忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「見解の相違だから仕方がないのか」

2010年12月17日 | 過去記事
「見解の相違だから仕方がないのか」

テレビの討論番組も面白くなくなった。興奮して討論が口論になるのもくだらないが、それよりも「参加しているメンツをみて」観ようとするモチベーションが消滅する場合もある。明らかに偏った司会者が仕切っていたり、偏った連中ばかりが偏ったことを話しているだけだったり、ケビン・クローンやら田嶋陽子が出ていたりするからだ。

日本人は議論が下手だから、ちゃんと「落とし所」を用意していないと、最後は戦争になるまで行く。それが例えば「見解の相違」というやつだ。いつまでも平行線を辿る議論の「決着」として引き分けを提案する形となる。また、日本にはまだギリギリで「言論の自由」があるから、頭から相手の意見を否定することはNGとされる。

これはビジネスシーンにおいても偽善的に取り入れられている。ずいぶん前から「ブレーンストーミング」やら「ケーススタディ」やら横文字の会議法、研修法を耳にするし、私もそれらの言葉を使って研修の真似事もしてみたこともある。そういえば入社当時、妙にハキハキした女性の研修担当が「OJT」やらなんやら言い出して、金儲けしか興味のないオーナーや不正するしか能がない幹部連中を騙して、社内における「それなりの地位」を確保していたりもした。偉そうな連中は「知らないこと」がバレないようにするため、それらの仕事に対して質問もしない。役に立っているかどうかも検証できない。「仕事をしているフリ」をするには最適だった。ちなみに、その「研修大好きの女性幹部」は閉店後の営業所内において、年上の男性の部下と「夜の研修」までしていたのがバレて辞めた。


ま、往々にして「スタッフ研修」という名のサボタージュは蔓延する。そんな中で言われるのが「NOの排除」だった。どんな意見も肯定的に聞かねばならない、というルールが定められている。理由はもっともらしい。「否定する人がいれば意見が出にくい」とか「全体の議論を活性化させるために」とか「ともかく全員参加型」なのだとするものとか、まあ、聞けばなるほど、と思ってしまうことも否めない。

そもそも「議論」というものは、その目の前にある諸問題に対して様々な意見を出し合い、それにどう対応して行くのか、あるいは、どのようにして対処するのか、を問う場である。すなわち「結果が出ていない諸問題」に限られる。結果について論じるのは評論家の仕事だ。評論家だけは「ああすればよかったのに」と言っても許されるポジションにいる。

「何を言ってもいい」とは「何でも言っていい」と混同されがちだが、そこに「議論の場におけるモラル」というものがなければ不毛な口論に堕すこともある。これは政治家先生でも、ちょくちょくやってしまう。そこらの非常階段の踊り場で、缶コーヒー片手にやっているだけなら勝手だが、これを国会議事堂内にて税金でやるから日本国民は困っている。

最も恐ろしいのは、すごく重大な事案を議論した結果「見解の相違」に至り、あまつさえ最後は「多数決」によって決定、実行されるような時だ。場合によるが、これは「絶対的権力者の独断による決定」よりも愚劣なときがある。例えば、現在の民主党政権だ。

私の思う「見解の相違」とは、その結果が「相違しない」ときに限られる。あくまでも相違しているのは見解であり、その結果が著しく異なる場合は、議論を曖昧にしてからの多数決にしてはならない。

男性諸君からは同意を得られると信じて言うが、例えば妻が「いちご柄のバッグ」と「キリン柄のバッグ」のどちらかを購入しようとするとき、不幸にもその場に居合わせることがある。そして「どっちがいい?」と問われる。コレの対処法としては「キミはどっちが好き?」と問い返してから、その結果に同意することで難を逃れることが出来る。しかしながら、妻の質問が「どっちが好き?」とか「どっちがかわいい?」などという不明瞭な問いかけである場合、男性諸君は戸惑いを覚えることになろう。これが「サバンナにいるのはどっち?」とか「バラ科の多年草で果実を食用とするのはどっち?」などなら答えられるのだが、先ほどのように理解不能な選択を迫られると答えに窮することになる。

そこには「答えとなる前提」がないからだ。しかし、たしかに問題は発生している。千林商店街にある雑貨屋で売っている「ひとつ300円のポシェット」ではあるが、妻にはそれを「両方購入する」という意志はない。使うかどうかわからぬ、且つ、どこに持って行くつもりなのかもわからぬポシェットを、私が「両方買えば?」といえば、それは「無駄遣い」だという誹りを受けることになる。これにやられたのが自民党だ。私からすれば「どっちを買っても無駄遣い」に思えるのだが、我が家の財布の紐を握る妻にそんなことは言えない。だから、不可解ながらも「きりん?」と答えることになるのが、今度は「キリンのどこが可愛いのか?」と問い詰められることになった。これも自民党と同じである。ちなみに妻が購入したのは「イチゴ」である。

