妻ですら知っていたわけだ。左巻きの抗議にヒヨった角川は情けないが、産経新聞社はとりあえず、離れかけていた保守層読者を少し戻す結果となった。もちろん、その情報源は地上波テレビなどではなく、ネットニュースだ。

しかしながら、これも我妻は悪名高い「LGBT理解増進法」などをして批判精神から能動的に調べたりはしていない。つまり、目につくところに「ニュースとして出ていた」可能性が高い。これも少しだけ時代の変化を思わせるメディアの変容ではある。

もちろん、廃れたとはいえ地上波メディアも新聞紙も負けてはいない。朝日新聞なども7支局を廃止しながらもまだ「生きてはいる」。TBSもNHKも懸命に飯山あかり候補を取り上げないように必死だが、それでも抗議などを受けて渋々ながら紹介もしている。NHKなどは他候補を動画で紹介しつつ、飯山あかり候補だけは静止画にするという必死の抵抗も見せていた。実に涙ぐましい努力ではあるが、今回の東京15区の補選については「選挙妨害が酷い」というネットニュースもちらほらみかける。

先ほど感じた「時代の変化」を思い出しながら見てみると、蓮舫がやられた、小池もやられた、大串がやられたとあるが、これまたかなり執拗に妨害されていたであろう飯山あかり候補のニュースはない。また、蓮舫は「二重国籍!」と誹られ、小池は「学歴詐称!」と煽られ、大串は「公務員から支援を受けているのは違法!」とか、まあ、言われても仕方のない内容であったが、飯山あかり候補に対しては、往々にして「エセ保守!」とか、具体性に欠ける意味で本当にただの「ヤジ」であったのも特質だ。煩いだけで痛痒には感じない。

今年の4月に7支局を閉じた朝日新聞も2019年には「表現の自由」がどうしたとして「ヤジも意思表示のひとつの方法であり、これが力ずくで排除されるようになれば、市民は街頭で自由に声を上げることができなくなる」(2019・8.29)としていた。結構なことだ。このとき「ニュースステーション」「報道ステーション」の元ディレクターだった「山﨑裕侍」氏が「ヤジと民主主義」というドキュメンタリー映画を撮った。作品は第57回ギャラクシー賞、報道活動部門第63回日本ジャーナリスト会議 JCJ賞、第40回「地方の時代」映像祭賞、第58回ギャラクシー賞 テレビ部門第45回 JNNネットワーク協議会賞などを受賞している。

この立派な名監督は2023年にも「性別は誰が決めるか~「心の生」をみつめて~」というドキュメンタリー番組で第49回放送文化基金賞ドキュメンタリー部門、最優秀賞を受賞とのことだ。選考理由を引くと

「ある妊娠したトランスジェンダーの男性は、「性同一性障害特例法」によって性別変更ができないでいる。戸籍の性別変更には生殖腺(精巣や卵巣)がないことが条件と決められているからである。LGBTQへの理解も深まりつつある現在、「性同一性障害特例法」だけは、性と体を無理やり一致させることを条件としている。多様性と言いながら、社会の無理解と差別は、法の中に存在している」

などとあるが、私の読解力が足らないのだろう、一読、すっと意味が分からない。冒頭の「ある妊娠したトランスジェンダーの男性」で置いて行かれる。何度か読んで、頭の中で整理して、少し考えて、なるほど、そういうことか、と得心する。これが「社会の無理解」と叱られるところである。わからない、は差別と受け取られてしまう可能性がある。

我々が洗脳装置であるメディアから守らねばらないものはいつくかあるが、先ずは常識や公平になる。常識的に考えてみる。そして公平かどうかを確認する。

「妊娠した男性」は常識に照らせばどうなのか。これに疑問を抱くことは無理解で差別的なのか、ということを常識的に問うてみる。安倍さんが選挙演説にて「アベヤメロ」と連呼されて聴衆が話も聞けない状態で、それを道警が遠ざけることは「表現の自由への侵害なのかどうか」は常識的に判断されねばならず、己の常識の柱がしっかりしていれば蓮舫や小池が「選挙妨害だ」と文句を言うのも「こいつは嫌いだが、たしかに、それはそうだ」と思うことになる。

相手が共産党でもれいわでも、ちゃんと許可を得て街頭で演説しているなら、眉間に皺を寄せて素通りするか、ヒマならば立ち止まって話を聞き、やっぱりこんな連中に議席取られたらたまらない、と判断していればいいだけのことだ。

また、相手が安倍さん相手なら何を言っても「表現の自由」で許される、というのも公平の観点から「おかしい」と気づく。蓮舫にやって許されないことは杉田水脈にやってもアウトだ。須藤元気や乙武洋匡をテレビでやるなら、ちゃんと飯山あかりも出さないと公平とはいえない。選挙なんだから。

「常識」を広辞苑で引けば「普通、一般人が持ち、また持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む」とあるが、左臭いのが「常識の定義とはなんだ」とか言いそうなので「あたりまえ」に換言してもいい。

アタマがイカレポンチになっていなければ、男は妊娠しない、とか人の話は黙って聞く、とか、人の邪魔をしてはいけない、とか「あたりまえ」だとして社会生活を営んでいるはずだ。それを都合よろしく、手前勝手に解釈して、なんでもかんでも「悪用」する連中、我妻の発案した「生きてるか死んでるかゲーム」よりも不謹慎で不道徳だというのは常識だ。





コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。