忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「事実は小説よりも奇なのか」

2010年12月16日 | 過去記事
「事実は小説よりも奇なのか」

水島ヒロという男前の俳優が小説を書いたら「ポプラ社」の「小説大賞」を受賞したらしい。産経新聞にも大きな宣伝広告があった。発売前から3度の増刷で、既に43万部も刷っているらしい。タイトルは「KAGEROU」だとか。倅が買いそうだから、ちょっとマツ(笑)。ま、いずれにせよ、この出版不況に結構なことだ。どんどん刷って売りましょう。ブックオフは止めましょう。3000円までの本は本屋さんで買いましょう。

さて、巷では「出来レース」だとする下衆の勘繰りが跋扈している。反対に空飛ぶ雲に乗れそうな心の綺麗な人らや、単純に「水島ヒロのファン」だという人らなどは「出来レースじゃない」と頑張っている。共に宣伝効果抜群である。

水島ヒロ本人は、この謂れなきバッシングに「食事も喉を通らない」と凹んでいる。ま、しかし、水島ヒロも小説家だから、おそらくは「次の作品のネタ」になればいいなぁくらいに思っていればいいと思う。つまり、だ。

「出来レース」も「出来レースじゃないやい」も間違えていると思われる。

大切なことは43万部である。そして、これらはもっと増える。売れているのである。すなわち、これは効果的な販売促進であった。もちろん、私はまだ作品を読んでいないから「中身」には触れられないが、それでも「ポプラ社」が仕掛けた販促であることはわかる。

先ず「出来レース」だとする下衆の勘繰りを一刀両断してみよう。おまいら水島ヒロが男前で俳優としても成功して、その上、初めて書いた小説が大賞受賞して、天は二物を与えまくりじゃん!と言いたいだけちゃうんか、という気持ちを抑えて冷静に書いてみると、だ。コレ、先ず、作品は広く読まれる、ということを忘れてはならない。これがクソつまらん内容だったら、それを選考した社員もタダでは済まん。ポプラ社もリスクだろう。「売れればいい」というだけではなく、それらを世に出した連中にも「その後」というものがある。また、ゴーストライターも考えにくい。

というのも、小説だけではなく、芸能人は絵を描いたり、陶芸作品を世に出したり、服のデザインをしたり、商売をしたりと、まあ、多才な人が多い。例えば、私はとくに詳しくもないのだが水島ヒロは26歳とのことだ。彼は俳優であるから、好きや嫌いはあっても「演技力」という、自分でやらねばどうしようもないジャンルで既に成功している。高級なゴルフクラブを持つことは出来ても、その実力はゴルフの成績にまで反映されないのと同じだ。何の世界でも「ウソが効かない部分」は厳然としてある。民主党が与党になったのと同じである。「やれる!できる!」は「やってみろ」であっさりバレるのである。

それに商業的に考えても「芸能活動を休止して書く」というメリットがない。水島ヒロは所属事務所を退社している。「執筆活動に専念します」から1ヵ月後に受賞だから、そのタイミングはなるほどであるも、この作品「KAGEROU」を仕上げたのは5月らしい。執筆期間は2年以上だったと思うが、これを俳優業しながらやったのであるから、その熱意や集中力も相当なものだったと思われる。そして、これは「成功者」ならば可能なのだ。私が「出来レース」ではない、とする根拠もそこにある。

私がデブだから言うのではないが、俳優であれタレントであれ「人様から見られる仕事」というもののビジュアルに関するプロ意識はすごいものがある。これらを維持、向上させようと思えば、日々の食事管理は当然ながら、その運動量も「スポーツ」と軽々しく呼べぬほど真剣にやっている。ずっと、である。だから私は「小説書く」という激務、恐るべき消耗を避けられぬ作業をやり通せたのだと感心している。まさにプロはなんでもプロだ。