しかし、ここで私が仮に反論しよう。ちょっとマテ、キリンのどこが気に入らないのか?とやるわけだ。キリンは地上の動物で最も背が高いのだ、舌も長くて40センチもあるのだぞ、発情期にはメスの取り合いで、オスは首をぶつけ合って戦う(ネッキングという)のだぞ、く、首てwwwとやったとする。

かくして「キリンとイチゴはどちらが可愛いのか」の議論が始まる。場所は千林商店街にある「角屋(オススメ・アイスコーヒー100円)」の店内である。妻も負けてはいないだろう。「イチゴはおいしいやんか!」などという論点のすり替えも予想される。しかも、これからはクリスマスの時期である。キリンには若干の不利が認められる。これがせめて「カモシカ」なら・・・トナカイに似ているし・・・という淡い希望もかき消され、私は妻とイチゴ連合軍の猛攻撃に曝されることになろう。しかし、私も旦那の意地がある。私のことだ、心を鬼にして冷静、且つ、大胆な提案もして妻を惑わせることもするだろう。「ほなら、飼うならどっちがええねん!!??おおぉぅ!」妻は困るはずだ。まさかイチゴを飼うわけにもいくまい。だって、そんなのホンマモンじゃないか。

そうして「角屋」のかき氷(デラックス金時ボンバー・バニラ&白玉入り800円)が溶けて流れるとき、ようやく我ら夫婦は「どっちでもいい」という結論に達するだろう。帰りの車の中では「さっきはごめんね、キリンさんも可愛いよね・・」「いやいや、イチゴだって葉っぱもついてるじゃないか・・」などという仲直りもできよう。つまり、これが「見解の相違」だ。

しかしながら、結果が重大な場合はこれでじゃダメなのである。それは「もし本当に田嶋陽子の言う世界」になったら大変なことになる、といえばわかりやすい。そして「見解」という言葉は単なる意見のことではなく「見識」のことでもあり、その人物の「物事を見極めるチカラ」のことでもある。つまり、見解とは情報に基づいて学んだ「思考の結果」なのだ。

「見識がない」とか「定見がない」という言葉は、その人物の浅薄さ、あるいは無定見からなる非常識な思考の持ち主のことをいう。以前もここに書いたが、例えば、社長マンとの居酒屋でのやり取りで「子持ち昆布」の話があった。これは社長マンが「子持ち昆布の卵は昆布の子供」だという見解であったがために発生した口論だ。これは最終的に居酒屋の大将を呼んでジャッジしてもらったのだが、その答えは「昆布が子供産みまっかいな、ンなアホなw」であった。私が大人気もなく、仕事中の大将にご足労願ったのは、社長マンが「お前はホンマにモノ知らんなw」と馬鹿にしたからだ。これを「見解の相違」として納得するわけにも行くまい(笑)。店長の場合は「1000の5%は5」という社長マンの見解からだった。このときも自分の側頭部を指さしながらの「ココ大丈夫かぁ?おまえは義務教育を受けたんか?あぁ?」という社長マンの台詞から、店長は「コンビニに1000円持って買い物に行きました。さて、消費税はいくらですか?」と言わざるを得なくなった。

これらの阿呆話も「あまりにもその結果が重大」だと判断したから、私や店長は職位を超えてモノ申さねばならなかった。阿呆過ぎるからだ。もちろん、私が折れたからといって「夜の砂浜で涙を流しながら出産する昆布の姿」が見られるわけではない。店長が折れても1000円持ってコンビニに行けば50円の消費前は取られる。「その結果」に差異はないが、同じ会社のトップがそれでは、ある意味での「結果」は重大であろう。事実、その結果は会社を潰すほどの重大だったわけだが(笑泣)

決着をつけばならない議論はある。それは必ず「黒か白か、折衷して灰色」にせねばならない。先送りにしてよいのは「情報が足らぬとき」に限られるはずだ。そうして真摯な議論が行われ、その結果として灰色となれば、そこには黒が強いか白が強いか、ということであり、この分量を決めるのが議論の目的である。多数決にしてよいのは「何色でもいい」というときだ。また、安易な多数決ならば、それは独裁と変わらない。コントロールが可能だからだ。そんなものは直接独裁主義か間接独裁主義の違いに過ぎない。「民主主義」に名を借りた独裁主義である。事実、今の日本にはそういう名の政党もある。

何度でも書くが「議論の余地なし」とするのも立派な民主主義である。問答無用は倫理観を問われる価値観だ。議論というものに倫理観や理論的思考が必須なように、そこには「殺人はなぜダメなのか」という議論は成り立たない。それは哲学の分野であり、民主主義の議論の俎上に載せるような問題ではないとしれている。しかしながら、言論の自由、表現の自由を悪用し、何でも議論すべし、意見はどんなモノであれ大切なご意見、として扱う輩が跋扈して、この国の倫理観を惑わせている。本来、田嶋陽子などという不勉強極まりない不見識な輩に発言させる場などあってはならない。これは言論弾圧ではなく、正当な権利の主張であり、この国の大人としての義務ですらある。

