せせらぎせらせら

日々思うこと

プロパガンダ

2008-12-26 | ぎらぎら
表現には二種類ある。

一つは発散としての表現。
もう一つはコミュニケーションとしての表現。

僕がそうだったのだけれど、若いうちはその二つがごっちゃになっているように思う。(まだ20代だぜ!)

前者はいわゆる自己満足の領域なので、その内容やディテール、クオリティなどは本人以外の人にとって特に問題にならない。
虚空に吐き出して自分が満足すればそれでよい。
満足するまで突き詰めればよい。
もちろん迷惑を被らない範囲内なら、他人が横からとやかく口を挟む必要もない。

一方、後者の表現は感受を必要とする。
コミュニケーションにはまず“意思疎通を図ろうとする意志”が不可欠になる。
それは関心や好意、強度のものになると愛と言ってしまってもよいと思う。
“意志疎通を図ろうとする意志”じゃ長ったらしいので、「ウトゥワスカラプ」の語を宛てておこう。(結局、長い・・・。)
ウトゥワスカラプは不可欠な上に、とても有り難いもの。
一度失われると取り戻すことは非常に困難である。
もし誰かからウトゥワスカラプが向けられていると感じたときは、それに報いるべく配慮と努力、細心の注意をもって対峙すると良いかと思う。それが優しさだと思う。

コミュニケーションとしての表現は作品を介して為されることが多い。
しかしながら、コミュニケーションの究極的な目的はあくまで自分と相手の中に同じ風が吹くことにある。
あくまで作品は媒体に過ぎないのだから、極論を言ってしまえば作品を評価する目安はその伝達力だけ。
テレパシーみたいなもので何物にも置き換えられないような感動を意識から意識へ直接伝えられれば、もはや作品すら必要ない。
舞踏などがそれに近いところにある表現手段だ。

したがって、センス(感性)やスキル(技術)の不足で作品としては多少稚拙であっても、コミュニケーションの両端に在る二者を一つの明瞭な風が吹き抜ければ、それは素晴らしい表現だということができる。
その風が心地好ければなお良いし、もちろんウトゥワスカラプを喚起するような意匠が散りばめられた作品は文句無く素晴らしい。

とにかく、表現にしても感受にしても、スキルとセンスの研鑽を怠ることは稀有なウトゥワスカラプを無力化することに繋がる。
果てはコミュニケーションブレイクダウンだ。
孤独の蔓延した冷たい世界だ。
それが現社会だ。

より高度なスキルとセンスでウトゥワスカラプが最大限に活かされれば、きっと世界はもう少し平和に向かう。

もっと自覚しよう。
人はみな表現者であり、また感受者である。
時には存分に発散としての表現をして、あとは形やモノに囚われずコミュニケーションとしての表現をもっと自由に愉しもうぢゃないですか!
愉しむ努力をしようぢゃないですか!!
(「ぢゃ」ってしとけば全体的にキャッチーになると思っているのは大きな間違いか?)

暴走資本主義が妄信した様々のものが崩れつつある今、なおざりにされていた部分を見つめなおして行きましょうぜ!
ここいらでいっちょ、パラダイムを大幅にシフトしてやりましょうぜ!