しかしながら、反対意見である「出来レースじゃないやい」も無理がある。

先ず、水島ヒロも言っているが「作品を評価して欲しいから“水島ヒロ”の名は伏せた」というアレである。でも、この作品を書いたときのペンネームは本名だ。芸名ではなく本名だったから、水島ヒロとは知らずに選考した、とポプラ社も言うことができる。しかし、本当に「作品だけ」を評価して欲しいと願うならば、ここは本名こそ避けるべきであった。

私がアンドレやブッチャーの「本名」がすらすら言えるように、ファンや関係者ならば「水島ヒロ=齋藤智裕」は当たり前の話だったと思われる。それに「公式発表していない」という理由だけで、その以前からまったく「出版関係者」とコンタクトもないなど誰も信じぬ話だ。おそらくは「前情報」として、関係者らの間では周知の事実であっただろうと推察できる。「水島ヒロが事務所を辞めて小説を書くらしい」くらいは常識だったのではないか。とすれば、だ。

「どこが出すのか」

は当然「取り合い」となる。本人がいくら「純粋に作品を」と言っても、世の中の大人らは許してくれない。それと、水島ヒロは優勝賞金の2000万円を辞退しているが、これもちょっと引っかかる。「純粋に作品を評価して得た金」ならば受け取るのが筋だ。ここに邪推が入る余地を生んでしまっている。つまり、最初から「賞金は辞退する」と決まっていたのではないか、という下衆の勘繰りだ。

この「ポプラ社小説大賞」というのは優秀賞でも500万円の賞金が出る。ちなみに「大賞2000万円」が出たのは第1回以来「2度目」である。初代大賞は「3分26秒の削除ボーイズ―ぼくと春とコウモリと―」という作品が受賞している。私は知らん。著者は方波見 大志という人だ。コレ以来、ずっと「大賞」は出ていない。つまり、賞金2000万円を受け取った小説家は方波見 大志しかいない。また、面白い偶然は、今回の大会では初めて「優秀賞受賞者がゼロ」なことだ。ちなみに昨年は「大賞・優秀賞」共にない。また、不思議なのは昨年、特別賞も奨励賞もなかったことだ。もちろん「該当者なし」は不思議でもなんでもない。しかし、応募数も今年と変わらぬ1179作品が出されているのに、奨励賞受賞作すらなかったのは不思議ではある。そして今年だ。

今年の優秀賞はなし、大賞受賞者は賞金を辞退であるから、実質の「賞金額」はゼロだ。その前年2009年は「各賞全てが該当者なし」だから、これもゼロ円。その前は毎年「優秀賞」がひとつずつあって、ずっと500万円だ。これは第1回の大賞2000万円+優秀賞2名500万円×2の「賞金総額3000千万円」からすれば残念な結果だ。

それに「選考委員は全員社員」というのも下衆を勘繰らせる(笑)。外部の選考委員がいない。つまり、プロの小説家や作家の選考結果を得ていない。なのに2000万円の賞金を渡して43万部を刷る。これはちょっと冒険が過ぎるのではなかろうか。本当に「水島ヒロと知らずに」そこまでしたのだろうか、と思えば、ちょっとしんどいのであるw

つまり「出来レースの部分とそうでない部分」がある。ま、それらも作品次第だ。繰り返すが43万部である。この出版不況に一条の光が差すのである。水島ヒロが書いた、ということで小説が売れて「活字離れ」やらが改善されるならば大歓迎である。

また、この「KAGEROU」であるが、これは「陽炎」なのか「蜻蛉」なのか私は知らない。しかしながら、これがトンボならば面白い。トンボには「ウスバキトンボ」というのがいて、これは交尾・産卵が終わると海を越えて温帯域に移動する。「次の生きられる環境」を探すわけだが、これは「思いつき」のレベルなんだそうだ。いわゆる回遊魚の「死滅回遊」と呼ばれる行動だが、トンボのそれは無謀に過ぎるらしく完全に死滅するらしい。

民主党の場合は間違いなく「蜻蛉」の死滅回遊であるが、さて、水島ヒロはどうだろう。

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