例えば、井筒和幸は著作の中で「在日コリアンの人は日本のパスポートも持っている」と書く。私は井筒の言う在日であるも、パスポートは韓国のものしか持っていない。これは明らかな事実誤認、意図的に書いているなら虚偽である。もしくは、井筒の周囲にいる在日コリアンとやらが「日本国旅券」を所持しているなら、それは不法所持か偽造旅券である。しかしながら、出版されてずいぶん経つが訂正もない。回収もしない。これを「見解の相違」とはいわないのである。これを「言論」や「表現」とはいわないのだ。

井筒は憲法9条を正当化するために「コスタリカには軍隊がない」とテレビでやる。井筒は「軍隊がなくても侵略されていない国はある」としたいわけだが、コスタリカには対戦車ミサイルを具備する市民防衛隊がいる。また、コスタリカには「憲法9条」はないが12条があって、そこには「国防のために軍隊を組織することが出来る」と書かれており、ちゃんと非常時には徴兵制もある。井筒が「朝鮮人が大好きだ!」と言おうが「戦争は嫌いやねん!」と言おうが勝手にすればよろしい。しかしながら、それは単なる無知ゆえの愚見であるから、議論の場に出れば叩き潰されねばならない。認めてはならないのである。

9条信者が「世界は平和になる」と信じるのは勝手だ。日本には宗教の自由もある。デモ行進も許可を得てすればいい。歌も作ればいい、支那朝鮮が好きだ、日本は嫌いだ、と言えばいい。それはハンバーグが好きだ!キムチは嫌いだ!に等しい「どーでもいいこと」だ。


もちろん、そこで「ハンバーグを食べると美白効果がある」と言えばアウトだ。「納豆で痩せる」と発した番組はちゃんと無くなった。「ごめんなさい、アレはウソでした」ともやった。しかし、現在でも「納豆は痩せる」と信じている人がいれば、それは仕方のないことだ。あの番組を見た人は近所のスーパーで納豆を買いまくった。そこに「根拠なし」とされたから問題になったわけだ。その番組は「それは当番組の見解ですから、信じる人は信じていればいいでしょう」とは言わなかった。

テレビに出てくるインチキ論者も同じではないのか。「特定の勢力」に牛耳られるマスメディアも同じではないか。メディアが世論を形成するならば、そのメディアの見識は「事実の積み上げ」でなければならない。少なくとも馬鹿みたいなウソは排除されていかねばならない。当たり前みたいにウソを吐くコメンテータも外さねばならない。

政治が「民主主義」を標榜して独裁主義を糊塗するのと、マスメディアが「公正中立」を標榜してプロパガンダを垂れ流すことは同じレベルの悪行である。国家破壊行為である。

NHK以外の局は特定政党を応援しても構わん。しかし、それを鮮明にすることはルールだ。マスコミには広告媒体という役割もある。特定個人や特定政党を擁護するなら、それはちゃんと「公正中立」の信念に基づいてやればいい。テレビ朝日のコメンテーターらはしゃべる前に「ボクは小沢さんを応援してるから言いますが」とか「私は民主党支持者だから、あえて申しますけれども」などをつけるべきだ。番組名やコーナー名も「民主党ステーション」とか「スーパー毛沢東チャンネル」とか「社民党占いカウントダウン」とか「今日の小沢くん」とかあるだろ。赤旗新聞を見習うがいい。

そうでなければ視聴者が混乱する。「納豆が痩せる」で反射的に走り出すほどの無防備な国民である。子供手当や高速無料で売国政権を誕生させる有権者がテレビを見ているのだ。

これが私の「見解の相違」に対する見解である。

2 コメント

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Unknown (karasu)
2010-12-19 00:34:58
その昔、平和な永世中立国のようなスイスを日本は目標にすべきでありませう・なんて
いまのドサヨクの先輩方とか、いまや、化けの皮も剥げたマスメディアが盛んに喧伝していた時代が懐かしいですね

スイスが国民皆兵の徴兵制度がある国だと判ってくると急にそのようなことも言わなくなりましたが

最近のメディアの論調は、こちらが構えると相手も構えるから、防衛力はそんなに、持たなくても、いいんじゃない・・
と言う論調で、素人を騙そうとする論を盛んに言ってますね
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Unknown (久代千代太郎)
2010-12-19 19:18:14
>からすさん

スイスの民間防衛もずいぶん前に読みましたが、よくもまあ、中立国スイスだけを抜き取って上手に使っていたものですねw

スイスは大東亜戦争のときも戦闘機を飛ばして戦っていますからね。トンデモ左翼の連中は知らないのか、知っていても言わないのか、まあ、都合よくやってました。

いろいろばれてくると「なかったこと」にするのが彼らの常套手段、いやはや、ああいう生き方はしたくないですなw
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